《日々の雑記》

2021年4月8日 権力と傲慢

マリエのインスタライブでの暴露が一部では話題になっている。一億総発信時代だ。でも、大手ニュースサイトではあまり取り上げられていない。平時、どうでもいいYouTubeやインスタ、Twitter上の芸能人の雑談は、たちどころに取り上げて、さも重大ニュースであるかのように騒ぐメディアが、ものすごく慎重になっている。影響が大きい割りに裏が取れない話だから、というのもあるかもしれないけれど、結構、根が深いような気がする。

酔っ払った勢いでの発言みたいに言われていたので、実際に動画を見てみた。時折、感情的になる部分もありながら、でも、ものすごく言葉を選んで、冷静に話している印象を受けた。カメラを回している男性が面白おかしく茶化しても、それには応じず、あくまでも「自分の体験」という枠の中だけで話している。「他の人のことは知らない。私はこうだった」という一貫した話し方は、真に迫っている。

もう、10年以上も前の話だから、事実であったとしても時効という気もするし、名前を出された芸能人からしたら、青天の霹靂という感じかもしれない。マリエサイドとしては多分、事実関係を証明できないので、「知らぬ存ぜぬ」で有耶無耶に終わるのだろうし、反対に「事実無根の言いがかり」として、マリエ側が訴えられるということもあるかもしれない。事務所としてはそういうポーズを示さざるを得ないかもしれない。泥沼だなあ、という気もする。それでも、芸能界に一石は投じられるので、それだけでも意味はあって、それで救われる人もいるのかもしれない。me too運動みたいなものを期待しているのかもしれない。

ただ、難しいのは、名前を出された芸能人で、おそらく、しばらくはメディアは騒ぐし、世論(という名の粘着な正義)もしばらくは彼らを排除するような方向で動くのだろう。事務所と世論のせめぎあいみたいなことになるのだろう。業界の体質の改善は大事だけれど、ただの個人攻撃になりそうな予感もあって、その辺は、マリエとしてはどこまでを意図しているのだろうなあ、と思う。

権力を持つと、ときには傲慢になる。それは、多分、枕営業だけの話ではなくて、実は、あちこちに転がっている構造だ。だから、個人個人、みんながそれぞれに注意をしなければいけない。ボクも、社内で、特定のある一分野においては他者の追随を許さないところまで来てしまった。その分野においては、ボクが右と言えば右だし、左と言えば左。畢竟、ボクの発言がまかり通ってしまう。それが正しくなかったとしても。そして、そこから食み出す人間は、ボクが否定することで、追放されてしまう。そのくらいに発言が重たい。だからこそ、ボクが間違えるわけにはいかないし、常々、自分の意見に異論を唱える人を排除していないか、慎重になる。でも、もしかしたら、小さいところで、無自覚に誰かを虐げているかもしれない。その辺は、ものすごく怖いし、常にそういう恐怖と戦いながら仕事を進めている。責任というのはそういうことなのかもしれない。だから、「芸能界の闇」と片付けないで、ちゃんと他山の石にしなくちゃいけない。

……それにしても、マリエと一緒にいて、カメラを操作している男性がいかにもチンピラっぽくて、それが、マリエの評価を下げている。うーん。

2021年4月6日 「直感」は、実は正しい!?

直感で決める。これは実は正しいという話。

「現代の知の巨人」などと紹介される出口治明さんが、よくいろいろな書籍で「直感」について言及していて、基本的には「直感」を肯定している。下記、ちょっとひとつ、引用してみる。

直感というのは何も考えずに決めることではありません。人間の脳は問題に直面した瞬間に、頭の中に蓄積されている情報を高速でサーチし、最適な答えを導き出すようにできているのです。つまり、脳が最速で必要な情報処理を行った結果が「直感」なのです。直感の精度はその人のインプットの集積で決まります。だからこそ、日ごろから読書をしたり、さまざまなジャンルの人に会ったりして経験の幅を広げインプットの量を増やしておくことが大切なのです。

つまり、「直感」でこうだ、と感じたことは、決して、感覚的なものではなくて、これまでのインプットの蓄積に裏打ちされた判断なのだ、ということだ。

中田敦彦の「顔出し引退撤回」が結構、いろんなところで話題になっている。ジャッジが速すぎる点については賛否があって、メンタリストDaigoも、データに基づかない感覚的な判断だとして、批判的なコメントを出していた。視聴者に寄り添っていると評価されていたり、視聴者に流されていると批判されたりもしている。いずれにしても、賛否両論の状態だ。

でも、ボクは中田敦彦の「顔出し引退撤回」の動画を見て「直感」なのだろうな、と感じた。中田敦彦は「デスノート」を解説する動画を、自分の目で見た。そして、苦痛だったと言った。つまり、直感で「違う」と判断したのだと思う。これは、多分、中田敦彦の中にある蓄積が、そう叫んでいたのだと思う。

だから、アバターが悪いとか、視聴者に流されたとか、そういうのではないのだろう。おそらく、職人・中田敦彦が、計画して、実際にやってみて、出来上がったものを見て、そして、直感で「違う」と感じた。中田敦彦の動画の説明を聞いて、ボクはそういうことなのだと感じた。

2021年4月5日 朝令暮改……それとも君子豹変す?

