《過去の雑記》

過去の雑記86件から105件までを掲載しています。

2013/10/12 大量生産大量消費と在庫を抱えないオンラインショップと。

新生児用品を買わなきゃ。そんなわけで、西松屋に下見に行く。ネットサーフして品物を見ていたボクとしては、西松屋の安さに衝撃を受ける。在庫を抱えなくていいからオンラインショップが安い、というのは幻想かもしれない。場合によっては未だに大量生産大量消費の方が安い、ということなのだろう。そんなに単純ではない、ということだ。

その足で日曜大工の店へ。そこで立鎌、鍬、スコップを購入してみた。新居にちょっとしたスペースがあるので、そこで本格的に農作業を展開してみよう、という企て。その第一歩だ。ボクはあんまり農作業には詳しくないんだけど、ちぃ子が意外と詳しいので、彼女の意見を参考に選んでみた。まあ、種蒔きは春先に、と思っているので、当面は草刈りだ。

2013/10/11 曲がれ、スプーン!!!

マクロをぶん回して予算を策定。あっはっは。ボクは優しいな、と思う。全部、後輩氏に任せていたんだけど、結局、全部、終わるまで、後輩氏を待っていた。そんなこんなで22時の帰宅。最近、こんなんばっかりだ。

* * *

『古畑任三郎』の超能力者・黒田清を観た。その昔、一世を風靡した「清田少年」をパロった感じで、ボクとしてはちょっと号泣してしまう。清田少年がどうなのかは知らないけれど、一躍時の人になってしまった超能力少年たちは、こんな風に、必死だったんじゃないか、と想像してしまった。

* * *

この世界に、本当に超能力があるかどうか、ボクには分からない。ただ、子供のときには、奇跡的な体験をすることがある。予感が的中する、というのかな。ボク自身は、多分、これって集中力なんだ、と思っている。観察力というのかな。子供って、ある瞬間、一点だけを見ていることがある。その瞬間に、ものすごい集中力でひとつのものを観察していて、そこから未来を予測する。これから起こることの予兆みたいなものを敏感に感じ取る。だから、ピタリ、と予感が的中したりする。

大人になると、いろんなところに視野が広がるので、逆に一点においては尖らない。理屈という武器も手に入れてしまうので、観察から得られるデータよりも理屈を優先する。だから、意外と超能力的な展開にならない。でも、嫌な予感って、当たるもので、「こうなったら嫌だよなあ」という最悪のシナリオって、現実のものになってしまうことがある。ボクは思っている。それって、そうなると嫌だ、と思って、回避しようといろいろと手を尽くして、でも、ダメだな、という予兆がたくさんあって、それが透けて見えていて、ずぅっとストレスで、そのことばっかり集中して考えていて、だから、ある瞬間、嫌な予感は現実になるのだ。

そんなわけだから、集中すれば、超能力みたいなこともあるのだろう、と思っている。それを超能力と呼ぶかどうかは別にして。

2013/10/10 古ノルド語は変なところに促音が入る。

古代ノルド語って、日本人からすると気持ちの悪いところに促音が入る。たとえば、ヘイムダッル。ムースペッル。ユッグドラシッル。それから、そうそう、ミョッルニルもそうだな。ギャッラルホルンとか。そういう言語だ、と言えば、そういう言語なんだろうけれど、日本人からすると、座りが悪いというか、妙なところに促音が入るなあ、という感じ。もしかしたら、巻き舌で喋るドイツ語っぽく発音すると、それっぽいのかもしれない。

……などと唐突に始まる日々の雑記。そうなのだ。このウェブサイトは神話・伝承と創作を楽しむウェブサイトなのであった。……と、今頃になって思い至る。だから、何かそれっぽいことを書かにゃ、といつも思うのである。もちろん、そう思ってみるだけだ。ふふふ。

2013/10/09 他言語化の実現には対応フォントの拡充が重要だ。

半休してぐっすり眠った。うひひ。そして、古畑任三郎の6話を見た。木の実ナナって役者なのかな。歌手のイメージもあるぞ。そんなことを思いながらググってみたら、漢字、ひらがな、カタカナが入った芸名は「歌だけでなく、踊りも芝居もできる人になってほしい」という思いが込められたものだとか。へえ。

