2024年6月7日 666には間に合わず(>人<)
ソロモン72柱の「ベレト」を描いてみた。詳細はウェブサイト「ファンタジィ事典」のベレトを参照にしてもらえればいいのだけれど、今回、ラテン語の『悪魔の偽王国』のボリュームが多くて、翻訳に苦労した。英語の『ゴエティア』も結構、分かりにくさはあって、フランス語の『地獄の辞典』も『悪魔の偽王国』を参照しているはずなのに、かなり端折った感じになっていて、時間を要してしまった。
本当は、ね。令和6年6月6日が「666」になるので、その「獣の数字」に合わせてソロモン72柱の悪霊をひとつ更新したくて準備をしていた。でも、何やかんやで結局、1日遅れになってしまった。クッソゥ。
ベレトの場合、他の悪霊たちとは違って、ルイ・ル・ブルトンの元絵がないので、自由に描くことができるが、それはそれで難しさはある。特にベレトについては『悪魔の偽王国』や『ゴエティア』の中に外見や風貌に関する記述がなくって、蒼ざめたウマに乗っていることくらいか記述がない。
ちなみに「蒼ざめたウマ」と言えば、キリスト教の世界では『ヨハネの黙示録』の四騎士を連想するはずだ。支配(白いウマ)、戦争(赤いウマ)、飢饉(黒いウマ)、そして死(蒼ざめたウマ)をそれぞれ象徴している。「蒼ざめた」というのはギリシア語では「緑」ということなので、今回、ウマの色は緑色と灰色の混ざったような色にしてみた。また、蒼ざめたウマを駆っている人物は死の象徴ということで、しばしば死神みたいに描かれる。死神は黒いローブをまとった骸骨っぽいイメージなので、今回、赤黒いローブに身を包んだ骨張った悪霊にしてみた。前を先導するネコとネズミは『地獄の辞典』の絵をそのまま援用している。
そんなわけで、ボクなりのベレトになっている。さあ、次はプルソンだなあ。プルソンはプルソンで、文章そのものは短いんだけど、訳しにくいと言えば訳しにくいんだよなあ。「aerial」がどういう意味なのか、解釈は人それぞれで、訳しにくい。でも、まあ、頑張ろう。
2024年4月6日 フィリピンからタイに徐々に移行!?
ウェブサイト「ファンタジィ事典」にケルト神話がないというのに気づいて、大慌てで準備して、ようやく、ケルト神話の項目を掲載し始めたボクである。それから、タイの妖怪も精力的に追加してみている。フィリピンの妖怪に続いて、タイの妖怪の絵も描いてみたいと思っているから、まずは項目を準備して、頭の中を整理しておこうと思っている。
フィリピンの妖怪も、もちろん、まだまだたくさんいるので、引き続き、調査して掲載していきたいんだけど、でも、元々、マニアックなところで、さらにマニアックなところに踏み込んでいきすぎると、あんまりよくない。フィリピンにおいてメジャーなところをある程度押さえたら、そこで一度、線引きをして、そこから先は緩やかにして、別に国の要所を抑えた方が、きっと事典として広がりがある。次はタイの妖怪をターゲットにしてみようかな、と思っている。
タイの妖怪は、でも、タイ語なので、フィリピンの英語とは違って、なかなか難しさはある。今は便利な時代で、タイ語であろうがミャンマー語であろうが機械が翻訳してくれるんだけど、英語のサイトと違って、タイ語のウェブサイトだと、絞り込みが難しい。英語だったら、妖怪の名称に加えて、「現地の姿」とか「神話」とか「イラスト」とか、それこそ、いろんなキーワードをつけて情報の精度を上げていけるけど、タイ語だとそういうところに難しさがある。それこそ、googleで上がってきたら、上から順にみていくしかない。それでも、まあ、機械が訳してくれるので、いい時代にはなったと思う。
2023年10月16日 アイルランド神話、始めました。
