2024年9月1日 ポコン!
「ポコン!」をプレイ。基本ルールはリバーシだ。でも、タヌキとキツネの化かし合い。コマの3分の1は裏と表の絵柄が同じなので、挟んでもひっくり返らない。大事なところに裏表が同じコマをそっと置いておいて、騙しに行くゲーム。これがメッチャ面白い。いざめくろうと思って、裏返してみて、同じ絵柄だったら「わあ、ヤラレター!!」って悔しくなる。
意外と小学5年生の息子のツクル氏は得意らしく、すぐにこの変則ルールを理解して、いい感じのところに裏表が同じコマを置いてくる。手加減しようと思ったら、あっという間にやり込められてしまった。クッソゥ。
2024年9月2日 のたまう輩。
よくお笑い芸人を腐すために「この芸人で一度も笑ったことない」「テレビに何で出ているか分からない」などとのたまう輩がいる。一体、このマウントってなんなんだろうね。笑ったら負けみたいな感覚があるんだろうか。
好き嫌いは人それぞれだから、そりゃあ、みんな、好きなお笑いや嫌いなお笑いというのはある。ボクは言葉を主体としたお笑いが好きなので、ラーメンズとかシンクロニシティが好きだ。鳥居みゆきも好きだ。反対に下ネタに走る芸風とか、オーバーな動きで笑わせに来る芸風とか、リアリティのない場違いなボケは、正直、あんまり好みではない。でもね。好みではないけれど、そういうのもひとつのお笑いとして成立していることはちゃんと分かる。たくさんの人が面白いと感じるのも分からないではない。単にボクが好きじゃないだけで、その笑いのツボみたいなものは概ね理解できる。
逆に言えば「この芸人で一度も笑ったことない」と安易に発言しちゃう人は、自分のお笑いリテラシーの低さ、自分の笑いに対する感度の悪さみたいなものを露呈している。誰も言わないけれど、それってマウント失敗ではないのか。
最近、自分のレベルの低さをやたらとPRする系の批判が増えている気がする。そんな彼ら彼女らには「単にあなたのレベルが低くて気づいていないだけですよ」と耳元で囁いてあげたくなる。だって、数多いる芸人の中で、テレビに出られているのはほんの一握り。絶対に誰かに面白いと思われていて、刺さっていて、だからこそテレビに出られているのだ。それを度外視してはいけない。
今、まさにボクの大好きな芸人が「この芸人で一度も笑ったことない」「テレビに何で出ているか分からない」という謎の攻撃に晒されている。とても複雑な気持ちだ。でも、ボクは何度も笑ったぜ? この自分の感性を、否定されたくはないんだよなあ。
2024年9月3日 マーライを描いてみた。
ベトナムの妖怪第1弾として「マーライ」を描いてみた。今後は徐々にベトナムの妖怪もイラスト化して認知度を上げていきたいと思っている。
さて、マーライは昼間は人間として暮らしていて、夜になると臓器とともに頭が抜け出し、空を飛ぶ。こういう首と臓器だけの妖怪と言えば、東南アジア各地にいて、たとえば、タイのガスーやインドネシアのペナンガラン、フィリピンのウンガウンガなどが知られている。どれも昼間は人間として暮らして、夜になると首と臓器が抜け出す。
他の首&臓器妖怪とマーライが大きく異なるのは、マーライの場合、直接、人間を襲わないとされている点だ。マーライは主に排泄物を狙うらしい。マーライに排泄物を食べられた人は腸の病気になり、やがて重篤化して死んでしまう。つまり、人間の排泄物を介して、マーライは人間に作用するわけである。
いずれはタイのガスーも描いてみたいなと思っている。結局、首と臓器という意味では同じデザインなんだけど、ガスーの場合、人間とガスーの悲恋みたいなものが展開されるので、妖艶な美女で描けば、少しは差異化できるのではないか。ふふふ。
2024年9月4日 いろんな異世界に行って戻ってきた男の記録!?