新年度入っていきなりの衝撃。中田敦彦が「4月から顔出し引退」の前言を撤回して、もう5日にして顔出しを再開した。決断が早い。「中田敦彦のYouTube大学」では2つだけ、動画がアップロードされた。「デス・ノート」を解説する動画の前編と後編だ。だから、この2つの動画だけでジャッジして、即決即断したことになる。

ボクとしても、結構、どうなるんだろうか、と注目していたところだったので、この動画は見た。そして、勢いがなくなった、と感じた。こちらに語り掛けてくる熱量が少なくなったな、と感じた。てっきり、アバター化と同時に、立って観客に向けてプレゼンをするスタイルじゃなくして、ラジオっぽい録音に変更したのかな、と思ったぐらいだ。それでも、慣れも必要だろうし、様子見かな、と思っていた。再生数の走り出しも、大幅に下がったわけではない。

でも、中田敦彦は結果が失敗だと判断した。その判断基準は「視聴者維持率」なのだという。今までの「中田敦彦のYouTube大学」は、この視聴者維持率が高かったのだという。でも、今回の2本は少なかったらしい。確かに、中田敦彦に語り掛けられているという印象が薄くなって、熱量がなくなった分、飽きてしまう。怒涛のように喋っているから、実は、ラジオのように音声コンテンツとしてゆっくりは聞けない。それを、中田敦彦の動きがカバーしていたということなのだろうか。

それにしても、たったの2本、しかも前編・後編という意味では、ひとつのコンテンツだけで、もう、ジャッジして決断をする。この早さみたいなものは、柔らかいなあ。まあ、失敗というレッテルを視聴者サイドに貼られる前に自分から先に撤回した方が圧倒的に失敗のダメージは少ないので、正しい判断だとは思う。でも、その正しさを貫くのは、意外と難しい、と思う。

中田敦彦のチャンネルでは、高評価が多く、意外とポジティブに受け入れられている印象だけれど、同じ内容を報じたYahooニュースのコメントは結構、辛辣で、信用できないというトーンのコメントが多い。どっちが多数派で、どっちが世論になっていくのかは分からない。朝令暮改? それとも君子豹変? その辺の視聴者の今後のジャッジも楽しみなところ。ボクは、現時点では、意外と、ポジティブに受け止めた……かな? 多分、データに基づく判断というよりは中田敦彦の作り手としての直感なのだと思う。自分でやってみて、出来上がったものを見てみて、それでダメだな、と感じた。その直感を信じた。そのジャッジは信頼ができる。そんな感じ。

2021年4月4日 アイドルって何だ!?

ここのところ、アイドルグループ(?)の「我儘ラキア」にハマっている。たまたまファミリーマートの窓のところに彼女たちのライブのポスターが貼ってあって、琴線に引っ掛かった。「我儘ラキア」というワードの妙と、そのロゴの格好よさ。そして、彼女たちのビジュアルが格好よかった。ボクは最初、勘違いしていて、最近、流行りのガールズバンドなのかな、と思った。そして、その場でYouTubeを立ち上げて、PVを視聴して……青い髪の女の子が歌い始めて、ああ、彼女がヴォーカルなのだな、と認識した。結構、強めの声で、歌唱力もある。ロックだ。いい。でも、他の3人は楽器を演奏しない。踊っている。変なPVだな、と思っていたら、突然、金髪ショートめの女の子がゴリゴリのラップを始める。あれれ、ラッパーだ。しかもかなり本格的。そして、2番になったら、残りの2人も歌い始める。ここに至って、ようやく、どうやらこのグループはバンドじゃないっぽいぞ、と気がつく。思い込みって恐ろしい。Wikipedia先生にお伺いを立てる。

「我儘ラキア(ワガママラキア)は、日本の女性アイドルグループである。」

あ、アイドルなんだ。や、アイドルの定義って何? こんなにゴリゴリにロックをやっていて、アイドルとか言うのか。たとえば、アイドルグループの「神使轟く、激情の如く。」も、ミクスチャーロックっぽいことをやっていて、もはやアイドルなのか何なのかよく分からないけれど、でも、何となく彼女たちはアイドルだな、と思わせる何かがあった。つまり、自分の「かわいい」という容姿をウリにしていて、着せ替え人形のようにいろんな格好をして、いろんなポーズで写真をとって、ファンに媚びている。でも、「我儘ラキア」みたいに、ここまでファンを突き放していると、もう、アーティストだよね、と思う。作詞・作曲も、青い髪の女の子(星熊南巫)ややっているらしい。ラップの作詞は金髪ショートめの女の子(MIRI)。作曲まで踏み込んでやっている点も、アイドルとしては珍しい。

2021年4月1日 どっちもスペックが高いのが稀有!?