2009年からウェブサイト「ファンタジィ事典」を運営してきたボクであるが、実は最近になって、ケルト神話に一切、触れていないことに気がついた。大抵、世界の神話を挙げていけば、5本の指にケルト神話が入ってくる。日本神話は当然として、ギリシア・ローマ神話、北欧神話、ケルト神話、メソポタミア神話、エジプト神話、そしてインド神話なんかを解説するはずだ。それなのに、当ウェブサイトでは、どうしたことか、ケルト神話がすっかりと抜け落ちている。
正直、若かりし頃のボクにとって、ケルト神話って難解だったのだ。資料に乏しく、断片的で、だから、何となく敬遠していたのは事実だ。そもそも一言でケルト神話と言っても、「島のケルト」と「大陸のケルト」で全然、内容が違うし、「島のケルト」の中だって、アイルランドとウェールズで異なっているのだ。
それから、古アイルランド語の正しい発音が難しくて分からなかったというのも大きかったと思う。どういう呼称で固有名詞を立項していくか悩んでいたら手が止まってしまった。
そして、当時の気持ちのまんま、すっかり忘れてしまっていたのだ。そんなわけで、まずは緩やかにアイルランド神話をまとめていかねばと、重たい腰を上げた次第。とりあえずケルト神話のページを立ち上げて、項目をゆるゆると作成中。
2023年8月13日 ピーツピ・ジジジ
YouTube「ゆる言語学ラジオ」を日常的に楽しんでいるボクだが、遂には動物語に手を出したようで、シジュウカラ語について学ぼうという回が公開された。
シジュウカラ語で「ピーツピ」は《警戒せよ》、「ジジジ」は《集合せよ》という意味で、それぞれ別の語彙として、それぞれの場面で使われるらしい。たとえば、危険が迫っていれば、「ピーツピ」だけで単独で用いられるし、餌があるときに「ジジジ」と鳴いて仲間を集めることもあるらしい。
その上で、シジュウカラ語には「ピーツピ・ジジジ」という複合語もあって、これは「敵がいるので隊列を組んで威嚇行動をとれ」という意味になるらしい。シジュウカラたちが集まって、隊列を組んで、高速で羽ばたいて、モズなどの敵を威嚇するらしい。
「ピーツピ」と「ジジジ」を録音して、モズのような鳥の模型を用意して、「ピーツピ・ジジジ」と音声を流すと、威嚇行動をとる。しかし、「ジジジ・ピーツピ」の順番だと、シジュウカラは威嚇行動をとらないのだという。つまり、語順がとても大事ということだ。
シジュウカラがシジュウカラ語を話すように、シジュウカラの仲間のコガラという鳥も、コガラ語があって、《集合せよ》は「ディーディーディー」という鳴き声なのだという。そして、シジュウカラとコガラは、ときに「混群」と言って、一緒に群れをつくって行動をするらしく、シジュウカラたちは、コガラ語もちゃんと理解して、連携しているのだという。
ルー大柴のルー語(寝耳にwaterや藪からstickなど)に着想を得て、試しにシジュウカラの「ピーツピ」とコガラの「ディーディーディー」を組み合わせて、「ピーツピ・ディーディーディー」と流してみると、シジュウカラたちはちゃんと威嚇行動に移ったという。つまり、シジュウカラはルー語のような日本語と英語を組み合わせた造語(この場合、シジュウカラ語とコガラ語の組み合わせ)をちゃんと理解できるということになる。
そんなわけで、動物言語学という新しい学問が出来上がったという話である。面白いので、是非、ご視聴あれ。
2023年5月31日 バナナはおやつは入りますか?
息子のツクル氏が学校のイベントで、1泊2日の宿泊体験に行く。その準備を手伝っていたら、しおりの持ち物に「おやつ」が書いていない。「おやつはないの?」と聞いたら「そんなのないよ」と言われた。ないらしい。時代だろうか。「遠足にはおやつでしょ?」と言ったら、キョトンとされてしまった。やおら、「遠足じゃないから。宿泊体験だから」とツクル氏。「え? 宿泊体験だって遠足でしょ?」とボク。そうしたら「違うよ。遠足は泊まらないでしょ。ボクたちは一泊するんだよ?」と笑われた。えー、そうなの? 一泊したら「遠足」じゃないの?
