2020年7月6日 マスクに感染予防の効果はありません!!

最近、ひとつ、とても気になっていることがある。「布マスクの漏れ率100%」とか「マスクでは感染予防にならない」などの記事だ。そもそも、マスクを予防目的でつけている人ってどのくらいいるのか。ボクは端からそんな効果は期待していない。というか、大多数の人が、そんなことを期待しているわけではないと思う。咳やくしゃみ、あるいは大声でのディスカッションみたいな場面での飛沫を防いでいる。ボクはそういう認識だし、少なくともボクの周囲の友人たちはその認識だ。だから、「マスクの効果」を議論するときには、マスク外部からの流入の「漏れ率」で議論したり、感染予防目的での用法で議論するのではなく、飛沫防止としての効果の有無で議論して欲しいと思う。その辺、いろいろと検索してみても曖昧だ。飛沫防止としては有効だと主張する人もいれば、インフルエンザの実験では、ウイルス感染者と同室にいる家族にはマスクをしていても感染させたという実験を載せている人もいる。でも、たとえば、電車移動中や職場での短時間の会議などでマスクをした場合、飛沫防止に寄与するのかどうか。その辺のインフルエンザでの知見なんかを、誰か紹介してくれないかなあ。そういう議論じゃないと、何か意味ないじゃんね? とボクは個人的には思っている。

2020年7月3日 ウィンウィンの関係を目指さないとダメだ

上沼さんとキンコン梶原が揉めたらしい。ニュースでしか知らないし、あくまでも現場にいたスタッフの証言であって、何が正しいとか、何が間違っているとかは全然、分からない。でも、実はボクは、ずぅっと上沼さんの発言には違和感を覚えていた。新コロの自粛明けに、キンコン梶原が番組に出たときに、連絡がない、無礼だ、みたいなイジりをしたときだ。連絡しなくてはいけないということではないし、「無礼だ」というイジりは笑いにならない。

よく、イジられる側がもっと面白くすべし、という人もいる。イジられる側の反応がイマイチだからスベったみたいなトーンで論じられるときもある。でも、ボクはやっぱり、イジる側が最終的な着地点を考えなきゃいけないし、受け手が思った反応をしなかったら、もうイジるべきじゃない。つまり、「あ、この人はイジっても面白くならないな」と分かって尚、イジったら、それはイジった側に問題がある。「この人はイジったら面白くしてくれる」という信頼関係の上でイジるから安心してイジれるのであって、そうでなければ、イジられる側の責任にしてはいけない。

基本的に、キンコン梶原はイジられるとムキになるタイプで、イジって面白くなる芸風ではない。それに「無礼だ」というのは、仮に事実だったとしても、キンコン梶原の株を下げるだけで、ウィンウィンのイジりにはならない。いつも無礼だったり、無神経だったりして、それをネタにしている人間に対して、「こいつ、ホンマに無礼だ!」とやれば、それは笑いになるけれど、「キンコン梶原が連絡を寄越さない」というのは、笑いになろうがなるまいが、キンコン梶原にとってのネガティブ・キャンペーンにしかならない。それをやってしまうところに、ボクはちょっと違和感を覚えていて、どうしたのかなあ、と思っていた。そんな風に感じていた矢先に、この展開だ。

結構、ね。賛否両論で、キンコン梶原が無礼なのがいけないという論調もある。お世話になった人を裏切ったとか、ね。でも、そういう論調を作ってしまった時点で、やっぱり上沼さんの発言のチョイスは間違っていたのだと思う。お互い、仕事なのだから、相手の株を下げるような行為をしたらいけない。ウィンウィンの関係を目指すべきだ。上沼さんはキンコン梶原が引き立つように演じ、キンコン梶原も上沼さんが引き立つように演じる。それが嘘っぱちの演技だったとしても、プロフェッショナルである以上、そういう見せ方をしないと、お仕事として成立しない。そういう意味では、上沼さんの発言に真っ向から異を唱えるツイートをしたキンコン梶原の態度も、ある意味ではプロフェッショナルを欠いていると言えば、そうだ。明らかに上沼さんにダメージを与える。

でも、最初にそういう先制攻撃をしたのは上沼さんであり、だから、ボクは彼女が下手なボールを投げたな、と感じている。勿論、そういうのは今回だけではなくって、あちこちで、感情的で攻撃的な発言をしていて、個人的にはボクはあんまり好きなタイプの芸人ではなかった。でも、今回、相手がキンコン梶原で、本当に彼が不器用だったから、こういう展開になってしまった。多分、他の人だったら、うまくあしらって、もっと上手にやってくれただろうな、とは思う。

スタッフがいろいろと暴露してしまう時点で、そろそろ苦しいな、と何も知らないながら、ボクは個人的には思う。若い人たちは、思った以上に寛容で、争いを避ける傾向にある。若い視聴者もそうだし、多分、スタッフも、そういう人が増えていると思う。少なくとも、カジサックは、ゲストが最大限面白くなるように編集をしている。こういう気遣いが、若者に受けているのだ、と思う。ウィンウィンの関係を目指す在り方が問われていると思う。

2020年7月1日 自称友達

最近、定期的にウェブサイト「ファンタジィ事典」の項目を雑記にしているのは、Google先生に覚えてもらおうという姑息な企てである。一応、ウェブサイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」は細々と各方面からリンクを貼ってもらっていることもあって、雑記で記事を書くと、すぐにGoogle先生に認識してもらえる。ところが「ファンタジィ事典」は階層がひとつ深く、入口がそんなにないので、Google先生がなかなか認識してくれない。そこで、こうやって「ヘタっぴなアルコール蒸留」で記事にして、すぐにGoogle先生に覚えてもらおうという姑息な企てである。

さて、ヒカル大先生のYouTUbeを見た。光ると手越とが「友達」なのかどうか、という議論を呼ぶ動画だ。正直、ビビった。この企画力に。アンチも、もう、これでギャフンだ、と思う。本当に楽しそうに手越と喋っていて、それでも尚、友達と明確に言ってもらえなかったと笑っている。すげーなー。ハート強いなあ。このくらい格好よく生きたいなあ。

2020年7月1日 仏教も立派にファンタジィしているじゃん!!