『異境備忘録』という怪しい書物がある。宮地水位なる人物が、天狗界や神仙界、幽明界など、さまざまな世界を行き来した記録である。そこには、悪魔界というのも出てくる。残念ながら(?)、宮地水位は悪魔界には行かなかったようだが、水位は実際に魔王一行が空を行列しているのを目撃したという。そのときに一緒にいた川丹先生(2000年以上生きた仙人!)に魔王たちのことを教えてもらったのだという。
悪魔界について書かれているのは『異境備忘録』の8章で、その書き出しがとても魅力的だ。
悪魔界へは一度の入りたる事なし。されども此界の魔王どもは見たる事あり。
要するに「悪魔界には一度も入ったことはないけど、この魔界で魔王たちを見たことはあるよ」というトンデモない書き出しである。しかも、少し後にはこんなことも書いてある。
余明治十三年七月十九日の夜に魔神行列して空を通行しけるを川丹先生と共に見て、右の名をも聞きてやがて書付けたり。
要するに「俺は明治13年7月19日の夜、魔神が列になって空を飛んでいったのを川丹先生と一緒に見て、名前も聞いたのですぐに記録したよ」というわけだ。
それによれば、悪魔界には12人の魔王がいて、その筆頭は造物大女王で、続いて無底海大陰女王、積陰月霊大王がいるらしい。それに続く形で、神野長運、野間閇息童、神野悪五郎月影、山本五郎左衛門百谷、焔野典左衛門、羽山道龍、北海悪左衛門、三本団左衛門、川部敵冥がいるという。
しかも、実は魔界は大昔に2つに分かれたらしく、造物大女王が治める魔界とは別の魔界は西端逆運魔王が治めているらしい。そして、他にも独立した魔界があって、前三鬼神、飯綱智羅天、後天殺鬼などといった魔王がいるらしい。
……と、まあ、トンデモな内容なわけだけれど、生々しくてとても面白い。
とは言え、この魔王たちが古い伝承に根差しているのかと言えば、おそらくそんなことはなくって、実際は宮地水位の創作ということになるのだろう。山本五郎左衛門と神野悪五郎が魔王として名前を連ねているところも、『稲生物怪録』を念頭においているのだろう。
ずぅっとひょーせんさんが「造物大女王」のイラストを描いていて、いつかはちゃんと解説したいなあと思っていたんだけど、昨今、何故だかXで山本五郎左衛門がフィーチャーされているので、重い腰を上げてまとめてみようかなあ、と思っている。でも、結局、出典元は『異境備忘録』しかないので、それ以上の情報はないわけで、『異境備忘録』に書いてあることをつらつらと書くしかないのであることよ。
2024年9月5日 呼吸。
ジュキヤがYouTube復活!! ……と思ったら、たったの1日でバンされたらしい。正直な話、ボクは彼の動画を視聴したことがないし、彼がどうして過去にバンされたのかもよく分かっていない。だから、この件についての是非はよく分からない。ただ、SNSもある種のインフラみたいに言われているこのご時世に、ひとつの民間企業の判断でプラットホームから締め出されてしまう事実は、常に危うさを孕んでいる気がする。
個人がある種、社会的に抹殺されかねないような重大な意思決定が、たったひとつの民間企業に委ねられている。そのジャッジの正当性は誰が評価できるのか。このジャッジは半永久的なものであって、未来永劫、彼はインフラ利用を制限されるべきなのか。こういう判断が、法律ではなくて法人の判断に委ねられることは、実はあんまり歓迎すべきことではない。それなのに、社会全体の雰囲気が、彼の永久アカバンを当たり前のように歓迎している。プラットホーム企業が生殺与奪の権を行使することを許容している。
ハライチの澤部が9月3日の『ぽかぽか』でフワちゃんの名前を連呼したらしく、これに批判が殺到しているようだ。ヤフコメでも、澤部を非難するようなコメントに溢れて返っている。やれ、番組でフワちゃんの名前を出すなんて時期尚早で、MC失格で、澤部も同じ穴のムジナなのだとか。結構、辛辣なコメントが並んでいる。
これも、ボクは根っこのところで、同じ議論だと感じている。何が何でもフワちゃんを社会から締め出すことが正義みたいな雰囲気になっている。社会全体の雰囲気が、悪者に社会的な制裁を与えることを是としている。鬱憤の矛先を、誰か個人に向けて、攻撃することで留飲を下げている。本来、社会的な抹殺はそんなに簡単に実施してはいけない。メディアやSNS企業は大きな影響力を持っていることを自覚しなければいけない。法律とは別のところで私刑を与えることを社会全体で許容するような動きは、とても危険だ。
ボクは、少しだけ気持ちの悪さを覚えていて、ときどき、胸が締め付けられるようで、呼吸が出来なくなる。
2024年9月6日 人類史で一番可愛い!?