中田敦彦の顔出しは昨日が最後ということで、昨晩、オリエンタルラジオのそれぞれのYouTubeチャンネルに2人が出演して、今後のことを話し合っていた。ボクは最近、寝るのが早いので、今朝、通勤中にこの動画を見ている。こういう好きなタイミングに見られるというのが、テレビにはないYouTubeの利点だ。そして、中田敦彦と藤森慎吾の、お互いがお互いを信頼し、尊敬し合っている関係なのだということを、モニタ越しにヒシヒシと感じて感激したし、どっちも才能のあるすごい人なんだな、と改めて思った。うかつにも、2人のトークを聞きながら、通勤中に泣きそうになってしまった。

中田敦彦のチャンネルでは、あっちゃんが藤森の才能を認めつつ、WinWinWiiinの司会を藤森に依頼するという流れで、この考え抜かれた司会交代プランと発表の仕方に感心した。おそらく、藤森だったらやれるだろう。中田敦彦の真意を正しく理解して、面白おかしくやれる。ベストなチョイスだ、と心から思える。WinWinWiiinの視聴者に向けた、そんなプレゼンになっているところも、そういうストーリーを提示しているところも、あっちゃんらしさ全開だ。

一方の藤森慎吾のチャンネルでは、藤森があっちゃんの顔出し引退の真意に迫る構成になっていて、藤森が上手に聞き役に回りながら、あっちゃんの本音を引き出していく。こういうのは、自分のチャンネルでおいそれと語りにくい部分なので、藤森のチャンネルで、藤森が聞き役に回ることによって、初めて喋れる内容で、そういう風に仕向けている藤森の聡明さを感じられる。そして「顔出し引退」が「マスではなくコアに向けて発信する実験」であることが分かってくる。

こういう動画を、実は3月31日まで温存して、最後の最後に公開するところも、また、戦略家だなあ、と思う。そして、フランクにトークして、決して、シリアスにしないところも、オリラジらしいな、と思った。


2021年3月31日 三密のイルカショー!?

春休みなのだなあ。子供が小学校で水族館の割引券を貰ってきて、どうしても行きたいというので、行ってきた。平日だし、大人は会社を休まなきゃいけないし、年度の最終日で異動や退職の人が挨拶をする日だから、みんな、会社を休まないだろう、と安直に考えていた。だから、空いているだろうと考えていた。ところが、とんでもない。三密もいいところだ。まあ、緊急事態宣言が出されて、こういう水族館みたいなところも大きな痛手を被っただろうから、小学校に割引券を配って、春休みの集客に期待したということなので、その効果は間違いなく出ていて、よかったね、という話なのだけれど、でも、イルカショーがものすごくって、ちょっと引いてしまった。

実は、ボクは結構、プラシーボに負けてしまう人なので、こういうのはよくなくって、三密に飲まれて、あっという間に体調が悪くなった。よくよく考えたら、一応、春休みなのだ。しかも緊急事態宣言が明けたばかりなのだ。失敗した。早々に退散して、家で寝込んでしまった。うーん。

2021年3月30日 退職のお祝いも自粛中ではあるけれど

退職、異動の時期。飲み会シーズンの到来だ。でも、みんな、自粛しているような印象がある。ボクは飲み会が嫌いなので、その意味では、COVID-19に感謝している。でも、さすがに異動くらいじゃ自粛モードになるけれど、退職だと、みんな、結構、逡巡しているような気がする。去年の今頃だと、退職でも「時期が悪かったね、可哀想に」という雰囲気があった。子供の卒業式とか入学式とかも満足にできなかったし、成人式もできなかったわけで、とてもとても「退職だから特別に飲み会をやろう」という雰囲気ではなかった。でも、今年はさすがにちょっと何かやろうかな、という機運がみんなの中に出てきたかな、という雰囲気が少しある。

こういうのは、難しい問題だなあ、と思う。昔っからQOLというのがあって、ひとりひとりの人生の内容の質をあげよう的な発想がある。どれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送って、人生に幸福を見出すか。この視点で考えたときに、COVID-19のリスクの低下とQOLの向上はトレードオフの関係にある。ボクにとっては飲み会はQOLの向上には繋がらないので、あれなんだけど、でも、たとえば、子供がお互いの家に遊びに行けないとか、音楽の授業で歌が歌えないとかって、まさにQOLに直結していて、こういうのが幼少期に続くことの影響ってどんなものか、と思っている。

オンライン化はどんどん進めるべきだと思うけど、でも、こういうのは、オフラインでの活動がちゃんとできる人が、オンラインでもやれるということなのであって、オフラインの活動がちゃんとできない人間は、オンラインでも活動できない。その意味では、幼少期にオフラインの活動をちゃんとやらせてもらえない子供たちは、今後、どうなるのだろうか、と心配になる。友達と遊ぶみたいな当たり前のことが、あんまりできないのは、結構、苦しいところだろうなあ。でも、逆に言えば、子供たちが我慢を強いられているのだから、大人はもっともっと我慢しなきゃいけないので、やっぱり飲み会はダメだよ、とも思う。たとえそれが退職祝いであっても。先に解放されるべきは、子供たちだと思う。

