《過去の雑記》
過去の雑記286件から305件までを掲載しています。
2013/03/26 でも、誰にでも作れないものだ!!
本日は会社の同期会。もう5年目にもなると、巣立つ人も出てくる。2名の優秀なる戦友が、我が社を辞めてしまう。今日は、その送別会である。
基本的には、有能な人はどこへ行ってもうまくやれるし、そうじゃない人はどこへ行っても(以下略)。だから、心配はしていないぞ。でも、優秀な才能が抜けてしまうことに対する寂しさはあるかな。
最近のボクは「人間、実はやれば何でも出来る」という信仰を持っている。自分で自分に限界の境界線を引っ張って、それに縛られて、何もできなくなっているだけなのではないか、と思っている。基本、みんな、生きていく中でいろんなことを経験するので、これ以上やると怒られちゃうラインとか失敗しちゃうラインを何度か越えちゃう。で、段々、把握してくるわけだ。ここから先は危ないゾ、と。で、安全な領域で勝負するように、自分で境界線を引っ張って、そのラインの中で勝負するようになる。それは、まあ、処世術なのであながち間違っちゃいない。でも、ね。ほとんどの人は臆病だから、必要以上に内側にラインを引っ張るのだ。
そのラインより先に踏み込んで勝負してみると、意外とうまく行くこともあって、そのぎりぎりのところで勝負すれば、何でもやれちゃう。そんな感覚を持っている。
何の話か分からない人もいるだろうけど、まあ、そういうことだ。ふふふ。
* * *
検定のポスタの修正作業。やっぱりというか、予想どおりというか、係長に「今回はあんまり凝っていないというか、らしくないね」と言われた。凝っていたり、らしい感じだと、ボクの仕事になってしまう。誰にでも作れるポスタを作る。これが命題だったんだけど、何だか悔しい。
ただ、ボクはひとつだけ断言する。確かに「誰でも作れるポスタ」を作った。でも、だからって誰でも作れるわけじゃない。逆説的っぽいけど、でも、そうだ。単純に見えて、いろいろなアイディアをぶっ込んである。次の人が作りやすいように、いろいろと凝っているのである。
…と自信を持って提示しながらも、やっぱり「今回はあんまり凝っていないというか、らしくないね」と言われると悔しいし、腹も立つ。でも、まあ、仕方がない。ボクが凝れば凝るほど、次の人が苦しくなる。だから、ボクがここで水準を思いっきり下げる、というプロセスがどうしても必要になる。今回はそういう損な役回りだ、と思っている。
2013/03/25 2作品目は1作品目の「ズラし」!?
『密室殺人ゲーム2.0』を読み終わった。圧巻だ、と思った。企画のあまりの衝撃力に度肝を抜かれた。
基本的にはこの作品は2作目で、1作目の『密室殺人ゲーム王手飛車取り』を下地にしている。でも、単純に続編というわけじゃないところが素敵なのだ。ミステリィなので、ネタはバラせないんだけど、1作目を徹底的に踏襲していくわけ。それぞれの連作が、1作品目の事件をちょっとズラした感じになっている。1作品目と同じ趣向だったり、同じ発想だったり、同じトリックだったりするんだけど、でも、ちょっとだけ視点が変えてある。捻ってある。真っ新で読まないからこそ騙される場合もあるし、前作のトリックの焼き直しがこういう形で用いられるのか、という驚きもある。全編通して、そういう仕掛けになっている。この企画に、ボクは度肝を抜かれた。
これで書く、というのは、作者としてはしんどいし、勇気がいる。前作があまりに素晴らしいトリックで、度肝を抜かれたので、どうしたって、あのインパクトを超えられない。それを承知で、それでも、ズラしに挑戦してくる。そこに拍手喝采なのである。
『密室殺人ゲーム2.0』(著:歌野晶午,講談社文庫,2012年)
ウケたからって簡単に続編を作っちゃうドラマや映画に言いたい。どうせ作るのなら、この作品くらい納得の作品を作って欲しい!!
2013/03/24 誰にでも作れるものをつくる!?