ウェブニュースで「人類史で一番可愛い」というタイトルの記事があった。どうやら、山本美月さんがショートカットにしたらしい。記事元は西日本スポーツ。おそらくSNS上に「人類史で一番可愛いだろ」というコメントがあって、それを取り上げたのだろう。すごいタイトルだなあと思って、面白かったのでクリックして、どうでもいいニュースではあるものの、こうして取り上げてみている。
多分、こういうものの走りは「はしかん」だと思う。「1000年に1人の美女」としてピックアップされた。その後、「2000年に1人の美女」とか「4000年に1人の美女」とか……直近だと「2万人に1人の美女」とかが登場して、ドラゴンボールのようなインフレが発生していたわけだけど、ここに来て、ついに「人類史で一番」というパワーワードまで飛び出した。感慨深いなあ。もはやこれ以上を主張するなら、「哺乳類史」とか「生物史」、あるいは「地球史」みたいな人類を超えたところで議論するしかなくなってしまう。
こういう何千年とか何万年とかってなると、どうしてもケルト神話を思い出すボクである。『来寇の書』というのがあって、最初にアイルランドに入植したフィンタンが、その後、次々と転生を繰り返しながら、いろんな種族がアイルランドに入植しては滅びるのを語る物語である。こういうフィンタンみたいな人が、何世代にも渡っていろんな人々を見て、「ああ、何千人に1人の美女だなあ」と思うのかどうか。ついつい、そんなことを考えてしまう。てか、人間、たった80年程度しか生きないのに、何千年とか何万年の美女だとか、軽々しく評価するなよ、と思うよね。はっはっは。
2024年9月7日 フラットヘッドを描いてみた。
オズ・シリーズの「フラットヘッド」を描いてみた。
フラットヘッドはボームのオズ・シリーズの14作目(つまりボームとしては最終巻)の『オズのグリンダ』に登場する不思議な一族だ。頭が平らで、脳みそを入れておく場所がなかったため、愚かだったという。オズの国をつくった妖精たちは、彼らを見て哀れに思い、缶に脳みそを詰めて彼らに与えた。こうして、彼らは人並みに考えられるようになった。
この缶入りの脳みそは他人から奪うことも可能なようで、1人のフラットヘッドが他の2人から缶を奪って賢くなったという。この男は策を講じて、常に自分が国のリーダーに選ばれるような制度をつくったのである。
……脳みそが缶に詰められていて持ち運びできるというのは、一体、どういうことなのだろうか。しかもそれを奪うことで賢くなれるというのはどういうことなのだろうか。所有権を得た人が、その脳みそのスペックを使えるということなのだろうか。いろんなことを考えてしまう。ボームって不思議な人だよなあ。
それにしても、ちょっと気持ちの悪い絵になってしまったなあ。まあ、ボクの思うフラットヘッド族の王のスー・ディクってこんな感じなので、いいか。
2024年9月8日 中国の文献を原典で!?
ここのところ、単純に『幻想動物事典』(著:草野巧,新紀元社,1997年)をランダムに開いて、たまたまそこに書いてある妖怪をピックアップしてウェブサイト「ファンタジィ事典」を更新するという作業を定期的にやっている。本日は中国の妖怪「枳首蛇(ジーショウショー)」だったので「中国はあんまり得意じゃないなあ」とかブツブツ呟きながら、更新作業に着手した。
中国の妖怪って、あんまりボクのフィールドではないので、まずは中国語のWikipediaを足掛かりに、そこに載っている原典を手あたり次第に当たって行くスタイルで調査をしてみた。いい時代で、概ね、Wikisourceに中国語の原典が載っている。該当箇所を探して、その部分を蒐集して、翻訳していく。比較的、中国語は漢字なので、意味は取りやすい。そうやって調べていくと、今度はいろんな中国語のウェブサイトが見つかるので、そこから派生して、またそこに記載のある新たな原典を探す。この繰り返しだ。
中国の作品って「こんなに強い英雄がいたんですよ」というエピソードではなくって、「こんなに素晴らしい人格者がいたんですよ」というエピソードが多いので、常々、面白いなあ、と思っている。今回の場合、孫叔敖という人物で、両方に頭のある蛇に遭遇して「ああ、自分はじきに死ぬのだ」と憂いながらも、自分以外の人が万が一、この蛇を目撃して死んでしまうのはよろしくないと、蛇を殺して、地面に埋める。
こうやって、自分の死を前にしながらも他人を思い遣れる孫叔敖は人徳がある。そういう仕上がりの物語になっている。中国らしさ全開でいいなあ、と思う。
そんなわけで、容易に原典に当たられる時代になって、素敵なことだなあと思うよね。
2024年9月9日 人間が堕落したのは全部アザゼルが悪い!!