漢字、ひらがな、カタカナのバランスって大事で、ボクも文章を書くときには気にしている。カタカナのキラキラ感と、ひらがなの優しさ、そして漢字の硬さ。名前に3つとも入っているって、すごいね。すごくイイ。いいバランスだ、と思う。

閑話休題。

何度もウェブサイトの多言語化の話をしているけど、今日もまた書こう、と思う。まあ、ウェブサイトに限ったことじゃなくって、電子文書一般の話になってしまうかもしれない。Unicodeって、基本的にはいろんな文字を表示するために作られている。今じゃ、ミャンマー文字だって、古代エジプト文字だって楔形文字だって表示できる。(麻雀牌だって表示できる。星座もサイコロもチェスの駒だって表示できるし、音楽記号だって完備されている。最近じゃ、日本のガラケー文化の影響か、絵文字が大量に対応するようになった。理論的には、多言語化は進んでいる。

ただし、これはUnicodeに登録されている、という事実だけだ。だから、理論的には、である。実際には、対応するフォントがついていっていない。文字として登録されているけれど、表示できるフォントがない、というのが実情。だから、個別にフォントをダウンロードする必要がある。 例えば、ミャンマー文字をモニタ上に表示しようと思ったら、Myanmar3フォントが必要だし、楔形文字を表示しようと思ったら、Akkadianフォントが必要だ。絵文字を印字しようとしたら、Segoe UI Symbolみたいなフォントが必要になる。だから、閲覧者サイドが必要なフォントをダウンロードしてインストールしておく必要があって、勝手にインストールできない環境(職場とかネットカフェとか?)じゃ見れないし、そもそもスマホじゃフォントをインストールできないわけで、実際問題としては、なかなか多言語化は進んでいない。そういう意味じゃ、まだまだ課題は山積、という感じ。

Unicodeに文字コードの業界規格なので、その規格に、どんどん新しい言語、あるいは新しい文字を組み込んでいくことは、そりゃー、大事で、どんどんやってもらって構わない。でも、一方で、それを使えるようにする枠組みも大切で、対応フォントの整備を推進していく必要がある。そこが出来上がらないと、多言語化の夢は成就しない。だから、絶対無敵のフォントを1つだけでも一所懸命に作ってみて、みんなでそれを共有すればいいのになあ。各自が文字に合わせてフォントをインストールしていく使い方じゃ、なかなか難しい、と思う。

ボクのウェブサイトも、ね。ミャンマーの精霊を紹介するコーナじゃ、ミャンマー文字を使っているし、シュメル・アッカド神話の神々を紹介するコーナじゃ、楔形文字を使っている。でも、きっと、みんな、マイナなフォントはインストールしないので、文字化けになっているんだろうなあ、と想像する。せっかく作っているウェブサイトなのに、みんなには文字化けして見えている。それがいっつも歯痒いボクだ。

2013/10/08 牽強付会:「和邇」とは何ぞや!?

『古事記』には「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」というのがある。よく知られる「因幡の白兎」という奴だ。そこには「和邇(ワニ)」というのが登場する。数を数えるなどとうさぎに騙されて、一列に並んだら、うさぎが対岸の島に渡ったよ、というお話だ。

さて、この「和邇(ワニ)」とは何ぞや、というのが今回のお題。ウェブサイト「無限∞空間」の管理人・岡沢さんが熱く語っていたので、ボクもそれに便乗してしまおう。

ボクは「和邇(ワニ)」は古代人の想像上の「クロコダイル」なのだ、という説をとる。「和邇」は「サメ」だという人は、日本に「和邇」が住んでいないと言う。「サメ」のことを一部地域で「ワニ」と呼ぶのだから、「和邇(ワニ)」は「サメ」なのだとか。一方、ワニ説の人の中には、大昔、日本にも「和邇」がいたなどと言う人もいる。ボクからすれば、どっちの説も「あ、そうなんだ」って感じ。

たとえば、「獅子」を考えてみる。「獅子」ってライオンのことだ。でも、ライオンは日本には棲んでいない。棲んでいなくたって、ライオンは中国を経由して日本に入ってきて、「獅子」という怪物になっている。「獅子」というのは、日本には実在しない獣で、古代人の想像上の「ライオン」なのだ。