今日は検定のポスタ作成に明け暮れる。いや、嘘を吐いた。明け暮れるってほどではないか。でも、まあ、それなりに時間を割いた。半日くらいは集中していた……かな。
誰にでも作れるポスタを作るという命題があって、どうにもやる気になれなかったのだけど、デッドラインが近付いてきたのだ。
結構、ポスタとかフォト・フレームとか、ボク個人に降ってくる仕事が多い。でも、毎年の仕事なのだから、ボクが異動してしまったら、誰かがやらなきゃいけない。そんなわけなので、個人の能力やノウハウに依存する業務って、よろしくない。ということで、ポスタ業務なんかはちゃんとお金をかけて委託に出してしまうように申し入れしていたんだけど、却下され続けていて、その結果、来年以降、誰でも作れるポスタを作る、という意味不明の命題が降ってきた。
誰にでも作れるポスタなら、ボクがやらなくてもいい。勝手に誰かが作ってくれればいいのに。しかも、過去2回分のポスタの実績があるので、そのクオリティを下げて作品を提供するというのが、精神的にはなかなか難しいのだ。その辺の心の機微を理解する上司であればいいのにね。あっはっは。
2013/03/23 ギリシア料理とお花見と
久々にギリシア料理スパルタに行った。このお店、店内の雰囲気が最高にギリシアだ。青と白。そして壁には大胆に海の絵。料理も、日本人に迎合していない。ちゃんとギリシア料理なのだ。しかも、本場の味と同じグリーク・コーヒーとかフラッペ(泡だったアイス・コーヒー)とかも淹れてくれる。日本にいながら、プティ旅行気分が楽しめるのである。
ギリシア料理
そして、大岡川でお花見。ずぅっと寒かったので、桜はもう少し後かなあ、と思っていたら、突然、咲き始めたよね。的屋さん、準備が間に合うのかな、と思ったけれど、大岡川の的屋さんはちゃんとやっていて、それなりに繁盛していた。でも、まだまだ屋台で食事をするには寒い時期だな、と思う。
大岡川で花見
2013/03/22 子供の心には妖怪を!!
関内セルテの本屋さんで妖怪の本を発見。『世界のモンスター&怪人・怪事件事典』。
児童書コーナにあった。でも、内容は全ッ然、児童書レベルじゃない。文章や説明は児童書っぽい感じを装っているけれど、紹介されているモンスターはマニアックだ。マレーシアの妖怪やフィリピンの妖怪も載っているし、ロシアの妖怪も載っていて、いわゆるRPGゲームに登場する王道のモンスターがメインじゃないのだ。ちょっとビックリ。多分、日本にある妖怪系のウェブサイトと比較しても、チョイスしている妖怪がマニアックだ、と思う。
こんなのを児童書向けに出版してしまうなんて、すごい、と思った。そして、子供たちがこういう妖怪をマジョリティだ、と勘違いして育つ、とすれば、ものすごいよなあ。いいね、いいね。ワクワクする。
『世界のモンスター&怪人・怪事件事典』(著:ながたみかこ,絵:なかさこかずひこ!,大泉書店,2012年)
2013/03/21 ハート・トゥ・ハートが肝要だ!?
