《日々の雑記》
2023年3月2日 タビンシュエーティー群
久々にミャンマー伝承を更新した。前回まではかなり伝説に近い「ドゥッタバウン群」を整理したが、今回は16世紀の「タビンシュエーティー群」を整理した。どちらかと言えば、史実に近い部分なので、神話としては面白くないし、どうしてこれらの人物が37柱の精霊ナッの親玉たちの仲間入りを果たして、現在まで引き継がれて崇拝されているのかはよく分からないが、取り敢えず、37柱を全部、制覇するまでは走り続けるしかないな、と思っている。
2023年2月4日 妖怪の絵を描く。
パキスタンにいる間にたくさん絵を描いていたのに、後で彩色しようと思ったまま忘れていた。明日からパキスタンに行くので、その準備をしていたら発見した。折角なので、スキャンしてアップしてみた。オトロシとワイラだ。
最近はiPhoneにタッチペンで描く。でも、この頃はまだ紙にGペンで手書きで描いていた。色も、本当はコピックで塗ろうと思っていた。気が向いたら、色もつけてみようと思うけれど、デジタルに挑戦している最中なので、しばらくは色がつかないだろうな、と想像する。だから、取り急ぎ、白黒でアップしておこうと思う。
2023年1月31日 ハイエナのように群がる人々
三浦瑠麗氏が絶賛大炎上中だ。そりゃあ、もう、ものすごい攻撃だ。彼女にはどこか胡散臭さはあった。痛々しさもあった。危うさもあった。でも、それは今に始まったことじゃない。ずぅっと彼女はそうだった。それなのに、今まで何も言わずに彼女を受容してきたはずの人々が、手の平を返して一気に総攻撃。恐ろしい世の中だ。
ボクは、彼女はエンターテイナだと認識している。そういう芸風であり、テレビの中で求められる役割をきちんと果たしてきた。そういうお仕事だと認識しているので、メディアが彼女を論客として登壇させてきたことに、特に違和感を覚えない。テレビなんて大体そんなものだし、タレントもそんなものだ。ニーズがあって、それに応えるタレントが生まれる。
ところが、ここに来て、今まで批判してこなかった人が、一気に牙を剥いて、三浦瑠麗氏を登用したメディアの責任を問うような議論をしていて、とても不思議だな、と感じる。視聴率を取ることがテレビのひとつの目標であって、彼女が出演することで、あるいは彼女の発言することで、各方面でそれが話題になるのだから、テレビとしては十分に成功していた。その意味で彼女も成功していた。だから、それでいいじゃないか、と思う。
勿論、ここから先は別だ。テレビと彼女はウィンウィンの関係を構築できなくなった。だから、テレビ側は彼女を使おうとしないだろう。彼女は失脚するのかもしれない。その是非はあるかもしれないが、今、そんなに目くじらを立てて、弱った彼女に群がって、過去も含めて、ああでもないこうでもないと彼女をいじめなくてもよいのにな、と思う。「彼女をテレビに出すことに違和感があった」とか「間違っていた」とか、今更、そんなことを後出しジャンケンのように言うのは格好悪いし、あまりにも感情的だ。事件でもあるのだから、もう少しいろいろなことが明らかになってから、事実に立脚して批判すべきだ。
……と、また、あまり神話・伝承に関係のない記事を投稿してみた。でも、いつだって、寛容な世の中を望むボクなのであることよ。
2023年1月29日 性的な表現が含まれている!?
猫も杓子もコンプラの時代である。
先日、pixiv事務局から「性的な表現が含まれている投稿作品に関するご連絡」というメッセージをいただいた。「性的な表現が含まれている作品の閲覧制限がR-18に設定されていなかったため、閲覧制限をR-18に変更いたしました」とのご報告。突然の連絡だったのでビックリして確認したところ、該当した作品は……
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セイレーンの絵だった。……なるほど。これでもpixivの規約では「性的な表現」になるのか。ボクからすれば、もっと官能的な表現ってたくさんあると思っていて、まさかこんなエロさの欠片もない絵が引っ掛かるとは思っていなかった。迂闊だった。
実は、この絵には明確なモデルがあって、古代ギリシアの壺絵を参考にしている。人間の上半身に対して海鳥の下半身が圧倒的に小さくて、これじゃひっくり返っちゃうよ、という古代ギリシア人の妙を、そのまんま持ってきて描いてみた。でも、これでも引っ掛かってしまうのかあ。
昔はドリフのコントで上半身裸の女性が普通に出てきて、両親が気まずい顔をしていて、見ている子供たちも淫靡なものを見たという居心地の悪さを感じていた。今の子供たちはそういう刺激がないまま育ってしまうので、耐性がなくなってしまう。それはそれで怖いことじゃないのかなあ。うーん。
まあ、プラットフォームの規約なので、文句は言わないけれど。さてはて。
2023年1月21日 『古事記』だけじゃなくて『日本書紀』も読まなきゃ!?