多分、古代人は本物のライオンなんて見たことがなかった。それでも、伝え聞いて「獅子」という動物を想像できたし、描くことが出来た。それと同じ。「和邇」は「クロコダイル」のこと。でも、見たことがない古代人は、「クロコダイル」という動物を人伝に聞き、想像していた。そんなもんだ、と思う。だから、日本に「クロコダイル」が棲んでいたかどうかなんて議論は無意味だ。

というか、みんな、意外と違和感を感じていないかもしれないけれど、「虎(トラ)」だって、日本には住んでいなくって、江戸時代になって見世物として連れて来られるまでは、絵や話でしか知らない想像上の動物だった。それでも、『平家物語』では、鵺の手足は虎のものだったし、「虎視眈々」とか、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」みたいな言葉があって、日常に膾炙していた。

だから、日本に「クロコダイル」がいようがいまいが、「和邇(ワニ)」は「クロコダイル」なのである。大体、「サメ」は遊泳魚だから、一列に並ぶとか、そんなこと出来ないのだ。背中の上をぴょんぴょん跳びまわるというイメージも、ちょっと無理がない!?

2013/10/07 それでもやっぱり桜塚やっくんが好き。

ヘトヘトだと仕事に集中できないな、と思っている。でも、仕事のせいでヘトヘトになって、そのヘトヘトが仕事の能率を落とすのだから、諸悪の根源は仕事なのだから、効率が悪くなっても、それはそれで仕方がないのだ、と思う。ふふふ。

* * *

桜塚やっくんが亡くなったというニュース。衝撃を受けた。ボクは結構、好きだったんだけどなあ。客いじりも、邪道だ、と言われつつ、でも、面白かった。いろいろあって、最後はこんな風。何だかなあ、と思う。ボタンの掛け違いみたいな感じがする。うまく乗っていければ、もっと、もっと、上まで行けたような気がするなあ。

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ちぃ子のおかんから松茸をゲット。そんなわけで、今日は松茸ご飯だ! イエア、イエア!!

松茸だよ。
松茸だよ。

2013/10/06 みんな、古畑フリークになろう!!

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時間を持て余したボクたちは、昔買った『古畑任三郎』のDVDを観る。本日は1話から5話まで。

もう、ね。『古畑任三郎』って、ボクの青春時代だ。三谷幸喜が大好きだったし、古畑のお洒落な感じがよかった。シャーロック・ホームズよりも、エルキュール・ポアロよりも、ボクは古畑任三郎が好きだった。大体、犯人が分かっていて、どうやって追い詰めるか、という見せ方が、洒落ている、と思っていた(もちろん、刑事コロンボのパロディなんだけど、当時のボクは知らなかった!)。

中森明菜が主演の第1話「死者からの伝言」は、雨降る洋館での二人の大人な会話がお洒落で、そしてちょっと切ない。ミステリィとしてはよく出来ていて、被害者がダイイング・メッセージで伝えようとしたことは何か、というのを視聴者も推理しながら観ることができる。堺正章が主演の第2話「動く死体」は、懐中電灯を巡る罠のくだりが秀逸。まさに堺正章の怪演が光る。殺しの後にお茶漬けを啜る。このエピソードがとてもいい。第3話「笑える死体」の古手川祐子も、殺人のトリックの発想はなかなか。ストッキングを被った彼を殴りつける小手川裕子が怖い。犯人を追い詰めるシーンは、ちょっとアンフェアかな、という感じ。事前情報が少ない。笑福亭鶴瓶が主演の「殺しのファックス」はシリーズの中ではちょっと異質な感じ。コメディ・タッチで、演出過多なところが人によっては受け入れられないかもしれない。笑福亭鶴瓶の演技もうまくないし、ね。でも、古畑としては珍しく、捜査の主導権を握っていない。握っていない中で、出来る範囲内の罠を仕掛けて犯人を捕まえる。その点が、実は、ちゃんとしたミステリィとして成立している。坂東八十助の「汚れた王将」はものすごく切ない。勝つためにやった小細工が、結局、殺人にまで繋がっていく。そして、そうまでして勝とうと思っていた勝負なのに、犯罪を隠蔽するために勝つわけにはいかなくなる。その心の葛藤を坂東八十助がうまく演じている。お洒落だ。いいね、いいね。どの話も最高だ。ビバビバ。