2021年3月29日 思うてたんと違う……。

毎年、我が社から学会に論文を投稿している。社内に臨時の選考委員会が立ち上がって、例年は12編ほどが投稿される。今年からはコスト削減で7編に減らされたので、ちょっと狭き門になった。そして、期せずしてボクが書いた論文が選考に通ってしまって、投稿することになった。

実は、後輩に書かせようと思って、2本、ネタを用意していた。今回、ボクの論文が選ばれてしまったが、本当は、もう1本の方がボクにとっては推しの内容で、裨益効果が高くて、社会的にも意義があった。だから、そっちで行きたかった。もう1本は、半ばやっつけで書いたようなもので、直前まで出すかどうか悩んでいたものだ。でも、チームの中で「ここまでの成果が出たから出しましょう」と言われて、2、3日で徹夜で仕上げた。

ここは、正直、難しいところで、後輩が書いた論文は、ボク的にはイマイチな印象があった。内容的には圧倒的にいい素材なんだけど、論文にしたときに、訴求効果が低くなっている。まとめ方とアピールのアプローチがもう少し派手にやれたし、成果もちゃんと書けたはずだ。かなり直したい部分もあったが、後輩の自主性を大切にした。ある種、内容がいいから、行けるだろう、と高を括っていた部分もあったかもしれない。その結果がこれだ。

難しいなあ。ものすごく複雑な気持ち。ボクも文章はうまい方じゃない。それは、この「日々の雑記」でも十二分に伝わっていると思う。だけど、ポイントはちゃんと押さえるし、読み手を想像して、アピールすることはできる。こういう書き手の技量が、差になってしまう。

2021年3月28日 実は失敗を繰り返すことが成功の道

他の人から自分がどういう風に見られているのか、正直、分からない。でも、間違いなく「うまくやっている」と思われているだろうな、と思う。「うまくやっている」というのは、失敗していないとか、成功が多いという意味だ。だけど、失敗がないのかというと、決して、そういうことではないのだと思う。自分の中では、日々、失敗の連続である。でも、他の人には「失敗しない人だ」と思われているのだろうな、と想像する。

最近、そのギャップが大きくなってきたな、と感じる。「任せて大丈夫」と信頼されているうちは楽しかったし、「どんどん仕事持ってこい! 自分に任せろ!!」と思って引き受けていた。自分の持てるだけのパワーで、最大の成果を出せばよいと思っていた。でも、段々、そうじゃないフェーズに入っているな、と自覚している。つまり、若手じゃなくなったのだ。チームから自分が抜けることも想定しなきゃいけない。自分がいなくなった後に、誰かがそれを引き継ぐ。その人たちが自分の仕事をやらなきゃいけない。段々、自分の裁量権でできることが増えて、決められることが増えたときに、自分の能力で仕事を進めると、持続可能でなくなることが見えてきた。

そうなったときに「失敗しない人」という評価はよくないな、と思った。もちろん、ボクは自分のことを「失敗しない人」だなんて思っていないし、そんな喧伝をしているわけじゃない。毎日が失敗の連続だと思っている。勝手に周りの人が「失敗しない人」というレッテルを貼っているだけだ。でも、最近、そういうのが邪魔になってきた。「いやいや、私はあなたみたいにはできません」とか「あなただからできる仕事で私には無理」みたいなことを言われることが多くなった。本当は、そんなことはない。でも、実際、そういう風に言われてしまう。

言葉が適切かは分からないけれど、ある種、自分は高圧的なのかな、と思った。「成功」というパワーで相手にプレッシャーを与えているのかな、と。だったら、失敗を開示するべきかな、と思った。失敗している自分をもっと見せていくべきなのかな、と。勿論、ボクが失敗を隠しているわけじゃない。失敗は何度もある。「あ、これはダメなのか」「この方法……でもうまく行かないのか」「それじゃ、このアプローチ……もこういう結果になるのか」「うーん」とか言いながら、最後の最後まで諦めずに喰らいついて、最終的に「あ、うまく行った! これが正解だったのか!」。これがボクのアプローチだ。だから結果的には「成功」している。「いろいろ試行錯誤してうまく行きました」という報告で「失敗しない人」みたいになる。

逆説的に言えば「失敗しました」という報告をしたくないから、諦めずに何度も何度もチャレンジして、成功まで持って行くという地道な作業をしているということ。一足飛びに成功をしているわけじゃない。ひとつだけコツみたいなものがあるとすれば「速く仕事を進める」ということ。失敗したときにリカバーするためには時間が必要だ。手数を増やす必要がある。だから、仕事が回ってきたら、取り敢えず大急ぎで「形」にする。うまく行かなくてもよい。質は問わない。取り敢えず「形」にして「あ、ダメだな」と思って、それからいろんな形を試す。そのための時間を確保するためには、「まだ時間があるから後で考えよう」としないで、その瞬間に「形」にする。そして、限られた時間の中でいろんなアプローチを模索して、失敗をして、最後には成功する。そういう繰り返しが成功に持って行く確度を高める。そのプロセスを、多分、開示しなきゃいけないんだろうな、と最近、感じている。

