2020年7月1日 仏教も立派にファンタジィしているじゃん!!

昨日の記事で仏教が意外と面白いという話をしたんだけど、何が面白いって、時代とともに価値観が変わって、それに合わせて、仏教もゆるやかに変容している、という点が実に面白い。日本人にとっては最も馴染みがある宗教だから、本はたくさん出版されているし、本そのものは大量に購入したまま「積読」状態になっていたボク。ボク自身、仏教はファンタジィというよりは哲学的っぽいよなあ、と思って、ずぅっと敬遠していた。でも、ちゃんと勉強したら、とても楽しかった。

たとえば、毘盧遮那如来なんかが面白い。『華厳経』によれば、毘盧遮那如来の毛穴のひとつひとつから煙とともに無数の釈迦如来が出現するわけだけど、それを完全再現しようと、聖武天皇が奈良の東大寺に毘盧遮那如来の大仏を建立し、それから各地に国分寺を建設して、釈迦如来を安置していったというのは、すごい話だなあ、と感動する。

それから、弥勒菩薩が釈迦が入滅してから56億7,000万年後にこの世界に降り立って、次の仏陀になるというのも、気の遠くなる話だし、弥勒菩薩が修行している間、この世界に「如来」が不在になっている間、この世界を救うために地蔵菩薩がせっせと働いているというのも、何だか愛おしくなる。

本来、如来というのは解脱しているので、煩悩から離れているはずである。だから、出家者のような質素な格好をしているのが通常モードである。それなのに、大日如来はゴテゴテと装身具に身を包んでいて、全然、煩悩から抜け出せていない。大日如来というのは、仏教世界の中では比較的、新しいホトケ様なので、おそらく、信仰の対象として、着飾っていた方が偉さを演出できる時代の産物なのだろう。解脱しているはずの如来が俗っぽいというギャップに、人間味を感じて、くすりと笑ってしまう。

女性は成仏できないという古来の仏教に対して、女性も成仏できるよ、と説明する『法華経』はジェンダー問題に絡む時代の流れを感じてしまうし、女人成仏を説く『法華経』で活躍する普賢菩薩が当時の女性たちの間で大人気になるというのも、非常に面白くて、時代とともに価値観が変わって、それに仏教が追随して、いろんな如来や菩薩が現れるというのが、とても興味深く、仏教の奥深さを感じた。

こういうのは、歴史とか地理なんかと一緒になって多元的に捉えていかなきゃ分からない面白さで、またひとつ、楽しい趣味ができたな、と思いながら、仏教を勉強中のボクである。

2020年7月1日 自称友達

最近、定期的にウェブサイト「ファンタジィ事典」の項目を雑記にしているのは、Google先生に覚えてもらおうという姑息な企てである。一応、ウェブサイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」は細々と各方面からリンクを貼ってもらっていることもあって、雑記で記事を書くと、すぐにGoogle先生に認識してもらえる。ところが「ファンタジィ事典」は階層がひとつ深く、入口がそんなにないので、Google先生がなかなか認識してくれない。そこで、こうやって「ヘタっぴなアルコール蒸留」で記事にして、すぐにGoogle先生に覚えてもらおうという姑息な企てである。

さて、ヒカル大先生のYouTUbeを見た。光ると手越とが「友達」なのかどうか、という議論を呼ぶ動画だ。正直、ビビった。この企画力に。アンチも、もう、これでギャフンだ、と思う。本当に楽しそうに手越と喋っていて、それでも尚、友達と明確に言ってもらえなかったと笑っている。すげーなー。ハート強いなあ。このくらい格好よく生きたいなあ。

2020年7月3日 ウィンウィンの関係を目指さないとダメだ

上沼さんとキンコン梶原が揉めたらしい。ニュースでしか知らないし、あくまでも現場にいたスタッフの証言であって、何が正しいとか、何が間違っているとかは全然、分からない。でも、実はボクは、ずぅっと上沼さんの発言には違和感を覚えていた。新コロの自粛明けに、キンコン梶原が番組に出たときに、連絡がない、無礼だ、みたいなイジりをしたときだ。連絡しなくてはいけないということではないし、「無礼だ」というイジりは笑いにならない。

