《日々の雑記》

2025年4月24日 時代錯誤に掲示板を設置!?

4月16日の記事「孤独な情報発信」に書いた話題になるが、ボクはずぅっと一方通行の一人相撲。訪問者の反応が分からない中でウェブサイト運営をしてきた。自由気ままで、それはそれで心地良さもある。でも、一抹の寂しさもある。16日の記事で言語化してみて、さらにその気持ちが強くなった。時代錯誤かもしれないが、掲示板を設置してみた。昔みたいにcgiで自作することも頭をよぎった。でも、セキュリティを考えると他人様が作ってくれたものの方が楽ちんだし安全だから、ものは試し。既存のサービスを借りてみた。

ひとつとしてコメントがつかないまんまというオチもある。宣伝まみれになって手が回らなくなるというオチもある。コメントの頻度が少ないからボク自身がチェックを怠って意味をなさなくなるというオチもある。どうなるかはやってみないと分からない。分からないが、やってみることが大事だ。まあ、でも、掲示板なんて少し時代錯誤かもしれない。そんな気持ちもある。今風のXやInstagramもやっているので、そちらでコメントをもらっても対応はできる。いずれにしても、こちらからの歩み寄りだって、多少は必要だろう。

  

2025年4月22日 イラストがかわいい妖怪ボドゲ!!

「妖怪バカスカ」というボードゲームがある。イラストが滅法かわいくて思わず買ってしまって、ボドゲ棚の奥に仕舞い込んでいたんだけど、本日、息子のツクル氏に発見されてしまったので、一緒にプレイ。

妖怪バカスカ

もう、ね。何を置いてもイラストがかわいい。最高だ。ゲームとしてはどうなんだろう。カードの効果が強くって、かなり運の要素も大きいのではないかと思ったりもする。でも、もしかしたら、やり込んでいくと戦略の要素も効いてくるのかもしれない。4色の色を揃えることと、3枚の手札の色を揃えることと、考えることはたくさんあるからだ。まあ、どちらにしても、イラストがかわいいのだから、もう、それだけでニマニマしてしまう。いい。最高だ。

というわけで、ツクル氏とキャッキャと遊んでいる。ちなみに、最近、ツクル氏は再びボドゲ熱が上がってきたようで「カタン」や「ブロックス」「オートリオ」「お邪魔者」など、いろいろなボドゲにチャレンジしている。必要な脳の筋肉がその都度、違うので、ゲームのたびに脳みそのあっちこっちを使っている感覚があって、脳トレになっている気がする。息子よ、ありがとう!! わはははー。

  

2025年4月20日 まだまだフィリピンの妖怪を更新!!

久々に「ファンタジィ事典」にフィリピンの妖怪を更新してみた。もう、結構、やり尽くした感じもあったし、ネタ切れかなあと息切れしていたところ、時間が経ったので改めて自分のデータベースを見直してみたら、視点が変わっていて、新たに更新できそうな項目を見つけたので、やってみた感じ。

吸血獣のシグビンを使役する憑き物筋系のシグビナン、月の満ち欠けで善にも悪にもなるタガマリン、夜の森で旅人を驚かせるだけのヤサウラキなどを更新してみた。

特に今回、タガマリンが面白かった。善と悪の二面性があって、それが月の満ち欠けで変わるという発想は凄いなと感じる。満月の日に悪に転じて、新月まで人喰いの怪物になるが、新月を迎えると善神になって人々を守護する。しかし、また満月になると人喰いの怪物になる。広い意味で、満月をきっかけに怪物になるオオカミ人間なのかもしれない。

それにしても、まだまだやれるもんだなあ。フィリピンの妖怪のイラスト化のプロジェクトも、まだまだやれるかもしれないなあと思ったので、ちょっと空き時間を見つけて描いてみようかな、と思った次第。ふふふ。

  

2025年4月18日 白蔵主に化けた老キツネは狂言師に演技指導をした!?