昨日の記事で仏教が意外と面白いという話をしたんだけど、何が面白いって、時代とともに価値観が変わって、それに合わせて、仏教もゆるやかに変容している、という点が実に面白い。日本人にとっては最も馴染みがある宗教だから、本はたくさん出版されているし、本そのものは大量に購入したまま「積読」状態になっていたボク。ボク自身、仏教はファンタジィというよりは哲学的っぽいよなあ、と思って、ずぅっと敬遠していた。でも、ちゃんと勉強したら、とても楽しかった。

たとえば、毘盧遮那如来なんかが面白い。『華厳経』によれば、毘盧遮那如来の毛穴のひとつひとつから煙とともに無数の釈迦如来が出現するわけだけど、それを完全再現しようと、聖武天皇が奈良の東大寺に毘盧遮那如来の大仏を建立し、それから各地に国分寺を建設して、釈迦如来を安置していったというのは、すごい話だなあ、と感動する。

それから、弥勒菩薩が釈迦が入滅してから56億7,000万年後にこの世界に降り立って、次の仏陀になるというのも、気の遠くなる話だし、弥勒菩薩が修行している間、この世界に「如来」が不在になっている間、この世界を救うために地蔵菩薩がせっせと働いているというのも、何だか愛おしくなる。

本来、如来というのは解脱しているので、煩悩から離れているはずである。だから、出家者のような質素な格好をしているのが通常モードである。それなのに、大日如来はゴテゴテと装身具に身を包んでいて、全然、煩悩から抜け出せていない。大日如来というのは、仏教世界の中では比較的、新しいホトケ様なので、おそらく、信仰の対象として、着飾っていた方が偉さを演出できる時代の産物なのだろう。解脱しているはずの如来が俗っぽいというギャップに、人間味を感じて、くすりと笑ってしまう。

女性は成仏できないという古来の仏教に対して、女性も成仏できるよ、と説明する『法華経』はジェンダー問題に絡む時代の流れを感じてしまうし、女人成仏を説く『法華経』で活躍する普賢菩薩が当時の女性たちの間で大人気になるというのも、非常に面白くて、時代とともに価値観が変わって、それに仏教が追随して、いろんな如来や菩薩が現れるというのが、とても興味深く、仏教の奥深さを感じた。

こういうのは、歴史とか地理なんかと一緒になって多元的に捉えていかなきゃ分からない面白さで、またひとつ、楽しい趣味ができたな、と思いながら、仏教を勉強中のボクである。

2020年6月30日 最近はインド神話と仏教の周辺を調査中!?

便利な時代になった。古本屋を回らなくても、オンラインで絶版になった欲しい本が手に入る。『筑摩世界文学大系9 インド・アラビア・ペルシア集』を中古でゲットした。非常にいい。『リグ・ヴェーダ』や『ウパニシャッド』、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』などの古代インドの文学がまとめて載っているのもいいし、『シャーナーメ』や『ルバイヤード』などのペルシアの文学が載っているのがいい。あっという間に、いろいろな神話・伝承の裏付けがとれる。

それにしても、こうやって、昔の人は、せっせといろいろな文献を翻訳して、本にしてくれた。最近、あんまりそういう方向でエネルギーを使う人が少ない。未だに日本語に訳されていない古い文献がたくさんあるのになあ、と思いつつ、研究者たちは英語で読めてしまうし、中身を議論することに一所懸命なのだろうなあ、とも思う。日本語にして本にまでして販売するというのは、ものすごい熱量で、いわゆるサービス精神の表れである。

そんなわけで、ウェブサイト「ファンタジィ事典」は緩やかに更新を進めていて、何となくここ最近はインド神話仏教の辺りを更新している。意外と、仏教も面白くて、如来(タターガタ)の更新が楽しかった。

2020年5月21日 結局、余人をもって代えがたい人も、替わっちゃうという皮肉。

慶應義塾大学法学部の亀井教授の記事が面白かった。ボクの感覚はこれに近いかもしれない。

役職定年延長という「恩恵」が、検察官の「必要があれば政府・与党の有力者であっても捜査し訴追する」という決意にどの程度影響するであろうか。

少なくとも筆者には、その程度の「恩恵」が人をしてその信念を枉まげさせるとは思えない。はたして、職業人としての魂は、役職定年延長程度の「恩恵」で買えるのであろうか。その「恩恵」は「魂の値段」としては安すぎないだろうか。

ボクも、実は素直にそう思う。役職定年、あるいは定年が延長する。そういうエサを目の前にぶら下げられて、それでもって検察としての信念を曲げて、内閣の軍門に降るのなら、検察官なんて辞めてしまえ、と思う。

今回、何が何でも黒川さんを検事総長にしようという意志が、どこからか働いた。それは、もしかしたら、黒川さん本人の意志ではないかもしれない。でも、誰かがそう思った。そして、それを拒もうとする意志も働いた。ボクは、稲田さんの気持ちは分かる。勇退という慣例を拒んで居座る。それは、自分が後任を選ぶという慣例を否定した抵抗勢力に対する反骨精神みたいなものだと思う。でも、何だろう。ツイッターでのデマ拡散や賭けマージャンのリークなど、やっぱり、いろんな人々の思惑が透けて見える。ボクには、検察と内閣の折衝と、検察の内部抗争に見える。検事総長というポストを巡って、いろんな大人が暗躍した。そのこと自体が、検察の信用を落とした。勿論、黒川さんの定年延長の閣議決定をした内閣の信用も落ちた。権力にしがみつく大人って醜いよなあ。で、結局、黒川さんが辞任したら「余人をもって代えがたし」が崩れる。

前の記事にも書いた。結局、人間はいつか死ぬ。それは明日かもしれないし、明後日かもしれあい。だから組織としてひとりに負んぶに抱っこじゃダメだ。常に替えが利くようにしておかなきゃいけない。こうやってスキャンダルで外れざるを得なくなることだって、ある。「余人をもって代えがたし」はダメだ。だから、検察だけじゃなくって、あまねく国家公務員も「特例」が幅を利かせるようにしてはいけない。そこが、今回の大きな議題だと思う。

2020年5月19日 いろいろと世論はぐちゃぐちゃしているけれど、ボクは役職定年制には賛成!!

