《過去の雑記》

過去の雑記486件から495件までを掲載しています。

2012/09/15 セロリの香りが素敵なパスタ!?

チキチキタンタンに2度目の訪問。やっぱり落ち着くお店だな、と思う。多分、今年1番「押し」の店だ、と思う。雰囲気も料理も価格設定も最高。そして、店員さんが活き活きとしている。若々しいショートカットのお婆様が切り盛りしているのが素敵だ。ランチの時間に行くと、毎回、ランチ・メニューが違うので、それもまた楽しみのひとつ、かな。同じものには出会えないけれど、新しい出会いにワクワクする。創作パスタなのだ。今日のパスタはセロリの香りがぷんぷんと香っていておいしかった。

ミートソース系パスタ オイル系パスタ

2012/09/14 ヒップホップが踊れにゃい!?

8月末から始めてみたヒップホップ。でも、今回の教室の先生、すげぇ難しい。ものすごい早いテンポで、小難しいことをさささっとやってみせる。でも、真似するのが大変だ。全ッ然、真似できない。アイソレーションとかステップがある程度、出来ることが前提で、それを組み合わせて踊っていく。だから、とてもじゃないけどついていけない。

半年くらい通っているという仲間たちは、でも、それなりについていっている。テンポ・アップすると型は崩れる。でも、一応、それっぽく踊ってみせる。だから、ボクたちも半年くらいこのレッスンに参加していれば、踊れるようになるのだろうか。基本的にはボクは運痴なので、難しいかもしれない。

そして2、3日は筋肉痛に苛まれるのである。トホホ。

2012/09/13 伸びーるアイス・ドンドゥルマ!?

今日はお付き合い記念日だ。ちぃ子とのお付き合いを開始した日。だから格別何をするというわけでもないけれど、ちょっとおいしいものを食べて、贅沢してもいいかな、と思う。

* * *

ドンドゥルマ(Dondurma)をつくってみた。トルコのアイス・クリームだ。基本的には普通のアイス・クリームの素と同じなんだろう。Wikipediaによれば、サーレップと呼ばれるトルコの高山草の根っこでつくった増粘剤を用いるらしい。だから、非常に粘度が高く、弾力性があって、伸びるアイス・クリームになるのである。

現地ガイドさんは「日本でも簡単につくれる」と言っていた。「ヤギ・ミルクも簡単に手に入る」と言っていた。でも、実際には、なかなかヤギ・ミルクを入手するのが難しかった。ネットでいろいろと通販サイトを探しながら、ようやく見つけたのだ。

トルコのお土産

伸びー……る?

思っていたほどには伸びなかったのは、多分、混ぜが足りないのだろう。でも、凍っていくアイス・クリームを必死で混ぜるのは、なかなか骨が折れるなあ、と思った。サーレップは非常に強力なので、場合によっては喉に詰まることがあるらしい。お正月に餅を喉に詰まらせて死ぬ人がいるけれど、ああいうイメージの食品なのだろうか。うーん。

2012/09/12 ルール

ネットのニュースは、あっちゃんのスキャンダル記事ばっかりだ。正直、どうでもいい、と思う。どうでもいいついでに、大島優子や仲川遥香が合コンに同席していたらしくって、説明を求めるファン(正確にはアンチ・ファンだと思うけど!)が多いらしい。それもどうでもいいや、という感じ。

よく、校則で茶髪禁止とか、ピアス禁止みたいなのがあって、意味が分からない。「どうしてダメなの?」と先生に聞けば、「校則だからだ」って先生は答えるんだろう。校則なんてそんなもんだ。校則そのものに意味があるんじゃない。校則を守ることに意味があるのだ。そんなことを言っても、もはや何が何やら。本末転倒。抱腹絶頂。七転八倒だ。でも、守ることには一定の意味はある。規律を守るというのが、教育の一環なのだ。だから、どうせなら意味のある校則をばちっとつくって遵守させればいいのに、と思う。そういう発信をする人が意外と少ない気がする。