もう少しだけ「日本の妖怪」に手を入れてもよいかな。最近になってそんなことを思い始めた。ボク自身もこれまで「日本の妖怪」に対する解像度が粗かったと痛感している。面白い妖怪が日本にももっとたくさんいる。そんな風に感じ始めた。だから、そういう面白さを伝えていければよいと思っている。

江戸時代の妖怪と言えば、鳥山石燕の画集は有名だ。『画図百鬼夜行』、『今昔画図続百鬼』、『今昔百鬼拾遺』、『百器徒然袋』の4つ。水木しげるはこのシリーズからたくさんの妖怪を取り上げた。これと対になって昔から語られるのが桃山人の『絵本百物語』だ。どちらも京極夏彦が作品のモティーフにしている。『姑獲鳥の夏』から始まる百鬼夜行シリーズは鳥山石燕の画集に描かれている妖怪からお題を採っている。巷説百物語シリーズは『絵本百物語』に描かれている妖怪からお題を採っている。だから、京極ファンや根っからの妖怪ファンからしたら、どちらの本もよく知られている。

でも、江戸時代の本なので、必ずしも分かりやすくはない。断片的であったりもする。だから、もう少し真正面から向き合って、ウェブサイト「ファンタジィ事典」でも取り上げてみてもよいかもしれない。最近、大昔の絵巻を眺めながら、そんなことを考えた。絵巻に描かれた妖怪を紹介していくなら、まずは有名な鳥山石燕の画集と桃山人の『絵本百物語』。ここから始めてもよいかもしれない。

そんなわけで『絵本百物語』巻第壱第壱の「白蔵主」から着手してみたんだけど、大変だった。たった1匹の妖怪なのに、調べ始めたら1週間以上、掛かってしまった。当然、『絵本百物語』は読むわけだけど、これは角川ソフィア文庫から出版されているから問題ない。でも、調べていくと、狂言『釣狐』とか『和泉各所図会』とか、いろいろと調べることが増えて、あれよあれよと情報量が増えてしまった。

多少、難解な部分も残っているけれど、でも、よくまとめられたと思う。まずは狂言『釣狐』の白蔵主を紹介して、『和泉各所図会』を紹介して、それらを大幅にアレンジした『絵本百物語』を紹介する。説明の並べ方としては、こんなもんだろう。

『和泉各所図会』については、書籍として出版されていないのだろうか。仕方がないので、原文を当たった。早稲田大学が『和泉名所圖會 巻之一』を公開してくれている。リンク先のPDFの43ページと45ページを参照した。Wikipediaの「白蔵主」のページには竹原春朝斎の絵が載っているんだけど、肝心の文章の中身は載せてくれていない。そこにいろいろと興味深い話が載っていたので、それも載せてみている。Wikipediaではキツネが狂言師に演技指導した説明のところが[要出典]になっている。でも、ちゃんと『和泉各所図会』に載っているじゃん、などと思っている。

  

2025年4月16日 孤独な情報発信

ボクは飽きもせず2003年からウェブサイト運営をやっている。当時のボクのウェブサイトは創作サイトで、ほとんどのページをhtmlのタグ打ちでやっていて、一部、レンタル掲示板だけはフリーCGIサイトのものを借りてきて運営していた。レンタル掲示板のお陰で、ウェブサイトの訪問者とコミュニケーションをとることができた。現在のボクは完全に一方通行で、「日々の雑記」を書いても、ファンタジィ事典を更新しても、特に訪問者からの反応はない。たまにXとかで「こんなサイト見つけた」とか「この記事面白い」みたいな反応を見つけることもあるが、そういうのはエゴサして見つかるわけで、基本的には一人相撲である。

唯一、アクセス解析で、検索してくれている人の単語の動向を探ったり、アクセスが増えた減ったとか、記事への動線みたいなところは分かるので、統計データとして、こういうのがバズったとか、こういうアクセスが多いみたいなことは把握できているので、そういうところは多少、参考にしている。孤独と言えば孤独だし、昔はもっと交流があったので、コミュニケーションがないのは寂しいと言えば寂しいかもしれない。

先日、けんすうさんが情報発信を「情報」「意見」「日記」の三段階に分けて考えるという動画を配信していた。無名の人は「情報」を発信し、ある程度、知名度を得たら「意見」を加え、最終的には「日記」でもアクセスが稼げるようになるのがよいということだった。無名の人の意見や日常には誰も興味がないので、無名の人はまず「情報」の発信に力を入れていくべきである。しかしながら、「情報」の発信だけだと、書き手(誰が書いているか)に重きが置かれない。だから、ある程度、アクセスが増えてきたら書き手の「意見」が必要になる。しかし「意見」で個性を出そうとすると尖っていくので、一定のファンが出来たら「日記」を書いて、その人の日常も見せていく……というアプローチだ。明確に言語化されていて、本当にそのとおりだと思う。