……などと盛り上がってもアレなので、是非、みんな、古畑フリークになろう。何度見ても、いいなあ、と思う。や、ホントに。


『警部補 古畑任三郎 1st DVD-BOX』

2013/10/05 台本、演者、演出。

今晩はM嬢の結婚パーティ。彼女らしいパーティだった。もう、ね。くるくると表情が変わる彼女らしいパーティ。いいね、いいね。

それにしても、つくづく、司会進行って難しいなあ、と思った。ボクは演劇部だったので、こういう段取りの難しさも分かるし、問題点も見えてしまう。台本だけでうまく進行しようというのは難しくって、音楽だったり、声の出し方だったり、注意喚起だったりで引きつけて行かないと、なかなか難しい。「クイズを始めます!」の一言では、本当はクイズは始まらない。楽しそうなことが始まるぞ、という雰囲気づくりが大切だ。

手っ取り早いのは音楽で雰囲気を変えること。楽しい声で盛り上げること。舞台に注目を集めること。そして、司会者自身に注目を向けさせること。そういう段取りが全部、終わって、それからクイズを始めなきゃ、なあなあになってしまう。入場も、退場も、乾杯も。全部、どうでもいいようなワンモーション、ワンクッションがないと、お客さんがノッていかない。難しいなあ、と思った。

そういう意味じゃ、ボクの結婚パーティの司会を演劇部時代の同期である「エンリケ航海王子」と「十六茶」にお願いしたのは正解だった。演劇仲間って、その辺の空気づくりが上手で、決して、なあなあにはならない。自分で言うのもあれだが、ナイスな人選だった、と思う。えっへん。

2013/10/04 自由人よ、もっと自由になればいい!!

同期のユウキ氏の結婚を祝うパーティ。メーゼの主催だったけれど、それにしても、一体、何を考えているんだ、メーゼは。何なんだ、このパーティ会場は。アートグレイス・ポートサイドヴィラ。のマンハッタン。あまりに豪華で、重厚感たっぷりで、ふらっと遊び感覚で行ったボクは吃驚仰天してしまった。場違いじゃないか? そしてわいわい騒ぎすぎて会場の人に怒られるという(笑)。

夜のプールを背に
夜のプールを背に

そして、その後、平沼橋でカクテル。ミサワキさんのお気に入りのバーテンダがいるということなので、それを横目で眺めてみようプラン。うーん、この人たち、自由だなあ。式場でパーティ開いてみたり、ミサワキさんのワガママに付き合わされたり。ホント、みんな、自由だ。自由人のはずのボクも、ちょっと吃驚だよ。ボクももっと自由になってもいいのだろうか。どうなんだッ!?

2013/10/03 「死ねばいいのに」と言われて生きる元気をもらう本

『死ねばいいのに』(著:京極夏彦,講談社文庫,2012年)を読み終わった。本屋でタイトルを見て、ビックリして手にとった。そして数ページ捲ってみる。京極さんっぽくない現代的なお話。(京極作品にしては)短いし、すぐに読めそうだ、と踏んだ。それで買ってきて、そのまんま一気に読んでしまった。

不思議なお話だ。ほとんどダイアローグ形式。6人の登場人物がケンヤと対面して話をする。構造としてはそれだけ。殺された鹿島亜佐美の関係者である6人の内観が順番に綴られていく。そして、そのそれぞれの視点から、鹿島亜佐美とケンヤという人物の特異性が描かれていく。

おかしいのは誰なのか。何が正しいのか。読んでいて、だんだん分からなくなっていく不気味さ。「死ねばいいのに」と言われて、生きる元気を得るという不思議さも面白い。さすが京極さん!!


『死ねばいいのに』(著:京極夏彦,講談社文庫,2012年)

2013/10/02 頭の中の完成形をどのように外に運び出そうか。

そろそろ葉書を出さなきゃいけないなあ。「引っ越しました」のお葉書。というわけで、ゆるゆると動き始めたボク。アイディアはあるものの、形にならない。難しいなあ。昔、Yoshikiが言っていた。 「頭の中には完璧なイメージがある」。でも、それが外に出てくるとそうじゃなくなる。劣化している。だから、少しでも頭の中の完璧なイメージに近づけるために藻掻く。ボクにとって、創作ってそういうものだ。才能の有無は違えども、Yoshikiの方法論は、ボクの方法論と同じだ。