最近、精力的にウェブサイト「ファンタジィ事典」の「日本神話」を更新している。日本神話と言えば『古事記』だとずっと思い込んでいた時期があって、『古事記』をベースに更新していた。何故なら、『古事記』を軸に神話を解説している二次的な文献が多かったからだ。でも、最近になって、『日本書紀』を読んでみて、いやいや、『古事記』をベースにしていてはいけないのではないかと思い直した。
『日本書紀』にはなくて、『古事記』だけに登場する神やエピソードがたくさんあって、おそらく、こういうのは『古事記』の編纂者(要するに、天武天皇になるわけだが)がかなり意図的に書かせた部分だ。『古事記』にしても『日本書紀』にしても、一応、天武天皇が命じてまとめさせたことになっている。上納された年も、8年しか変わらない。それなら、どうして2つの書物が同時並行的に書かれたのかはよく分からないらしい。でも、天武天皇と言えば、日本の土着文化の掘り起こしに精を出していた人物だ。日本に古くからあった伝統的な神話や祭りなどを掘り起こして、整理しようという精神が彼の中にはあったはずだ。『古事記』にはそういう側面が強く打ち出されているのだろう。
一方で、『日本書紀』は複数の編纂者の合議制で編纂されていて、客観的にまとめられていると言える。中国の文献をモティーフにした表現も多い。想像だけれど、たくさんの知識人たちがああでもないこうでもないと整理したのだろう。だから、『古事記』よりも編纂に時間が掛かった。そういうことなのだろう。
その辺の2つの書籍のギャップを感じながら神話を整理する方が、本当は意味があるのではないか。最近になって、そんなことを思い始めた。だから、『古事記』と『日本書紀』を両方とも参照しながら、もう一度、日本神話の項目を再構築している。
2023年1月14日 遅まきながらのウサギの絵 第2弾
卯年なので描いたシリーズ第2弾として、アルミラージ。キラー・ラビットに引き続き、iPhoneで描いてみた。ソフトウェアはCLIP STUDIO PAINT。彩色までやってみた。コピックでやっていたようにはうまく塗れない。でも、iPhoneだけあれば描けるので楽ちんと言えば楽ちんだ。
アルミラージはアラビア伝承に登場するツノウサギだが、ヨーロッパには、こういう類いのツノウサギの伝承はたくさんあるので、そういうのもまとめて調べて、ウェブサイト「ファンタジィ事典」に掲載してみようと思っている。
2023年1月10日 一人称問題と「ボク」
YouTube「しらスタ」のおしらさんが先日、「一人称」について語っていた。彼の一人称が動画の中でしばしば「わたし」や「俺」で揺らいでいることから、しばしば「ビジネスおかま」を疑われるらしい。先日、知人から悪意なく丁寧に一人称の揺らぎについて質問され、改めて「一人称」について考えて、発信するに至ったらしい。
彼は動画の中で、学生時代、自分にしっくり来る「一人称」が見つからず、「一人称」を避けて会話をしていたと告白していた。実は、ここはものすごく共感するところだ。ボクも学生時代、一人称問題はすごく悩んでいた。「俺」みたいなたくましいキャラクタじゃないし、「僕」というのも子供っぽく感じる。「私」というのも女々しくて気恥ずかしかった。だから、ボクは会話の中で意識的に「一人称」を避けていた。日本語は英語とは違って、主語を省略しても文が成立しやすいので、誤解が生じない限り、一人称は使わずに会話をしていた。
英語だと単純に「I(アイ)」だけだ。そこには「性」のニュアンスはない。「役割語」もない。みんなが平等な「I(アイ)」だ。でも、日本語は主語にまつわるさまざまなニュアンスがついてまわる。「わし」と言えば老人っぽさ、「うち」と言えば女子高生っぽさ、「僕」と言えば幼児っぽさ、「俺」と言えばたくましさ……いろんなニュアンスがあって、おしらさん同様、ボクも自分にしっくり来る一人称を見つけられなかった。
大学生のときにウェブサイトを始めることになるが、そのときにオンライン上で「ボク」を使った。中性っぽくもあるし、カタカナにすることで、ちょっと架空っぽい印象もあって、初めてしっくり来る一人称を獲得したボクは、そのまま、大人になった今でも、この電脳空間の中では「ボク」を使っている。
