《日々の雑記》

2021年3月15日 息を吸うようにCOVID-19

新型コロナウイルス感染症が蔓延した1年前の4月、5月は、ホントにみんなピリピリしていた。咳ひとつしようものなら痛いほど視線が突き刺さる。互いに監視して、ちょっとでもはみだしたら、集中砲火。ウイルスよりも人々の悪意が怖くて、外に出るのが嫌になった。

1年経って、もう、みんなの気は緩んでいる。ワクチンを打つみたいな対処法が見えては来たものの、でも、多分、秋頃になるのだろうな、と思っている今、実リスクは1年前とそんなに変わっていない。それなのに、人混みで、明らかにソーシャルディスタンスを踏み越えて身体を寄せ合うような場面になっても、不快感や恐怖は感じない。誰も何も言わないで押し黙っている。順応してしまって、麻痺してしまった。

1年前は、ものすごく警戒したのになあ。この距離感。こうやって、新型コロナウイルス感染症が日常の一コマのようになっていく悲しさだ。

2021年3月14日 動画よりも文字の方が、情報の質の見極めは早いのでは!?

最近、いろいろなハウツー系の情報が、YouTubeに掲載されるようになった。Googleで検索して、上位に出てくるのが、YouTubeだったりする検索結果もある。聞いた話では、最近、何か情報を得るために、最初からYouTubeで検索する新人類もいるらしい。これ、ボクは個人的にすごく嫌な傾向だな、と思っている。発信者側からすると、うまく行けば、YouTubeから広告収入を得られるので、それを狙っているのだろう。でも、受信者側からすると、動画だと、情報の品質、求めているものとの合致度合い、その内容の妥当性を瞬時に判断しづらい。文字情報だと、流し読みすれば一瞬で分かるので、読むか読まないかを判断できる。でも、動画だと、正直、分からない。その人の編集技術とか、喋り方とか、画質とか、いろんな要素があって、本質的な「情報」という意味での是非は、しばらく見てみないと判断ができない。だから、非常に残念なことだけど、ボクはGoogleから飛んだ先が動画だった場合、立ちどころにブラウザを戻してしまう。情報の質が高い可能性もある。参考になるのかもしれない。でも、それをジャッジする時間がもったいないからだ。

最近は音声の時代とも言われていて、ながら聞きができるという意味で、ラジオが見直されている。運動しながら、料理しながら、通勤しながら、音声で情報を得る形だ。おそらく、ライフスタイルとしては、それもありで、だからこそ、ウェブラジオみたいなスタイルが流行っている。こういうのも、実は有益かどうかのジャッジは聞いてみるまでは分からない。だから、ラジオで言うところのパーソナリティみたいな人の是非で質をジャッジするしかない。

一億総情報発信時代だ。情報を発信する人は、ツールの特性を理解しておく必要があるし、受け手も、プラットホーム検索で何でもYouTubeやInstagramの中で完結して検索しないで、有益な情報にアクセスする方法を考えた方がよいだろう。たとえば、コーヒーを淹れているときの泡立ち方はどんなものなのか、お湯の注ぐスピードって、どんなものなのか。こういう視覚情報をゲットしたいときに、初めて、YouTubeのハウツーが有効になる。多分、運動の仕方みたいなものやダンスの仕方みたいなものも、向いている。でも、文字情報の方が優れたプラットホームである場合の方が、多分、多い。

2021年3月13日 「顔出し引退」って何ぞや!?