ボクは「意見」を書く行為は随分前に意識的に減らした。世の中の出来事にああだこうだ書くのは書きやすいけれど、そういうのって求められていないし、ニーズに合ってないよなあと思って、極力、書かないようにしてきた。「日記」は今でもたまに書くことがある。育児のこととか、食事のこと、外出のことなんかは、完全に「日記」の範疇だ。こういうのも、実は書きながらも、誰も読まないよなあと自覚している。自覚はしているんだけど、書くことがないと、穴埋めに使ってしまう。でも、仕事の「日記」は意図的に書かないようにしている。

今回、けんすうさんの動画を見て、情報発信の内訳が明確に言語化されて頭の中に入った。だからと言ってこれから「情報」だけを書いていこうということではない。これからも「意見」や「日記」も綴っていくのだろう。でも、無自覚に記事を書くのと、言語化された状態で書くのでは、全然、意味が違うし、取り組み姿勢も変わる。配分も変わるかもしれない。

というような心模様を綴ってみたんだけど、どうなんだろうね。こういうのはウケるのか否か。ヘタっぴの訪問者は何も言わないので、結局、孤独な一人相撲である。でも、ヘタに反応があるよりは気が楽だから、ボクはSNSではなく、こういうところで細々と呟いているのである。

  

2025年4月14日 巨大化する影!?

年度末の忙しさを乗り越えたものの、疲労困憊でダウン気味だ。それでも、頑張ろうと思って、ようやく「ファンタジィ事典」を更新してみた。朝鮮伝承からはオドゥクシニクスンデ。どちらも闇を具現化したような妖怪だ。

オドゥクシニの方は日本の見越し入道乗越みたいな妖怪で、見上げれば見上げるほど大きくなって押し潰されてしまうという。暗闇への恐怖がどんどん肥大化していくイメージなのかもしれない。逆に恐怖に打ち克てば消えてしまう。

クスンデも暗闇を具現化した妖怪だが、もっと悪性で、最初は子供の姿で暗闇に現れ、うっかり近づこうものなら、影のような姿になって、どんどん巨大化し、最終的には覆いかぶさって、獲物を殺してしまうという。切っても切っても切れないということで、松明などの明かりで照らすことが有効だとされる。

そんなわけで、引き続き、朝鮮半島の妖怪を蒐集して順次、紹介していきたいと思っているので、乞うご期待。

  

2025年4月12日 雷神になった道真公!?

最近、日本の妖怪の絵巻なんかを眺めるのが趣味のひとつになっていて、いろんな絵巻を眺めながら、「へぇ」とか「ほぅ」などと溜息を吐いている。今日はそんな絵巻の中から『北野天神縁起絵巻』を紹介してみたい。

菅原道真が雷神になって京都の清涼殿を襲ったという話がは非常に有名で、よく御霊信仰の例として紹介される。現代人のボクたちからすると、菅原道真が怨霊と化したと聞くと、垂纓冠をかぶって着物を着た道真公がおどろおどろしい姿になって出現するようなイメージを持ってしまう。でも、『北野天神縁起絵巻』を見ると、完全に「鬼」として描かれている。まさに赤鬼で、もはや人間としての面影はない。そこが現代人の感覚とは違っていて、面白いところだ。

『北野天神縁起絵巻』の菅原道真

ちなみに、絵巻そのものを丁寧に眺めていくと、宮中の人々が逃げまどっている様がうまく描けていて、とても臨場感があってよい。一方の雷神そのものは結構、お道化た表情で、滑稽な感じがして、あんまり怖くない。それもまた面白いなと思う。

  

2025年4月10日 成長。

息子のツクル氏は昔からずぅっと「負けず嫌い」だった。もちろん、負けず嫌いは悪いことじゃない。勝ちたいという気持ちの裏返しなので、成長につながるだろう。ただ、彼の場合、昔っから勝負事が嫌いで、負ける可能性のあるものを排除しようとする癖があった。たとえば、幼稚園とかで先生が「これ欲しい人ー」とか「これやりたい人ー」みたいな声掛けをすると、みんな、手を挙げる。だって、欲しいもんね。やりたいもんね。でも、ツクル氏は手を挙げない。じゃんけんで負けたら嫌だから、そもそもの勝負の舞台にあがらない。だから、いつも「余りもの」をゲットする。生まれつき、そういう傾向が強かった。

だから、運の要素の強いゲームをやった方がよいかもしれないと思って、生活の中にたくさんのボードゲームを取り入れて、今までやってきた。その甲斐あってか、今は負けても大丈夫になった。最近は「カタン」なんかをやる。妻のちぃ子は賢いので、カタンなんかやらせたら滅法強い。いい場所を押さえて、どんどん素材を集めて、建設を進めていく。ツクル氏は、その悔しさから、「ママ、強い! クソゥ、またやろう!」と言っている。成長を感じるなあ。

  

2025年4月8日 都市伝説を引き寄せる能力!?