ボクはおしらさんとは違う。おかまではない。ゲイでもない。恋愛対象は間違いなく女性だし、アイドルは大好きだし、深夜番組の性的な描写にも一丁前にドキドキする。でも、どちらかと言えば、中性的な性格なのだと思う。学生時代、多くの男子が好む球技にもヤンキー漫画にもプラモデルにもはまらなかった。ガンダムにもウルトラマンにも戦隊モノにも仮面ライダーにもはまらなかった。うちに引きこもる文学少年であり、華奢な自分が好きだった。多分、ボクは中性的でありたかったのだろうな、と想像する。だから、「俺」とか「僕」がしっくりこなくて、それでも、「私」とも言えなくて、その狭間で、「ボク」に至ったのだと思う。
正直、社会人になって、すごく楽になった。大人の社会においては、「私」は一番、ニュートラルな一人称だ。そんなことを、おしらさんのYouTubeを見ながら考えて、自分自身を振り返ってみた。
2023年1月7日 遅まきながらのウサギの絵
あけましておめでとうございます。遅まきながら、ウサギの絵をご紹介。今回は映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』(1974年)に登場するキラー・ラビット。一見、かわいらしいシロウサギのように見えて、近づくと飛び掛かってきて首を嚙みちぎられる。辺りは血の海だ。
例によって、iPhoneで描いてみたシリーズ。そろそろいい加減にタブレットを購入して、ちゃんとお絵描きしようよ、という声が聞こえてきそうだけれど、もうしばらくはこのままのスタイルでやってみようと思っている。
2023年1月3日 美しきタロットの世界
本屋に行ったら『美しきタロットの世界 その歴史と図像の秘密』という本が平積みされていたので読んでみた。ボク自身は、特段、占いをするわけではない。信じているわけでもない。でも、ウェブサイト『ファンタジィ事典』を運営する好事家のボクからすれば、「タロット」も研究対象のひとつに含まれる。
過去にいろいろな解説本があったけれど、この本の内容は知らないことばかりだった。当初のタロットが「占い」の道具としてではなくてカードゲームとして普及していたことも、占いの道具としては黄金の夜明け団によって広く普及した事実も、ボクたちがよく知っているタロットの図版を監修していたのが黄金の夜明け団のウェイトだったことも、ボクは寡聞にして知らなかった。世界各地のタロットをたくさん蒐集して展示している「東京タロット美術館」の監修なので、おそらくは妥当な記述なのだろう。とても面白かった。
本書のオススメのポイントは、17~18世紀のタロット(「マルセイユ版」)のイラストが載っているところ。何となく北欧神話の神々のイラストに似たような雰囲気の絵があって、それとウェイトの監修した「ライダー版」やその他の版の絵が紹介されている。こういうのは、東京タロット美術館が監修している強みだろう。
『美しきタロットの世界 その歴史と図像の秘密』(著:読売新聞社「美術展ナビ」取材班,監修:東京タロット美術館,祥伝社,2022年)
2022年12月7日 アカペラの可能性
ハイスクール・バンバンというアカペラグループがいる。5人それぞれが歌唱力・表現力が高くて圧倒される。一番再生されているのが「最強メドレー2021」で、2021年の音楽シーンを総ざらいして、メドレーになっている。圧巻なのは、メドレーの最後を飾るAdoの『阿修羅ちゃん』。その裏にYOASOBIの『怪物』の旋律を重ねてくるところは脱帽。ハイテンションでものすごく盛り上がる。歌唱としては、official髭男dismの『Cry Baby』が、独特の和音展開を声だけで表現していて、とても綺麗だ。
残念ながら、すでに2023年3月に解散することを発表している。そんな中で、先日、新曲が発表された。『CREATURE』。まさに彼らの集大成。その本気がモニタ越しに伝わってくる。作曲はメンバーのRUSY。作詞もメンバーの天音と伊吹。それぞれの見せ場では、個性が爆発している。何よりも、声だけでこの世界観を構築しているところが凄い。普通に、楽器で構成されている楽曲だと言われても、信じてしまうほど、違和感がない。