昨晩は、オリラジのあっちゃんが「顔出し引退」などと宣言していて、ボクはちょっと衝撃を受けて眠りについた。いろんなことを考えてしまった。ノリにノッているYouTube番組『Win Win Wiiin』はどうなるんだろうか。雨上がり決死隊の宮迫と共同で投資して始めた事業だったのではなかったのか。そして、一緒に吉本を退所した相方の慎吾ちゃんはどうなってしまうのか。

そもそも「顔出し引退」とは何ぞや。嵐のニノの結婚相手は「一般女性」となっている。つまり、芸能人に「引退」というのはあるらしい。それなら「顔出し引退」とは何ぞや。たとえば、声優で顔出ししていない人がいる。VTuberで顔出ししていない人がいる。覆面レスラーもいる。ふなっしーとかラファエルみたいなキャラクタもいる。そういう状態になるということか。たとえば、ニュースなどで「中田敦彦」の顔写真を使うことを許可しないということなのか。

でも、そういうのは難しいと思う。「引退」というのは、芸能人の独特の文化なのだ、と思う。たとえば、会社経営者とかスポーツ選手とか、そもそも最初っから、宣材写真なんてないので、顔出しOKにしたつもりなんかないんだろう。たとえば、小室圭さんなんか、元々一般人で、今でも一般人なのに、ああやって報じられる。「顔出し引退」を宣言して顔を使わない判断をしてくれるとしたら、芸能界って優しいな、と思う。それこそ、ニノの結婚相手みたいなものだ。でも、今は全人類が情報発信者だ。本人が望む望まないに関わらず、全人類が情報を発信する。事実上の「顔出し引退」ってできないのでは? ……それを成し遂げてしまうのがあっちゃん流の武勇伝で、何か考えがあるのかしら(笑)。

2021年3月12日 仕事の持続可能性を考慮する

仕事で動画作成をするとき、しばしば、Adobe Premiereを使って動画編集をして、YouTubeにアップロードしていた。でも、Adobe Premiereはボクの私物なので、仕事として持続可能なスタイルではない。ボクしかできないし、ボクがいなくなったら続けない。だから、ちょっと別のソフトでやれないかな、と思って、フリーソフトをいろいろと模索していた。

大抵は、動画で不要な箇所を切って繋げる作業と、複数の動画を繋げ合わせる作業だ。加えて、テロップを入れる作業。そのくらいがやれれば十分だ。それを効率的にやれるソフトとして、今日はShotcutを使ってみた。音の山が大きく表示されるから、切るべき場所が分かりやすいし、操作も簡単だ。出来上がりの解像度も下がらない。いいじゃん。

というわけで、マニュアルをつくってみようか、とZoomを立ち上げて、Shotcutを操作している動画を作成している。簡単にいろんなことができる時代だなあ。

2021年3月11日 各種ウェビナーの聴講は仕事として認めるべきか否か問題

新型コロナウイルス感染症が流行して、逆説的にいろんなことのオンライン化が進んだ。それは歓迎すべきことだ。でも、少し気になることもある。今日はそれについて書いてみたい。

最近、いろんな会議がオンラインになって、自席で参加できる。あるいはウェビナーと題して、世界中の人と繋がれて、いろいろな人がオンライン研修やウェビナーを開催する。こういうのも自席からアクセスできる。便利と言えば便利だけれど、情報過多になっている気がする。今までだったら参加しなかったはずの会議や研修、セミナーに容易にアクセスできるので、猫も杓子も参加するようになった。ともすれば、職場の半分くらいの人が、イヤホンを耳に、ふむふむ、とばかりにウェビナーを聴講している。

たとえば、ね。同じ職場から5人も6人も「会議に行ってきます!」なんて出掛けようものなら、課長が「待て、待て! そんなにみんなで行くな」と言うはずだ。でも、自席で会議を聴講したり、研修やウェビナーにアクセスできてしまうと、本来、やるべき自分が抱えている業務と、会議や研修の聴講の線引きが曖昧になる。

知らないよりは知っている方がいい。だから、折角の機会だから聴講しよう。多分、そういう発想なのだろう。でも、何を聴講するにも時間コストは掛かる。時間コストを投じてでも知っておくべきことなのか。それをちゃんと考えた方がいい。

「会議で発言しないのは参加していないのと同じ」とはよく言われる。折角の機会だから情報を得るために聴講しようというのは、もっとちゃんとその必要性を精査しないといけない。最近、みんな、いろんなウェビナーを聴講して、それで働いた気になっている。生産性が下がっていないか?