昨日は中国語の古典文献をいろいろと飛び回って読んでいたが、本日のターゲットは聖書だ。しかも旧約聖書偽典の『エノク書』。ああだこうだと頭を悩ませている。
『幻想動物事典』(著:草野巧,新紀元社,1997年)をランダムに開いたら、「アザゼル」だったもんで、『エノク書』なんかを読んでいる。『エノク書』が大迫力の作品であることは、大学生のときに一度、読んだことがあるからよく分かっている。天使たちが人間の女性に恋をして、妻にしようと画策し、罰せられる物語だ。
天使たちの思惑とは裏腹に、どんどん地上がメチャクチャになっていく様がよく描けている。人間と天使の間に生まれる子供たちは成長して巨人になり、世界は食糧難に陥るし、人間たちは人間たちで教えた技術や知識を駆使して、堕落していく。それを見て、遂に神さまが激怒して、四大天使が征伐にやって来る。最後は神さまによる大洪水だ。そして、天使たちは荒野の穴に放り込まれて拘束される。
この辺を掘り下げていくと、きっと、同人誌的には面白いんだろうなあ、と思う。いろんな堕天使と天使が入り混じるので、各人の間でいろんな物語を発想しやすそうだ。ウェブサイト「ファンタジィ事典」でも、そういう創作の一助となるような解説をすればよいんだろうけれど、ボクの移り気な感じがよくなくて、すぐに別の妖怪に手を出してしまうんだよなあ。わはははー。
2024年9月10日 古代エチオピア文字でも印字できる世界線
久々に休暇を取得して羽を伸ばす。と言っても、やることはいつもの日常だ。昨日に引き続き、『エノク書』を黙々と読む。昨日はアザゼルさんだったけど、本日はシェミハザさん。アザゼルは旧約聖書『レビ記』にも登場するので、そちらに主眼を置いて整理したが、シェミハザは『エノク書』がメインの悪魔なので、大真面目に『エノク書』を読む。
便利な世の中なので、古代エチオピア語のヴァージョンもウェブサイトに載っているし、英語でいくつかの写本を比較したものもある。グリゴリの指導者の名前も写本によってまちまちだ。そういうのも、ちゃんと追いかけられるのがいい時代。古代エチオピア語なんて、知らない文字なので、ボクにとってはもはや暗号の世界だ。でも、ちゃんとブラウザでも古代エチオピア文字が印字されちゃうんだよなあ。すごいよなあ。
以下、試しに古代エチオピア語の『エノク書』第6章を引用。シェミハザが仲間の天使たちを集めて、人間の娘を妻に娶ろうと相談しているシーンだ。
ወኮነ ፡ እምዘ ፡ በዝኁ ፡ ውሉደ ፡ ሰብእ ፡ በእማንቱ ፡ መዋእል ፡ ተወልደ ፡ ሎሙ ፡ አዋልድ ፡ ሠናያት ፡ ወላህያት ። ወርእዩ ፡ ኪያሆን ፡ መላእክት ፡ ውሉደ ፡ ሰማያት ፡ ወፈተውዎን ፡ ወይቤሉ ፡ በበይናቲሆሙ ፡ ንዑ ፡ ንኅረይ ፡ ለነ ፡ አንስተ ፡ እምውሉደ ፡ ሰብእ ፡ ወንለድ ፡ ለነ ፡ ውሉደ ። ወይቤሎሙ ፡ ስምያዛ ፡ ዘውእቱ ፡ መልአኮሙ ፡ እፈርህ ፡ ዮጊ ፡ ኢትፈቅዱ ፡ ይትገበር ፡ ዝንቱ ፡ ግብር ፡ ወእከውን ፡ አነ ፡ ባሕቲትየ ፡ ፈዳዪሃ ፡ ለዛቲ ፡ ኅጢአት ፡ ዐባይ ። ወአውሥኡ ፡ ሎቱ ፡ ኵሎሙ ፡ ወይቤሉ ፡ መሐላ ፡ ንምሐል ፡ ኵልነ ፡ ወንትዋገዝ ፡ በበይናቲነ ፡ ከመ ፡ ኢንሚጣ ፡ ለዛቲ ፡ ምክር ፡ ወንግበራ ፡ ለዛቲ ፡ ምክር ፡ ግብረ ። አሜሃ ፡ መሐሉ ፡ ኵሎሙ ፡ ኅቡረ ፡ ወአውገዙ ፡ ኵሎሙ ፡ በበይናቲሆሙ ፡ ቦቱ ፡ ወኮኑ ፡ ኵሎሙ ፡ ፪፻ ። ወወረዱ ፡ ውስተ ፡ አርዲስ ፡ ዝውእቱ ፡ ድማሑ ፡ ለደብረ ፡ አርሞን ፡ ወጸውዕዎ ፡ ለደብረ ፡ አርሞን ፡ እስመ ፡ መሐሉ ፡ ቦቱ ፡ ወአውገዙ ፡ በበይናቲሆሙ ። ወዝንቱ ፡ አስማቲሆሙ ፡ ለመላእክቲሆሙ ፡ ስምያዛ ፡ ዘውእቱ ፡ መልአኮሙ ፡ ኡራኪበራሜኤል ፡ አኪበኤል ፡ ጣሚኤል ፡ ራሙኤል ፡ ዳንኤል ፡ ኤዜቄኤል ፡ ሰራቁያል ፡ አሳኤል ፡ አርምርስ ፡ በጥረአል ፡ አናንኢ ፡ ዘቄቤ ፡ ሰምሳዌኤል ፡ ሰርተኤል ፡ ጡርኤል ፡ ዮምያኤል ፡ አራዝያል ። እሉ ፡ እሙንቱ ፡ ሀበይቶሙ ፡ ለ፪፻መላእክት ፡ ወባዕዳን ፡ ኵሉ ፡ ምስሌሆሙ ።
図書館で『聖書外典偽典』の第4巻を予約したので、ちゃんとした日本語訳で今度、読んでみようと思う。多分、解説も付されているんじゃないかなあ。どうだろう。補足や追記が必要になったら、そのタイミングで、また、アザゼルとシェミハザを更新しようと思う。