昨日の記事に誤解があったかもしれないので、少しだけ、訂正。ボクは内閣が関与して、恣意的に黒川さんを選ぶことに賛成しているわけではない。決して、そうではない。明らかに検察内部の抗争だよね。林さんをトップに据えたい人と、黒川さんをトップに据えたい人と。稲田さんも慣例を破って退任しなかったわけで、いろんな人の思惑が入り乱れている。恣意的でないはずがない。だから、そこはそこで、別途、議論しなきゃいけない。でも、それはそれだ。

まず、国家公務員法で定年を65歳に引き上げることに、ボクは賛成という立場。その上で、人事院の提案のとおり、役職定年制を導入することにも賛成の立場。ただし、特例で役職定年延長をすることについては、もう少し制限を設けて慎重にすべきという立場。以上、ここまでは、国家公務員法の議論。

その上で、検察庁法について。検察官の定年も65歳にすべきか否かで言えば、今まで国家公務員よりも定年が上だった検察官を63歳のまま据え置いて、他の国家公務員だけ定年を65歳に引き上げるのは、アンバランスなので、検察官の定年も65歳に引き上げる。これは賛成。その上で、人事院の提案の趣旨のとおり、役職定年制を導入することにも賛成だ。組織の新陳代謝は大切。いつまでも老人が組織を牛耳っていてはダメ。だから、検察官だって、役職定年制にすべきだ。ここも賛成。それなら、特例はどうする? 検察だけ、特例は設けないのか。それとも設けるのか。

ボクの立場は、国家公務員法すら特例っていらなくないか、というもの。あるいは特例を設けてもいいけど、条件を厳しくして制限しようよ、ということ。だから、当然、検察庁法の特例も不要か、あるいは制限すべき。だから「#検察庁法改正に抗議します」というハッシュタグではない。言うなれば「#国家公務員法改正の役職定年の特例措置は不要では?」だ。

某議員と何ちゃら石井は「検察庁法改正は延期でいいけど、国家公務員法改正は審議しよう」と言っているらしい。でも、これってセットじゃない? 検察官だけ定年を63歳に据え置いて、他の国家公務員だけ65歳にするの? 今まで他の国家公務員よりも定年が上だったのに? より専門性が求められていて、人材確保が難しかったから63歳にしていたのではなくて? 逆転させちゃうの? 人事院から意見の申出があって、その上で、一緒に考えなきゃって検察庁法も検討してきたんじゃないの? うーん。

2020年5月18日 #検察庁法改正案には抗議しません

巷で検察庁法改正が話題になって、いい意味でも悪い意味でも、勉強を余儀なくされたボクだ。で、国家公務員法と検察庁法を読んでみた。結論から言えば、今回の法改正には何ひとつ問題がない。これが、ボクの結論だ。そして、仮に「内閣が検察の人事に口を出すのは問題だ」というところが論点なのだとすれば、問題にすべきは今回の法改正ではなくて、1月に閣議決定された黒川さんの定年延長の方だ。ちょっと長くなるけど、感じたことを書いてみたい。

今回の検察庁法改正の元々のスタートは国家公務員法の改正だ。平成30年8月に人事院から国会と内閣に対して、国家公務員の定年を60歳から65歳に引き上げるべきとの意見が出された(人事院の意見の申出)。まあ、時代の流れだ。ただ、この意見書の非常によいところは、役職定年制を提案している点だ。単純に定年を引き上げると、重役をお年寄りが担うことになるわけで、組織が高齢化する。中堅・若手の昇進のペースが遅くなるので、組織の新陳代謝を維持するために、役職定年制を導入すべきだと明記されている。60歳を越えても職員として働けるけれど、管理職からは退いてね、ということ。この内容は非常にいい。

ただ、法律はひとつだけで運用されているわけではない。検察庁については、定年を別途、検察庁法で定めているので、検察庁法も国家公務員法に合わせて65歳まで引き上げる。そこで、今回の検察庁法改正に繋がってくる。なので、まずは現行の国家公務員法の「定年」に関する部分から抜粋する。

第八十一条の二 職員は、法律に別段の定めのある場合を除き、定年に達したときは、定年に達した日以後における最初の三月三十一日又は第五十五条第一項に規定する任命権者若しくは法律で別に定められた任命権者があらかじめ指定する日のいずれか早い日に退職する。
2 前項の定年は、年齢六十年とする。ただし、……以下省略……

第八十一条の三 任命権者は、定年に達した職員が前条第一項の規定により退職すべきこととなる場合において、その職員の職務の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分な理由があるときは、同項の規定にかかわらず、その職員に係る定年退職日の翌日から起算して一年を超えない範囲内で期限を定め、その職員を当該職務に従事させるため引き続いて勤務させることができる。
2 任命権者は、前項の期限又はこの項の規定により延長された期限が到来する場合において、前項の事由が引き続き存すると認められる十分な理由があるときは、人事院の承認を得て、一年を超えない範囲内で期限を延長することができる。ただし、その期限は、その職員に係る定年退職日の翌日から起算して三年を超えることができない。

要は、職員は定年になったら退職する。定年は60歳。でも、特別な理由があれば、任命権者は定年を1年未満なら延期できるし、人事院がイエスと言えば、3年未満までは延長できるよ、ということ。そして、国公法改正で定年を65歳にし、役職定年制を導入して、役職定年に特例が設けて延長可能にする、というのが基本的な流れだ。

で、次は懸案の検察庁法だ。関係するところは2か所。

第十五条 検事総長、次長検事及び各検事長は一級とし、その任免は、内閣が行い、天皇が、これを認証する。

第二十二条 検事総長は、年齢が六十五年に達した時に、その他の検察官は年齢が六十三年に達した時に退官する。

現行の検察庁法でも検事総長と次長検事、検事長の任命権者は内閣だ。要するに、内閣が彼らを役につけ、それを解くことができる。だから、検察の人事に内閣が関与する構造は、現行の検察庁法でも同じ。だから、「法改正によって内閣が検察の人事に口を出せるようになる」というロジックは成り立たない。