2021年3月8日 飽きっぽさと継続性とマルチタスク

結構、ボクは好奇心旺盛で、いろんなことに手を出すけれど、その一方で飽きっぽくもある。飽きっぽいというのは、決して、最終的に飽きてしまうわけではない。たとえば、ウェブサイト運営も、2003年からやっていて、htmlが下火になっている今でも、継続している。お絵描きも、うまくもないのに、小学校のときからずぅっと飽きもせず続けている。だから、大局的に見れば、全ッ然、飽きっぽくはないのである。「何事も10年」を本気で信じてコツコツと続けていくスタンスだ。

正直、絵なんて、小学生のときには苦手なジャンルのひとつだった。10年やって、ようやく人並みになった感じがする。まさに10年が経ったそのタイミングで、ようやく自分で許容できるレベルになった。そんな印象がある。

でも、短期的にはものすごく飽きっぽい。飽きっぽいからこそ、ひとつのことを続けられない。投げ出してしまう。だから、多方面に手を出して、あれをやってこれをやってを繰り返して、総合的に全部を続けている。そういう性分なのだと思う。

こういうのを時代の言葉で言うと「マルチタスク」というのかもしれない。仕事も、ボクは同時並行でいくつでも進められる。でも、ひとつのことばっかりに掛かりっきりになると、多分、飽きてしまうのだろうな。

2021年3月7日 バラバラ散漫雑記

今日は、ちょっとバラバラと散漫な雑記を書いてみよう。

息子のツクル氏の幼稚園時代の友人が家に訪問した。レゴマリオとWiiで遊んでいる。緊急事態宣言下ではあるので、どうなのか、という声もあるかもしれない。でも、子供がこうやって触れ合って遊ぶという体験は、新型コロナウイルス感染症なんかのために奪われていいものではない。そういう意味じゃ、我が家に遊びにやることに同意してくれた友人の両親にも感謝だ。

新コロに絡めてもうひとつ。地元の親たちの会合があって、本日、妻のちぃ子が参加した。何とZoom会議だ。これもいいよね。40分以上、やっていたので、誰かが有料のアカウントをゲットしたのか、会社のアカウントを勝手に使っているのかは分からない。でも、親たちの会合も、こうやってオンライン化が進んでいく。

そして、ボクはフランス伝承を調査。タラスクガルグイユグラウィリ。結構、フランスの竜退治って、地域によって類似の話があるのだなあ。そして、お祭りになっている。それもまた、面白いな、と思った。

2021年3月6日 ワンピース的観光地に行ってみたくなったよ!!!!!

たまたまAmazonで調べ物をしていたら、『るるぶ ONE PIECE』がオススメされて、そのまま勢いで購入してしまった。それが届いたので読んでいる。面白い。何が面白いって、るるぶ編集部が総力をあげてワンピース的な場所を調べて掲載しているらしいのだけれど、尾田っちの絵との一致の度合いが半端ない。元ネタなのか、偶然の一致なのか、その辺は分からない。でも、尾田っちはかなり初期の頃から、ちゃんと舞台を想定して、下調べして世界観を確定して絵を描いていることになる。

尾田っちの絵は結構、デフォルメされている。でも、ちゃんと動物はよく調べられているし、特徴を捉えている。そういうところにフォーカスして絵を捉えていたけれど、実は背景の建物も、ちゃんと練りに練られて、調べに調べて検討されているとしたら、ものすごいことだ。そんなことに感動してしまった。