アイドルの恋愛禁止なんて、バカみたいなルールだ、と思う。それでも「鉄の掟」なのだという。どうせ、守れるわけがないのに。何でも、某モーニング娘。には「道重さん、今日もかわいいですね!」と1日1回は言わなきゃいけないというルールがあるらしいけれど、まあ、似たり寄ったりだな、と思う。

ルールを守るのと同じくらいに大切なのは、そのルールの意味を考えることだ。そしてもうひとつ大切なのは、ルールを制定するってこと。もちろん、制定することの裏には廃止するというのもあって、表裏一体だ。適正なルールを制定することと、不必要なルールを廃止して適正なルールに修正すること。この二つが、ルールを守るのと同じくらい大切だと思う。

決めたルールにただただ従順でいることは、バカと同じだ。と声を大にして言いたいときもあるよね。

2012/09/11 血縁

村とか田舎とか血縁とかって、正直、面倒臭い。都会派のボクとしては、そんなものに重きを置いていない。置いていないというか、結局、自分のチカラで生きていくのだ、と自覚している。村社会に守ってもらおうとか、帰属しようという意識はないし、血縁者とは一生、群れていなければならないという意識も希薄だ。もちろん、血縁者は遠くない家族ではあるので、困ったことがあれば助け合う。それはそうだ。でも、それは変なしがらみとか義務感になってボクに圧しかかってくるような類のものではないはずだ。自分の人生は、自分の責任で、自分のチカラで生きなきゃいけない。ひとつひとつの決断は、自分の責任であって、決して、家族の責任ではない。家族のせいにしてはいけない。家族に縛られちゃいけない。

苦しみながらも、必死で村社会に帰属しようとして、親族との絆を守ろうとするのは、どうしてなのだろうなあ。それがなくなれば、ものすごく楽になれるのに。そんな風に思いながらも、でも、価値観というのは人それぞれなので、ボクは何も言わないでいる。何が適切なアドバイスになるのか、よく分からない。切って捨てろとは言わないし、それがベスト・ウェイだとは思わないけれど、そんなに必死になってしがみつかないで、ちょっと離れてみてもいいのではないか、と思う。

ん? 何の話だろうね(笑)?

2012/09/10 境港妖怪検定に申し込んでみる(笑)

本日は午後からお休み。特に理由はない。でも、休みたい気分になった。さすがはブルーマンデー。月曜日から優雅に街へと繰り出す。

思い立って、髪をカットしてみた。ちょっと浮気して、いつも行っているお店ではないところ。何となく。気まぐれだ。たまに、そういうことがあってもいいと思う。変なお店で、合わせ鏡がないとの理由で、iPadで後ろ姿を撮影される。顔は写っていないクセに、どんな顔をして撮影されていればいいのか分からなくて気恥ずかしかった。

家に帰ってからは、何の気なくいつものネットサーフ。そして、偶然、境港妖怪検定のページに辿り着く。その勢いで、申し込んでしまう。合格率は80%前後だ。果たして、無事に合格できるだろうか。世間一般に妖怪好きだと誤解されているボクだけど、でも、実のところ、日本の妖怪には、そんなに詳しくない。ゲゲゲの鬼太郎も見ていないし、日本の古文みたいなものもほとんどノー・チェック。だから、合格できるどうかは、ホント、80%前後というのがいいところだ。でも、世間一般のイメージに応えるためにも、何とか無事に合格して、妖怪検定の認定証をゲットしたいと思う。頑張るゾ。

境港妖怪検定

2012/09/09 両親をご招待!?