次に、検察庁法では、定年が他の国家公務員とは異なって、検事総長が65歳、検察官が63歳だ。で、国公法の改正に合わせて、検察官も定年を63歳から65歳まで延長する、というのが今回の改正だ。当然、役職定年制はこちらにも適用されるべきだし、延長の特例措置も、国家公務員法に準じることになる。……というわけで、今回の検察庁法改正によって、内閣がやりたい放題になる、という事態にはならない。

で、冒頭の議論に戻る。仮に「内閣が検察の人事に口を出すのは問題だ」というところが論点なのだとすれば、問題は今回の法改正ではなくて、1月に閣議決定された黒川さんの定年延長の方だ、というところ。

「安倍政権が超法規的に黒川さんの定年延長を決めた」と騒がれているが、国公法では、特別な理由があれば、任命権者は定年を1年未満なら延期できる。一方、検察庁法によれば、検事長の任命権者は内閣だ。黒川さんは検事長であり、63歳なので、通常は定年。そこで、国公法81-③に基づいて、定年延長を閣議決定した。一応、合法と言えば、合法だ。大事なところは、現行の国家公務員法と検察庁法の組み合わせでも、解釈によっては内閣が検察官の定年を延長できるということ。安倍政権はそう解釈して、黒川さんの定年延長を決めた。従って、検察庁法改正の議論と内閣が検察官の定年延長ができることは、議論としては無関係なのだ。

議論すべきは2点で、国公法の81-③を本当に検察官にも適用できるのかという点と、この時期の黒川さんの定年延長が適切であるのかという点だ。検察庁法が改正されようがされまいが、事実、安倍政権は検察官の定年を延長する閣議決定をしたわけで、この閣議決定の是非こそが本来、論じる部分だ。そして、黒川さんの定年を半年延長したことで、彼が検事総長になれる可能性があって、それによって林さんが検事総長になれなくなるかもしれない。だから、黒川さんの定年延長は慎重に議論すべきだった。だから、今回の検察庁法改正に異を唱えても意味がない。というか、黒川さんの定年延長を閣議決定した時点で、国家公務員法の定年延長が検察にも適用できる前例を作った。もはや、今回の法改正なんてどうでもいい。全ては遅きに失したのだ。

最後に、ボクの個人的な意見を述べる。ボクは、定年延長の特例はあくまでも特例であって、基本的にはおいそれと用いない方がよいと思っている。だって、お仕事って基本、ひとりでやるものではない。たったひとりの人が欠けたら動かないお仕事なんてない。「どうしても彼が必要だ」という状況なんてないと思うし、逆に組織はそういう状況をつくらないようにしなきゃいけない。そういう意味では、検察に限らず、全ての公務員において、定年の延長なんてなくてもいいのではないか。そんなことを考える。人はいつか死ぬんだよ。病気にもなる。交通事故だって起こる。突然、明日、その人がいなくなる事態なんていくらでも考えられる。それでも、組織は前に、前に、動いていかなきゃいけない。だから、基本的にはちゃんと引き継いで、時期が来たら後進に譲らなきゃいけない。それが組織の正しい在り方だ。

その意味では、ボクは国家公務員の役職定年の延長の特例措置、もっと慎重に議論して欲しいな、と思う。役職定年制の導入は非常にいいアイディアだ。でも、結局、特例によって、ずるずると慣例のように役付のまま役職定年を延長しかねないな、と思う。定年を延長するのは結構、ハードルが高いけど、役職定年を延長することなら、慣習化してしまいそうだ。だから、若い人たちの活躍の場が奪われて、組織が高齢化する。人生100年時代というのはそのとおりだけど、でも、やっぱり、時代は目まぐるしく変わっていて、価値観も多様化している。経験や熟練の妙も大事だけど、でも、若い発想や若い意思決定が今以上に大事になる。老人が重要ポストに居座るのは好ましいとは思えない。役職定年しても組織には残るのだから、役職定年の延長の特例に大きな制限をかけて、おいそれとはできないような仕組みにして欲しいなあ、と切に思う。そこだけ、もうちょっと丁寧に議論してもいいかな、と思う。

2020年5月17日 マドレーヌ

漢字や足し算のドリルをどんどん先に進めるのも手だが、いざ、学校に行って、授業がつまらなくなるのではないか、と危惧する。だからと言って手をこまねいていると、教育熱心な親の子供が先を行くので、差がついてしまう。それはそれで、息子が苦労するのも癪だ。だから、読書週間をつけて、感受性と好奇心、知識習得の方法を育んでいるところだ。

最近、子供に日記を書かせている。毎日、書くと大変なので、ちょっと新しいことにチャレンジしたときや、大きな出来事があったときに、感じたこと、考えたことを絵日記にしてまとめさせている。今回は「わかったさんのマドレーヌ」を読んだ息子がマドレーヌを作りたいと言い出したので、一緒につくった。それを絵日記としてまとめさせた。

自分の考えを文字化することが習慣になればいいな、と思うし、極力、感情の部分を書くように指導している。でも、感情を言葉にすることは難しいらしく、また、自己開示の部分なので恥ずかしがっている。ちょっと苦手らしい。そんなことが分かった。まあ、まだ子供だから、ね。大体、感情って、本当は複雑で、いろんな気持ちが含まれる。それを、簡単に「楽しい」などと書いてしまうのは、本当は限定的すぎて、間違っている。とは言え、言語化する能力も問われるので。状況を見ながら、緩やかに、訓練だ。

2020年5月16日 芸能人は政治的発言をしてはいけないのか!?