適当にやった仕事に対しては、適当な結果が返ってくる。手を抜いたのが見抜かれたら、相手は応えてくれない。当たり前のことだけど、今日はそれを強く実感した日だった。
ボクがミャンマーに行っている間に、代わりにお願いしておいた仕事が、帰ってきたら手付かずのまんま残っていた。非常に忙しかったようだ。それで腹を立てたボクが後輩氏を急かしてやらせた。そのせいで、やっつけ仕事の依頼になった。帰ってきた答えは散々だった。こちらが欲しい情報はほとんど回答してもらえなかった。相手が真剣に取り組むようなモティベーションに持っていけるだけの資料になっていなかったのだ。いずれにしても、何にもならない資料になってしまった。ものすごく反省。
まあ、うん。そういうこともあるよなあ(遠望)。
2013/03/20 コーヒーの淹れ方
BOOK OFFで本を売る。大分、整理したので、段ボール1箱半くらいは処分できた感じ。1,500円くらいになったので、まあまあだ。事前にボクが自分で査定した感じだともっとずぅっと少なかった。店員さん、ちょっと甘い査定だったんじゃないかな、と思う。新人さんだったのかもしれない。
漫画やCDはまだ整理できていないので、これからやっつけなきゃいけない。そうしたら、また、売りに行こう。同じ店員さんだったらいいなあ(遠望)。
* * *
コーヒーは淹れ方によって随分、味が変わるらしい。ボクはあんまりそんな風に意識したことはなかったんだけど、最近、ちぃ子が淹れるときとボクが淹れるときで、同じコーヒー豆でも、味が全ッ然、違うことに気がついた。
ちぃ子を観察していて、温度管理のせいかもしれないな、と感じた。ボクは沸騰してすぐに薬缶の火を止める。そして、しばらく置いて冷ましてしまう。沸騰してすぐのお湯では熱過ぎるような印象がある。
それから、ドリップするときの水の高さも影響しているのかも。ボクはなるべく低い位置でゆっくりと淹れる。挽いたコーヒー豆をあんまりぐるぐると掻き回したくない、と考えている。白い泡が立つけれど、その泡が乱れないくらいの高さ、速度で水を流し込む。ちぃ子は結構、高いところから注ぎ入れるし、量も多い。
そう考えると、たかだかドリップするだけでも、気を遣うところ、こだわるところってたくさんあって、それで味は変わるのだなあ、と思っている。
2013/03/19 『ビブリア古書堂の事件手帖』
最近、『ビブリア古書堂の事件手帖』(著:三上延,メディアワークス文庫,2011年~)にハマっている。古書を巡るミステリィ。一気に4冊読んでしまった。
一昔前のボクだったら、こういうミーハー色の強い作品って読まなかったと思う。巷で流行っているものには手を出さなかった。基本的には捻くれていたのだ。「普通」が嫌だったし、主張の強い「個性」が好きだった。一般に受け入れられたものには主張の強い「個性」はない、と信じていたんだと思う。そういう意味じゃ、損をしていたと思う。最近はもっとずぅっと貪欲で、巷で流行っているものも、そうじゃないものも、ヘンテコなものも、とにかく何でも食べてやろう、と思っている。時間は限られている。でも、何でもかんでも手当たり次第に楽しむ。それが信条だ。そして、それはそれで結構、大変だったりする。
閑話休題。
そういうわけでドラマ化されて、それなりに評判らしいので手にしてみた。最近、どこの本屋さんに行ってもオススメとして平積みされているのだから、圧倒的な話題作だ。売れているんだろうなあ。
読み始めた印象は「キャラ萌小説」だった。栞子さんのキャラクタ造形がものすごい。本のことになるとスイッチがオン。本に関する造詣は深い。だけど、全体的にはダメ人間。そして恋愛には無頓着。
でも面白い。彼女が探偵役になるんだけど、主役らしくない非常に冷徹な側面が彼女にはある。そこがこの作品の魅力であり、奥深さだ、と思う。どうやら作者は元々、ホラー作家らしい。人間の悪意、しかも栞子さんのちょっとした悪意が透けて見える。それがこれまでのミステリィとは違った趣きを演出している、と思う。そして、ときどき探偵役が入れ替わって、主人公になるという趣向も面白い。
『ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち』(著:三上延,メディアワークス文庫,2011年)
2013/03/18 我が家の本棚の大部分を占める資料たち
今日は午後から休暇を取得して、部屋のお片付け。あまりに本が増え過ぎて、所定の収納から溢れてしまったのだ。本は床に累々と積み上がっていて手に負えない。段々、自分でも所有している本が把握出来なくなってきたし、所在不明になってしまった本もある。だから、どこかで集中してやっつけてしまおう、とようやく重たい腰を上げたって話だ。
結局、捨てられないのは神話・伝承の原典資料だ。『東方見聞録』とか『博物誌』とか『捜神記』みたいな一次資料。いつか必要になるかもしれないと思って、捨てられない。でも、ファンタジィ事典を編纂していて、そんなに使用頻度は高くない。『東方見聞録』なんか、ロック鳥を更新したときに読んだくらい。それ以外、今のところ使途不明だ。