我が家に両親をご招待。ボクはいつものパスタを作り、ちぃ子はピッツァを作っておもてなし。来客があるというのは、家中をきれいにするいい動機付けになるので、素敵なことだな、と思う。

実家と我が家、車で1時間くらいの距離かな、と思っていたんだけど、30分くらいで我が家に到着してしまったのにはビックリした。道路が空いていたのかもしれないけれど、予想外に早い到着だったので、パスタが間に合わなくて大慌てだった。

いろんな話をして、楽しいひと時を過ごせたかな、と思う。

パスタとピッツァ

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子供たちは盆暮には家に帰るものだ、というイメージを覆すべく、両親を子供の家に招待するというのはどうか。そんなところから始まった今回のイベントである。ボクなんかはお墓があるわけでもないし、盆暮れのイベントなんかないし、どうでもいいこと。でも、長野で育った彼女は、そんな風習に縛られている両親が嫌なのだという。だから、そのイメージを覆したいとのこと。そんなわけで、今回、我が両親に遊びに来てもらった。これを前例に、長野のご両親のイメチェンを図っていくらしい。

2012/09/08 人権について思う。

「人権」という言葉は、何だか不可侵なイメージがあって、腫れ物に触るような感覚があるんだけど、実はそこには何らかの利権構造があるのではないか、と思うようになった。差別された人々からすれば、そりゃー、差別撤廃は悲願だ。ボクとしてはそこに異論はない。でも、差別されていた人々が、その差別の事実によって何らかの利益を得られるような構造になってしまった場合、必ずしも、単純な差別撤廃がゴールではなくなってしまうような気がする。差別されているからこそ得られる利益があって、差別されなくなってしまったら得られない利益があって、そうなったら、何としてでも差別されている状況を作らなければならない。そんな歪んだ構造があるんだけど、でも、「人権」という言葉の中で、不可侵なものに昇華されてしまって、深く切り込んでいけなくなる。

たとえば、そのひとつに「高齢者」が挙げられるかもしれない。「高齢者に優しい社会」という名目は涙が出るくらいに素晴らしい。でも、そのお題目のために無尽蔵に投資できるわけじゃない。でも、そこに投入するお金が本当に妥当かどうかの議論に発展しにくいのは、「人権」みたいな不可侵な言葉がバリアーになっているように感じる。

「建設工事の無駄を減らせ!」と言うのは簡単だけど、「高齢者対策の無駄を減らせ!」という議論は、なかなか声高に議論しにくい。でも、本当は同じ土俵に並べて議論しなきゃいけなくて、高齢者対策の中にも無駄な投資はある。何もしなくたって、高齢者は勝手にどんどん増えていくわけで、今のままの枠組みでいいのか、という問題があって、今後、多少なりとも高齢者に我慢を強いなきゃいけない部分もある。若者が虐げられるべきか、高齢者が虐げられるべきかという問題で、何となく「高齢者」は不可侵な存在にされて、本質的な議論に辿りつけない。その背後には、高齢者が弱者だという意識がある。そして、高齢者の「人権」という不可侵な文言が邪魔をしているのだ。

同和問題もそうで、彼らのつくる教材やビデオに対して、お役所は無尽蔵にお金を投資している。人権団体への出資も少なくない。気持ち悪いくらいに、お役所は彼らを擁護している。でも、人権研修だって、本来はコスト縮減の対象である。同じ教材を繰り返し使っても同程度の目標は達成されるわけだし、わざわざ高額な講演会を開催する必要はない。それに、もしかしたら、同和問題よりも深刻な格差が現代社会にはあって、そここそが本当に議論しなきゃいけないところなのかもしれないのに、あんまり、そういうことを考えている素振りはない。何となく、そこは不可侵な領域になっている。それは彼らが被差別者だからだ。

「人権」というのは魔物だと思う。そんなマヤカシみたいなものに振り回されたくはないな、と思う。誤魔化されちゃいけない。

今日のボクはと少しだけ過激だな。でも、このくらいの過激さも、ときには必要だな、とも思う。

2012/09/07 ぐるぐる回ってアウフヘーベン。

ヒップホップで踊り疲れてヘトヘトなう。でもでも、段々と感覚が戻ってきたのであることよ。うほほーいッ!