よく、作りながら考えるという人もいる。走りながら、いろいろとアイディアを出して、完成まで持っていく。それはそれですごいことだ、と思う。登場人物が勝手に動き出す、という作家さんもいる。でも、ボクの場合はそういうことって滅多にない。ほとんど細部まで出来上がっていて、それからアウトプット作業が始まる。ほとんど、再現みたいなものだ。どこまで再現できるか。自分の技術や能力が圧倒的に追いつかない。その狭間で煩悶する。

今回も、デッサンは頭の中に出来上がっていて、そのイメージを線に起こしていく。でも、現実はそうならない。そうならない、という点が、ボクとYoshikiの圧倒的な違いだ(笑)。

* * *

テレビはほとんど見ないボクだけど、『ホンマでっかTV』は結構、見ている。ブラマヨの受け答えが面白いのと、学者先生の反応がいい。誤解を恐れずに言うと、特にボクがお気に入りなのは植木先生。彼女はものすごく頭がいいのだろう。そして、戦略的な喋り方をしながらも、たまに抜けている。いや、もしかしたら、抜けているように見せかけているだけなのではないか、と勘繰りたくなるときもある。さすが、心理学者。謎めいているなあ。

2013/10/01 婬してみる。

久々に定時に帰れた。ホント、久々だ。こんなに定時に帰れないことって、ないよなあ。今年はイレギュラだ。何がいけないのだろうか。環境か。業務量か。うーん。多分、環境だろう、と思っている。だから、改善が必要だ。

『インシテミル』を読み終わった。面白かった。久々に夢中になって読み耽ってしまった。どういう風に転がっていくのか、と先が気になって、ボクは仕事も手につかなかったよ(こらこら!)。最後、あっけなく終わって据わりが悪い点と、終わり方が不気味で気持ち悪い点は、もしかしたら、賛否両論かもしれない。でも、その終わり方が、また、なんとも言えない感じで、ボクとしては好きだった。


『インシテミル』(著:米澤穂信,文春文庫,2010年)

2013/09/30 パンセ

考えるのを止めたらダメだ。

可児市の小学校で、小蝿の入ったパンを、小蝿を払って食べるように指導したらしい。そうマニュアルに書いてあったからだという。人間、考えるのを止めたら、もう、人間じゃない。小蝿が大量にパンに含まれている時点で、給食センタの衛生管理に疑問が湧く。疑問が湧いたら、食べさせるなんて発想にはならない。マニュアルがどうかではない。果たして本当に安全なのか。それを考えるのが教師である。

麻雀をやっている生徒がいる。授業の妨害はしていない。本人たちは授業を聞いていると主張する。授業中に麻雀を止めさせるべきか否か。それもマニュアルに載っていないから、親御さんを集めて相談するのだ、とホンマでっかTVでやっていた。そんなバカな、と思う。マニュアルにあるかないかではない。どうすべきか考えろ。考えるを止めたら、もう、人間じゃない。

人間じゃない存在が教師をやっている。それが一番の問題だ、と思う。

2013/09/29 くるくるしよう♪ 苦しみましょう♪ くるくるしよう♪ 苦しみましょう♪

八十八ヶ所巡礼というバンドの『苦苦★念仏』が頭に焼き付いて離れない。「くるくるしよう♪ 苦しみましょう♪ くるくるしよう♪ 苦しみましょう♪」 。ああ、もう、何なんだ、この無限ループはッ。というわけで、オススメなんだけど、公式PVがアップロードされているわけじゃないので、是非、『苦苦★念仏』で検索してようつべで聴いてみてくれ給え。ふふふ。

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Faceに行ってパーマをかける。最近、純粋に美容室が楽しいな、と思えるようになった。きっと、この美容室、くつろげる空間なのだ。のんびりと2時間、素敵な雰囲気を提供してくれる。髪を切るとか、パーマをかけるとか、シャンプーをするとか、そういうことが大事なんじゃない。その空間でゆったりして、身体の中をすっからかんにする。それが大事なのだな、と思う。そういうサービスを提供できているということが、単純に、すごい。

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現在、引っ越しハガキを作成作業なう。早くみんなに「引っ越しましたよー」って報告しなくっちゃ。年賀状のシーズンになってしまう。せっかくの年賀状が転送シール貼られて送られてきたら悲しいもんね。いろいろと忙しいんだけど、頑張らなきゃ。頑張らなきゃ。ふっふー。

2013/09/28 木造建築物の寿命は何年か!?