芸能人は政治的発言をしてはいけないのかと今回、ツイートした芸能人が騒いでいる。ボクは、それこそ論点ずらしだと思う。誰が政治的発言をしようと、それは自由だ。ただ、政治的発言はときに右だ左だと振れる。だから、政治的発言は敵をつくるし、批判を受けることもある。その覚悟が必要だ。

たとえば、今回の「#検察庁法改正に抗議します」というハッシュタグは、厳密には「法改正に反対」という非常に狭い領域での抗議だけれど、法案の中身をつぶさに見ながら、この点のこの部分が反対で、こうすべきだ、という議論であれば、それは右だ左だの議論にはならない。ただ「内閣が検察の人事に関与したら日本がおしまいだ」みたいなトーンでツイートしたら、それって、政権批判だと判断されても仕方ない。政権寄りの立場の人には非難される。その中で「もっと勉強しろ」と批判されても仕方がないし、それも含めて「言論の自由」だ。

気を付けなきゃいけないのは、「#検察庁法改正に抗議します」は全ッ然、ポップでも、ライトでもない。でも、何となくTwitterで気軽に発信できて、ポップにライトにつぶやいている印象がある。勿論、主義主張は自由だ。発言も自由。だけど、こういうのは、批判されることも覚悟しなきゃいけない。だからこそ、勉強をするし、真摯に向き合う。そういうものだ。

よく霞ヶ関に行くと、いろんなデモをわーわーとやっている。基本的には、ボクはあんまり関わり合いになりたくないな、と思う。Twitterで政治的発言を繰り広げるというのは、基本的にはそれと同じだ。友人にもTwitterで政治的な発言を好んでする人がいるが、ボクは、ちょっと距離を置いてしまう。特に政権批判の色合いが強い偏った発言の人や、陰謀論、中国・韓国のヘイトなどが相俟ってくると、ちょっと、さようなら、だ。こういうのは、芸能人に限ったことではない。右でも左でも、偏っている発言は煙たがられる。

一時期、facebook上で、自分のアイコンをトリコロールに染めていた人たちがいたのを覚えているだろうか。フランスでテロがあって、これに端を発した出来事だ。でも、シリアやイラクでは無差別に米軍によって市民が殺されていて、そっちの悲惨さをそっちのけ。しかも、欧米グローバリズムとイスラム原理主義の対立構造になっている中で、ほいほいと欧米に加担する姿勢に、ボクはちょっと引いてしまった。そういう「お友達」とはさよならした。そのちょっと後に、LGBTの七色が流行ったときもある。アイコンを七色に染めて「わたし、LGBTへの理解者です!」とPRしていて、それも、ボクとしては気持ちが悪くて「お友達」をさよならした。本当にLGBTと触れ合って、よき理解者として振る舞えるのか。それって、なってみなきゃ分からない。もちろん、LGBTを理解してあげたいと思うし、LGBTを否定するつもりもないんだけど、でも、実際にゲイの人に好奇の目で見られて、居心地が悪くなったりしないのか。

若い頃のボクはひょろっとして髪も長く、中性的な顔立ちだったので、おそらくゲイの人に好かれていたのだと自覚している。mixiで足跡がついていて、飛んだ先は「ゲイ」を自称する人ばかりだった。見知らぬ足跡の3分の1くらいがプロフィール欄でゲイだとカミングアウトしていた。これ、気持ちはよく分かるんだよね。たとえば、ボクもかわいいアイコンの女性を見かけると、クリックしたくなる。お友達になれないかな、と思う。多分、それと同じことだ。でも、当然、ボクは男性から性の対象として見られることには不慣れなわけで、いや、仮に女性からでも、性の対象として見られていると意識してしまったら、それだって好ましいとは感じなくって居心地が悪いんだけど、ボクをクリックした人の大半がゲイだとなると、これはちょっとビビるというか、そういう顔なのかな、と気になるし、あてられた。別に、いいんだ。ボクも美女をクリックする。女性Youtuberだってかわいい人の方がいいし、女性からしたら男性Youtuberだって格好いい人がいい。同じこと。でも、そういう場面で「私はLGBTのよき理解者です! 大賛成!!」とボクは胸を張って言える自信がない。だから、ね。「LGBTの理解者です」というPRは、決して、非難されるものではないんだけれど、「流行」で自分の立ち位置を決めるもんじゃないだろう、と思ってしまう。常に当事者意識を持って、想像して、触れ合って、その中で考えることが必要で、「流行」の中で安易に自分の立ち位置を明確にしてはいけない。Twitterって、そういう要素があるから、ちょっと注意が必要だ。

大体、ボクは意見を述べることは自由だと思うけれど、間違った中身を拡散することは、やっぱり「悪」だと思う。勿論、ボクだって間違う。ファンタジィ事典の内容だって、よくよく精査しているつもりだけど、間違っていることがあるわけで、誰もが完璧なわけではない。だけど、間違わないように慎重であろうとは思うし、そのために確認したり、勉強したり、最低限の努力をする。法改正の賛否の立場はともかく、今回の大部分の芸能人の発言は間違っている。それについては、別途、いつか書こうと思う。反対の立場でも、賛成の立場でもいいけれど、発言には責任を持たなきゃいけない。それは言論の自由とか、職業差別では誤魔化せない。間違ったことは、間違ったと認めて、批判を受けなきゃいけないと思う。

2020年5月15日 ワーカホリックにとってリモートワークは地獄

タイトルのとおりだ。ボクは、かなりワーカホリックな部分があるので、正直、リモートワークが辛い。何だろう。オンオフの切り替えが難しい。ずるずると趣味や家事、育児と仕事が混ざっていくということではなくって、食事をしながら、育児をしながら、家事をしながら、いつでも仕事に戻れてしまう。夕飯を食べて、一段落して、ふと、「あれ、あの資料、どうなっていたかな」などと仕事の資料を引っ張り出して、確認してしまう。お風呂から上がっても、テレビを見終わっても、ちょっとパソコンの前に行くと、すぐに仕事モードになる。ちょっとだけ、ちょっとだけ、と思いながら、あっという間に1時間、2時間、仕事をしている。

本日、同僚から「在宅勤務になって仕事のペース、アップしてません? とてもついていけないんですけど」と言われて、はたと気づいた。そして、どうも、最近、しんどいのは、在宅勤務のせいだな、と思い至った。

最初は、正直、意地になっていた部分もある。在宅勤務が始まると聞いて、みんな、何となく、在宅用の仕事を用意していた。いつもはやらないんだけど、家で勉強したり、クオリティをあげたりするような仕事。でも、ボクは経常業務をそのまんま家に持って帰って、滞りなく仕事を進めなければ、在宅勤務じゃない、と声高に言って、絶対に経常業務を止めないぞ、と意地になっていた。それが、今じゃ、前よりもハイペースで仕事を進めていたらしい。

うーん。もう少し、ちゃんと「オフ」のボタンを押さないといけないなあ。すぐに「オン」には切り替わるのに、「オフ」にしても、すぐに気づくと「オン」になってしまう。難しい。

2020年5月14日 ちゃんとドメイン名を確認してね!?