ジャンプ+で連載の平岡一輝氏の『都市伝説先輩』が面白い。異様に都市伝説が大好きな主人公の女子大学生と「都市伝説を引き寄せる」能力を持つ男子大学生の青春オカルトコメディだ。コメディではあるけれど、でも、都市伝説が題材になっていて、都市伝説特有の不気味さや怖さが根底にはある。そこが面白いのである。

『都市伝説先輩』の表紙

1巻では「口裂け女」、「チャーリーゲーム」(英語圏ではチャーリー・チャーリー・チャレンジ)、「ディスマン」、「ジェットババア」が題材になった4つの話が載っている。二人は実際に口裂け女と遭遇して命の危機に直面しているが、紆余曲折あって、何故か口裂け女とラインを交換する展開になる。チャーリーゲームではオカルトサークルの部室に集まったメンバーが冗談で「この中に殺人犯はいるか」みたいな問いを発して、チャーリーが「YES」と答えて大騒動になる。どちらも一見、コメディではあるが、でも、妙に大学生ノリの生っぽさもあって、結末も含めて不気味な余韻を残した展開になる。その辺が都市伝説っぽいうさん臭さとか怖さがあって楽しい。

というわけで、オススメの漫画である。

  

2025年4月6日 たまの家族団欒。

ようやく4月になって暖かくなってきて、まさに花見日和。地元のお団子屋さんで団子を調達して、妻のちぃ子、息子のツクル氏と近所の公園に花見に繰り出す。こういう家族団欒もいいよね。

桜の写真

近所の公園がかなりの高台にあって、そこまで辿り着くまでにヘトヘトである。「パパー、まだまだ坂は続くよ。頑張れー」と息子に応援される始末だ。体力が資本なので、ちょっとトレーニングが必要かもしれないなと反省しきりである。ふふふ。

  

2025年4月4日 日本の妖怪の解像度を上げている最中

最近になって、日本の妖怪、特に絵巻物にハマっている。文献に文字情報に載っている「妖怪」だけでも、伝承上語られてきたものを蒐集した「妖怪」だけでもなくって、絵に描かれてきた妖怪に興味が向いたのは、ボク自身が「世界の妖怪」を描く機会が増えてきたせいかもしれない。過去に妖怪がどのように描かれてきたのかに意識が向いてきた証左だ。

今はもっぱら、『妖怪萬画 Vol.1 妖怪たちの競演』(青幻舎ビジュアル文庫,2012年)を読んでいる。読んでいるというか眺めている。

『妖怪萬画 Vol.1 妖怪たちの競演』の表紙

朧車の絵

この本の表紙に描かれているのは作者不詳の『百鬼夜行絵巻』(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)に描かれた「朧車」(あるいは「天狗車」)だけど、メチャクチャ迫力がある。こんなの、ボクなんかはとても描くことができない。カエルみたいなのが牽引していて、イヌたちが誘導している。動きがある。

神虫の絵

もうひとつ、ボクが恐れを感じたのは神虫。平安時代末期の『辟邪絵(益田家本地獄草紙乙巻)』の中に描かれている。これも凄まじい。とても平安時代末期のものとは思えない。今の漫画家さんが描いたのかと思うほど、漫画っぽい。大迫力。こういう妖怪画の延長線上に、ボクたちの漫画文化があるのだと思わされてしまう。ちなみに、逃げまどっているのは疫鬼たちで、この怪物みたいなものは疫鬼たちを退散させる善神なのだとか。この恐ろしげなヴィジュアルで「善神」というのも凄い。

こういうところにも意識が向けられるとよいなあと思って、目下、日本の妖怪に関する解像度をあげているところ。こういうところもフォローしていきたいなとは思っている。

  

2025年4月2日 ドドドキュン!!!