2021年3月28日 「好きなもの」は誠心誠意、還元する

これはボクの持論だけど、「好きなもの」は誠心誠意、ちゃんと形で示すべきだと思う。つまり、欲しい本は買え、という話だ。読むだけなら、図書館で借りてもいいし、友人に借りてもいい。古本を購入してもいい。でも、「好きなもの」だったら、ちゃんと本屋で新品を買うべきだ。そうすることで、作者に還元できる。それだけじゃない。本屋にも、輸送業者にも、取次にも、出版社にも還元できる。全てのプロセスに還元することで、次の「好きなもの」を送り出して欲しい。そう、切に願う。

よく、おいしいレストランが潰れたときに「あの店、大好きだったのに! また行きたかった!」と言って残念がる人がいる。でも、そのレストランがよいと思ったら、それを示す方法は「大好き!」と発信することではなく、「おいしい」ということでもなく、その店に足しげく通うことだ。みんながそう思ったら、潰れない。

結局、そういう個人の活動の積み上げが世界を動かしているのだと思う。

2021年3月23日 クイズとクイズ力、学問と学力!?

東大王の鈴木光さんの本が平積みになっていてビックリした。本を書いたのか。歌も歌えて、英語もできて、クイズもできて、本まで書くのか。多才だなあ。東大に行って、クイズ研究会に入って、テレビに出て……そして、卒業。充実した学生生活だっただろうなあ。何よりも、学生のサークル活動の延長としてテレビに出ているのがすごいな、と思う。普通だったら、あれだけちやほやされたら、このまま芸能人になってしまおうか、と思ったりするだろう。ましてや、彼女は中学生の頃、芸能人を目指していた時期もあったはず。でも、そういう道ではなく、大学を卒業したら、就職して働く道を選んだ。モラトリアムには浸らない。その割り切りが、単純にすごいことだと思う。

何故か、茂木健一郎は『東大王』を目の敵のようにいつもバッシングしている。「『東大王』は、時代遅れの地上波テレビの芸能人タレント文化のアンシャンレジームが、東大生という安いギャラでそれなりの視聴率をとれる素材を見つけて利用」「東大生たちは真面目で適応力があるゆえのストックホルム症候群。日本の子どもたちに悪影響。日本没落を加速。そこには答えも未来もない」。ちょっと詩的で難解で何を言っているのか分からないのだけれど、「ストックホルム症候群」とは、結構、過激な表現だなあ、と感じる。

おそらくだけど、クイズと学問は違うよ、ということを言いたいのだろうな、と思う。それはそのとおりで、『東大王』の出演者はクイズの腕を磨いているから番組に出演できている。彼らは一般の東大生ではなくて、実はクイズに長けた東大生だ。その意味では、東大生を代表していないし、学問を代表していない。主従関係で言えば、クイズの腕があるというのが「主」で、東大生であるというのは「従」なのだ。それなのに彼らを「東大生」として説明してしまうことを問題視しているのだろう。

まあ、そういう一面もあるかな。クイズ=学問でも、学問=クイズでもない。そこに「東大」というラベルを貼って番組展開することへの違和感はあるのだろう。でも、おそらく、ボク個人の勝手な推測だけど、出演している彼らは、そんなに深刻には捉えていない。学生だから、楽しんで出演している。そもそも、クイズをやってきて、活躍の場があるというのは、単純に嬉しいだろうな、と思う。今後の後輩のために、この現場を終わらせないように、少しでも延命化しなければという発想、あるいは義務感みたいなものは、もしかしたら、あるかもしれない。いずれにしても、ストックホルム症候群というのは適切ではないような気がする。

2021年3月19日 日本では3月11日に赤飯を炊いてはいけないのだそうな!?

3月11日の給食に赤飯は不適切だとの教員からの声があって、横浜市がメニュー変更したことがニュースになっていた。うーん。いいじゃんね、赤飯。そんなこと、気にする必要はない。

3月11日に地震があって、たくさんの人が死んだかもしれない。でも、3月12日が家族の命日の人もいるし、逆に3月11日にめでたいことがある人もいる。それをお祝いしたって、別にいい。大体、3月11日以外の日に不幸がある人もたくさんいるのであって、3月11日だけを特別扱いしたらダメだと思う。喪に服すのは、遺族がすればいいことで、我々は、あの地震に想いを馳せつつ、地震や津波への備えについて考えればよい。