そこで、我が家の辞書で調べてみる。まずは愛すべき「新明解国語辞典」より。
えん そく0⃣ヱンー【遠足】ーする(自サ)〔見学・運動などのため〕教員が児童・生徒を引率して、交通機関をなるべく利用しないで遠くへ行くこと。
となっている。「交通機関をなるべく利用しないで」とわざわざ書いてある。続いて「三省堂国語辞典」より。
えん そく[遠足]《名・自サ》〔見学・運動のため〕<歩いて/日帰りで>遠くへ行くこと。
なるほど、こちらも「歩いて」という点が強調されているので、新明解くんの「交通機関をなるべく利用しないで」とニュアンスは近い。そして「日帰りで」というのも明記してある。うーん。
それならば、みんな大好き「広辞苑」ではどうか。
えん-そく ヱン‥【遠足】①遠い道のりを歩くこと。また、日帰りできるくらいの行程を歩くこと。誹風柳多留49「―の達者二人で六郎兵へ」。福沢諭吉、福翁百話「強壮に誇る若紳士の仲間には、游泳競漕―等の大挙動なきに非ざれども」②学校で、見学・運動などを目的として行う日帰りの校外指導。<[季]春>
やはり「足」がつくだけあって、「歩く」という点が大事らしい。「日帰り」とも書いてある。そして、春の季語であるらしい(笑)。なるほど。
以上から、ツクル氏が正しいことが分かった。遠足はあくまでも「歩いていく」ことが原義であって、日帰りの範疇でやるものらしい。だからって「おやつ」はないわけじゃないと思うのだけれど……。さてはて。
2023年5月25日 「本日は休肝日をお休みします」
最近、妻のちぃ子が体調を崩していて、原因不明の頭痛に悩まされている。背中が凝り固まっていて、マッサージすると解消するので、血流がよくないのかもしれない。
そんなこんなで、日々の晩酌を取りやめて、休肝日にしていた。ところが、先日、「本日は休肝日をお休みします」と言って晩酌を始めた。あまりにも面白い表現に笑ってしまった。アルコールを節制して、肝臓を休める日なのに、それを休むというのだから、休むことを休むという不思議な構造の表現になっている。
言葉の面白さについつい記事にしてみたよ、というだけの話。
2023年4月27日 「えーっと」と「あのー」はどう違うのか。
YouTubeの「ゆる言語学ラジオ」のパーソナリティのお二人が『言語沼』を4月に出版したので、早速、読んでみた。
いつものラジオの軽妙な会話が忠実に再現された対話型の本で、推敲されているので、無駄がなくてキレキレである。文体はゆるく書かれているし、難しくないけれど、よくよく読むと、「連濁」「アニマシー(生物性)」「音象徴」「フィラー」「調音点」「オノマトペ」「格助詞」など、実はがっつりと言語学っぽい内容でまとめられている。それを聞き手の堀元氏がちょいちょい難解な雑学を放り込みながら、面白おかしく茶化しながら進行していく。
純粋に「言語学って面白い」という読後感が残るので、とてもよい。是非、おすすめの1冊である。
2022年2月7日 鼎談
今日、業界新聞を読んでいたら、「鼎談」という語が出てきた。何だろうな、と思って調べたら、二者だと「対談」、三者だと「鼎談」だと書いてあった。「鼎」が三本足の器だから、三者が会談することを「鼎談」というらしい。へえ。知らなかった。知らないことってたくさんあるなあ。三者だから「鼎談」というのは、語源的にはちょっとお洒落だし、三者のためだけに言葉が割り振られている事実が、とても面白い。でも、あまりにも限定的な意味の言葉だから、きっと廃れていくだろうなあ。こういうお洒落な言葉は残しておきたいなあ、と思ったので、こうして微力ながら、「日々の雑記」に記して、オンライン上に記録を残していくスタイルであることよ。
2021年10月8日 fantasyはファンタシィ!?