2024年9月11日 トイレの花子さんを描いてみた。
学校の怪談に登場する「トイレの花子さん」を描いた。こんなのは、別にボクが描かなくても、たくさんのイラストレータさんが描いてくれている。もっとうまい絵もたくさんある。それでも、今後、都市伝説系とか洒落怖系の妖怪をバンバン描いていこうと思っているので、有名どころはしっかりと押さえておかなきゃ、ウェブサイトとしての体裁がおかしいかな。そんなことをぼやっと考えて、重たい腰をあげて描いてみた。
多分、ほかにも、口裂け女くらいは押さえておいた方がいいよなあ。ターボババアも有名どころなのかなあ。いろいろと調べると、何が有名で何がマイナなのかが分からなくなる。
ちなみに、今、ボクが目下のところ、興味があるのは、実はオーソドックスな学校の怪談とか都市伝説ではなくって、「洒落怖」の妖怪たちや、その他ネットロアの妖怪たちだ。
「洒落怖」というのは、2ちゃんねるの「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」というスレッドのことで、そこではさまざまな怪異が語られる。当然、どこかの誰かの「創作」と言えば「創作」だ。でも、2ちゃんねるの匿名性も相俟って、伝承っぽくなっている。
意外とそういうのを朝里さんが「都市伝説」という文脈の中で紹介していて、徐々に市民権を得てきたような印象がある。その辺をウェブサイト「ファンタジィ事典」としても、とらまえていこうと画策している。そのためには、まずは有名どころの都市伝説の妖怪たちをイラスト化して、そこに並べる格好で、新しい妖怪たちを描きたいなあと思っているところである。
2024年9月12日 常に原典に当たることの重要性!?
『エノク書』を読んで、アザゼルとシェムハザの項目を更新したので、ついでに関連ワードとしてネフィリムとグリゴリを更新することにした。
そんな作業の過程で、過去の自分の記述の誤りに気付く。ネフィリムの身長が「3,000キュビット」と書いてある。正しくは「300キュビット」だ。この誤りの出典は何かなあと思ったら、どうも『幻想動物事典』だったようだ。確かに『幻想動物事典』のネフィリムの項にはそう書いてある。でも、まあ、原典を確認しなかったボクが悪い。本を鵜吞みにしてはいけない。
ちなみに1キュビットというのは肘の長さを基準にした単位で、時代によって若干、異なる。一般的には46センチメートルくらいとされている。それで行くと、300キュビットは約140メートルになる。もしも3,000キュビットだったら、1,400メートルの大男ということになる。それではさすがに大きすぎるだろう。人間の女性と天使の間に生まれて、成長したら1,400メートルになるなんて、とても想像できない。140メートルなら、まあ、まだ許容範囲か。
ちゃんと一次資料に当たることは、とても大事である。ついつい、ね。サボっちゃうというか。本に書いてあるからいいか、と裏取りしないで突き進むこともある。資料がなくて原典に当たれないことだってある。でも、今はオンライン上に比較的、いろんな資料がアップされているので、昔に比べれば、事実確認がしやすい。それってとても幸せなことだし、手を抜いてはいけない。
というわけで、しっかりと原典に当たって裏取りを進めつつ、ネフィリムとグリゴリを更新した日である。
2024年9月14日 鬼とか天狗とか。
「日々の雑記」が1日空いてしまった。最近、締め切りの仕事をたくさん抱えていて、正直、日常がワチャワチャしている。ウェブサイト「ファンタジィ事典」も連投できず。まあ、そういう日もある。
本日は前鬼と後鬼を更新。昨日の分と今日の分……というわけでもないが、一応、2項目を更新だ。鬼とか天狗って、王道と言えば王道だけど、実は難しい。こういう鬼とか天狗の類いは、飛鳥時代、奈良時代、平安時代に跋扈しているわけだけど、資料としては断片的な部分もありつつ、現在まで何となく地続きで繋がっている感じもあって、その怪しさは魅力だけど、よく分からないのも事実だ。
実は、ボクの「ファンタジィ事典」のアクセス解析を見ると、妙に天狗に人気が集まっている。八大天狗を全部、それなりの分量を載せているからだと思う。どれも概ね平均エンゲージメント時間が2分近くになっている。読まれているということだ。鬼関連もそういう傾向にある。Google検索でも上位に来るものが多い。だから、人気コンテンツと言えば、人気コンテンツ。そういう意味では、前鬼と後鬼もハネるといいのだけれど、こればっかりは何がバズるのかよく分からない。だから、あくまでもランダムに『幻想動物事典』を開いて、それを足掛かりに更新するスタイルである。