「劇団スカッシュ」が「明日ゾンビになる君と」という超名作のドラマを公開した後、ちょっとの迷走期間を経て、いなくなってしまったと思っていた。そうしたら、何だか「いぶよへスカッシュ」というチャンネルでショート動画を出し始めて、何が起こっているんだろうと注目していたら、新たに「ドドドキュン」というドラマが始まった。しかも超面白い。全然、錆びついていない。ヤバい。というわけで、おすすめ。

「いぶよへスカッシュ」というチャンネルがどういう経緯で誕生したのかはよく分からない。「劇団スカッシュ」のチャンネルがどうなっていくのかもよく分からない。でも、どこまで行っても企画も脚本も演出も「劇団スカッシュ」だし、出演しているメンバーも相変わらずの面々。だから、懐かしくもあったし、どんな形であれ、こうやって大型企画をやってくれるのは嬉しくて仕方がない。

ボクにとって、YouTube上で4、5分の動画を数珠のように繋げて、長編ドラマを続けていくスタイルは目新しかったし、それがYouTubeにハマっていた。このアイディアを形にして実現し、継続している「劇団スカッシュ」って、いいよなあ。

  

2025年3月31日 年度末最後の更新

年度末って大抵、忙しい。何しろ会社としては締めの時期だから仕方がない。これまでの十数年間も慌ただしかったけれど、今回の部署は殊更、報告書の作成とか業務の精算とか、そういう作業がどっと押し寄せてきて、齷齪していた。Xにもポストしたが、そんなもんだから、世界の妖怪のイラストを描く作業は勝手に中断している。でも、ファンタジィ事典は何とか形にしたいなあと悪戦苦闘して時間を捻出し、更新に臨む。一応、年度末の最後に無事にアウトプットに漕ぎ着けた。乾杯!!

朝鮮伝承から「ケヨシ」「チャンサンボム」を更新してみた。どちらと道の怪とでも言うべき妖怪だ。ケヨシは峠で出遇った人間の頭の上を飛び越して魂を抜いてしまう。それが現在でもオートバイのツーリング客を追いかけて殺すというのだから、伝統的な妖怪が現代にも生き残っているような感じで、連続性を感じる。チャンサンボムはどちらかと言えば都市伝説的で、インターネット時代の道の妖怪だけど、ケヨシにも通じるところがあって、面白い。

他にも細々とたくさん更新したので、是非、ご確認あれ。

  

2025年3月29日 ゲーマーが妖怪退治やってみた!

『ゲーマーが妖怪退治やってみた!』(小松清太郎,コロコロコミックス)が面白かったので紹介したい。

ボクが「世界の妖怪」蒐集に精を出していることは、小学5年生の息子のツクル氏もよく知っている。そんなツクル氏がちょっと前にこんなことを言い出した。「パパ、コロコロに面白い漫画があるんだよ。『ゲーマーが妖怪退治やってみた!』っていうヤツで、妖怪がたくさん出てくるから、パパは買った方がいいと思うよ」。この野郎、その気にさせて買わせる気だな、と思って無視していたら、遂に断念したのか、お小遣いで5冊、大人買いしてきた。そしてこれ見よがしに机の上に置いてあるので、どれどれと思いながら読んだ。

物語の展開は子供向けと言えば子供向けなんだけど、でも、面白かった。主人公の西京芸麻(さいきょうげいま)はプロゲーマーを目指してゲームに心血を注ぐ。そんな主人公の魂が込められて、ゲーム画面で実際の人間を操作して戦わせることができるようになる。妖怪退治屋見習いの刀道巫女(とうどうみこ)を操って、次々と現れる妖怪たちを退治する……というような話なんだけど、でも、ツクル氏の言わんとするところは分かった。「妖怪」が題材になっているけれど、決してオリジナルの妖怪ではなくて、ちゃんと伝承に基づいた妖怪たちが登場している。だから、「買った方がいいと思うよ」などと言ったのだろう。『ダンダダン』や『ダンジョン飯』みたいに、『ゲーマーが妖怪退治やってみた!』もネタにできるよ、ということだろう。

というわけで載せてみた。ちなみに1巻には伝承上の妖怪として「大蜘蛛」「人面犬」「泥田坊」「水虎」が出てくる。名前だけだけど「大嶽丸」も出てくる。2巻には「鬼婆」や「牛鬼」、「のっぺら坊」が出てくる。「水虎」が水をまとったトラだったり「牛鬼」がミーノータウロスみたいなまっちょのウシ頭だったりと、あんまり元の伝承の設定が活かされていない妖怪も多いので、その辺、ちゃんと解説してあげるとよいかなとも思った。一方で、面白かったのは、「のっぺら坊」がペンで自分の顔に絵を描くと、その顔に合わせた能力を得られるという話。ちょっとその発想は面白いなと思った。