少しでも応援したいので、こうやって影響力は少ないものの、ここに掲載して多くの人に知ってもらいたいと思う。
2022年11月29日 神話のエピソード解説ページを構築中
10月からパキスタンに出張していて、音信不通になっていた。帰国してからは新年の雑誌づくりに余念がなかった。それもようやく落ち着いてきて、こうして日々の雑記を更新している。ウェブサイトを1か月以上、放置していてスミマセンm(_ _ )m
現在、緩やかに、シュメル神話の記事を準備中なので、乞うご期待。事典だけを粛々と作成しても「引き」がないので、『エンリル神とニンリル女神』とか『エンキ神とニンフルサグ女神』みたいなシュメル神話のエピソードを解説するページを構築しようかと思っている。そして、そこに登場する神々(あるいは怪物)を事典に追加していくイメージだ。実際の神話のエピソードを当たると、神々の関係性とかがうまく描けて、より深掘りした世界観を提示できるのではないか。そんなことを企画している。
2022年9月19日 玉石混交だけどいい時代。
ガシャドクロの出典のひとつに山内重昭氏の『世界怪奇スリラー全集 2 世界のモンスター』(秋田書店,1968年)とあったので、実際に読んでみようと思って図書館で借りてみた。昭和43年の本なので、 ボクが生まれるよりも10年以上も前の本だ。期待どおり、ガシャドクロの絵が描いてあった。腹部にたくさんの髑髏がくっついている。これが野垂れ死にした人間たちの髑髏なのだとしたら、おそらく身長は4メートルほど。目玉が飛び出ている。この本自体は山内重昭氏が著者だが、このコーナーは斎藤守弘氏が執筆したらしい(というか、別の雑誌で連載していたものを転載したものらしい)。このイラストと説明を見る限り、少なくとも斎藤氏は歌川国芳の浮世絵を念頭にこのガシャドクロを着想したわけではないのだろう。この文章を読んだ水木しげるが、歌川国芳の浮世絵と紐づけたとするのが正しそうだ。
それにしても、昭和の妖怪本はいい加減で、面白い。山内氏も、斎藤氏も、どちらもかなりいい加減に書いている。いろんな国の妖怪が紹介されているようでいて、出典がよく分からないものがたくさんある。オリジナルのものも紛れ込ませている。情報の程度は玉石混交だし、2ちゃんねる以上に、読み手側に能力が求められる。
本来は、大昔の原典(江戸時代とか)を当たって、「ああ、当時はこういう妖怪だったんだ!」と理解すればよいのに、昭和の妖怪本がいろいろと創作も交えながら、捻じ曲げていくので、昭和の本を読み解きながら、いろいろと妖怪の成立を整理していかなければいけないのは、とてもナンセンスだ。でも、それがきっと妖怪の本質なのだ、と最近は思えるようになってきた。ゆる形而上学ラジオ的に言うなれば、存在はするけれど、実在はしないので、人々の頭の中でどのように顕在したか。顕在の形こそが妖怪の本質なのだから、昭和の妖怪本が不正解なわけではない。昭和の妖怪本の中に顕在したのだから、それもそれで妖怪としては正解なのである。……と最近は思っている。
意外といい加減なこの本で、遮光器土偶を宇宙人だと唱えたデニケンの主張を踏まえて、山内氏は勝手にその遮光器土偶のモデルになったであろう宇宙人のことを「テラコッタル」と命名している。昔、pixivで「テラコッタル」という名称で遮光器土偶を描いている人がいて「何それ」と単なる駄洒落かと一笑に付していたら、実は山内氏がそのように命名していたらしい。今になって了解した。そして「テラコッタル」と一緒になって「ジャバレン」という名称で、タッシリ・ナジェールの岩絵の巨人も紹介されていて、何でもありありでとても面白かった。真面目な本よりも、こういう何でもありでゴチャマゼになっている本の方が、子供的には遥かに想像力を刺激されて、妖怪好きになるよなあ、と思った。そういう意味じゃ、いい時代だったし、そうやって育った子供は想像力豊かになるなあ、と思った。
2022年9月10日 ドキドキもせず、落ち着く気持ちになる範囲で「ぼくが作った」と断言する凄さ!!