よく、イジられる側がもっと面白くすべし、という人もいる。イジられる側の反応がイマイチだからスベったみたいなトーンで論じられるときもある。でも、ボクはやっぱり、イジる側が最終的な着地点を考えなきゃいけないし、受け手が思った反応をしなかったら、もうイジるべきじゃない。つまり、「あ、この人はイジっても面白くならないな」と分かって尚、イジったら、それはイジった側に問題がある。「この人はイジったら面白くしてくれる」という信頼関係の上でイジるから安心してイジれるのであって、そうでなければ、イジられる側の責任にしてはいけない。

基本的に、キンコン梶原はイジられるとムキになるタイプで、イジって面白くなる芸風ではない。それに「無礼だ」というのは、仮に事実だったとしても、キンコン梶原の株を下げるだけで、ウィンウィンのイジりにはならない。いつも無礼だったり、無神経だったりして、それをネタにしている人間に対して、「こいつ、ホンマに無礼だ!」とやれば、それは笑いになるけれど、「キンコン梶原が連絡を寄越さない」というのは、笑いになろうがなるまいが、キンコン梶原にとってのネガティブ・キャンペーンにしかならない。それをやってしまうところに、ボクはちょっと違和感を覚えていて、どうしたのかなあ、と思っていた。そんな風に感じていた矢先に、この展開だ。

結構、ね。賛否両論で、キンコン梶原が無礼なのがいけないという論調もある。お世話になった人を裏切ったとか、ね。でも、そういう論調を作ってしまった時点で、やっぱり上沼さんの発言のチョイスは間違っていたのだと思う。お互い、仕事なのだから、相手の株を下げるような行為をしたらいけない。ウィンウィンの関係を目指すべきだ。上沼さんはキンコン梶原が引き立つように演じ、キンコン梶原も上沼さんが引き立つように演じる。それが嘘っぱちの演技だったとしても、プロフェッショナルである以上、そういう見せ方をしないと、お仕事として成立しない。そういう意味では、上沼さんの発言に真っ向から異を唱えるツイートをしたキンコン梶原の態度も、ある意味ではプロフェッショナルを欠いていると言えば、そうだ。明らかに上沼さんにダメージを与える。

でも、最初にそういう先制攻撃をしたのは上沼さんであり、だから、ボクは彼女が下手なボールを投げたな、と感じている。勿論、そういうのは今回だけではなくって、あちこちで、感情的で攻撃的な発言をしていて、個人的にはボクはあんまり好きなタイプの芸人ではなかった。でも、今回、相手がキンコン梶原で、本当に彼が不器用だったから、こういう展開になってしまった。多分、他の人だったら、うまくあしらって、もっと上手にやってくれただろうな、とは思う。

スタッフがいろいろと暴露してしまう時点で、そろそろ苦しいな、と何も知らないながら、ボクは個人的には思う。若い人たちは、思った以上に寛容で、争いを避ける傾向にある。若い視聴者もそうだし、多分、スタッフも、そういう人が増えていると思う。少なくとも、カジサックは、ゲストが最大限面白くなるように編集をしている。こういう気遣いが、若者に受けているのだ、と思う。ウィンウィンの関係を目指す在り方が問われていると思う。

2020年7月6日 マスクに感染予防の効果はありません!!