  

2025年3月25日 脇の甘さを見せたときに鎌首をもたげてくるのが迷信だ

「ゆる言語学ラジオ」から派生した「ゆる民俗学ラジオ」というのがあって、結構、妖怪とか都市伝説に関わる話題も取り扱ってくれるので、面白く聴いている。今回のテーマは「丙午(ひのえうま)」。実際、迷信が出生率にも影響を及ぼすという恐ろしい現象なんだけど、2026年の干支がいよいよ「丙午」ということで、思い切って取り上げたようだ。全3回シリーズだけど、学びも多いので、是非、最後まで聴いて欲しいと思う。

面白いのは、昭和丙午(1966年)の説明だ。近代化が進んだ昭和の日本において、一体、何故、こんなにも迷信が世の中に影響を与えたのか。その仮説が紹介される。よく都市伝説の文脈で、口裂け女を広めた媒体として「塾」の存在が取り沙汰される。子供たちが「塾」というネットワークを介して、口裂け女を日本中に広めた。昭和において、丙午という迷信は撲滅されずに脈々と人々に信じられて、そして出生率にまで影響を及ぼした。それは何故なのか。その答えがひとつの仮説として紹介される。多分、衝撃を持って、そして納得感を持って受け止められると思う。

最後にパーソナリティの黒川氏の迷信に対する立場と意見が表明される。「僕は俗信をナメていない」という宣言が、ボクはとてもよいと感じた。迷信なんて消えてなくなると誰もがナメている。でも、黒川氏はナメていない。「脇の甘さを見せたときに鎌首をもたげてくるのが迷信だ」と彼は断ずる。そのとおりだと思う。ボクたちはそこに自覚的でなければならないのだと思った。

彼の問題提起も含めて、そんなことを考えさせられる良質な動画だった。

  

2025年3月23日 1言語に短期集中で絶賛、言語学習なう

2月7日の記事「語られる妖怪を耳で捉えたいので」で、Duolingoを始めて、各国語を学習しているという話を書いた。ボクはいろんな国の言葉に興味があるので、学ぶことそのものはとても楽しいし、多方面に気持ちが向かってしまう。しかも中途半端に器用だから、こなせてしまうんだけど、でも、先日、14か国語学習者のkazuさんがYouTubeの中で、言語学習のコツとして、取り敢えずは1か国語に絞って短期集中した方がよいと語っていたので、それならば1か国語に専念しようということで、現在点は韓国語(厳密には朝鮮語だと思うんだけど)にフォーカスして学習することにした。そして、もう少しで1か月くらいが経とうとしている。結論から述べると、kazuさんは正しい。今、日常生活の中で、簡単なことであれば、韓国語で表現できることができるようになってきた。

たとえば「バスが8時半に到着する」とか「今日は子供と一緒に公園に行く」とか「家でテジコギとピビンパを食べる」みたいなことは韓国語(朝鮮語)で空でも言えるようになった。厳密には時制とかモダリティは合っていないのかもしれない。でも、多分、韓国人相手に言いたいことは伝わるだろう。全く知らない言語でも、1か月集中するとここまで来れるのかと、正直、驚いている。ヒアリングとスピーキングが含まれているので、Duolingoの教材が優れているのかもしれない。朝と夕方、15分×2回を毎日、続けているので、継続はチカラなりということなのかもしれない。kazuさんは1か月半くらいで1つの言語はある程度まで行けると言っていたが、それも一理あるのかもしれないなと感じている。

このペースで韓国語(朝鮮語)をある程度、会得したら、ベトナム語も同じくらいに持っていきたいなあ。Duolingo、タイ語が搭載されないかなあ。今、タイの妖怪の調査に難航しているので、タイ語がマスターできたらよいよなあ。

  