それから、いろんな国の文法書。ちょっと妖怪の名前の読み方を原語で調べて、カタカナ化したいときとかに、訳に立つ。我が家はそこいら辺の本屋さんの諸外国語コーナよりもいろんな国の文法書が揃っている、と自負している。こういう文法書、そのうち、オンラインで整理されないかなあ。文法こそ、みんながアクセスできるような形で整理されていた方がいい。きっと英語と諸外国語だったら、そういうウェブサイトがたくさんあるのだろう。日本語と諸外国語という格好では、まだまだ整理されていかないだろう。
次いで置き場に困るのが画集だ。江戸時代の妖怪画とか、中世ヨーロッパの妖怪画みたいなもの、それから古代文明の遺跡や遺物の写真集。大型本になるので、場所をとる。でも、いざというときのイメージの助けになるので、残してある。
いつか、こういうのが電子化されたら、随分、スッキリするのになあ。紙媒体で保存しておくメリットは、今のところ、ボクにはない。
2013/03/17 久々に新横浜。
今日はTOEIC。新横浜で受験する。ボクは会社で国際協力の専門委員会に入っている。この委員会、参加するのは任意だけど、TOEICの受験が義務付けられている。英語の能力向上が図られているかを測るのだ。何だか無性に面倒臭くなってきている。来年はこの委員会、継続しているかなあ(遠望)。
久々に新横浜を満喫。昔は職場へ行くときの乗り換え駅だったので、頻繁に降りて買い物していた。妙に懐かしくなってしまった。IKEAのバスも走っていて、ワクワクした。
本屋さんをぐるり、と巡回する。それから喫茶店をウィンドウ・ショッピング。結局、何も買わなかったし、どの喫茶店にも入らなかったけど、でも、それだけで楽しくなった。
2013/03/16 韓国の妖怪!?
ミャンマーの次は韓国に行こうか、と考えている。正直、国民性はそんなに好きじゃない。でも、隣国だし、仲良くできればいいに越したことはない。それに、諸外国の妖怪を調べるにあたって、まずは近場から攻めて行くのもひとつの手だ。
そんなわけで、韓国の妖怪について調べてみた。ミャンマーほど情報がないわけじゃないけれど、それでも韓国の妖怪の情報って少ない印象がある。そのうち、詳細に検討することにして、以下、概略のみ記録しておこう。
* * *
中国や日本でも有名な九尾狐。妲己に化けて殷の紂王を誘惑したり、玉藻前と名乗って鳥羽上皇に寵愛され、安倍清明に正体を見破られたりするわけだけど、韓国にも九尾狐はいて、クミホ(구미호)と呼ばれているらしい。韓国じゃ、メジャーらしくって、クミホ(구미호)の名前を冠したドラマや映画がたくさんある。そのほとんどは人間との悲恋をテーマにしているらしい。
チョスンサジャ(저승사자)というのは死神。黒い山高帽を被って、お洒落なデザインで描かれることが多い。雰囲気としては伊坂さんの『死神の精度』に登場する死神たちみたいな感じ。公務員みたいに任務として人々の命を取りにくるような感じの存在だ。多分。
トッケビ(도깨비)は日本によってイメージが捻じ曲げられた妖怪としてよく挙げられる。日本時代に「鬼(オニ)」のイメージが流入して、いつの間にか日本の鬼に漸近してしまった、というもので、今、この日本の鬼の要素を取り除いた本来のトッケビの姿を復元しようと韓国の学者さんが躍起になっている。こんなところにも、日韓の対立構造を垣間見ることができる。でも、ね。ボクは妖怪の本質は変質することだ。妖怪って人々が語ることでその存在を保てる。ほとんどの妖怪は時代によって変遷する。誕生の頃の原型なんて留めていないのが普通だ。最近はRPGにたくさんの妖怪が登場して、大いに変質していっている。妖怪って、結局、人間の空想の産物なので、空想する人間が変われば、その姿や特徴も変わっていくものなのだ。
ホンコン・ハルモニ(홍콩 할머니)という都市伝説があったらしい。訳してしまえば「香港おばあちゃん」といった感じ。香港で裕福になって、孫を香港に連れて行こうと韓国に帰国する途中で死んでしまったおばあちゃんが、孫にそっくりの子供を見ると、「一緒に香港に行こう」と言って連れ去ってしまうらしい。日本で口裂け女が流行ったときには小学生が集団登校をする事態になったけど、このホンコン・ハルモニも、大いに韓国の子供たちを震え上がらせたらしい。
タルギャルグイシン(달걀귀신)は《卵子鬼神》。これも都市伝説的な雰囲気がある。卵に細い手足がついた形をしていて、逆立ちで歩くという。歩くときに頭を床に打ちつけるので「トン、トン、トン」と音がする。学校の妖怪で、トイレの扉の下の隙間から覗く。
タングン(단군)は韓国の英雄だで、漢字で書くと「檀君」。天神ファニン(한인,桓因)の息子である太陽神ファヌン(환웅,桓雄)がウンニョ(웅녀,熊女)との間に生んだ半神。古朝鮮の伝承上の建国者。多くの韓国人はこのタングンが史実の人物だと信じているらしい。韓国語Wikipediaである위키백과のタングンの項目の記述も、史実であるかのような書きっぷりになっている。北朝鮮の政府がタングンの骨及び墓を発見したと主張したこともある。
2013/03/15 ミン・マハギリは御霊信仰みたいな感じ!?