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会社が段々とざわついてきた。大きな会議を前に、みんな、思い出したかのように水面下で調整を始めたみたいだ。でも、今回はいろいろと不手際があったらしく、水面下で収まらなくなっている。こちらまで飛び火してきそうな感じだ。朝からずぅっと、電話がリンリンと鳴りっ放し。電話に出るのが怖くなるよね。これは……ネコロバになりそうだな。

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目的を見誤ったらいけない。一挙手一投足には、本当は意味がある。一歩一歩には、本当は目的がある。それを、しばしばボクたちは取り違える。没頭して、思い込んで、盲目になって、気がついたら全ッ然、違うところを歩いている。そんなことはよくあること。客観的に外側から見ている人には分かるんだけど、やっている本人には分からない。多分、今のボクは客観的に外側から見ている人にならなきゃいけなくて、適切な助言を与えなきゃいけないのだ。そして、その助言を与えるというボクの行為を、外側から客観的に眺めている人がいて、ボクに適切な助言を与えてくれる。そんな風に、ぐるぐると連鎖しながら、世の中は回っている。

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実は今日のボクは非常に技術屋さんだった。最近は、片足を事務屋さん側に突っ込んで仕事をしている。それはそれでボクには楽しいんだけど、でも、今日みたいに技術屋さんとして尖がった感覚で勝負しているときの方が純粋になれる感じがする。それにスリリングで、とても楽しいと思う。ボクはきっと技術屋さん寄りなのだろう。でも、本当は絵を描いているときの方がずぅっと真摯だし、作曲しているときの方がずぅっとセンシティヴだし、小説を書いているときの方が世界に潜り込んでいる。そういういろんな感覚の間をぐるぐると回りながら、自分の立ち位置を再認識する作業が好きで、いろんな趣味の間を遍歴するのだ。

英語で考えるというのも、ギリシア語で考えるというのも、実は同じで、言語が変わると感覚が変わる。その間をふらふらしながら、自分の中身を変えていく。役者をやっていたボクも、多分、そうやっていろんなものの間をふらふらしていた。ふらふらして、いろんな視点、いろんな感覚を味わって、そうやって、またボクに戻る。そうやってアウフヘーベンするのである。メイビィ。

2012/09/06 エンタメに満ちたインド神話サイト!?

人には色んな価値観があって、色んな捉え方がある。何をどうやって考えるのか。どうやって伝えるのか。何に意義を見い出すのか。何を是として何を非とするのか。分かり合える場合もあるし、分かり合えない場合もあるのだなあ(遠望)。だから、気を引き締めて掛からないといけない。

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取り立ててインド神話に大きな興味があるわけではないんだけど、最近、色々と手を伸ばしている先が偶然、インド神話だ。そして、意外とインド神話には良質なサイトがたくさんあることを知る。

書籍というベースでは、ギリシア・ローマ神話は豊富に資料がある。古典も大分、翻訳されているし、解説本の出版数も圧倒的に多い。北欧神話なんかは、オンラインの分野では、好事家が頑張っているのか、専門家がオンラインに進出しているのか、比較的、正確な情報を手に入れやすい。そして、インド神話だ。明らかに素人が作成しているウェブサイトが多くって、そして面白い。何しろ、表現がエンタメ性に富んでいる。よくよく読むと書いてある情報がすごくディープで、正確そうに見える。「見える」というのは、ボク自身、あんまり深く検証できていないからだ。インド神話についてはそんなに詳しくないので、記述されている情報が正しいのかどうか、判断できない。でも、膨大な書籍を読んだ上で書いているのだろうなあ、と類推させる記述が散見されるので、信頼できそうだぞ、と感じる。そういう素人の面白ウェブサイトが多いのがインド神話だな、という印象。そして、こういう、信頼できそうだぞ、という感覚は大抵、外れない。

日本人はインド神話が好きなのかな。まあ、エジプト神話とインド神話って、独特なので、面白いよね。造形があるものって、すごくイメージの部分に訴えやすくって、仏像とかって見ていて楽しいと思うし、古代ギリシアや古代ローマの彫刻もいい。でも、どっちも洗練されていて、エンタメ性は少ないのかも。それに比べると、インド神話とかエジプト神話の造形って洗練されていない。そのくせ、心に訴えかけてくるものが多い。そういう意味じゃ、独特な魅力があるのかもしれないなあ。

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