実は3月11日の当日、職場で「黙祷」のアナウンスがあった。これについても、本当はボクは疑問を感じている。黙祷は毎年、やっているんだけど、正直、どうして3月11日だけを特別視するんだろう、という感情がある。世界各地、実はたくさんの災害に見舞われている。直近だと、北海道胆振東部地震で40名ちょっとが亡くなっている。熊本地震では270名近くが亡くなられている。東日本大震災は、勿論、2万2000人近くの方が亡くなられていて、規模は大きい。でも、死者数が多いから黙祷を捧げるというのは、死者を「数」で評価しているようで、ちょっと個々人を蔑ろにしているような感じがする。それに、数だけで見れば、たとえば、2010年のハイチ地震では22万人以上が亡くなっている。死者数の桁が違う。我々は日本人だから、黙祷は日本で起こった地震に限定されるべきだ、ということでもないだろう。惑星地球号の一員として、世界を捉えていく必要がある。

フランスでテロルがあったときに、facebookのプロフィール写真を「トリコロール」で飾る行為が流行ったときにも書いたが、テロルはフランスだけで起こったわけではない。そもそも、あのときはイスラームと西欧近代化が衝突して、あちこちでテロルが起こっていた。イスラーム世界の中でも、たくさんのテロルがあったし、先進国の爆撃でシリアでは毎日、ものすごい数の人が死んでいた。そういうたくさんの死者に想いを馳せずに、よく知った先進国のフランスにだけ想いを馳せるのはおかしい。だから、ボクは「トリコロール運動」には賛同しなかったし、「トリコロール運動」をした人とは距離をとった。

他人を思い遣るのはとても素敵なことだ。死者を偲ぶのも大事なこと。でも、実は不幸なんてものは数えきれないほどあって、そこに優劣も大小もない。3月12日に赤飯を移動させて、3月11日の死者には配慮できた形になるのかもしれないけれど、それでは3月12日の死者は配慮されない。89校もあれば、3月12日に祖父母や両親が亡くなっている児童だっているはずだ。その個人の死に対しては「配慮が足りなかった」とはならないのか? そんな風に感じる。

2021年3月18日 それでもやっぱり「差別発言」ではなく「不適切発言」というのが適切では!?

アイヌ差別問題、Twitterもニュースも荒れに荒れている。論点がおかしいような気がするので、もう一度、丁寧に書いてみよう。

「なぞかけ」というお笑いのジャンルは、異なる事象のものが同じように聞こえる言葉として重なるから面白い。そのお笑いの大前提で行けば、あの発言そのものは「アイヌ=犬」という意味で捉えることはできない。だから、結果として「不適切」ではあるけど「差別的」ではない。

言葉そのものは、間違いなく歴史的に「差別」の場面で使われてきた。だから、当然、傷ついた人たちがいる。怒りに震えた人々がいる。それはちゃんと理解すべきで、反省すべきで、謝罪すべきだけど、今回の発言そのものは決して「差別表現」ではない。発言者はアイヌを犬に譬えたわけではないし、アイヌに対して差別意識を持っているわけでもない。結果的に差別として使われたシチェエーションと同じ形になって、差別を強く連想させる。差別に見えるかもしれない。でも、発言そのものは差別しているわけではない。

だから、仮に今回、芸人とテレビ局スタッフの無知が非難されたとしても、決して彼らは差別主義者ではないし、差別をした咎でそしられるべきではない。そこは、ちゃんと分けて議論すべきだ。その辺がごちゃ混ぜになって感情的になって議論されている気がする。アイヌの人々の気持ちは分かる。でも、怒りの矛先は「無知」であることだけにすべきだ。「差別」として彼らを非難するのは適当ではない。

2021年3月17日 本名が「摩萌挟」だったとは!?

ワタナベマホトが逮捕された。まあ、やったことから考えれば、当然の結果だとは思う。有名YouTuberだし、初期からYouTuberを牽引してきたことから考えると、リスクも考えずによくもそんな危ない橋を渡ったな、と思う。しかも一度、暴行容疑で活動自粛した後の話だから、すごい度胸だな、とも思う。そして、結局、彼はあれだけ登録者を増やしながら、デビュー当時のYouTuberのままだったのだな、とも思う。プロフェッショナルにならなきゃいけなかった。まあ、でも、最近は大手事務所の芸能人もプロフェッショナルじゃない人が増えた。社会全体が、プロフェッショナルじゃなくなりつつある。そんな印象を持っている。

でも、そんなことよりも、本名が渡辺摩萌挟だったことに驚いた。28歳なんだもんなあ。完全にジェネレーションギャップだなあ。「摩萌挟」って名前が同級生にいたら、ちょっとビックリするよなあ。響きはいいけどなあ。漢字は……ヤンキー臭がするよねえ。「ま」も「ほ」も「と」もいろいろあるのに、漢字。

ひろゆき氏が書いているけれど、ボクも同意する。子供が一生、抱えて生きていくものだから、そこに親の我というか、個性を入れるべきではない。子供が誇れる名前がいいよね、やっぱりね。

もちろん、「ワタナベマホト」が「渡辺摩萌挟」だったから犯罪者になったわけではない。そこは切り分けなきゃいけない。でも、名前って大事だと思うし、親の姿勢が試される、とも思う。