ボクがウェブサイト運営を始めたのは2003年。大学生活の傍らで創作サイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」を立ち上げた。元々、大学の授業の一環でhtmlを学ぶ機会があり、そのまま、ウェブサイトの作成に没頭した。当時の日本では、まだ大手のウェブサイトは少なくて、大学に行けば「昨日の侍魂の記事、見た?」みたいに、ある程度、みんなの中で共通認識になるようなウェブサイトがあった。その後、2004年にサイト内のコンテンツのひとつとして「ファンタジィ事典」の構築に着手した。創作は時間が掛かる。ボクは音楽や絵は量産できないタイプなので、どうしても小説を書く方面に力を入れていたが、それだって、月に1本。それだけではウェブサイトとして成立しないので、日々の雑記で更新頻度を上げつつ、その傍らで、次第に創作活動から神話・伝承に軸足を移していった。そして、2009年に「ファンタジィ事典」を「ヘタっぴなアルコール蒸留」から分離した。2017年に大幅リニューアルを敢行して、現在に至る。
というわけで、実のところ、2004年からウェブサイト「ファンタジィ事典」をやっている。「ファンタジー」ではなく「ファンタジィ」なのは、「y」をカタカナ化するときに何となく「ィ」にすると格好いいと思ったからで、大学生の頃の若気の至りではある。でも、今でもそのまま「ファンタジィ」の表記でやっている。まあ、「ファンタジー事典」では、あまりにも一般名詞っぽいので、「ファンタジィ事典」にすることで、ちょっとした固有名詞感が出てよいかな、とも思っているんだけど、でも、最近のGoogleは賢いので、「ファンタジィ」でも「ファンタジー」でも、ほぼ同じものとして認識しているようで、「ファンタジィ」という表記で差異化を図っても、検索上、何も有利に働かないらしく、ちょっと頭の痛い問題ではある。
さて、本日の本題である。タイトルのとおりだが、英語のfantasyは、実は【ˈfæntəsi】と発音するらしい。つまり、ファンタシである。「ファンタジィ」でも「ファンタジー」でもなく「ファンタシ」だ。そりゃあ、そうか。「s」だもんね。たまたま、ファンタジィという概念について整理していて、本日、発見した。いやはや。ファンタシィか。でも、もはや日本語としては「ファンタジィ」の方が定着してしまっている。
2021年4月12日 「漢字『聞』の耳の形」問題と「漢字『聞』の部首」問題!?
息子のツクル氏が「チャレンジタッチ(進研ゼミ小学講座)」をやっている。結構、算数なんかはスラスラとやるが、国語、特に漢字は苦戦していて、いつもマスコットキャラクターのコラショに「ざんねんっ!!」と言われている。どうやら、お手本の漢字の模写をするというのが苦手のようだ。今日は「聞」という漢字で、「あれれー、形が違うよー」とコラショに言われていた。でも、何度やってもうまく書けないようで、いらいらし始めて、最終的には激怒した。だから、途中で「一緒にやろうかー」と割って入った。そして、ビックリした。「聞」という字は「門」と「耳」の組み合わせだと思っていたら、「耳」の形は、5画目の横棒が6画目の縦棒を突き出さないらしく、厳密には「耳」とは形が違う。ツクル氏は「門」に「耳」と思って書いているから、何で「あれれー、形が違うよー」と言われているのか分からずにイライラしていたらしい。そうかー、ボクも知らなかった。「耳」とは少し形が違うのだ。
……というわけで、漢字辞典で調べようとして、「聞」を「門部」で探したら見つからず、実は「聞」は「耳部」だった。本日、2度目のビックリ。「問」も「門部」ではなくて「口部」だった!! へえ。世の中、知らないことばっかりだ。
その後、いろいろとリサーチしたので補足説明をしておくと、漢字には「意符」と「音符」があって、字のとおり「意味を表わす部分」と「音を表わす部分」がある。「聞」の場合には「耳」は「意符」で、「門」は「音符」だ。「ぶん」とか「もん」という発音は「門」で表現されている。そして、部首というのは、基本的には「意符」の方で分類するのだそうだ。だから、「閂」とか「開」、「閉」みたいに「門」に意味があるときには「門部」になるけれど、同じような形でも、「聞」とか「問」のように「門」が「音符」として用いられているときには「門部」ではなくて「耳部」や「口部」に分類される形になる。
ちなみに「聶」とか「囁」は「耳」が3つついているけれど、上と右下は「耳」だけど、左下はやっぱり5画目の横棒の払いは6画目を突き出していない。同じ「耳」なのに、形が違うんだなあ。
2021年4月11日 「#マリエさんに連帯します」とはどういう意味!?