今日はミン・マハギリについて書こう。ヤンゴンの古本屋で売っていたナッ信仰の本の表紙は、この恐ろしい顔をしたミン・マハギリのイラストだったのだ。
ミン・マハギリが表紙の本
မင်းမဟာဂီရိ(ミン・マハギリ)【ビルマ語】
ミン・マハギリはたくさんいるミャンマーの精霊ナッたちの実質的な頭領である。その名前は《偉大なる山の主》という意味で、その名のとおり、ポッパ山(ミャンマー中央部でにょきっと突き出た標高1,518mの火山。ナッ信仰の総本山)の守護神である。
彼は元々人間で、タガウン国に住むウー・ティンデという鍛冶屋だった。怪力の持ち主で、人々の信頼も厚かったため、タガウン国王は彼の力を恐れ、亡き者にしようと画策していた。それを察知したウー・ティンデは身を隠していたが、タガウン国王はウー・ティンデの姉を王妃として迎え入れると、ウー・ティンデを高官に就けたいなどと言って王宮に招待した。国王はやってきたウー・ティンデをジャスミンの樹の下で縛り上げさせると、火を放った。ウー・ティンデの姉は火を消そうと炎に飛び込んだ。こうして、ウー・ティンデとその姉は焼け死んでしまった。
火が消えると、二人の首だけがきれいに焼け残っていた。死んだウー・ティンデと姉の首はナッになると、ジャスミンの樹に棲みつき、木陰で休む人々を襲うようになった。王は樹を切るように命じると、エーヤワディー河に流した。この樹はバガン王国に漂着し、今度はバガンで人々を襲い続けた。
彼らはバガン王の夢の中に現れると、これまでの説明をした。それを聞いたバガン王は流れてきたジャスミンの樹から二つの首を取り出すと、ポッパ山に奉納した。それ以来、ウー・ティンデはポッパ山の守護神となり、ミン・マハギリと呼ばれるようになったのである。
ミン・マハギリ信仰は人々に広がり、やがて家の守護神にもなった。多くの家にはココ椰子が飾られているが、これはミン・マハギリへの供え物である。このココ椰子の果汁が、炎で燃やされたミン・マハギリの熱を冷ますのだという。
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何だか、ホントに御霊信仰みたいだなあ、と思う。恐ろしい怨霊を鎮めるために祭っている。それにしても、首だけになって呪いまくるなんて、恐ろしい怨霊だ。
2013/03/14 PowerPoint!?