横浜市の偽サイトが登場したらしく、報道されていた。特別定額給付金がオンライン申請できるので、それを悪用して個人情報を盗み取るのだろう。ドメイン名を確認するように注意喚起しているけれど、少し遅い。こうなることは想定できたのではないか、と個人的には思っている。横浜市が遅いというか、国全体として、ね。そして、横浜市のこの「ドメイン名を確認せよ」という説明も、一般の人には分からないのではないか、と危惧する。

「私、押してちゃったかも? 大丈夫かな?」「リンク飛ぶとき、普通、urlなんて確認しないよね」などと囁き合っている社員が会社にいて、それはそれでビックリしてしまった。その上、「アドレスバーに鍵マークがついているサイトは安全だって聞いたよ?」などと言っている。うーん。全くネットリテラシが不足している。

基本、誰がつくったのか分からないウェブサイトからのリンクは信用してはいけない。常にYahooやGoogleなどで、直接、会社名などを入力して検索してウェブサイトにアクセスする。それを習慣化していないといけない。そういう教育を、ちゃんとしなきゃいけないよなあ、と思う。

大体、アドレスバーに鍵マークがついているのはSSL認証されているだけで、端末から情報を発信するときに暗号化されているということでしかない。ネットワークの中で第三者に盗み見されないという意味では安全だけれど、送り先の端末で暗号が復元されるわけだから、その送り先が信用できなかったら、安全とは言えない。うーん。

2020年5月13日 勉強の仕方と情報の取捨選択の大切さ

息子のツクル氏は今年1年生。だけど、のっけから緊急事態宣言が出されて通学していない。あっという間に4月が終わって、5月になってしまった。多分、5月末までは学校は再開されないのだろう。正直、難しいな、と思う。小学校で最初に学ぶべきことは「勉強の仕方」だ。Amazonで見ていると、ドリルが飛ぶように売れていて、もう入荷時期も未定の状態だ。でも、ひらがなが書ければいいとか、足し算ができればいいという問題ではない。「勉強の仕方」を正しく教えてあげないと、勉強ができるようにはならない。

我が家がボクも妻のちぃ子も在宅勤務で対応しているけれど、でも、勤務時間は文字どおり、「勤務の時間」なのであって、子供と向き合うことはできない。「勉強の仕方」を教えてあげることはできない。だからと言って、ドリルを渡して、彼に独学で勉強させることはできない。ひらがなの練習や、足し算なんかは、彼はできる。でも、変なクセがついたら後で困る。勉強というのは、正しい向き合い方があって、それがお勉強のできるできないの分かれ目だ。ちゃんと、勉強と向き合わせたい。

仕方がないので、ボクは本を大量に買う道を選択した。読書の取っ掛かりとして、「かいけつゾロリ」シリーズを渡して、長い本を集中して読む訓練をさせ、それから、同じくらいの長さの本をひとりで読めるようにする。その後、少年少女文学集みたいなものと、図鑑や百科事典のような類いを渡す。読書の仕方はこれまでに何度も教えてきた。新しい知識の習得、知的好奇心、そして、感受性というものを育める。これなら、ボクやちぃ子が働いている時間に、彼だけでもやれるだろう、と期待してのことだ。

最近は「恐竜」に興味があるみたいだったので、学研LIVE、講談社MOVE、小学館NEOの3冊を準備した。「動物」や「植物」、「魚」だってそうだ。いろんな学説があって、正解はひとつでない。同じ恐竜でも、本によって書いてあることが違う。比較・検討する姿勢を学ばせようという意図だ。本によって書いてあることが違うので、最初は混乱していたが、彼なりに取捨選択して情報を精査することができるようになってきた。

2020年5月12日 #検察庁法改正案に抗議します

検察庁法改正が話題になっている。それ以上にこれに関する芸能人のツイートが話題になっている。そして、その延長線上で「芸能人は無知だ」という差別に対して芸能人が怒っている。

ボクは必ずしも「芸能人が無知だ」とは思わない。ただ、今回、どうして切り口が「検察庁法改正」だったのだろうか、という点だけはちょっと疑問だ。いろいろと賛成・反対の意見を表明する機会は過去にモあった。もっともっと、自分の生活に密着した分かりやすい論点もあった。それなのに、この難解な法案に噛み付くのは、一体、何故なんだろう。多分、その違和感が根底にあって「芸能人のクセに」的な雰囲気になっている。

ボクは、正直、ここまで話題になるまで「検察庁法改正」がよく分からなかった。もしかしたら、今でも分かっていない。そもそも、内閣と検察が仲良しこよしで「あいつ、気に入らない! とっ捕まえろ!」という世界を想定すればいいのか、はたまた、検察の権力が強過ぎて内閣ですらコントロールできない世界を想定すればいいのか。この匙加減が分からないから、どちらの議論に与すればいいのかが分からない。多分、一般人の普通の感覚って、そんなもんだ。それなのに「検察庁法改正案に抗議!」というハッシュタグで、政府と対峙する芸能人に対して、ボクたちはどのように取り扱っていいのか分からないのだ。

ボクは、実は「ステイホーム」の運動に与していない。勿論、緊急事態宣言下だから、不要不急の外出はせず、家には留まっている。でも声高に「ステイホーム!」と声をあげていない。だって「ステイホーム」によって困る業界がいることも理解しているからだ。外に出張ってきてくれないと商売がなり立たない業種の人たちはたくさんいる。「ステイホーム」の掛け声は、そういう業種の人々を無視し、蔑ろにする。たとえば、Yoshikiが椎名林檎をバッシングしたときも、一部ではYoshikiが称賛されていたが、ボクはYoshikiの発言には批判的だった。独善的で、ホリエモンの言うとおり「弱いものいじめ」に見えた。あのときは緊急事態宣言も出されていなくて、あくまでもお願いベースの自粛だった。各人に判断が委ねられていた。椎名林檎の事務所が小さいかどうかは知らないが、もっとずぅっと小さな弱小事務所は苦しかったはずだ。力のある人間がああやって発言して、弱小事務所を追い詰めたはずだ。強い人間が、弱い人間を無視して理想を唱えても、それが飲める人と飲めない人がいる。