「#マリエさんに連帯します」というハッシュタグが話題になっている。内容そのものについては8日の記事で書いたが、そもそも「連帯する」とはどういう意味なのか。「連帯」という言葉そのものは「連帯責任」とか「連帯保証」みたいな場面でよく使う。あるいは「連帯感」みたいな言葉もある。でも、「連帯する」という動詞の形では、あんまり使わない。少なくとも、ボクは使ったことがなかったし、「マリエさんに連帯します」という言葉が明確に何を指すのか、よく分からなかった。思わず、辞書を開いてしまった。
れんたい【連帯】ーする(自サ)二人以上の人が協力・提携して事に当たること。「ー責任・ー保証人・ー感・ー意識・ーストライキ」(『新明解』より)
れん-たい【連帯】 ①むすびつらねること。連繋。「ーを強める」「ー感」 ②二人以上が連合して事に当たり同等の責任を帯びること。「ー保証」(『広辞苑』より)
れん-たい【連帯】 (名)スル (1)お互いが,結びついていること。気分が一つになっていること。「―感」 (2)二人以上の者が共同で責任をとること。「―して債務を負う」(『大辞林』より)
『大辞林』は、少しハッシュタグの意味に通じるかもしれない。気分が一つになっていること。つまり、「マリエさんと気分をともにします」という感じだろうか。
Google先生に「連帯する」で尋ねてみても、今回の騒動の件と、いくつかの本のタイトルと英語の訳くらいしか引っ掛からない。もしかしたら、何かの訳語なのかもしれない。solidarityが連帯と訳されていて、これが団結とか結束みたいな意味で使われているので、もしかしたら、こういう運動のときに賛同するイメージで、何か外国語があって、それを訳しているのかもしれない。
いずれにしても、そういう明解じゃない言葉がハッシュタグになって巷に出回っていることが不思議な感じ。みんな、意味が分かって使っているのだろうか。
2021年3月3日 英語ができる人が羨ましい。
英語は昔っから苦手だ。学生時代、体育の次に苦手だった。基本的には、ボクは訓練が必要な科目は苦手なことが多く、子供のときから、九九を覚えるとか、公式を覚えるとか、地名や年号を覚えるみたいなことには意味を見い出せなくて、結果、得意ではなかった。その意味では、英語も、英単語を覚えるとか、文法を覚えるということに興味が湧かなくて、畢竟、苦手な科目になった。結局、本質的には努力家ではないのだ。センター試験で200点中、130点くらいだった記憶がある。
でも、さすがにずぅっと海外を飛び回っていたので、今ではその苦手意識も大分、薄れてきた。それでも、得意ではないな、と感じる。会話はできる。相手に何か言われたときに、即座にレスポンスすることも、言い合いをすることもできる。だから、今のところ、業務上、不都合はない。でも、文法は滅茶苦茶だし、細かいニュアンスは伝えられないな、というのは常に感じている。おそらく、公式の場で、ちゃんとしたスピーチをしろ、と言われると、ちょっと不適切だろうな、と思う。あくまでも、現場レベルの会話ができるだけだ。
本日は、南アフリカの方々とテレビ会議をした。ボクが体調を崩していたところもあって、準備にあまり携われていなかったので、後輩に資料作成、ファシリテーションを全部、託した。彼はTOEIC満点で、帰国子女なわけだけど、流暢だ。相手との会話のキャッチボールも淀みなく、時折、ジョークも飛ばし、和気藹々と議論が進行していく。やっぱり、こういうことだよなあ、と思う。細かいニュアンスも敏感にキャッチできるし、何より、相手側にストレスがない。
勿論、語学力が全てではない。英語が得意だからオールオッケィということではなくて、普段から日本語でちゃんとコミュニケーションがとれない人は、英語でもとれない。今回の場合、彼は日本語においてもちゃんと頼れる後輩で、信念もあるし、同じヴィジョンを共有して仕事ができている。日本語でも論点も明確に伝えられるし、交渉も任せられる。その上で、英語ができるということがとても大事なのだけれど、心の底から、ああ、敵わないなあ、と思った。やっぱり、英語ができるっていいなあ、と。
一朝一夕にはできるようにならない分野はいくつかあるが、英語もそのひとつだ。学生のときに、ちゃんとやっておけばよかった、と思う。
2021年3月2日 ベヒモスは《カバ》でレヴィアタンは《ワニ》であるという不都合な真実
久々にゆっくりと休んで、ウェブサイト「ファンタジィ事典」を更新。ベヒモスとレヴィアタンを更新した。
ベヒモスが旧約聖書『ヨブ記』に登場することは有名だけど、じゃあ、『ヨブ記』を読んだことがあるのか、というと、読んでいない人が多いのだろう。でも、今はインターネットで何でも読める時代だ。Wikipediaの「ベヒモス」を見れば『ヨブ記』40章15-23節に登場することが分かる。そして、今度はWikipediaの「ヨブ記」に飛べば、Wikisourceで日本聖書協会の『明治元訳旧約聖書』(1953年)と『口語訳旧約聖書』(1955年)が引っ掛かる。従って、聖書を持っていない人でも、実は『ヨブ記』は読める。