2025年3月21日 人間と妖怪の距離感

香月日輪氏の『妖怪アパートの幽雅な日常①』(講談社文庫,2008年)を読んだ(表紙はミヤマケイ氏のヴァージョン)。

「妖怪」というキーワードがあるものの、文体に少しだけラノベっぽさがあって、今まで敬遠していた。でも、覚悟を決めて読み始めてみたら、とても面白かった。人間と妖怪、こっち側とあっち側との距離感が不思議な物語だと感じた。主人公の夕士は寿荘で人間と妖怪と一緒に暮らしている。それでいて、学校生活では日常を送っている。そこがものすごく地続きになっていて、でも、決して完全には繋がっていかない。夕士が寿荘を退去して日常に戻ろうとすると、あっという間に妖怪たちはいなくなって、寿荘の不思議なゲートは閉じたようになってしまう。でも、戻って来ると、再び、不思議な世界が現れる。この繋がっていそうで繋がっていなそうな距離感がずぅっと続いているのが凄いなあと感じた。

タイトルに「日常」とあるとおり、本当に「日常」が描かれている。そりゃあ、途中、怨霊が出てきて、バトルものめいた展開にはなりかける。強力な妖怪たちも現れて参戦する。でも、それだって、結局、その怨霊を退散させるだけで、退治はしない。怨霊は再びやってくるだろうし、事態は何も解決していない。1冊を通して、ずぅっとそんな感じ。主人公の夕士の家族とのギクシャクした関係も変わらないし、学校生活のギクシャクした感じも変わらない。抱えている悩みも解消しないし、後悔も消えない。少しだけ経験を積んで成長の兆しがある程度。ずぅっと日常があって、それを切り取った感じで、それもまた、人間と妖怪の関係と同様に、ふわっとしていて、リアルだったりする。

そんなわけで、結構、長く続いている人気作品みたいなので、もう少し読み進めてみようかな、と思う。

  

2025年3月19日 電脳空間の大掃除に齷齪。

最近はみんな、どういう風に音楽を聴くのだろうか。ボク自身は、書籍の電子化は一向に進んでいかないんだけど、音楽の電子化は随分と進んでいる。昔はCD音源を買ってCDラックに並べて保有していたけれど、今ではほとんどmp3でダウンロードして、スマホで聴いている。ラックに並んでいるCD音源はすでにほとんどmp3に変換してあって、ハードディスクに格納して、スマホに放り込んで聴いている。

ただ、どうなんだろう。最近はサブスクで音楽を聴いている人が多いのかもしれない。あるいはYouTubeみたいなストリーミングで音楽を聴いているという人もいるのかもしれない。ボクはストリーミングは新しい曲を探すときには便利だから使っている。知らないアーティストの音楽を聴くのに、ストリーミングはよい。YouTubeやニコニコ動画であれば、MVもセットだったりするので、歌っている人の顔も見れるし、場合によっては字幕で歌詞も見れたりするので、便利だ。一方、音源をmp3には変換したけれど、サブスクには手を出していない。この辺は電子書籍にしない理由と同じかもしれない。自分で所有しているという感じにならないと、ボクは安心できないのかもしれない。

でも、冷静に考えると、全世界に散らばっているあらゆる音楽にアクセスできて、聴けるというのは、全世界の人で音楽財産を共有しているという意味で、そういう未来は本来的には素晴らしいよなあ、と思ったりもする。たとえば、ボクは最近、60年代の音楽を聴く。プレスリーだったり、ビートルズだったり、ドアーズだったり、ローリングストーンズだったりするわけだけど、全て購入して聴いている。だから出費が嵩んで大変だ。でも、これらの楽曲がサブスクのサービスに登録してさえあれば、あるいはストリーミングサービスにアップされてさえいれば、みんな、それを聴くことができるわけだ。人類全部で、これまでの過去の音源も、世界各地の音源も聴けるというのは、実はすごいことだ。文学もそうだと思う。最近じゃ、楔形文字の文献も、江戸時代の絵巻物も、オズの魔法使いやメアリー・ポピンズみたいなファンタジー文学も、インターネット上で調べればアクセスできて、読める。音楽も同様だ。

それでも、何だろうなあ。自分のものとして所有したいという欲求がボクにはある。ダウンロードして、自分のハードディスクに格納されているという事実に安心してしまうのは、ボクが古い人種なのかもしれないぞ、と最近、ちょっと震えている。

そんなボクのハードディスクのmp3ファイルの数が、最近、15,000を超えた。仮に毎日10曲聞いたとしても、4年ではすべてを聞き終わらない数。で、そんな楽曲群の中から、適宜、スマホに入れたり出したりして、毎日、仕事の行き返りに聴いていて、平均で1日20曲くらい聞いている格好になる。単純計算では2年で1順のペースだけど、好きな曲はヘビロテでリピっているので、多分、全部を聴くのはやっぱり4年くらいのペースなのだろう。