物事はそんなに単純じゃない。それが分かっている人は、おいそれと自分の立場を明確にはしない。怖くてそんなに簡単には自分の立ち位置を表明できない。そりゃあ、政治家とか物書きは、自分の立場や考えを明確にすることがお仕事だから、どちらかに立つ覚悟を決めて立つ。責任も背負う。だからこそ政治家なのであり、物書きなのだ。芸能人は、必ずしもそういう職業ではない。もちろん、反骨精神溢れて、政権に石を投げつける素敵な芸能人がいてもいい。でも、仮にそうであるなら、立ち位置を明確にする覚悟が必要だし、発言の先にあるリスクも把握するべきだ。

ボクも、たまにこういう難しい記事を書く。書くときには、批判されることも覚悟する。それに、本当に自分の意見が正しいのか、常に迷っている。覚悟なき発言は無責任だし、やっぱり頭が悪いと思われても致し方ない。ボクは、検察庁法改正については、ちょっと立ち位置を表明できる状況にない。勉強が足りない。よく分からない。だから、これから勉強しようと思う。でも、現時点では、よく分からない。

2020年5月11日 予言獣、今昔!?

「アマビエ」の絵とか「ヨゲンノトリ」の絵を楽しく描きながら、一方で、ウェブサイト「ファンタジィ事典」にはその類いの記事を載せていない……片手落ちのボク(笑)。まあ、「ヨゲンノトリ」なんて、山梨県立博物館に掲載されていることが全てなので、取り立てて項目立てすることではないんだけど、「アマビエ」については、いろいろと複雑な歴史があったりするので、載せてもいいのかもしれない。

元々、予言獣というのはいろいろある。もっとも古いのは「神社姫」とか「姫魚」みたいな人魚タイプで、龍宮からやってきて、疫病を予言して「自分の写し絵を崇めれば助かる」的な妖怪として大流行した。最も古い記録は19世紀初めの加藤曳尾庵の『我衣』という随筆で、1819年に肥前国(長崎・佐賀)で目撃されたらしい。1850年頃に、越後(新潟)でも似たような人魚が出現して疫病を予言したという。日本の人魚は、ヨーロッパの上半身が美女という素敵な姿とは違って、全身が魚で人間の頭だけが前についている。そして角がはえている場合が多い。いずれにしても、こういう人魚タイプの予言獣が、コロリ(コレラ)の流行とともに、江戸に広まった。

「クダン」という予言獣もいる。「クダン」あるいは「クダベ」は全身がウシで、人間の頭がついている。この予言獣は、ウシから生まれて、突然、人間の言葉を喋り、災難を予言する。最古の記録は1827年だ。「クダン」の場合は疫病だけでなく、戦争や飢饉、災害なども予言する。そして写し絵が魔除けとして有効だ、というわけである。すでに江戸時代の人によって「こんなのは神社姫のパクりだ!」と看過されている。一方で、水木しげるが中国の妖怪「白澤」との関連を指摘している。「白澤」もウシのような偶蹄目の四足獣の身体に人間の頭がついていて、人語を話す(中国では必ずしも人の頭ということではないけれど、日本では人の頭がほとんど!)。予言獣というわけではないが、あらゆることに精通している。黄帝は海辺で白澤と遭遇し、あらゆる「妖怪」の類いについてに、その対策を伝授してもらった。黄帝がそれを部下に記録させたとする書物が「白澤図」で、まさに妖怪対策マニュアルの様相を呈している。そこから、厄除けとして「白澤」の絵を用いることが流行した。ある意味では、「クダン」は人魚パターンの予言獣と「白澤」を組み合わせたような妖怪と言える。

「アマビコ」(アマビ『エ』ではなくてアマビ『コ』!!)という妖怪も知られる。これは3本足のサルの妖怪で、豊作と疫病を予言して、写し絵を広めることで長寿が得られるという。最古の記録は1843年で、以降、日本各地に広まる。江戸時代末期、そして明治など、コレラが流行するたびに、3本足のサルの絵が疫除けとして流行した。

そして、ここで「アマビエ(アマビヱ)」に至る。「アマビエ」の登場は1846年。肥後国(熊本)に出現したという。実は、「アマビエ」の出現はこの1回っきりだ。でも、その絶妙にヘタウマな写し絵と、水木しげるが独特の色合いで描いたこと、ゲゲゲの鬼太郎シリーズに登場したことなども相俟って、非常に有名になった。そして、すでに察しのいい方は分かったと思うが、「アマビコ」と「アマビエ」は名前が非常に似ている。「コ」と「ヱ」を間違えたのかもしれないし、あるいは作者が意図的に読み替えたのかもしれない。その辺はよく分からないが、名前と3本足という側面は「アマビコ」の要素を残し、一方で、人魚パターンも採用している形になる。

なお、「ヨゲンノトリ」は1858年に記録されている。文章の表現などを見れば、明らかに人魚パターンと3本足のサルパターンなどの予言獣の流れを汲んでいるはずだが、何故、首が2つで白黒のカラスの絵に至ったのかはよく分からない。

いずれにせよ、疫病や災害などで不安な世相に合わせてこういう「写し絵」を販売する商法なのかな、と思う。今回も、Tシャツやストラップに描かれて販路に乗っていく流れが出来上がっているわけで、そういう形で広まっていく意思を持った妖怪と言える。

2020年5月10日 疫病退散ッ!!!