2021年3月16日 人間は全知全能ではない。

情報番組「スッキリ」におけるアイヌへの差別発言が問題視されている。でも、ちょっとだけ違和感を覚えたので、書いておこうと思う。もしかしたら、こんなことを書くと批判もあるかもしれない。

よく、知識人は「勉強が足らない」「もっと勉強しろ」「こんなのは常識だ」とマウントをとる。「気づいて然るべき」と言う。でも、それって結果論だ。人間、知らないことの方が多いし、気づかずに通り過ぎていることが大半だ。まずは、それを認識することから始めないといけない。

今、SNSでいろんな本や論文が引用されていて、「あ、イヌ」が差別表現なのは常識だ、みたいな書き方をしている人がたくさんいる。でも、そこで引用されている本をあまねくすべての日本人が読んでいるわけもないし、読まなきゃいけないものでもない。論文まで引っ張り出してきて「ほら、ここにイヌが差別だって書いてあるじゃん!」とか言われても、その論文を読んでいる人の方が少数であることは明白だ。

歴史的にアイヌが差別されている事実は学ぶべきだし、そのこと自体はある種、日本人として知っているべきだとは思う。でも、この世のすべての差別表現を学んで知っていなければならないというのは、どだい無理な話だし、差別表現ひとつひとつを学ぶことには限界がある。大体、知っていることが偉いわけじゃない。差別しないことが大事なのだ。知らないことに対してマウントをとってはいけない。そもそも、全ジャンル、全方位において不勉強をそしられない立場でいられるのか、といえば、そうではない。知らなきゃいけないこと、知っておいた方がいいことなんてたくさんあって、でも、人間、知らないことなんてたくさんある。知ることについては、人間、限界がある。そのことをもっとわきまえた方がいい。

もちろん、番組は、知らなかったとは言え、アイヌを傷つけた。そのことについては誠心誠意、謝罪すべきだし、反省もすべきだろう。

2021年3月15日 息を吸うようにCOVID-19

新型コロナウイルス感染症が蔓延した1年前の4月、5月は、ホントにみんなピリピリしていた。咳ひとつしようものなら痛いほど視線が突き刺さる。互いに監視して、ちょっとでもはみだしたら、集中砲火。ウイルスよりも人々の悪意が怖くて、外に出るのが嫌になった。

1年経って、もう、みんなの気は緩んでいる。ワクチンを打つみたいな対処法が見えては来たものの、でも、多分、秋頃になるのだろうな、と思っている今、実リスクは1年前とそんなに変わっていない。それなのに、人混みで、明らかにソーシャルディスタンスを踏み越えて身体を寄せ合うような場面になっても、不快感や恐怖は感じない。誰も何も言わないで押し黙っている。順応してしまって、麻痺してしまった。

1年前は、ものすごく警戒したのになあ。この距離感。こうやって、新型コロナウイルス感染症が日常の一コマのようになっていく悲しさだ。

2021年3月14日 動画よりも文字の方が、情報の質の見極めは早いのでは!?

最近、いろいろなハウツー系の情報が、YouTubeに掲載されるようになった。Googleで検索して、上位に出てくるのが、YouTubeだったりする検索結果もある。聞いた話では、最近、何か情報を得るために、最初からYouTubeで検索する新人類もいるらしい。これ、ボクは個人的にすごく嫌な傾向だな、と思っている。発信者側からすると、うまく行けば、YouTubeから広告収入を得られるので、それを狙っているのだろう。でも、受信者側からすると、動画だと、情報の品質、求めているものとの合致度合い、その内容の妥当性を瞬時に判断しづらい。文字情報だと、流し読みすれば一瞬で分かるので、読むか読まないかを判断できる。でも、動画だと、正直、分からない。その人の編集技術とか、喋り方とか、画質とか、いろんな要素があって、本質的な「情報」という意味での是非は、しばらく見てみないと判断ができない。だから、非常に残念なことだけど、ボクはGoogleから飛んだ先が動画だった場合、立ちどころにブラウザを戻してしまう。情報の質が高い可能性もある。参考になるのかもしれない。でも、それをジャッジする時間がもったいないからだ。

最近は音声の時代とも言われていて、ながら聞きができるという意味で、ラジオが見直されている。運動しながら、料理しながら、通勤しながら、音声で情報を得る形だ。おそらく、ライフスタイルとしては、それもありで、だからこそ、ウェブラジオみたいなスタイルが流行っている。こういうのも、実は有益かどうかのジャッジは聞いてみるまでは分からない。だから、ラジオで言うところのパーソナリティみたいな人の是非で質をジャッジするしかない。

一億総情報発信時代だ。情報を発信する人は、ツールの特性を理解しておく必要があるし、受け手も、プラットホーム検索で何でもYouTubeやInstagramの中で完結して検索しないで、有益な情報にアクセスする方法を考えた方がよいだろう。たとえば、コーヒーを淹れているときの泡立ち方はどんなものなのか、お湯の注ぐスピードって、どんなものなのか。こういう視覚情報をゲットしたいときに、初めて、YouTubeのハウツーが有効になる。多分、運動の仕方みたいなものやダンスの仕方みたいなものも、向いている。でも、文字情報の方が優れたプラットホームである場合の方が、多分、多い。

2021年3月13日 「顔出し引退」って何ぞや!?

