2025年1月24日 メールのほうが面倒臭くないか!?

「年賀状じまい」が話題になっている。まあ、ペーパーレスが叫ばれる時代に手紙を送るってどうなのよ、という声が出るのは分かる気はする。手紙だけの関係性を続ける意味なんてないじゃん、という声も、まあ、分からないではないかな。

ボクは、もう10年以上も前から、年賀状に代えて「近況報告の本」という12ページの冊子を送るというスタイルにしているので、ある意味では「年賀状」という形はやめてしまった。一応、表紙は干支に因んだイラストにしているが、喪中の人にも配布する関係で「あけおめ」みたいな表現もなくしてしまった。実は、家族会議の中では何度も「年賀状の代わり」ではなく「クリスマス号」にするという案が浮上してはいるのだが、今のところ、1年間を振り返った本をお正月にお届けするという意味では「年賀状の代わり」という位置づけは維持している。稀に面倒くさくなって、12月末に届くケースもあるんだけど、まあ、その辺はご愛敬というヤツだ。

閑話休題で、そんなこんなで、毎年、新年に向けて小冊子を送っているものだから、「年賀状じまい」を希望する人々にちょっとしたさざ波を起こしている。要するに、あちらとしては年賀状は止めたいんだけど、こちら側が送付する小冊子はこのまま送り続けて欲しいなあというムーブだ。で、どうなるかと言うと、年賀状は届かない代わりにメールを送ってくるというアクションになる。そして、「こちらは年賀状は止めたけど、来年も雑誌を楽しみにしているよ」みたいな文言が書いてある。

年賀状の最大の利点は、送りっ放しにできるところだ。こちらの近況をお伝えしつつ、向こうの幸せを祈念しつつ、それで終われる。ある意味では、送って知らんぷりできる。でも、こうやってメールで送って来られると、返信しなきゃいけない気がする。返信できる分、容易に繋がれる感じがする。そちらの方が、感覚としては手紙よりもディープな繋がりという感じがする。年に1回のコンタクトがメールだと、実はそっちの方が重たくなってしまう。

そんなわけで息苦しくなってしまって、年賀メールじまいをしたくなる今日この頃である。もう1月も終わろうとしているけれど、ほとんど返信はしていない。ふふふふふ。