伊勢神宮の正殿は20年ごとに建て替えをしているらしい。そんなイベント、全ッ然、知らなかった。どうも、世の中では盛り上がっているらしく、ミーハーな両親が遊びに行ってきたらしい。それを記念したチーズケーキを送ってきた。

カラメル・ソースとシナモンの香る美味しいケーキ
カラメル・ソースとシナモンの香る美味しいケーキ

まあ、神社と言えば「伊勢神宮」か「出雲大社」なので、その建て替えともなれば、盛り上がるだろうな、と思う。20年ごとに建て替えて、今年で62回目を迎えるというのだから、驚きだ。単純に、20年×62年=1240年。1240年間も同じことを繰り返しているんだから、信仰ってすごいなあ。毎回、2つの正殿を建て替えて、御神体を遷す儀式をするのだ。

それにしても、木造建築物ってどのくらい持つのかな。法隆寺みたいに1世紀以上経過しても尚、ちゃんと残っているものもある。ちゃんと建てれば、木材そのものは意外と持つ、ということなのかもしれない。日本には「30年建築」なんて言って、劣化してなくっても新しい家に買い換えるという文化があるから、本当の寿命ってよく分からない。20年で建て替えるというのは、ちょっと、ペースとしては早いんじゃないかなあ、と思う。

2013/09/27 意図しない個人情報の流出もあって、難しいよね。

SNSでの個人情報の取り扱いの難しさについて。大真面目に書くよ。

例えば、その人にとって、何が公開情報で何が非公開情報なのかって、一見すると判断できない。たとえば、Aさんは出身大学とか専攻を非公開にしていたとする。当然、そういう話題も避けていたとする。そんな中で、同じ大学のBさんがやってくる。そして、コメント欄で専門的な話題を振ったとする。Aさんの出身大学や専攻を知らないCさんは、でも、Bさんの書き込みの内容から、なんとなく、Aさんの出身大学や専攻が想像できてしまう。さて、このBさんの行為は個人情報の暴露だろうか。多分、出身大学とか職業を伏せている人って結構いるんだけど、大抵、友達のコメントを見ていると、何となく分かっちゃう。その辺のセキュリティをどう考えるか、というのは、すごく難しいよなあ、と思う。

ボクはfacebook上では、大学名も職業も書いていない。自分から積極的に公表すべき情報ではないので、当然、敢えては書かない。そんなサービス精神は必要はない。でも、ボクの友達たちは自己主張が強い人が多いのか、結構、大学名や職業を公開している人がいっぱいいる。なので、その辺を渡り歩いていけば、きっと、ボクの出身大学も職業も類推できる。だから、実のところ、隠し立てしても意味はないのである。

完全に個人情報を守ろうと思ったら、多分、同窓生や同業者とは無縁のところでSNSをやる以外にはない。でも、それじゃ、SNSの意味がない。だから、自分では公開しないけれど、類推する人はご自由に、という立場をとる以外にはない。だから、少なくとも、非公開情報を敢えて周知するような書き込みをしないように、みんなが意識してくれることを願うだけだ。

などと書きつつ、実はボク自身の感覚としては、個人情報なんて糞食らえだ、と思っている。信条や主義主張がバレて変な圧力団体と揉めたら困るし、性癖がバレるのも恥ずかしいし、住所や連絡先が漏れて、不要な広告が送りつけられてきたり、変な人が訪問してきたら嫌だ。でも、年齢や出身大学、職業、家族構成がバレることは、生きている以上、ある程度、仕方がないかな、と思っている。ガミガミ言うほどのことじゃない。

何事も中庸が大切。個人情報を守ることは大事。でも、それが悪用されないことが大前提で、悪用されないような情報だったら、特にバレても差し障るまい、と思う。

2013/09/26 ウェブサイト運営とボクの原動力

ウェブサイトを作ることの目的は何か。ボクはそう問われると答えに窮してしまう。本来であれば、答えは簡単だ。情報発信、情報交換、あるいは自己表現。でも、少なくともボクが運営しているウェブサイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」も「ファンタジィ事典mini」も、情報発信できているほど訪問者がいないし、情報交換ができるほど掲示板に動きはない。だから、自己表現か、というと、それも違うよなあ、と思う。何を表現しているわけでもない。多分、ボクは自分の中で情報を整理したいだけだ。でも、なかなかそういうのって難しいので、情報整理を公開することで、ボクの中で義務化して、原動力にしている。多分、それが一番、正解に近いかな、と思っている。誰かに見せるという気持ちで作るから、モチベーションを高くしていられる。そんな感じ。