9月2日に、水木しげるの生誕100周年の「百鬼夜行展」に行ってきた。生憎、天気はよくなかったし、東京は少しだけ眩しかった。その上、六本木ヒルズの中で迷い込んで、なかなか東京シティビューに辿り着けなかった。でも、いろいろと示唆に富む展示で、楽しかった。今まで、水木しげるの妖怪についてまとめた図鑑の類いは読んでいたが、直接の漫画や伝記の類いは読んだことがなく、どの程度、水木しげるが自覚的に妖怪を創造し、模写していたのかがよく分からなかったが、結構、考えに考えて、かなりの部分、意識的に妖怪を写し、妖怪を創作していたことが分かったのが一番の収穫だった。
「妖怪の姿形については、昔から形の定まっていると思われるものはそれに従い、文章だけで形のないものはぼくが作った」
これは水木しげるの言葉らしい。ここで水木しげるは『ぼくが作った』と明言している。「描いた」のではない。「作った」のだ。しかも、水木しげるは鳥山石燕や竹原春泉斎などの古い時代の妖怪の画集もかなり収集している。そして、既存の絵が残されている妖怪については、それに従ったわけだ。創作をしないで、そのまま写し取った。かなり意識的にやっている。そういう妖怪との向き合い方だったことが分かって、ボクは単純に感動した。
実は、父が『週刊朝日百科 動物たちの地球』を毎週、購入していた。この雑誌の最後のページに水木しげるの妖怪コラムがあって、ボクはそこで初めて『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』などで知られる漫画家ではない、妖怪研究家としての水木しげるに出会った。そして、父親にねだって、1992年に岩波新書が発売した水木しげるの『妖怪画談』から連なる4作品を購入した。中学生の頃だと思う。その後、講談社+α文庫の『図説 日本妖怪大全』とその続編を自分のお金で買った。妖怪研究家としての水木しげるとの接点はそれだけだ。絵はとてもいい。でも、意外と文章がいい加減だな、というのが、当時の正直な感想だった。非常に感覚的で、個人の感想みたいな解説だな、と思っていた。
でも、今回の展示を見て、ちゃんと下調べしていたのだな、というのが分かった。下調べした上で、いい加減に書いていたのだ。それがいいじゃないか、と思った。しかも、「ぼくが作った」と断言した後に、
「しかしそれはあくまでも祖霊たちが『うん、それでよろしい』と言うような形にしておいた。祖霊たちがイエスかノーかは、形を作るときイエスの場合は心静かであり、ノーの場合はなんとなくドキドキして落ち着かない」
と書いている。ボクも最近、妖怪の絵を描いていて思う。オリジナリティを詰め込み過ぎて、明らかにやり過ぎたな、と思うときとか、違ったな、と思ったときには、アップロードしたときにものすごくドキドキする。これでよかったのだろうか、と煩悶する。そういうものなのだと思う。だから、とても、水木しげるに共感した。共感して、ドキドキしない範囲で「ぼくが作った」と言い切れることに、ボクは感銘を受けた。
2022年8月30日 ガシャドクロ推し!?