鬼とか天狗のイラストを描くというのも、やってみてもよいよなあ、と思っている。こっちは、別にランダムの世界線ではないので、自分で描きたいものを描く。コントロールできる。やってみようかなあ。我がウェブサイトで大人気の愛宕山太郎坊かなあ。どうだろう。ふふふのふ。
2024年9月15日 ヤマノケを描いてみた
9月11日の記事「トイレの花子さんを描いてみた」でも宣言したとおり、今後、洒落怖系の妖怪の絵を描いていくぞ、という決意を固めたわけだが、早速、ヤマノケを描いてみた。
ヤマノケは、2ちゃんねるのオカルト板「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?(洒落怖)」に2007年2月に投稿された怪談だ。車中泊とは言え、山の中でこんな怪物に遭遇したら、そりゃあ、怖いよね。しかも女性にとり憑いて、憑かれた女性は気が触れてしまうわけだから、メチャクチャ、怖い。
1本足という特徴なんかは、山の怪に共通するところなので、そういうイメージが踏襲されているんだと思う。胸に顔がついているのは、中国の刑天とかインドのカバンダ、エティオピアのアケパロスがいる。そういうイメージもあるのかもしれない。日本だと胴面(ドウノツラ)という妖怪画も知られる。でも、1本足で白っぽいというのも相俟って、ブキミな感じの妖怪だなと思う。
2024年9月16日 善意だけでは運用されないのが技術だ。
昨日はヤマノケをアップしてみたものの、Xでもpixivでも、そんなにバズらず。まあ、そういうこともある。
それはそうと、最近、ニュースでAI画像生成が問題視されている。ちょっと前の文脈だと、クリエイタの著作権が課題だとされていた。要するに、学習させるプロセスで過去のクリエイタの作品を学ばせていくわけで、誰かの作風を簡単に模倣できてしまうし、アイディアも真似できてしまう。それは如何なものかという文脈だったように思う。
Xのポストなんかでは、相当数のクリエイタたちがAI画像生成に対して否定的な意見を持っていて、ピリついている。pixivはその辺が寛容で、AI生成の作品の投稿もオーケィにしているので、かなりの数のクリエイタたちがpixivと言うプラットフォームからは離れていったように思うし、pixivそのものの態度や対応は常に批判にさらされている。この辺って、多分、クリエイタ界隈と触れ合っていない人には、全ッ然、空気感が伝わらないかもしれない。一般的には「新しい技術だし、面白そうだな」くらいの印象の人も多いかもしれないけれど、まあ、クリエイタ界隈ではものすごく批判的な人も多く、ホントに、ピリついているという雰囲気はある。
そんな流れに加えて、最近はフェイク作品も話題になっている。既存の写真を加工して、それこそ、ポルノっぽい画像を生成する人もいるらしい。自分の写真が勝手にポルノ作品に加工されて公開されるケースもあるようだし、最近だとハリーポッターの子役に煙草を吸わせるようなフェイク写真を生成するみたいな事例も流れてきた。つくっている人は面白半分(?)なのかもしれないが、やられる側はたまったものではない。そういう意味では、技術的にはいろいろと可能性は広がりそうだけど、倫理的なところでは課題が多い。
ボクの本職は絵描きではない。あくまでも妖怪をイラストに描き起こして、そのイメージを喚起したいだけだ。そういう意味では、別に画像生成AIに妖怪の絵を描いてもらって、それをファンタジィ事典の項目に載せるのも、全ッ然、アリだと思っていた。マナナンガルから開始したタブレットお描きによるボクの妖怪画も、すでに70作品くらいのストックが溜まってきたので、こいつをAIに学ばせて、ボクのイラストを引き継いでくれないかな、と期待していたんだけど、第三者の作風を勝手にパクる人も多くって、恣意的に誰かの作品を学ばせるようなプログラミングは市販されていないようで、自作でやるしかないようだ。難しいなあ。技術というのは、必ずしも善意だけでは運用されないからなあ。
2024年9月17日 日本の妖怪には少しだけ苦手意識がある
ウェブサイト「ファンタジィ事典」、粛々と更新作業を進めている。15日には「大入道」と「遣ろか水」、16日には「ブラーク」を更新して、本日は「人面瘡」と「二口女」を更新した。『幻想動物事典』をランダムに開き、そこに載っている妖怪を問答無用に更新するスタイルに切り替えて運用しているが、どの妖怪を取り扱うかの取捨選択のプロセスで悩まなくなって、いい感じ、いいペースで更新ができている。