御膳立てしてやらにゃー、ホワイト・ディを滞りなく進められない若者たちに万歳。この野郎。
……というのはさておき。
本日は研究発表会。基本的にボクは発表の台本を書かない。スライドにもほとんど文章は書かない。大半が体言止めの1行の文章。そういうスライドをベースに、その場でアドリブで仕上げていく。だから、10回発表すれば、10回とも違った発表になる。
昔、知人に「そんなスライドじゃ、怖くって発表できないよ!」と言われたことがある。喋る内容を覚えていないと発表できないからだそうだ。でも、ちゃんと補足しておくと、実はボクは事前に10回くらい通して練習をしている。アドリブで10回くらい練習して、時間を計って、内容をいろいろと試している。それで大体、目安の発表時間が把握できるし、アドリブでやりながら、これはいらなかったな、とか、こういう説明もしてあげた方が親切かも、とか、そんな感覚を掴んでいる。いろんなヴァリエーションの発表スタイルが出来上がる。そういう練習の感覚を足掛かりに当日、発表を組み立てるのだ。
今日は登壇した瞬間に、一番前に我が社の社長が座っているのが見えた。そして、ミャンマーに一緒に行った課長も目に入ってくる。思っていたよりも事務職の人が多いな、と感じる。司会者がボクの紹介をしているのを横目に、猛スピードでストーリィを組み立て始める。ターゲットは、我が社の社長。そしてミャンマーをご一緒した課長。この二人を聴衆として想定して攻めよう、と決める。
他者意識が大切だ、と常々思っている。今日は、この二人のためにプレゼンするぞ、と決めたボクだ。彼らの目を見て、彼らの興味を惹けるように創意工夫する。何だか分からない漠然とした「聴衆」を相手にプレゼンするのは難しい。特定の人(今回は2人)のために喋る、と思えば具体的にイメージしながら喋れる。これならイージィだ。
帰り掛けにミャンマーをご一緒した課長に話し掛けられた。「面白い研究だった。プレゼンも分かりやすかったよ」とコメントをいただいたので、きっと大成功だ。
2013/03/13 精霊「ナッ」について(まとめ)
そのうち、と言いながら、さっそくミャンマーの精霊ナッについてまとめてみた。以下、長文。こんなの雑記に書くなよってね(笑)。でも、どこかで整理しておきたかったので、一度、ここに吐き出してみる。
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နတ်(ナッ)【ビルマ語】
ナッというのはミャンマー(ビルマ)で広く信仰される土着の精霊のこと。基本的にはアニミズム的な精霊崇拝(万物に精霊が宿っているという考え方)に基づいていて、森の精や樹木の精、水の精など、名前の知られていないものも含めると、ミャンマーには数えきれないほどのナッたちが棲んでいるらしい。自然霊のようなものから、神さまのように崇拝されているものまでいる。中には非業の死を遂げた人間が死後にナッになる場合もあって、この場合は非常に強力である。こういうのは、日本の御霊信仰(崇徳天皇や菅原道真など、死後、怨霊になって都を襲ったので、その祟りを鎮めるために御霊として祀った)に似ているかもしれない。ナッは人々に不幸や病気をもたらすこともあるので、祭儀を執り行って供物を捧げて宥める必要がある。
ミャンマーにはナッカドー(နတ်ကတော်)という霊媒師たちがいる。ナッカドーは《ナッの妻》という意味で、本来的には「巫女」であるが、実際には女装した男性(要するにオカマだ!)のナッカドーが多い。ナッたちはナッカドーに憑依して人々と語るのである。いわゆる口寄せだ。ナッ信仰最大のお祭り・タウンビョン精霊祭では、たくさんのオカマたちがタウンビョン村へと集まってくるという。
南アジアの文化圏にはしばしば男性が女性として生きる「第3の性別」がある。伝統的に神さまと人間の間に位置する存在として、宗教的な祭儀で中心的な役割を果たす。インドではヒジュラーと呼ばれていて、ヒンドゥー教の寺院とかで宗教的な儀礼に携わっている。ナッカドーもそういう南アジアの文化の影響があるのだろう。
ナッの中でも特に有名なのはタジャー・ミンやミン・マハギリなどの 37人のナッの頭領たちである。