というわけで、『ヨブ記』の40章15-23節を読むと、どちらにも「ベヒモス」は出てこない。実は「ベヒモス」はどちらも《河馬》と訳されている。ちなみに41章1節には「レヴィアタン」が登場するはずだが、これも「わに」あるいは「鱷」となっていて、「レヴィアタン」は出てこない。
ちなみに、ちょっと英語が出来れば、簡単にヘブライ語の『ヨブ記』を引っ張り出すこともできて、そこにはちゃんと「ベヒモス(בְהֵמוֹת)」も「レヴィアタン(לִוְיָתָן)」も出てくる。要するに、現在では「ベヒモス」は《カバ》と訳され、レヴィアタンは《ワニ》と訳されているということになる。それなら、ベヒモスは《カバ》でレヴィアタンは《ワニ》だ、とWikipediaで説明してもよさそうだし、神話系のウェブサイトで説明していてもよさそうだけど、そういう説明はない。やっぱり、ベヒモスやレヴィアタンを調べる人にとっては、ベヒモスが《カバ》で、レヴィアタンが《ワニ》であっては不都合なのだろうな、と感じる。
その当時(つまりヨブ記が書かれた紀元前7~4世紀)に、そういう認識だったのかどうかは分からない。少なくとも、カバの尻尾は杉のようではない。それに、現在では少なくともカバもワニもヨルダン川には棲息していない。ナイル川にはいたはずなので、そういう記憶が伝わったのかもしれない。でも、カバとワニだったら、確かに人類にとっては恐ろしい敵で、そこから着想してモンスターになったというのは、ない話ではないよなあ、と思う。だから、まあ、現在の聖書でカバとかワニとか訳されていても、それはそれで妥当ではあるかな、と感じる。勿論、ベヒモスはベヒモスであり、レヴィアタンはレヴィアタンなのだけれど。
2021年2月7日 ちゃんと原典を参照すればよいのにね、というお話
本日はファンタジィ事典でブネという悪霊についてまとめた。マイナな悪霊ではあるけれど、ソロモン王が使役した72匹の悪霊の1匹なので、結構、知っている人は知っている。ソロモン王が使役した72匹の悪霊は、結構、ファンタジィ界隈では大人気だ。多分、ブレトンが描いたイラストが魅力的だからだろう。それぞれの悪霊に決まった魔法陣があるのもソソられる部分だ。
原典は明解で、17世紀頃からヨーロッパに流布した魔法書『レメゲトン』「ゴエティア」だ。1904年にメイザース&クロウリーが訳したものがよく知られているが、誤訳が多い。1999年にピーターソンが訳したものの方が本当は参考になる。でも、ピーターソン版が出るまではメイザース&クロウリー版が一般的だったので、イメージはそちらの方が強いので、ウェブサイト「ファンタジィ事典」ではメイザース&クロウリー版を訳して載せている。
ちなみに1577年にヨーハン・ヴァイヤーが『悪魔の偽王国(プセウドモナルキア・ダエモヌム)』を著していて、「ゴエティア」よりも古い。こちらは69匹の悪霊を紹介していて、そのほとんどが「ゴエティア」で紹介されている72匹の悪霊と重なっている。こちらはラテン語だ。これをレギナルド・スコットという人物が英訳してくれていて、多分、英語圏の人にはそちらで膾炙しているのだろうけれど、若干、意訳しているな、と感じる部分もある。
そして、コラン・ド・プランシーが1818年にまとめた『地獄の辞典』にもたくさんの悪霊が紹介されていて、これは改訂を重ね、1863年の第6版でブレトンの悪魔の挿絵が加わった。この挿絵のインパクトで有名になった72匹の悪霊は多いだろう。この本はフランス語で書かれている。日本語でも抄訳が出版されている。
ボクは72匹の悪霊については、基本的にこの3冊(ピーターソン版を入れると4冊)を原典で読んだ上で整理する方向にしている。そうすると、意外と日本で知られている解説が間違っていることに気づかされる。原典が明確なのだから、神話・伝承をエンタメとして楽しんでいる読者はともかく、本をまとめる人たちくらいは、ちゃんと原典を読めばいいのにな、と思う。その意味では、「ファンタジィ事典」では拙訳と合わせて原典も載せているので、一定の価値があって、参考になるのでは、と思っている。
* * *
ちなみに、ロマンシングサガ3の四魔貴族のひとり「ビューネイ」は「ブネ」を元ネタにしているらしい。確かにデザインは似せている。性別が女性になっているが、元々の伝承も性別については言及されていないから、正しいのかもしれない。ブネだとダサいけど、ビューネイという言い方だと格好よく感じる。
2019年10月27日 馬から落ちて落馬する!?