ところが、先日、iPhoneを買い替えたときに、あまりに数が多すぎた所為なのか、音楽の移行がうまくいかなかった。移行された楽曲とされなかった楽曲が混在して、全部の移行がされなかったっぽい。そんなわけで、ゼロからミュージックを再整理する必要が生じて、大変なことになっている。ようやく5,000曲くらいの整理が終わったところで、あまりのことに悲鳴を上げている。CDラックが場所をとるし、並び替えるのが面倒臭かったから、電子化してラクチンだと思ったのも束の間、電子化したって、結局、電子データが電脳空間の場所を占有していて、整理が必要なのだから、嫌になるなあ。サブスクの方がよいのかなあ。うーん。どう思う?

  

2025年3月17日 「妖怪」の定義について考える(1)

「妖怪」の定義は人それぞれだ。もちろん、それはそれでいいと思う。でも、お互いに話すときには定義が異なると議論がすれ違うから厄介で、それぞれの定義を明確にしてから議論しないととんでもないことになる。

ボクなんかは「妖怪」をかなり幅広に捉えている。日本だけじゃなくて、海外を跳梁跋扈するやつらも十把一絡げに「妖怪」の範疇にしている。たとえば、ヘーラクレースが退治したレルネー沼のヒュドラーだって、ボクの定義の中では妖怪だ。いやいや、それは妖怪じゃなくて怪物だろうという人もいるかもしれない。でも、たとえば、ヒュドラー退治を表現した壷絵(前6世紀)と源頼光の土蜘蛛退治を描いた絵草子(1837年)を比較すれば、大して変わらない。ヒュドラーが怪物なら、土蜘蛛だって怪物だ。逆も然りで、土蜘蛛が妖怪なら、ヒュドラーだって妖怪だ。

ヒュドラー退治
土蜘蛛退治

ベッレロポンテースが退治したキマイラと源頼政が撃ち落とした鵺だって、絵として並べてみれば一緒だ。姿・形も似ているし、描かれているサイズ感だって似ている。キマイラが怪物だと言うのなら、鵺だって怪物だ。

キマイラ退治
鵺退治

詰まるところ、ボクは「妖怪」は世界中にいる存在だと定義している。日本では「妖怪」と呼ばれるけれど、こういう「妖怪」的な存在を各国が現地語でどんな言葉で呼ぼうとも、日本語に翻訳したらそれは結局、「妖怪」と訳すんじゃないのか。そんな感覚だ。Appleでもpommeでも苹果でも사과でもتفاحةでも、日本では「リンゴ」だ。イギリスのリンゴはアップルと呼んで、韓国のリンゴはサグヮと呼んで……と呼び分けない。もっと大きな括りで言えば、日本の「果物」とイギリスの「フルーツ」と韓国の「クヮイル」は結局、全部、「果物」であって、中に含まれる個々の果物は違うけれど「果物」でしかない。だったら、世界各地を跳梁跋扈するやつらは日本語に訳したら、結局、全部「妖怪」じゃん、と思っている。

  

2025年3月15日 裏でいろいろと動いている。

ウェブサイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」は、2014年6月22日に「日々の雑記」をWordPressに切り替えた。その辺の心情は、2014年6月21日の記事「WordPressにてウェブサイトを再構築!?」で書いている。要するに、どこからでも更新できる強みを信じて、WordPressに踏み切ったわけだ。このジャッジは大成功で、海外でも記事を投稿できたし、場合によっては予約投稿も活用できた。手動の投稿よりも随分と助かった。

そんなこんなで10年以上、特に何の問題も生じなかったので、そのまんま、当時のデザインのままひた走ってきた。今でも、問題だとは思っていない。それでも、時代を経て、システムも新しくなって、WordPress側の中身も大幅に変化した。ギリギリ、古い仕組みのまんま、最新のヴァージョンに合わせながらやってきた印象だ。だから、今回、最新の仕組みも取り入れつつ、よりシンプルな形にリニューアルすることにした。もちろん、ね。裏側の話だ。表面的には何も変わらない。あくまでも、中の仕組みだけを最新に沿わせる格好。今回もプログラマの妻のちぃ子が頑張ってくれる。ボクは横からやいのやいの言うだけだ。

……というわけで、何が変わるわけでもないけれど、大幅に手を加えている最中で、ウェブサイトの更新そのものは滞っている。