11世紀、パガン王朝(ビルマ族最初の王朝)のアノーヤター王は、上座部仏教を軸にした国家づくりを推し進めたんだけど、このときに、土着のナッ信仰が大きな障害になったという。そこでアノーヤター王はナッたちの中から特に強大なものを選んで、その最高位にタジャー・ミン(帝釈天のこと)を据えた。これが 37人のナッである。最高位に仏教の帝釈天を置くことで、ナッ信仰を仏教の中に取り込もうとしたわけだ。
もともと仏教も、バラモン教を排除できなかった。仏教で「~天」というのはバラモン教の神さまを仏教に取り込んだもの。こういう集団を仏教では「天部」という。帝釈天はバラモン教の神々の王であるインドラが仏教に取り込まれたもので、この天部のトップに君臨している。アノーヤター王は、この天部の王である帝釈天(タジャー・ミン)をナッの王にしてしまったのである。
もちろん、現在のミャンマーの仏教では、ナッ信仰は公式には認められていない。それでもまだ、土着のナッ信仰は残っていて、仏教と共存している。ミャンマーの仏教寺院に行けば、仏像と一緒になって、ナッの像が安置されているのを見ることができる。現地ガイドに訊くと、仏を守護する存在なのだと説明していた。
2013/03/12 その土地の妖怪を追いかける
ミャンマーに行って感じた。特定の国に限定して、その土地の妖怪を追いかけるという作業って面白い。何しろ、ミャンマーの妖怪なんて今まで考えたこともなかった。でも、ミャンマーにはナッ信仰があった。熱烈なナッ信仰が。
ミャンマーの精霊「ナッ」
仏陀の後ろで傘を差しているのが精霊「ナッ」。ミャンマー人に言わせると、仏陀のガーディアンである。守護動物と仏陀とナッにそれぞれ水を掛けて祈る。
日本じゃ、ナッ信仰について書いた本はほとんどない。インターネット上にもあんまり載っていない。そうしたら、ヤンゴンの古本屋さんで、ナッ信仰に関する本が売っていた。もしもミャンマー語で書いてあったら読めなかったんだけど、英語の本だったので何とか読むことができる。だから、思い切って買ってしまう。今、訳しながら読み進めている。
そのうち、整理して情報提供しようと思う。
2013/03/11 英語は文法が厳密だ!?
ミャンマーの報告書を作成している。日本語については、すでに現地でほとんど書き上げていたので、概ね出来上がっている。でも、この報告書を現地にフィードバックするために、英語版も作成しなきゃいけない。それが大変だ。
うっかりあれもこれも、と思ってたくさん書いてしまったので、たくさん英語にしなきゃいけない。この辺はジレンマだ。相手のためを想うとたくさん書いてあげたい。でも、たくさん書けば書くほど、当然のことだけど、英語にする分量も増える。大変になる。
悩んだ結果、結局、書きたいように書くことに決めて、日本語でガリガリと書いた。そんなわけで、ただ今、英訳作業中。
英語にしながら、日本語ってなんて曖昧な言語なのだろう、と実感している。英語は厳密さが求められる。どの形容詞が何を修飾していて、何にかかっているのかが明確じゃないと、文章として成立しない。主語と述語の関係もマストだ。何だか難しいな、と思って書いているので、きっとボクの日本語がその辺、曖昧なのだろう。反省一入(ひとしお)である。うふふ。
2013/03/10 ワンカメ・ノーカットの一発撮り!?
さよポニの2nd album『青春ファンタジア』のPVが超素敵だ。albumの13曲をメドレーで追いかけていくんだけど、それぞれの楽曲による13人の群像劇に仕上がっている。しかもワンカメ・ノーカットの一発撮り。一体、演出家の頭の中はどんなになっているんだろう。この最終形を想像しながら作っていったんだろうか。すごい。感動のPVだ。楽曲も懐かしいような温かいような感じでいいと思う。さよポニって一体、どんな集団なんだろうなあ。調べても謎。よく分からにゃい。
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港南台Birdsへお買いもの。新しい靴とJ!NSのブルーライト・カットのメガネをゲット。ふふふ。紫色のメガネ。仕事場でかけてやろう。最近、目が痛いのは、きっと花粉症の所為ではない。ブルーライトの所為だ……と思いたい。
2013/03/09 ケチュア語とアヌンナキ!?