2021年3月5日 鍼治療の拷問をくぐり抜けて……

実のところ、ここ1か月くらい、背中から首にかけて、わずかに痛みが走っている。毎朝、憂鬱になる。酷いときには、夕方頃、痛みが増して動けなくなる。それでも、ボクが主催のオンライン研修やウェビナーが立て続けにあって、ボク自身が登壇するしかないので、騙し騙し、歯を食いしばってやってきた。それらがようやく一段落した瞬間、もう、出勤できなくなってしまった。2日くらい休んで、病院に行く。僧帽筋が固まっているらしい。オンラインでの会議や研修、セミナーが立て続けにあって、そのためのPowerPointをつくったり、モニタ越しのコミュニケーションをしたり、動画編集をしたりしていたのが原因らしい。そして、鍼治療を試みる。

鍼治療は一種の拷問だと思う。筋肉に細い鍼が刺さった瞬間に鈍痛があって、ぎゃあ、と叫びたくなる。それを歯を食いしばって抑え込む。あっちに刺され、こっちに刺され、悲鳴を押し殺して、15分くらいの地獄の時間。ちょっとした緩急の「緩」のタイミングで冷静になって「ボクは一体、何をしているんだろう」と思って、逃げ出したくなる。そして、鈍痛に襲われる。……それでも、終わってしまうと楽になる。禁断の黒魔術だな、と思う。

2021年3月4日 安倍晋三はお友達!?

久々にfacebookを巡回していたら、お友達候補に「安倍晋三」が出てきた。悪戯や冗談の類いかと思ってクリックしたら、どうやら本物だ。安倍晋三の総理大臣時代のいろいろな出来事を彼が綴っていた。誰か、安倍晋三とお友達になったのだろうか。どういうアルゴリズム? Facebookのアルゴリズムも当てにならないなあ。

2021年3月3日 英語ができる人が羨ましい。

英語は昔っから苦手だ。学生時代、体育の次に苦手だった。基本的には、ボクは訓練が必要な科目は苦手なことが多く、子供のときから、九九を覚えるとか、公式を覚えるとか、地名や年号を覚えるみたいなことには意味を見い出せなくて、結果、得意ではなかった。その意味では、英語も、英単語を覚えるとか、文法を覚えるということに興味が湧かなくて、畢竟、苦手な科目になった。結局、本質的には努力家ではないのだ。センター試験で200点中、130点くらいだった記憶がある。

でも、さすがにずぅっと海外を飛び回っていたので、今ではその苦手意識も大分、薄れてきた。それでも、得意ではないな、と感じる。会話はできる。相手に何か言われたときに、即座にレスポンスすることも、言い合いをすることもできる。だから、今のところ、業務上、不都合はない。でも、文法は滅茶苦茶だし、細かいニュアンスは伝えられないな、というのは常に感じている。おそらく、公式の場で、ちゃんとしたスピーチをしろ、と言われると、ちょっと不適切だろうな、と思う。あくまでも、現場レベルの会話ができるだけだ。

本日は、南アフリカの方々とテレビ会議をした。ボクが体調を崩していたところもあって、準備にあまり携われていなかったので、後輩に資料作成、ファシリテーションを全部、託した。彼はTOEIC満点で、帰国子女なわけだけど、流暢だ。相手との会話のキャッチボールも淀みなく、時折、ジョークも飛ばし、和気藹々と議論が進行していく。やっぱり、こういうことだよなあ、と思う。細かいニュアンスも敏感にキャッチできるし、何より、相手側にストレスがない。

勿論、語学力が全てではない。英語が得意だからオールオッケィということではなくて、普段から日本語でちゃんとコミュニケーションがとれない人は、英語でもとれない。今回の場合、彼は日本語においてもちゃんと頼れる後輩で、信念もあるし、同じヴィジョンを共有して仕事ができている。日本語でも論点も明確に伝えられるし、交渉も任せられる。その上で、英語ができるということがとても大事なのだけれど、心の底から、ああ、敵わないなあ、と思った。やっぱり、英語ができるっていいなあ、と。