最近、ひとつ、とても気になっていることがある。「布マスクの漏れ率100%」とか「マスクでは感染予防にならない」などの記事だ。そもそも、マスクを予防目的でつけている人ってどのくらいいるのか。ボクは端からそんな効果は期待していない。というか、大多数の人が、そんなことを期待しているわけではないと思う。咳やくしゃみ、あるいは大声でのディスカッションみたいな場面での飛沫を防いでいる。ボクはそういう認識だし、少なくともボクの周囲の友人たちはその認識だ。だから、「マスクの効果」を議論するときには、マスク外部からの流入の「漏れ率」で議論したり、感染予防目的での用法で議論するのではなく、飛沫防止としての効果の有無で議論して欲しいと思う。その辺、いろいろと検索してみても曖昧だ。飛沫防止としては有効だと主張する人もいれば、インフルエンザの実験では、ウイルス感染者と同室にいる家族にはマスクをしていても感染させたという実験を載せている人もいる。でも、たとえば、電車移動中や職場での短時間の会議などでマスクをした場合、飛沫防止に寄与するのかどうか。その辺のインフルエンザでの知見なんかを、誰か紹介してくれないかなあ。そういう議論じゃないと、何か意味ないじゃんね? とボクは個人的には思っている。

2020年7月8日 テレビ業界は芸能人を干せるのか!?

最近、アンジャッシュの渡部が「不快なスキャンダル」で活動を自粛している。いろいろな議論があるのは分かる。でも、ここではその是非は問わない。ボクが気になっているポイントは彼のやったことの是非ではなくって、テレビ出演者の反応の方だ。いろいろなことを言う。言いたい放題だな、と感じることもある。でも、それはそれでもいいと思う。でも、ひとつだけ気になっているのは、渡部のテレビ復帰の可能性についての議論だ。「ない」とか「無理」という発言をする出演者がいる。

テレビ業界って、不思議な業界だな、と思う。たとえば、スポーツ選手が不祥事を起こしたら、何ちゃら協会とかいうのが出張ってきて、不祥事を起こした人の処遇を決める。権利剥奪とか、出場停止とか、その裁量の是非はともかく、明確な決定が出される。多分、普通の会社でもそうだ。社員が何か悪いことをしたら、経営層が議論して、何らかの形で処罰される。それって明文化された「何か」になるはずだ。

渡部はプロダクション人力車の所属なので、おそらく、人力車の中で何らかの沙汰があったと考えるべきである。これは雇用契約上の瑕疵を問われる処遇である。出演している番組についても、おそらく制作の判断で処遇が決まる。テレビCMもそうだ。契約事なので、場合によっては違約金を求められる。いずれにしても、これらは明文化された処罰であって、個々の条件に応じて、責任者が決める。

一方で、テレビ業界への復帰の可否。これは誰が何に基づいて決めるのだろうか。ここが今回のボクの論点だ。たとえば、番組プロディーサーの立場からしたら、渡部の価値がなくなれば、二度と使わない。渡部の価値のひとつに「ネガティヴな感情を抱かれない」というのがあって、これは大きな強みだったと思う。彼が蘊蓄を披露しても、反感を買わない。そういう強みはあった。それが今回なくなったので、その点での彼の利用価値はなくなった。だから、プロデューサー目線で言えば、彼をそういう配置にすることはない。

でも、これは個人的な感想にもなるけど、アンジャッシュの「すれ違いコント」というのは、スタイリッシュだし、ボクとしては、まだまだ見たいと思っている。テンプレートが割としっかりしているので、真似をすることは容易だと思うけれど、でも、アンジャッシュのネタだというイメージが強いからこそ、多分、誰も真似ができない。物真似としては演じられても、持ちネタとしては演じられない。そういう意味じゃ、今後、「すれ違いコント」を生み出していけるのは彼らだけだ。

テレビ業界の「干す」という文化は、何となくの気分みたいなものだ。明確にいつまで、と決まっているわけでも、何が理由で、どうなったら解禁という明文化されたものはない。業界全体の雰囲気をみんなが忖度しながら、勝手に線引きしているものだ。そんなワケの分からないもののために、人間ひとりを潰すことに、ボクは違和感を覚えている。