『幻想動物事典』は意外と日本の妖怪が多いのが難点だ。ボクは西洋の妖怪から入った口なので、あんまり日本の妖怪は専門ではない。だから、日本の妖怪を更新するときには内心ではドキドキしてしまう。それこそ、日本の妖怪だったらほかに得意な人がいっぱいいるし、当然、ボクたちは日本人なので、日本の妖怪を対象に調査・研究、あるいは創作している人はたくさんいる。ある種のレッドオーシャンだ。激戦区に切り込んでいく怖さはある。だから、あんまり独自の路線にはせずに、たんたんと事実のみを書くように心掛けている。
ただ、日本の妖怪も、ちゃんと勉強するとそれなりの面白さはある。たとえば、昔話の「食わず女房」と「二口女」は、どうも出自が異なるようだとか、二口女は実は人面瘡の系列ではないかとか、深堀するとそういう議論があって、資料を読んでいて、ちょっとニヤニヤしてしまう。あるいは「大入道」は山の怪なので、ブロッケン現象と結び付けて議論されているところもあって、そういうのも、ああ、なるほどな、と思う。『狂歌百物語』の大入道の画なんて、真っ黒い影で、確かにブロッケン現象だと言われれば、そうかもしれないと思わせられる。
ボクはそこまで踏み込んで議論できるほど、情報を持っていないので、ちょっと触れる程度で逃げてしまうんだけど、まあ、そのうち、時間ができたら、日本の妖怪を深堀ってみても面白いかもしれないなあ。
2024年9月19日 プゴットを描いてみた
世の中、何が起こるか分からない。本日はフィリピン妖怪の第37弾で「プゴット」を描いてみたわけだけど、Xで珍しくバズっている。吃驚仰天。
まあ、そもそものバズるの定義がよく分からないし、バズるほどのアクセスでもないんだけど、でも、少なくとも、今までは平均でインプレッションが大体、150~200回くらいで、うまく絵が描けたなあと思っていると500回に届くくらいのときがあった。ところが、今回はあっという間に2000回を超えた。しかも、フォロワーでもないし、今まで絡んだことのない人たちがリポストしたり、いいねを押したりしている。要するに、妖怪界隈ではない人たちの目に触れたということになる。こんな恐ろしい姿なのに「下着泥棒」というところがハネた理由なのかもしれない。うーん。
正直、絵としてはうまく描けなかった。何度か描き直してはみたんだけど、どう直しても、結局、立体感がちょっとだけ足らなくって、色味も淡くって、イマイチだなあ、と思っていた。何ならゼロから描き直すことにして、投稿そのものをやめて、別の絵に差し替えようかと思っていたくらいだ。それなのに、投稿してみたら、案外、バズったものだから、驚いている。何がウケるのかは分からないものだなあ。
2024年9月22日 基礎は大事だ(それはそう!)
本日は息子のツクル氏の「ピアノの発表会」。で、ボクも連弾の相方として登壇。ジョプリンの『エンターテイナー』。そんなこんなで、メチャクチャ緊張する1日であったことよ。
そもそも、ピアノに限らず、音楽全般、ちゃんと基礎をやることが大事だ。それこそ、バイエル、ブルグミュラー、ソナチネ……みたいに、ステップアップしていく。こういうのを学んで、弾いてきた人たちってちゃんと基礎がある。でも、ボクの場合、バイエルすらまともにやらずに、先生に怒られていたタイプの人間なので、そういう基礎がなっていない。それなのに、子供の相方として、連弾して登壇させられるのは、ちょっと苦しい。ああ、こんなことなら、ちゃんと基礎をやっておけばよかった。
若かりし頃のボクは、こういう基礎全般をないがしろにしていた。ピアノの習い事の日に、自分で作曲した楽曲を持って行って先生に聞かせたり、勝手にアレンジして面白がったりしていて、今思えば、先生は手を焼いただろうな、と思う。それでも、先生側もボクのやる気を出させるために手を変え品を変え。ファイナルファンタジーの楽曲をやらせたり、ドラゴンクエストの楽曲をやらせたりしてボクを鍵盤の前に座らせていた。
息子と連弾で舞台に立つという未来が来るなら、もっとちゃんとやっておけばよかったなあ。(つд⊂)エーン
2024年9月23日 ティジー・ウィジーを描いてみた。
本日はイギリス伝承の「ティジー・ウィジー」を描いてみた。
あんまり有名な妖怪ではないかもしれない。イングランドのウィンダミア湖に棲息していて、弾丸のように飛ぶという。ボウネスという町の船頭が発見して、写真も撮影された。多分、元々はボウネスの船頭が町興しというか、話題作りというのか、ボート業界を盛り上げるために作り上げた生き物だったんだと思う。でも、その後、多数の目撃情報が寄せられて、未確認生物的な存在になった。