昨晩は、オリラジのあっちゃんが「顔出し引退」などと宣言していて、ボクはちょっと衝撃を受けて眠りについた。いろんなことを考えてしまった。ノリにノッているYouTube番組『Win Win Wiiin』はどうなるんだろうか。雨上がり決死隊の宮迫と共同で投資して始めた事業だったのではなかったのか。そして、一緒に吉本を退所した相方の慎吾ちゃんはどうなってしまうのか。

そもそも「顔出し引退」とは何ぞや。嵐のニノの結婚相手は「一般女性」となっている。つまり、芸能人に「引退」というのはあるらしい。それなら「顔出し引退」とは何ぞや。たとえば、声優で顔出ししていない人がいる。VTuberで顔出ししていない人がいる。覆面レスラーもいる。ふなっしーとかラファエルみたいなキャラクタもいる。そういう状態になるということか。たとえば、ニュースなどで「中田敦彦」の顔写真を使うことを許可しないということなのか。

でも、そういうのは難しいと思う。「引退」というのは、芸能人の独特の文化なのだ、と思う。たとえば、会社経営者とかスポーツ選手とか、そもそも最初っから、宣材写真なんてないので、顔出しOKにしたつもりなんかないんだろう。たとえば、小室圭さんなんか、元々一般人で、今でも一般人なのに、ああやって報じられる。「顔出し引退」を宣言して顔を使わない判断をしてくれるとしたら、芸能界って優しいな、と思う。それこそ、ニノの結婚相手みたいなものだ。でも、今は全人類が情報発信者だ。本人が望む望まないに関わらず、全人類が情報を発信する。事実上の「顔出し引退」ってできないのでは? ……それを成し遂げてしまうのがあっちゃん流の武勇伝で、何か考えがあるのかしら(笑)。

2021年3月12日 仕事の持続可能性を考慮する

仕事で動画作成をするとき、しばしば、Adobe Premiereを使って動画編集をして、YouTubeにアップロードしていた。でも、Adobe Premiereはボクの私物なので、仕事として持続可能なスタイルではない。ボクしかできないし、ボクがいなくなったら続けない。だから、ちょっと別のソフトでやれないかな、と思って、フリーソフトをいろいろと模索していた。

大抵は、動画で不要な箇所を切って繋げる作業と、複数の動画を繋げ合わせる作業だ。加えて、テロップを入れる作業。そのくらいがやれれば十分だ。それを効率的にやれるソフトとして、今日はShotcutを使ってみた。音の山が大きく表示されるから、切るべき場所が分かりやすいし、操作も簡単だ。出来上がりの解像度も下がらない。いいじゃん。

というわけで、マニュアルをつくってみようか、とZoomを立ち上げて、Shotcutを操作している動画を作成している。簡単にいろんなことができる時代だなあ。

2021年3月11日 各種ウェビナーの聴講は仕事として認めるべきか否か問題

新型コロナウイルス感染症が流行して、逆説的にいろんなことのオンライン化が進んだ。それは歓迎すべきことだ。でも、少し気になることもある。今日はそれについて書いてみたい。

最近、いろんな会議がオンラインになって、自席で参加できる。あるいはウェビナーと題して、世界中の人と繋がれて、いろいろな人がオンライン研修やウェビナーを開催する。こういうのも自席からアクセスできる。便利と言えば便利だけれど、情報過多になっている気がする。今までだったら参加しなかったはずの会議や研修、セミナーに容易にアクセスできるので、猫も杓子も参加するようになった。ともすれば、職場の半分くらいの人が、イヤホンを耳に、ふむふむ、とばかりにウェビナーを聴講している。

たとえば、ね。同じ職場から5人も6人も「会議に行ってきます!」なんて出掛けようものなら、課長が「待て、待て! そんなにみんなで行くな」と言うはずだ。でも、自席で会議を聴講したり、研修やウェビナーにアクセスできてしまうと、本来、やるべき自分が抱えている業務と、会議や研修の聴講の線引きが曖昧になる。

知らないよりは知っている方がいい。だから、折角の機会だから聴講しよう。多分、そういう発想なのだろう。でも、何を聴講するにも時間コストは掛かる。時間コストを投じてでも知っておくべきことなのか。それをちゃんと考えた方がいい。

「会議で発言しないのは参加していないのと同じ」とはよく言われる。折角の機会だから情報を得るために聴講しようというのは、もっとちゃんとその必要性を精査しないといけない。最近、みんな、いろんなウェビナーを聴講して、それで働いた気になっている。生産性が下がっていないか?