一朝一夕にはできるようにならない分野はいくつかあるが、英語もそのひとつだ。学生のときに、ちゃんとやっておけばよかった、と思う。

2021年3月2日 ベヒモスは《カバ》でレヴィアタンは《ワニ》であるという不都合な真実

久々にゆっくりと休んで、ウェブサイト「ファンタジィ事典」を更新。ベヒモスレヴィアタンを更新した。

ベヒモスが旧約聖書『ヨブ記』に登場することは有名だけど、じゃあ、『ヨブ記』を読んだことがあるのか、というと、読んでいない人が多いのだろう。でも、今はインターネットで何でも読める時代だ。Wikipediaの「ベヒモス」を見れば『ヨブ記』40章15-23節に登場することが分かる。そして、今度はWikipediaの「ヨブ記」に飛べば、Wikisourceで日本聖書協会の『明治元訳旧約聖書』(1953年)と『口語訳旧約聖書』(1955年)が引っ掛かる。従って、聖書を持っていない人でも、実は『ヨブ記』は読める。

というわけで、『ヨブ記』の40章15-23節を読むと、どちらにも「ベヒモス」は出てこない。実は「ベヒモス」はどちらも《河馬》と訳されている。ちなみに41章1節には「レヴィアタン」が登場するはずだが、これも「わに」あるいは「鱷」となっていて、「レヴィアタン」は出てこない。

ちなみに、ちょっと英語が出来れば、簡単にヘブライ語の『ヨブ記』を引っ張り出すこともできて、そこにはちゃんと「ベヒモス(בְהֵמוֹת)」も「レヴィアタン(לִוְיָתָן)」も出てくる。要するに、現在では「ベヒモス」は《カバ》と訳され、レヴィアタンは《ワニ》と訳されているということになる。それなら、ベヒモスは《カバ》でレヴィアタンは《ワニ》だ、とWikipediaで説明してもよさそうだし、神話系のウェブサイトで説明していてもよさそうだけど、そういう説明はない。やっぱり、ベヒモスやレヴィアタンを調べる人にとっては、ベヒモスが《カバ》で、レヴィアタンが《ワニ》であっては不都合なのだろうな、と感じる。

その当時(つまりヨブ記が書かれた紀元前7~4世紀)に、そういう認識だったのかどうかは分からない。少なくとも、カバの尻尾は杉のようではない。それに、現在では少なくともカバもワニもヨルダン川には棲息していない。ナイル川にはいたはずなので、そういう記憶が伝わったのかもしれない。でも、カバとワニだったら、確かに人類にとっては恐ろしい敵で、そこから着想してモンスターになったというのは、ない話ではないよなあ、と思う。だから、まあ、現在の聖書でカバとかワニとか訳されていても、それはそれで妥当ではあるかな、と感じる。勿論、ベヒモスはベヒモスであり、レヴィアタンはレヴィアタンなのだけれど。

2021年3月1日 自分が書きたいことを書くのではなく、相手が読みたいことを書く。

ボクもそんなに文章がうまい訳ではない。ついつい、自分が書きたいことを書いてしまう。でも、本当は相手が読みたいことこそ書くべきだ。文章を書くときに、読み手のことを想像することはとても大事で、ボクも、極力、読み手に思いを馳せて書くように心掛けている。

同僚の書いた「報告書」が酷くて、先方に受け入れてもらえなかった。それで、金曜日から、蜂の巣を突いたような大騒ぎになっている。自分で言うのも憚られるが、ボクは「報告書」を書くのが比較的、得意だ。多少、ロジカルじゃない部分があって、それは直されることもあるが、今まで「報告書」を書いて、先方から高い評価をいただいている。だから、駆り出された。でも、みんな、ボクが書いた文章にどんどん手を入れて滅茶苦茶にする。曰く「こんなに細かく丁寧に書いたらツッコミが入る」ということらしいが、細かく丁寧に書くのは、読み手が何も分からない前提だからだ。多少、くどいくらいに、いろんな情報を省略せず、説明してあげるから、どんな読み手も分かるのだ。それを怠って、自分勝手に書くから、受け入れてもらえない。そんなことを感じて、難しいもんだなあ、と思っている。