のん(能年玲奈)のYouTube『のんやろが!ちゃんねる』にて、「のん、妖怪に会いに行きました。」が公開されている。水木しげるの生誕100年を記念して、六本木の東京シティービューで「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~」を開催しているらしい。のんが、とても楽しそうに妖怪を紹介しているので、動画を見ているこっちまで楽しくなる。
彼女は今回、何故か「ガシャドクロ」をもの妙に推しているので、ちょっとガシャドクロについて紹介しておきたい。
実はガシャドクロは比較的、新しい妖怪で、昭和になって妖怪本が出版される中で生まれたものだ。元ネタは歌川国芳の浮世絵『相馬の古内裏』で、十数メートル程もある巨大な骸骨が大宅太郎光国に襲い掛かっている。この浮世絵はすごくて、当時は蘭学の影響もあって、解剖学が日本に入ってきているので、かなりリアルな骸骨を描いていて、迫力がある。で、実は、この浮世絵のモチーフになっているのは、江戸時代の山東京伝『善知安方忠義伝』で、滝夜叉姫がたくさんの骸骨を呼び出して、大宅太郎光国を襲っているシーンなのである。歌川国芳は、このたくさんの骸骨を描かずに、巨大な1体の骸骨にして描いた。この迫力のある浮世絵に着想を得て、昭和の妖怪本の中で、たくさんの骸骨が合体した妖怪として、「ガシャドクロ」が説明されるようになった。
だから、元々の浮世絵『相馬の古内裏』に登場する妖怪は「ガシャドクロ」とは呼ばれていないし、当時の作品に、骸骨が合体する妖怪という物語が伝わっているわけではない。あくまでも、歌川国芳が浮世絵を描くときに、たくさんの骸骨を描くのではなく、巨大な1体の骸骨にデザインしたのである。骸骨をたくさん描くのが面倒くさかったのかもしれないし、「たくさんの骸骨」というのを「巨大な骸骨」にすることで迫力を出したかったのかもしれないし、その方が構図として面白いと思ったのかもしれない。いずれにしても、昭和になって、この浮世絵から「ガシャドクロ」という妖怪が着想されたのである。
2022年8月21日 情報リテラシ
しばしば、有名人が裏アカウントを作って、SNS上で誹謗中傷コメントをして、それが発覚して炎上するケースがある。最近もYouTuber界隈で少しだけそんな話題があって、炎上している……もとい、大抵の場合、言うほど炎上はしていなくて、「炎上」という記事が人を呼び込んで炎上に仕立て上げられている格好になっている。
何だろうな。今回、炎上している人が、結構、すらっと背が高く、サバサバしたキャラクタを演じる人物だったので、意外だった。今後の彼女のキャリアに、結構、ダメージがあるのかもしれない。自己愛が強い人というレッテルは貼られるのかもしれない。ボク個人としては「人として有るまじき行為」とまでは思わないけれど、運営も突き放した冷たいコメントを発信していて、どうなるのかなーと遠巻きに眺めている。
裏アカ流出というのは、よくニュースになるけれど、そのたびにボクは、どうして裏アカを作るのかなあ、と疑問に感じる。彼女、彼らにしてみれば、公式アカウントでは窮屈なのだろうか。常に業務としてブランディングして発信するのはしんどいのだろうか。あるいは、事務所に管理されて自由に発信ができないのか。プライベートな記事を仲間内で共有したいのか。いずれにしたって、流出して問題になるような書き込みをするのは、あまりにレベルが低い。一般人の書く狭い範囲のSNSだって、やっぱりそれなりに、第三者的な目を意識しながら情報発信する必要があると思っていて、特にボクは就職してからは、社会人として、自覚ある書き込みをしなきゃいけないな、と常々、気を引き締めている。それが影響力のある有名人なら尚更だ。情報リテラシが低いのだなあ、と思う。そして何より、一番の疑問は、どうしてバレるのか。やっぱり、身内に敵がいるということか。
こういうニュースは、勝手ながら、いろんなことを考えてしまうんだけれど、今や1億総情報発信時代。結局、彼女の失敗を他山の石として、特に若い世代の人には情報リテラシを学ぶ機会にして欲しいし、自分も改めて戒めていかなきゃいけないな、と思う。
2022年8月9日 息子に引かれる
最近、息子は学童でコロコロコミックスを読んでいるようだ。何の漫画か分からないが、そこにテケテケが出てくるらしい。「知ってる?」と尋ねてくるので、誰に向かって物を言っているのかと、予定にはなかったけど、絵にしてみた。息子に「どう?」と見せたら、ドン引きされた。リアルすぎたらしい。
そんなわけで、大分、iPhoneとタッチペンでのお絵描きに慣れてきた。段々、紙に描いているのとそんなに変わらない絵になってきた気がする。
2022年8月8日 さらに描くものたち!