「世界の妖怪」研究家として、やっぱりブームには乗っかっておいた方がいいよね。……ということで、前に描いていた「アマビエ」に彩色して、ツイッターに載せてみた。ちなみに、みんな、アマビエに手を描いているんだけど、元の絵には手はないんだよね。人魚だもんね。その辺、リアルにやってみたんだけど、どうだろう。色は……どうしても水木しげるの色に影響されるよね。ただの青にしようかとも思ったし、それもやってみたんだけど、でも、最近のアマビエ祭りで、このパステルっぽいカラフルな色で塗っている人が案外、多いので、もはや、そちらが「正」なのかなあ、と思って、敢えて、その色合いに寄せてみた。さてはて。

併せて、最近、巷で流行り(?)の「ヨゲンノトリ」も描いて、これもツイートしてみた。資料には明確に「カラス」と書いてあるのにインコやワシみたいなのが多いので、ボクは原点に忠実に「カラス」で描いてみた。思いの外、立体感がある絵になったなあ(笑)。

2020年5月9日 「型」

ボクは自由奔放に生きている人だと思われている。確かに、B型を免罪符にやりたい放題の部分はある。「妖怪が好き!」と公言しているし、年始には「近況報告の本」などと言って、年賀状の代わりに雑誌を送りつけているし、日常的に絵を描いたり、曲をつくったり、小説を書いたり……。今回だって、仕事用に動画をつくってみたり。一見、自由奔放に生きているように見える。でも、こう見えて、実はボクは「型」を大事にしている。何をやるにも、まずは先人たちの知恵や経験、ノウハウを調べる。

今回も、職場で在宅勤務が始まると聞いて、真っ先にリモートワークに関する本をいくつか買って、それを読んでいる。当たり前のことだけれど、仕事はチームワークだ。それをリモートでどうやって担保するか。たとえば、何でもない「雑談」の中から解決策が閃くときがある。あるいはチームとしての一体感や連帯感、信頼関係をどうやって確保するか。そういう小さいことも、すでにリモートで働いている経験者がいて、本にしてくれているのだから、まずはそういう情報を集めてみる。それがボクの生き方だ。

我流というのは、格好いいようでいて、うんと才能を必要とするし、自分なりの道を見つけるには時間が掛かる。絵を描くことも、ギターを弾くことも、ピアノを弾くことも、文章を書くことも、PowerPointをつくることも、人前で発表することも、在宅勤務をすることも、そして、歩くことや息を吸うことにだって、全部、ちゃんとノウハウやテクニックがある。そういうのを、丁寧に「型」を知って取り組む方が、全てにおいて確実だし、早道である。……ホントだよ?

2020年5月8日 動画作成なう

新型コロナウイルスによって働き方は変わる。たくさんの人を会議室に集めた説明会みたいなものは当面できない。だから、説明用の動画を作成することにした。

久々にAdobeのPremiereを立ち上げて、動画を作成している。大昔、結婚式のプロフィールヴィデオを作ったり、結婚式のダイジェストVTRを作ったときの感覚を、緩やかに思い出す。あー、そうか。こうやって動画って作るんだったなあ。

結局、ボクはどこまでもクリエイターなのだなー、と痛感する。こうやってクリエイティヴなことをしているとき、作業に没頭して、食べることとも寝ることも忘れてしまいそうだ。ちぃ子に「いい加減に寝るよ」と叱られて時間を知る。

2020年5月7日 ヨゲンノトリ!?

アマビエに続いて、ヨゲンノトリなるものが登場。面白いな、日本人。ヨゲンノトリは、知らなかった。でも、こうやってブームになって消えていくというのが日本人の日本人たる所以なので、いいんじゃないかな、と思う。ツマラナイ記事よりも、こういうバカみたいなことの方が楽しい。

どちらかというと、二番煎じな感じがするし、ブームとして仕掛けようとする空気は感じるし、「我らの姿を朝夕に仰げば難を逃れられる」よりも「その姿を絵に描いて流布すると疫病がやむ」の方がオンライン社会との親和性が高そうだし、キャラデザの特異性から言ったってアマビエの方が明らかに「出来」がいい。

でも、それでも、こういうお遊びに興じれるところが、とても楽しいので、よいと思う。みんな、どんどんやれ!!

山梨県立博物館:http://www.museum.pref.yamanashi.jp/

2020年5月6日 個人情報過多では?

新型コロナウイルスが猛威を振るって、人々は殺気立っているらしい。感染を確認したにも関わらず、山梨県から高速バスに乗って帰ってきた女性を特定班が特定して名前も職場も顔も晒している。

このご時世だから、彼女を擁護することは難しい。味覚と嗅覚がおかしくなった時点で、バーベキューに行くのを取り止めることが最初の決断だっただろうし、ちょっとズルいのかもしれないけれど、東京に帰ってくるまでは何が何でもPCR検査を受けないという選択肢もあった。検査結果が出て、東京に戻るのを止めるのも決断だったし、虚偽の申請をしないで正しい申告をすべきだった。いずれにしても、いろいろな段階で選択を誤っている。

ただ、ボクが一番、感じるのは、個人情報保護を重んじる自治体が、新型コロナウイルスの議論のときだけ、どうして個人情報への配慮を怠るのか、という点だ。マスコミの報じ方もそう。たとえば、年齢。年配者が掛かると重篤化するとか、いやいや若い人も重篤化するなど、議論のためには、情報として「年齢」は重要だ。感染者の移動経路や行動も、濃厚接触者特定のためには必要だし、注意喚起が必要だ。それは分かる。ただ、「山梨から東京に高速バスで帰った20歳代の女性」というのは、非常に個人情報過多だ。本来、年齢、性別、移動経路などは切り分けて発表することもできる。1件案件ごとに詳細を報告するのはなく、年齢や性別、持病の有無などは統計的に処理をすればよい。累積で積み上げていって、誰が誰だか分からなくする工夫はできる。そして、注意喚起のために移動経路や行動を報告すればいい。たとえば、今回の件で言えば「山梨から統計に高速バスで移動した感染者が1名」という事実のみを発表し、年齢、性別などは伏せておいて、統計資料の中で女性を1名、20代を1名、追加すればいい。

こうやって、個人情報の塊を次から次へと発表して、感染者を負い込んでいくから、虚偽申請をしたり、感染が疑われるのに黙って我慢してしまったりする。うっかりPCR検査だって受けられない。ここに、問題がある、とボクは感じている。配慮が足りない。