そんな風に思っていたら、本日、久々にウェブサイトにコンタクトがあった。北欧神話を運営している方からだ。メールがあって、リンクを貼ってくれた、とのこと。そんなことで、ボクの義務感というか、責任感がむくむくと膨らんできて、テンションがあがる。正確に言うと、「ヤッベー、油断していた。そうか。見ている人がいるんだなあ。ちゃんとやらなきゃ!」みたいなテンションで自分が追い込まれていく。そうやって追い込まれることが、きっと、ボクの原動力なのだ、と再認識している(笑)。

2013/09/25 打ち砕け、「電話はすぐに繋がるものだ!」という幻想!!

最近の若者はすぐに電話に出ない、と年配層は思っているらしい。まさに、ジェネレーション・ギャップである。年配の人々は「電話はすぐに繋がるものだ!」と思っている。でも、若者世代は「電話は相手の作業を邪魔する存在だ!」と思っているようで、だから、必ずしも電話には出ないし、折り返しの電話もしない。むしろ、メールで対応する方が親切だ、と思っている。うーん。これって、多分、価値観の違いだな、と思う。

この分類でいけば、ボクは圧倒的に若者サイドだ。電話には絶対に出ないし、急ぎでもないメールだったら返信すらしない。もしかしたら、年配の人には、それはマナーがなっていないと怒られるかもしれない。ちゃんと返信しなさいな、と。でも、それでもボクは電話には出ないし、メールもすぐには返信しない。

そもそも、ボクたち人類は電話によって拘束されるべきではない、というのがボクの信念だ。電話が携帯できるようになったから、いつでもどこでも誰とでも繋がっている、というのは幻想だ。むしろ、用件を留守番電話に入れておいて、都合のいいタイミングにそれを聞く方が便利だし、用件をメールで送ってしまって、相手が好きなときに読んだ方が、圧倒的にスマートだ。そうすれば、相手は相手のペースで行動できる。メールが不安なら、電話で一報するのも結構な話。でも、すぐに繋がる必要はない。留守番電話にでも用件を吹き込んでおけば、後は相手が都合のいいタイミングで処理してくれる。そういうのが、若者の文化だ、と思う。

それはコミュニケーション欠如だ、と言われるかもしれない。何でもメールで済ませるのは、コミュニケーションを避けている、と解釈されている。そりゃー、ね。さすがに休暇や欠席の連絡をメールで済ませてしまうのは問題だ、とは思う。でも、軽微な用件(何が軽微か、という議論はあるかもしれないけれど!)だったら、メールの方が圧倒的に便利である。

これは想像だけど、多分、みんな、繋がっている感覚を持ちたいのだ。メールは一方的だから、相手に伝わっているか心配なのだ。一方の電話だと、相手の声が聞けて、その場で相手の反応が分かるので、伝えたっきりではなくって、理解してもらえたかとか、引き受けてもらえたかとか、いろんな反応がその場で得られる。メールはリプライされない限り、分かったとも了解とも、何も帰ってこない。この帰ってこない、という点が、メールや留守番電話と、実際の電話での会話の大きな違いだ。

その辺の違いを理解しながら、コミュニケーション・ツールとして、電話やメールを使っていくことが、ボクたち人類にとって幸せなことなのだ、と思う。

まあ、そもそも、ボクは無意味なメールには返信しないけどねー。あっはっは。

2013/09/24 手帖とムーミン、そしてペイッコ

手帖を買って使ってみている。今まで手帖なんて使ったことなかったんだけど、只今、絶賛試用中ってやつだ。最近、あっちゃこっちゃにいろいろと誘われて、それってとっても幸せなことなんだけど、いつ、どこで、誰と、何のために会合するのか、が空では覚えられなくなってきた。もしかしたら老化現象だろうか。そんなわけで、仕方がないので、ムーミンの手帖を使ってスケジュール管理をすることにしてみる。

* * *

ムーミンといえばうちの妹が大好きで、よくムーミンカフェに行ったりしている。トーベ・ヤンソンの描いた作品で、よく「ムーミントロール」という妖精だ、と解説される。そもそも「Troll(トロル)」って何だ、というのが今回のテーマ。