ここのところ、すっかりiPhoneとタッチペンで絵を描くことにハマっている。
iPhoneのイヤホンジャックにタッチペンを挿すだけ。これだけで準備完了だ。これはいい。今までなら、A4の紙や複数のGペン、2Bの鉛筆、消しゴム、ライト版などを準備していた。卓上のスペースも必要だった。でも、今はスマホ片手にタッチペンがあれば、どこでも絵が描けるし、いつ中断しても、片付けもいらない。本当に隙間時間に進められるところまで描いて、途中でやめられる。
しかも、若干、邪道で罪悪感に苛まれるんだけど、何度でもやり直せる。気に入らない線になっても、「戻る」ボタンひとつでやり直せてしまう。だから、何度でも気にいるまで線を引き直せる。これは大きな違い。紙にGペンで描いているときには、えいや、と覚悟を決めて線を引く。そして、これは元には戻せない。「あ、しまった!」と思っても、やり直せないのだ。そりゃあ、緊張感があった。デジタルには、そういう緊張感がない。気持ち的にはかなり楽になる。
2022年8月5日 SNSのチカラ!?
よよよちゃんが荒牧陽子さんとコラボしたYouTUbeの動画を貼っておく。別に、彼女の動画それ自体に何か意味があって紹介しているわけではない。概要欄を見て欲しい。ここに彼女の素直な、そしてストレートなコメントが書いてある。
「お仕事に関係なく、私たちは勝手にどういう人間なのかイメージされてしまうことがあります」
「本当にやりたいことだったはずなのに、そうだったか自信を持てなくなる時があったり、弱音を吐いてもどうにもならないとわかっていても、本当はこんな人間だって知ってほしくなる時がある」
「いつもとても謙虚な陽子さんに『私は最強』って歌って欲しかったし、”荒牧陽子”という追いかける背中があっての私だから、『あなたと最強』って歌いたかった」
たまたまYouTubeによよよちゃんのこの動画をオススメされて、気になっているAdoの楽曲だったこともあって開いてみて、何故か概要欄を見た。そして「ああ、こういう気持ちでコラボに臨み、歌ったのか!」と、何だか心を動かされてしまった。
SNS時代は「共感」が決め手だと言われる。自分の偽らざる気持ちを発信できる場だし、それって確実に共感を呼べる。その連鎖が広がっていく。この動画がバズるバズらないではなくて、こうやって、よよよちゃんがストレートなコメントを書いていることに、ボクは共感したし、こういう使い方が本当のSNSのチカラだよなあ、と痛感した。
ボクは結構、淡々と事実を書くことが多いけど、でも、こうやって感情を込めて書いた方が伝わるので、ボクにとってはとても学びが多かったし、改めてSNSで情報を発信する意味とか、SNSの強みみたいなものを再認識した。ここから先、ボクはもう少しだけ素直に、感じたことを発信してもよいのだと思った。
2022年8月1日 新しい一反木綿のご提案。
引き続き、iPhoneとタッチペンによるお描きで一反木綿を描いてみた。
新しいタイプの一反木綿のご提案である。どうしても一反木綿というと、水木しげるのステレオタイプの絵を連想する。吊り目で、細長い三角形で、手が生えている。でも、実際には、水木しげる以前には、絵にして可視化されたことはない(と思う)。だから、本当の姿は分からない。だから、試しに横向きにしてみた。こういうウツボやリュウグウノツノツカイみたいな魚っぽいデザインはどうだろう。ウネウネして、少し気持ち悪いのではないか。
2022年7月31日 スマホで実際に妖怪を描いてみた!!
ファンタジィ事典にもう少しだけエンタメ要素を足そうと思っても、事典という形式上、なかなか面白くならないので、せめてイラストを足してみるという戦略に切り替えた。そこで、パキスタン出張に画材道具一式を持って行ったら、結構、大荷物になって大変だったので、スマホだけで完結できる方法をここ最近、ずぅっと模索していた。
しょこたんがiPadにClip Studioをインストールしてさらさらと絵を描いていたので、ちょっとそれに倣って、でもタブレットは持っていないので、Clip Studioをスマホにインストールして、タッチペンで絵を描いてみた。描いてみたのはアラビア伝承の精霊ジャーンとジンニーだ。
ペンの抜きの感覚が慣れなくて、あらぬ方向に線が撥ねてしまうのだけれど、でも、何とかスマホで絵を描くことには成功した(と思う)。道具というのは慣れなので、経験を積めば、感覚も掴めて、いろんなことができるようになるだろう。
こうやって、イラストをファンタジィ事典に盛り込んでいけば、少し事典としての面白さと価値が増すのではないか。そんな期待をしている。しかも、彩色せず、白黒にすることで、まさに事典っぽさが増すので、ちょうどよい気もしているが、さてはて。