ミャンマーに行っている間にドラマが大量に録画されていた。そのうちのひとつ『シェアハウスの恋人』を次々と消化していく。
このドラマ、横浜が舞台なので、何だか面白い。知っている場所がたくさん登場するので、それだけでテンションが上がるという(笑)。昔、AAA主演の『未来世紀シェイクスピア』を観ていたときも、横浜が舞台で、知っている場所がたくさん登場したので、テンションが上がったんだよなあ(遠望)。
しかもストーリィもメチャクチャなのだ。7話目で辰平(大泉洋)がホントに宇宙人らしいことが判明。股間がピカピカ光り出すし、宇宙と交信を始める。いまどき、そんなドラマがあるんかい。しかも、8話目では辰平の歌う宇宙語の歌(宇宙語って何だよ!)が「ケチュア語」だったという事実(?)が判明。
さらにカオル(川口春奈)の口からは「アヌンナキ」という宇宙人が大昔にこの世界をつくったというゼカリア・シッチン説が飛び出す。おいおいこらこら。こりゃービックリだ。アヌンナキ? それってシュメル神話の神さまじゃん。
「ケチュア語」はインカ帝国の公用語。インカ帝国が興ったのは南米ペルーやエクアドルの辺り。「アヌンナキ」が登場するシュメル神話の舞台は中近東のイラク。どう結びついているんだ? この脚本家、きっとグラハム・ハンコックのファンなんだな。
最近のドラマにしては珍しくオリジナル・ストーリーというのがいい。しかもハチャメチャな展開。面白いなあ、と思っている。
2013/03/08 僕と23人の奴隷
『僕と23人の奴隷』を読み終わった。ボクはケータイ小説って読んだことがなかった。でも、たまたま本屋さんで目に止まって、ケータイ小説発祥となっていたので、買うまでもないけど読んでみるかなーって思って、ずぅっとミャンマーにいる間、ホテルでiPhoneを使って読んでいた。ようやく了読。結構、長い作品だった。
作品の感想の前に、ケータイ小説に対して感じたことを書く。1ページ辺りの文字数が圧倒的に少ない。だから、何度も「次へ」をクリックしなきゃいけない。読み込み時間が長いので、時間的にすごく勿体ない感じがする。特に電車で移動していたりして、トンネルに入ってしまうと、全ッ然、次のページに行かないので、イライラする。今やケータイも大容量のデータが送れる時代なのだ。もう少し、1ページ辺りの文字数を増やしても、差し障りがないと思う。ローディングの間に、集中力が途切れるし、思考回路が切れてしまう。
というわけで、作品。
「どんな内容でも、勝負をして負かしたら相手を服従させられる――他人を奴隷にできる機械を手に入れた凡人たちが、色欲、金、復讐……様々な目的のために勝負を繰り返し、互いを服従させていく。壮絶な騙し合いの果てに笑うのは……」
基本、エログロだ。まあ、相手を奴隷にしようというのだから、人間、いろんな欲望が湧いてくる。しかも、どんな命令ができるのか、実験をしていくとどんどん過激になっていく。 でも、アイディア的には面白い作品だったかな、と思う。「他人を奴隷にできる機械」という一見するとファンタジィみたいな設定だけど、でも、そこも小説の中では一応、ロジカルに説明される。この機械を製作した目的もちゃんと合理的だ。しかも、ずぅっと伏線として登場するジャマイカが、奴隷制度の象徴として使われている辺り、ただのエログロ小説ではない。文章は荒削りだし、人間の描き方は薄っぺらいところもあるし、グロの描き方が気持ち悪いところはあるけれど、面白かった。
『僕と23人の奴隷』(著:岡田伸一,双葉社,2012年)
(注:ケータイ小説だと1作品だけど、書籍としては3冊の分冊で出版されているようです)
2013/03/07 ゴーグルを装着したボッスン
8ページの英語論文の翻訳作業を昨日のうちにやっつけて、ミャンマー報告書もある程度、ゴールが見えてきたので、ようやく研究開発のPowerPoint作成に着手できた。何だかミャンマーから帰国してから、怒涛の忙しさだ。毎日23時まで仕事をしているって、ボクとしては珍しい。あっはっは。
それにしても、ゴーグルを装着したボッスンのようだ(笑)。ものすごい集中力で、次から次へと仕事を片付けていく。いくつもの締切に追われていて、終わらないかもしれないというプレッシャの中に置かれると、人間はこんなにも集中できるものか。ボクがあまりにも早く仕事を片付けていくので、後輩諸氏にビックリされてしまった。うーん。火事場の馬鹿力ってヤツか。窮鼠猫噛みってヤツか。いずれにしても、このまんま走り続けるのは、身体に悪そうだなー。
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