大山伯耆坊

分 類日本伝承
名 称 大山伯耆坊(ダイセンホウキボウ)【日本語】
伯耆大仙清光坊(ホウキダイセンセイコウボウ)【日本語】
容 姿八角棒を持った烏天狗。
特 徴伯耆大山から相模大山に移ってきた天狗。
出 典『天狗経』(年代不詳)ほか

伯耆国を見捨てて相模国へ移った大天狗!?

大山伯耆坊(だいせんほうきぼう)は神奈川県の大山で信仰される天狗。単に伯耆坊、あるいは伯耆大仙清光坊(ほうきだいせんせいこうぼう)とも呼ばれる。『天狗経』に書かれている四十八天狗には「伯耆大仙清光坊」として名前が挙げられ、八天狗にも名前を連ねている。

大山(標高は1,252m)は古くから山岳信仰の地として知られ、山そのものが石尊大権現(せきそんだいごんげん)、あるいは大山祇神(おおやまつみのかみ)として信仰された。阿夫利神社では山頂の岩を御神体として祀り、雨乞いの神として信仰されている。また、天狗信仰も盛んで、阿夫利神社では大天狗、小天狗の祠があり、数多くの天狗が棲んでいる山としても知られる。伯耆坊はそれらの天狗たちを取り仕切っている統領である。

しかし、かつて、この大山に棲んでいたのは相模坊という大天狗だった。ところが、平安末期、崇徳上皇が保元の乱で皇位継承争いに敗れ、讃岐国(香川県)に流され、そのままその地で亡くなったとき、相模坊は讃岐国の白峰山に移り、ひたすら崇徳上皇の霊を鎮め、陵墓を守護した。そのため、大山の大天狗は空席になり、代わりに伯耆国(鳥取県)の伯耆大山に棲んでいた大天狗・伯耆坊が相模大山に移ってきて、天狗たちを治めるようになったという。そのため、相模(神奈川)の天狗なのに伯耆(鳥取)の名を冠しているのである。

一説では、伯耆大山では、南北朝時代に大山寺の僧侶たちが宮方派(南朝派)と武家方派(北朝派)に分かれて憎み合い、あっちの坊を焼いたり、こっちの寺を焼いたりして、挙句の果てに大山寺を炎上させる様に呆れて、伯耆大山を見限って、相模大山に移ってしまったという。元々は伯耆大仙清光坊と名乗っており、相模大山に移って相模大山伯耆坊と名乗ったとも、伯耆坊が相模大山に移った後、復興した大山寺を治めているのが清光坊だとも言われる。

ちなみに伯耆大山・剣ヶ峰には、大原住吉剣坊(おおはらすみよしつるぎぼう)という天狗もいる。良質の砂鉄が採れることから、古くから剣工の守護者として信仰されていたという。また、相模大山には、伯耆坊のほかに阿夫利山道昭坊が棲んでいる。ある人が大山詣りのとき、道昭坊に出くわし、背負われて空を飛んで頂上まで往復したという話を平田篤胤が記録している。

江戸時代中頃、大山講が組織され、庶民は盛んに大山詣を行なった。そのときの道中の唱文には「石尊大権現、大天狗、小天狗」というフレーズがある。また、富士山の浅間神社がコノハナサクヤヒメ、阿夫利神社がその父であるオオヤマツミを祀っている関係から、富士講の唱文にも同様のフレーズがある。大山講や富士講の人々にも天狗たちは崇拝された。

(参考)八天狗とは

八天狗といえば、京都の愛宕山太郎坊、滋賀の比良山次郎坊、京都の鞍馬山僧正坊、長野の飯縄山三郎坊、神奈川の大山伯耆坊、福岡の英彦山豊前坊、奈良の大峰山前鬼坊、香川の白峯相模坊の8人の強力な天狗のこと。その中でも、愛宕山太郎坊がその筆頭である。

《参考文献》

Last update: 2021/04/04

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