最近、Instagramを始めた。Instagramは写真や動画、イラストがメインで、あんまり文字を介在させないコミュニケーションがとれるので、結構、海外の人との交流が容易だ。だから、いろいろと海外のイラストレータさんとフォローし合っている。日本ではマイナーな妖怪がイラストの題材に取り上げられていることが多くって、勉強になる。ああ、そんな妖怪がいるんだなあ、知らなかったなあ、みたいな感じで、とても刺激を受けている。この刺激をそのままお伝えしたくて、今回、敢えてティジー・ウィジーを描いてみた。
まあ、ね。日本人でもティジー・ウィジーをネタにしている人は多いんだけど、あんまり神話・伝承系の本でも、未確認生物関連の本でも取り上げられないので、知名度はそんなに高くはないのではないかと思っている。ふふふ。
2024年9月26日 最近のイラストレータ界隈について思うこと。
Instagramを始めてから、いろいろと不思議に思うことがある。
たくさんのイラストレータがリール動画をつくっていることだ。ボクは、イラストレータって、自分の絵を見てもらいたいのだと思っている。それなのに、動画にしてしまうことで、絵そのものをじっくり見ることができなくなっている。個人的には、ものすごいフラストレーションだ。
結構、多いのは、下書きから清書して、彩色するプロセスを見せるリール動画。でも、ボクはこういうプロセスというか、舞台裏じゃなくって、完成形の絵をちゃんとじっくり見たいな、と思ってしまう。そりゃあ、さ。大好きなイラストレータがいて、その人がどうやって絵を仕上げているのかな、と思ったときに、絵が出来上がっていくプロセスを紹介するリール動画なんかがあると、それには価値が見出せる気がする。でも、それって、ファンに向けてのサービスだ。ファンになる前の集客の段階では、全然、価値を持たない。絵を描くプロセスばっかりをせっせとアップしているイラストレータって、なんなんだろうな、と不思議に思う。絵の指導をしたり、イラストレータに技法を紹介しているのだろうか。でも、どうもそういう方向性の編集にはなっていないような気がする。
そもそも、ボクは動画は動画のプロがつくるべきであって、イラストのプロはイラストで勝負すべきだと思っている。せっかく絵がうまいのに、チープな動画を見せられても、編集がヘタクソすぎて、ブランディングに失敗している気がする。もしも動画をつくりたいなら、もっとちゃんと動画の勉強をして、動画ならではの見せ方をしないと作品としてレベルが下がってしまう。
そもそも下書きみたいな絵とか、いろんなカラーバリエーションの絵とかを完成のイラストと一緒に並べているイラストレータも多くって、ボクはその文化もちょっとだけ理解ができない。特にいろんなカラーバリエーションがボクには理解ができなくて、「これが最善だ!」という追及の結果、完成形があるのであって、その途上でちょっと出来の悪い色違いを見せられても、それに何の意味があるのかな、と思う。これって、絵だけの話ではなくって、小室哲哉氏のリミックスにも感じていた。ヴァージョン違いをたくさん並べて、結局、どれがいいと思っているんだい? そんな風に思ってしまう。たとえば、ね。全然、違うアレンジで、デジタルとアコースティックくらいに別物だったら、それはそれで面白いと思うけど、ちょっとだけ差をつけたカラーバリエーションをいくつも提示されたって、それって何なのさ、と思う。最高の1つを決めて提示してくれよ、と思う。
1枚の絵のあっちこっちを切り抜いて拡大して見せるパターンもちょっと疑問だ。絵のどの部分を見るかは、見る側が決めればいいのであって、「ここに注目してー!」みたいなクローズアップはちょっとだけ冷めてしまう。大体、全体の構図を練って絵を描いているはずなのに、一部分だけを切り取って、もう一度、提示してくるっていうのは、一体、どういうことなんだい? なんて思ってしまうのである。絵の解説者が「ここを見てください。ここ、工夫しているんです」みたいに解説することがあるが、それを自分でやってしまうのは、ちょっとどうなんだろうか。
そんなわけで、誰かを非難したり、攻撃したりしたいわけではないんだけど、結果としては疑義を呈しているので、攻撃的な雑記になってしまった。でも、本当。そういうニーズがあるのかな。そういうのがウケるのかな。ボクは作者の独りよがりな感じがするんだけどなあ。