トロルというのは、デンマークやスカンディナヴィア半島に伝わる妖精の類いだ。でも、ムーミンのようにほのぼのした雰囲気はない。もっと巨大で、悪意に満ちていて、怖くって、逞しくって、醜くって、グロテスクで、毛むくじゃら。子供をさらったり、人を喰らうこともある。でも、案外、間抜け。日本語にするなら「妖精」ではなくって、「巨人」とか「妖怪」とかの方がはるかにイメージは近い。むしろ、「鬼」というイメージが一番、ピッタリ来る、と思う。

例えば、「三びきのやぎのがらがらどん」という童話がある。子供の頃に読んでもらった記憶があると思うけれど(となりのトトロのエンディングでメイとサツキが読んでもらっている本も「三匹の山羊」!)、あの橋の下にいる醜い巨人がトロルである。がらがらどん トロルで検索すると、不気味な怪物が描かれている。これがまさにトロルのイメージだ。ただし、変幻自在なので、大きさだって自由自在。鬼の仲間に小鬼が存在するように、小人みたいな描かれ方をするトロルもいて、その辺が微妙なところだ。参考までにトロルで検索すると化け物がいっぱい出てくる。

近代の例で言えば、『指輪物語』の作者トルキーンは、『ホビットの冒険』という作品の中で、太陽光線を浴びると石化する巨人としてトロルを描いている。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』なんかでは、再生能力が高い怪物として描かれていて、武器で木傷つけてもすぐに復活する。神坂一の『スレイヤーズ』に登場するトロルは結構、強くって、リナ・インバースによってぐちゃぐちゃにされていたっけ。

基本的に、トロルって、そういうヤツらだ。そういう意味じゃ、ムーミントロールというのは、トロル界の中じゃ異質なかわいらしい部類になる。フィンランドではメジャな怪物であるトロル。トーベ・ヤンソンだって、そんなこと、知らないわけじゃないだろうから、そういう「妖怪」とか「鬼」とかを彷彿とさせる「トロル」という語を敢えて使っているわけだ。

ちなみに「ムーミントロール」は、ご当地のフィンランド語では「Muumipeikko(ムーミペイッコ)」となっているらしい。トーベ・ヤンソン自体はスウェーデン語で作品を書いていて、作中ではスウェーデン語の「Troll(トロル)」を用いているので、まあ、トロルであることは間違いはないんだけど、フィンランド語では「Peikko(ペイッコ)」が当てられている。フィンランドの伝承に登場する「ペイッコ」は、日本伝承に登場する「鬼」に近いのかもしれない。基本的には、人里離れたところに棲む想像上の恐ろしい生き物。特に「山のペイッコ(Metsänpeikko)」なんかは凶暴で恐ろしい巨人なんだけど、でも、「泣いた赤鬼」に見られるような「優しい鬼」がいるように、「ペイッコ」の中にも、恐ろしい奴、マヌケな奴など、さまざまな奴らがいて、稀にいい奴だっている。トーベ・ヤンソンがイメージしたムーミン・トロルというのは、そういう優しい部類のペイッコなのだ、というだろう。日本人にとって「鬼」が身近な存在のように、フィンランド人にとっては「トロル」あるいは「ペイッコ」が、非常に身近な、日常世界に入り込んでくるような妖怪、ということなのだろう。

2013/09/23 どちらかと言えば、知的な笑いの方が好みです。

キングオブコント2013を観た。ボクはもっと、こう、何だろう。緻密なコントというか。知的なコントというか。練り込まれたものの方が好みだなあ。ノリと勢いとキャラクタで押し切るのは、ちょっと、どうだろうか、と思う。や、こういうのは好みの話なんだけど。オチがないコントが多かったなあ、という気がする。もちろん、それはそれでいいんだけど。でも、1年に一度きり、決勝の舞台に勝ち上がった8組だ。オチもなく、ノリとキャラクタと勢いだけで突っ走るというのはどうだろう。うーん。まあ、ある意味では勇気がある、度胸があるということかもしれない。

そういう意味じゃ、優勝したかもめんたるはボクの好みだった。路上詩人と通行人という設定で、キャラクタを活かしながら、言葉遊びをしながらも、ちゃんとオチに向かって作り込まれていたように思う。だから、かもめんたるが優勝して良かったなあ、と思った次第。基本的に、ボクはラーメンズっ子なんだなあ。うに。

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