意外と略語というのは危険だ。たとえば「HTML言語」という表現を見かけるが、厳密には「HTM言語」だ。何故なら、「HTML」の「L」は「language(言語)」だからだ。ボクはよく知らずに使っていたこともあるが「HIVウイルス」も、実は「V」が「Virus(ウイルス)」なので重複している。意外と当たり前に使われている「IT技術」も「T」は「Technology(技術)」なので、おかしなことになる。「JIS規格」の「S」も、厳密には「Standard(規格)」なので、本来は「JI規格」とすべきだったのだろうが、もう広まってしまったので今更、という感じだろう。「SUV車」というのも、「V」が「Vehicle(車)」だ。
実は外来語というのは、我々はよく理解しないで使っているケースも多い。「サハラ」は《砂漠》なので、「サハラ砂漠」は「砂漠砂漠」になってしまう。「ゴビ」もそうだ。「ゴビ砂漠」は「砂漠砂漠」。有名なのが「チゲ鍋」。「チゲ」が「鍋」なので「鍋鍋」になっている。意外と知られていないかもしれないのは「サンスクリット」。これは《洗練された言語》という意味なので、「サンスクリット語」とは言わない。専門家は気をつけているけれど、素人は「サンスクリット語」と呼んでいるだろうな、と思う。「ハングル」も同じ。「ハン」が韓国、「グル」が「語」なので「ハングル語」と訳したら間違い。
日本語でも重語というのはしばしばやってしまうのであって「違和感を感じる」などと言ってしまったりするけれど、日本語だとおかしいな、と気づくことができる。でも、略語や外来語は、深くその意味を考えないことが多いので、ともすれば、誤用する。
2019年8月11日 LGBTQIA+
言葉は日々、変化していく。知らない間に「ディスる」とか「エモい」という言葉が浸透して、普通に使われるようになった。「GAFA」という語もビジネスシーンで見かける。新しい概念が生まれるたびに、言葉は変化していく。「LGBT」という言葉があったが、今ではその4つの枠にハマらない性も意識されて、もっともっと多様になっているらしい。最終的にどういう言葉に落ち着くのかは分からないけれど、「LGBTQ」とか「LGBTQIA」、あるいは「LGBTQIA+」という語になってきている。カナダでは「LGBTTIQQ2SA」と呼んでいる事例もあるらしい。でも、そういうのは、正直、覚えにくいし、定着しないと思う。
そもそも、それぞれの事象に次々に名前をつけて細分化していったら、微に入り細に行って非常に難解になるような気がする。「LGBTの4つです」という定義の仕方そのものが誤りのような気がする。多様な性を認めよう、という広い定義にしておけばよかったのかもしれない。人はそれぞれで、多様なのだから、多様だ、というだけの定義でよかったのだ。
時代が変わって、新しい概念が生まれれば、新しい言葉が生まれる。でも、無理矢理に捻り出した言葉は、多分、定着しないのではないか、と思う。「LGBT」は語呂がいい。「LGBTQ」も、まあ、悪くはない。でも、それ以上に長くなると、何だかちょっと違うような気もする。その言葉の意味する多様性は否定しないが、言葉としての在り方に対しては、ボクは懐疑的だ。
2018年11月6日 映える(ばえる)!?
先日、ポップティーンの高校生のモデルたちが、キレイな写真を見て『映える(ばえる)』と言っていた。「インスタ映えする」の意味だろう。「映える」の頭の音が濁るのは連濁という日本語の文法によるものだが、複合語が分解されてなお、濁音だけ残った形だ。語感は「バズる」みたいで、なかなか悪くないので、面白いな、と思う。
個人的には、バエルと言えば、ソロモン王が使役した序列1番目の悪魔の名前なんだよなあ、とも思いつつ。
2017年6月27日 ボホト・ボホト・シュクリヤ!!