2021年2月28日 スタイル

他の人から自分がどういう風に見られているのか、正直、分からない。でも、間違いなく「うまくやっている」と思われているだろうな、と思う。「うまくやっている」というのは、失敗していないとか、成功が多いという意味だ。だけど、失敗がないのかというと、決して、そういうことではないのだと思う。自分の中では、日々、失敗の連続である。でも、他の人には失敗しない人だと思われているのだ、と想像する。

最近、そのギャップが大きくなってきたな、と感じる。「任せて大丈夫」と信頼されているうちは楽しかったし、「どんどん仕事持ってこい! 自分に任せろ!!」と思って引き受けていた。自分の持てるだけのパワーで、最大の成果を出せばよいと思っていた。でも、段々、そうじゃないフェーズに入っているな、と自覚している。つまり、若手じゃなくなったのだ。チームから自分が抜けることも想定しなきゃいけない。自分がいなくなった後に、誰かがそれを引き継ぐ。その人たちが自分の仕事をやらなきゃいけない。段々、自分の裁量権でできることが増えて、決められることが増えたときに、自分の能力で仕事を進めると、持続可能でなくなることが見えてきた。

そうなったときに「失敗しない人」という評価はよくないな、と思った。もちろん、ボクは自分のことを「失敗しない人」だなんて思っていないし、そんな喧伝をしているわけじゃない。毎日が失敗の連続だと思っている。勝手に周りの人が「失敗しない人」というレッテルを貼っているだけだ。でも、最近、そういうのが邪魔になってきた。「いやいや、私はあなたみたいにはできません」とか「あなただからできる仕事で私には無理」みたいなことを言われることが多くなった。そんなことはないはずだ。でも、実際、そういう風に言われてしまう。

言葉が適切かは分からないけれど、自分は高圧的なのかな、と思った。「成功」というパワーで相手にプレッシャーを与えているのかな、と。だったら、失敗を開示するべきかな、と思った。失敗している自分をもっと見せていくべきなのかな、と。誤解して欲しくないのは、決して、失敗を隠しているわけじゃない。失敗は何度もあるんだけど、最後の最後まで諦めずに「あ、これはダメなのか」「この方法……でもうまく行かないのか」「それじゃ、このアプローチ……もこういう結果になるのか」「うーん」とか言いながら、喰らいついて喰らいついて「あ、うまく行った! これが正解だったのか!」となるのがボクのアプローチだ。で、「いろいろ試行錯誤してうまく行きました」という報告をすると「失敗しない人」みたいになる。

結論から言えば「失敗しました」という報告をしたくないので、諦めずに何度も何度もチャレンジして、成功まで持って行くという地道な作業をしているということ。そして、ひとつだけコツみたいなものがあるとすれば「速く仕事を進める」ということ。失敗したときにリカバーするためには時間が必要だ。手数を増やす必要がある。だから、仕事が回ってきたら、取り敢えず大急ぎで「形」にする。うまく行かなくてもよい。質は問わない。取り敢えず「形」にして「あ、ダメだな」と思って、それからいろんな形を試す。そのための時間を確保するためには、「まだ時間があるから後で考えよう」としないで、その瞬間に「形」にする。この「早く仕事を進める」が有効だと思う。

2021年2月27日 時代の寵児、新人類

最近、『Win Win Wiiin』は欠かさずに「テレビ」で観ている。今までのゲストは、いわゆるテレビを主戦場にする「芸能人」だった。初回ゲストは手越祐也、第2回ゲストは西野亮廣、第3回ゲストは極楽とんぼの山本圭壱で、一癖も二癖もある「芸能人」。そして、第4回の今回のゲストはヒカルだ。