ウルドゥー語の文法書を買ってみた。パキスタンに何度も行って、少しウルドゥー語を学んでみようか、と思っている次第。別にウルドゥー語をマスタしようというわけではないし、ちょっとした努力でそんなことができるとは思っていない。でも、ウルドゥー語は基本的にはアラビア文字を援用しているので、ウルドゥー語を勉強する過程で、アラビア語が「読める」ようになればラッキィ、という期待が少しある。それにヨーロッパ系の文法とはまるで異なる文法を理解するのも面白いのではないか、と感じている。加えて、たまたまゾロアスター教で用いられているアヴェスター語とウルドゥー語が近縁であるという情報も、ボクに興味を抱かせている点である。
難しいのは、文字である。アラビア文字の援用なので見慣れないし、単独字に加えて、頭字、中字、尾字で形が変わる。それを覚えて、識別するところから始めなきゃいけない。でも、文字が読めるようになれば、これはアラビア語を「読む」ときにも援用できるので、頑張り甲斐があるというものである。
まあ、ウルドゥー語を学んでも、あんまり神話・伝承の分野には活かせなそうなので、その辺は玉に瑕である。
بہت بہت شکریہ.
2016年11月18日 伝えたいこと、そして伝えようという意志
日本人は日本語が母国語なので巧みに操れる。それでも人前で喋るのが苦手な人も多い。自己紹介でもっと格好良く喋りたいとか、話し上手な人が羨ましいとか、上司を説得できないとか、営業で顧客の心を掴めないなどと悩んでいる人も多いだろう。
「英語が喋れる」からと言って、海外で通用するわけではない。日本語で格好良く自己紹介できない人は英語でも格好良く自己紹介はできないし、話下手な人はどれだけ英語が堪能だって相手との会話は弾まない。日本語で相手を説得できない人間が、どうやって英語で説得できるというのか。
ボクは日本でしょっちゅうケンカをしている気がする。納得できないと徹底抗戦の構えだ。外国にいたってそれは同じだ。絶対に引かない。納得するまで議論する。それがボクにとっては当たり前だった。でも、今回、パキスタンで一緒になった日本人は驚いたらしい。英語で1時間、相手と侃々諤々とやり合っているボクを見て驚いたのだそうだ。後から人伝に聞いた。
でも、自信満々に言うが、ボクは英語ができない。一緒に海外に行った日本人の中で、一番英語ができないのはボクだ。それでも、現地で一番真剣に口論をしていたのも、間違いなくボクである。これも自信がある。
英語は「魔法の言葉」ではない。日本で仕事ができない人は外国でも仕事はできない。日本語でプレゼンできない人が、日本語で物を教えられない人が、日本語で相手を説得できない人が、海外でうまくできるなんて幻想だ。伝えたいことがあって、伝えようという意志があって、初めて言葉は意味を持つ。それが英語か日本語かの違いだ。
2016年5月10日 iPhoneで楔形文字が読めたよ!?
半年振りくらいにiOSアップデートした。そうしたら、Unicodeで記載していたボクのウェブサイトのメソポタミアの楔形文字が印字されるようになって驚いた。今までは◻︎に文字化けしていたのに!
まさかと思っていろいろ巡回したら、古代エジプトのヒエログリフとか古代ペルシアのアヴェスター文字まで印字される。ををッ、すごいな、iPhone。
どうやら、iOS9では、学術的な観点からこういう古代文字を印字できるようにした模様。2016年4月24日の記事でスマホの普及が多言語化の足枷になっていると書いたばかりなのに。
それならば、とミャンマー文字に挑戦したら、これは◻︎のまま文字化けている(笑)。すでに死んだ古い文字は印字されるのに、まさに今、生きて現地で使われている言語が疎かになっている片手落ち。
それでも、ウェブサイトの他言語化を強く推進して、文字化けしていても敢えていろんな言語をUnicodeで記載し続けているボクとしては、iPhoneのこの強い姿勢は評価できるし、嬉しい。少なくとも、iOS9以上の人がボクのウェブサイトにアクセスしたら、今までの文字化けの8割は解消しているはずだ。
GoogleもUnicodeの文字を全て印字させるべく昨年の9月にNoto Fontシリーズを発表したし、徐々にウェブサイトの他言語化が進んでいく。
大学生の頃からブツブツ言ってきたが、やっとここまで来たなあ、という感じ。