「今回は大丈夫かな? コケないかな?」といつも心配になる。ずぅっと急上昇にランキングされているわけだし、それに続く出演者は相当なプレッシャーだろう。何しろ、第2回までは注目もされていたし、それなりに旬の人というか、順当に来ていた。ジャニーズを退所した手越祐也、映画「えんとつ町のプペル」で映画デビューを果たした西野亮廣……。でも、山本圭壱のときには「何で今? 大丈夫?」と思った。でも、いろいろあったし、ドキドキ感もあった。その上で、あっちゃんはちゃんと「けいちょんチャンネル」のサクセス・ストーリーを示しながら「今が旬のYouTubeチャンネル」というキーワードで、うまくゲストをWinnerにした。それでは、ヒカルは? どうやって料理する? しかも、今回は初めて、ゲストを事前に周知した状態でのプレミアム配信だ。「どんな大物芸能人が来るかな?」というワクワク感ではなく、「ヒカルにフィーチャーするよ」と喧伝するアプローチだ。宮迫と頻繁にコラボしている相手だし、あっちゃんの「XENO」でも対決している相手なので、伏せておいて直前に「どーん!」と紹介されたときに「何だよ、ヒカルかよ!」となるだろうから、事前周知は正しい判断だ。しかも、ヒカルは生粋のYouTuberだから、コラボを全面に出して、ヒカルファンを『Win Win Wiiin』に誘導した方が再生数もとれる。そういう戦略なのだろう。

ヒカルのトーク力はこれまでの「芸能人」たちと遜色なかった。特に、おしゃべりのプロフェッショナルである芸人が2回も続いていて、それでも遜色なく宮迫とあっちゃんと対峙して見せる腕はさすがだ。ただ、これまではテレビ業界の闇にかなり踏み込んで、ヒリヒリした感じがあったのに対して、今回は彼がYouTubeを主戦場とする人だからか、その辺の話題からは少し離れた。ちょっと距離を置く方向に舵取りをした。そういう意味では、次回以降のゲストに繋げていく意味でのクッション的な回になっていて、テレビとYouTubeの仲介者であるヒカルを、そういう風に使うのだな、と思って、あっちゃんの技量に感心した。その意味では、ヒカルの「どんな風に利用してもらっても構わない」的な割り切りや覚悟も感じた。

そして、タイトルのとおりだ。「時代の寵児、新人類」。ちょうど2021年2月24日の記事で『スマホ脳』という本を紹介したが、情報技術の発展が速すぎて、人間の進化が追いついていない。追いつかないからストレスを感じる。でも、ある意味、ヒカルはこのオンラインの時代に適合して生まれた人間だなあ、と感じた。

2021年2月26日 グラッド・アイ

最近、比較的、毎晩、カクテルをつくっている。鋭意、カクテル・サイトをつくっているためだ。そこに写真を掲載するため、取り敢えず、カクテルをつくっては、写真を撮影して、飲んでいる。

そんな中で、グラッド・アイというカクテルをつくった。ペルノとグリーン・ペパーミントでつくるカクテルで、どちらも癖のあるお酒だ。でも、混ぜたら、意外と美味しい。それにとてもビックリした。

2021年2月25日 オンデマンドって凄いこと!!

大昔に「きかんしゃトーマス」にハマって、テレビシリーズのDVDを全部、集めた。でも、結構、古いので、中古のものもあったりして、テレビで再生すると映像が飛んだり、止まったリするものもあった。もう一度、確認して、画像が飛んじゃうようなものは買い直そうかと思って、パソコンで見ている。折角なので、mp4に変換しようかと思って、コンバータでmp4に変換する作業をしていて気がついた。テレビやパソコンで映像が飛ぶようなものでも、コンバータで変換すると、mp4ではちゃんと見ることができる。多分、データだからだろう。盤面に瑕があってうまく見れなくても、データを取り出してコンバートすると、見ることができる。ああ、これはいい! ということで、せっせとDVDをmp4に変換していたら、あっという間にハードディスクがいっぱいになってしまった。仕方ない。mp4を保存する用のハードディスクを買いに行こう。

そういう意味じゃ、今、オンデマンドでいろいろと見られるのは、凄いことだな。こうやって、自分でデータを保存すると、あっという間に容量いっぱいになってしまうのを、サーバ上で保管して、こちら側はアクセスするだけで見られるのだから、便利な時代だな、と思った。

2021年2月24日 「私が子供の頃にスマホがなくてよかった」

妻のちぃ子が『スマホ脳』を読んでいる。ボクがオススメしたからだ。子供にスマホを与えるべきか否か。そんな壁がやってきて、読んでみたらどうか、とオススメした。

スマホが普及するだけでなく、新型コロナウイルス感染症はさらにデジタル化、オンライン化を押し進めるだろう。そんな中で、それらの流れを否定することはできない。でも、問題点も理解しておく必要がある。

2021年2月23日 ゲームとしての終わり

夜なべして、SFC『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』をやっている。懐かしいし、改めてよく出来たゲームだな、と感じる。ダンジョンには謎解きの要素もあって、解決できたときの達成感があるし、隠しイベントや隠しアイテムがたくさんあって、やり込み要素もある。そして、アクションRPGなので、ボスとの戦いには、一定の技術を求められる。

何よりも素晴らしいのは、このゲームには終わりがある。ラスボスがいて、倒せばクリアーになって、エンドロールがある。どれだけの時間を投入しても、最後には、エンドロールがあって、「ああ、終わった!」と思って終わりになる。

最近のスマホのゲームは、ひとつのイベントが終わると、新たに次のイベントが始まる。ゲームとしてのゴールが設定されておらず、制作会社は遊び手を囲い込んで、手を変え、品を変え、商品をゲットさせて課金させる。そういうビジネスモデルになってしまっている。こういうのは、どうなのかな、と思う。だらだらと中毒のように続けさせることがよいことだとは思えない。

2021年2月22日 オズの国の住民たちは素敵だ!?

最近、小1のツクル氏が寝る前、毎晩、本の読み聞かせをしている。今はフランク・ボームのオズ・シリーズだ。日本ではかかしやブリキのきこり、臆病ライオンが登場する1作目『オズの魔法使い』しか有名ではない。でも、オズ・シリーズは本当は全部で14作品(+短篇集が1作品)ある。それを順番に読んでいこうというプロジェクトだ。

すでに6作目『オズのエメラルドの都』に突入しているが、面白い。オズ・シリーズは突飛なキャラクターが登場して、面白いんだけど、6作目は集大成という感じで、本当にファンタジーをやっている。何しろ、ロクワットというノームの王が、周辺の極悪な民族と手を組んでオズの国に攻め込んでくるというシナリオだ。ロクワットに将軍に任命されたガプが休むことを知らないキテレツ族、筋肉だけのガリゴリ族、魔法に長けたマボロシ族と交渉して、同盟を組んでいく。その一方で、何も知らずに暢気にオズの国を旅して新しい出会いをするドロシー一行。この2つのプロットが、交互に入りながら、話は進んでいく。

ドロシー一行の旅も面白い。切り紙でつくられた人々が暮らすチョキリンの村、まるでパズルのように、ちょっとした衝撃でバラバラに崩れてしまうゴチャマゼ族の町、包丁や鍋、スプーンなどのキッチン用品の王国、パンが暮らす町、そして野ウサギが暮らす町、クドクドと訳の分からない理屈で話し続けるクドクド族の町、起こりもしないことを心配して大慌てするトリコシ族の村などだ。

ロクワット率いる乱暴な種族たちに対して、オズはどうやって危機を脱するのか……。そして、呆気ない終わり方。それがとてもオズらしくて面白い。

……問題は第6作『オズのエメラルドの都』がどうやっても手に入らないということ。仕方ないので、図書館から借りてきている。いつか入手したいなあ。我が家の本棚に正式にお招きしたい本である。