そういう意味じゃ、松本仁志に喧嘩を売ったあっちゃんにしても、吉本興業に喧嘩を売った宮迫にしても、そして、今回、何だか知らないけれども上沼さんと揉めているカジサックにしても、YouTubeを主戦場にしてしまっているので、もう、そういうテレビ業界の曖昧な文脈には縛られない。そういう「気分」とか「雰囲気」からは逃げ出している。いっそのこと、気骨のあるプロデューサーで、テレビにおいてこういう人たちを使ってみて、「復帰の可能性はない」とか言っていた大御所の鼻を明かしてやって欲しいな、と切に思うよ、ホントに。

そういう意味じゃ、薬丸さんとかココリコ遠藤とかに、ちょっと失望した今日この頃。

2020年7月11日 人類史上最大のトリック……? それは、人々に神がいると信じさせたことだ。

iPhoneのYouYube公式アプリが、いつの間にかバックグラウンド再生ができるようになっていた。ずぅっと望んでいたことだったんだけど、でも、うっかりホームボタンで閉じて、気付いたらイヤホンで鳴りっ放しという状況で、これはこれで困ったものである。まあ、嬉しい悲鳴。

さて、今、『人類5000年史』という本を読んでいる。作者が出口治明氏で、非常に博識で、文章も軽妙な人なので、期待していた。コロナ明けに地元の本屋さんに行ったら、2巻、3巻は平積みなのに、肝心かなめの1巻が置いていなかったので、取り寄せてもらって、ようやく手に入れた。非常に面白い。何よりも楽しかったのが、『人類5000年史』とタイトルに掲げながら、最初の章が生命の誕生から始まっていたこと。ルカ(最終共通祖先)の話や、エディアカラ紀のアバロン爆発、カンブリア紀のカンブリア爆発、そして大量絶滅のビッグファイブの話があった後、人類がどうやって脳を発達させたのかという生物学的な話を経て、ようやく人類の歴史に至るというアプローチに、ボクは大爆笑して、そして大満足した。これでこそ「知の巨人」の作品だ。

日々の雑記で取り上げようと思ったのは「神」についての彼の整理が面白かったからだ。ファンタジィ事典では、しばしば神話を取り上げ、「神」も題材にするが、『人類5000年史』の中で、神の発明のついての記述が非常に面白くて、ボクはそれを紹介したいな、と思った。

 ドメスティケーション以前の人間は、いわば、「自然に順応して」生を営んでいました。それが、「自然を支配したい」という欲求に変化したのです。植物を支配するのが農耕(約一万一〇〇〇年前)、動物を支配するのが牧畜(約一万五〇〇年前)、鉱物を支配するのが冶金(火を介在させた金属器の使用、約九五〇〇-九〇〇〇年前)、そして、それらに留まらず自然界の摂理をも支配したいと考えるようになりました。
 自然界と現在の世界をつなぐものとして儀礼や土偶が誕生し、やがて神の誕生に至ったと考えられています。最も古い土偶は、約九〇〇〇年前まで遡ります。

この文章に、正直、ボクは痺れた。ここで言う「植物」「動物」「鉱物」という言葉は、古い博物学の分類方法から引っ張られてきている。博物学では古来より、自然に存在するものを植物界、動物界、鉱物界の三界に分類してきていて、分類学の父と称されるカール・フォン・リンネも、この三界で分類しているくらいだ。それを、人類は順番に支配してきた、という書き方に、ボクは震えた。そして、順番に人類がそれらを支配する。そして、最後には自然界の摂理を支配しようとする。そのときになって「神」が発明される、というわけだ。天候も豊饒も、そして死後さえも、ボクたちは支配しようとして、そのために神が必要になる。

そんなわけで、タイトルは森博嗣の『笑わない数学者』からの引用。人々に「神」がいると信じさせたのは誰なのか。さてはて。

2020年7月14日 安らかに。

ひなちょすの急逝にちょっと言葉が出ない。。。 ボクはKissBeeを応援していたわけではないんだけど、たまにYoutubeでザッピングしているときにUra-Kissが引っ掛かって、その都度、ひなちょすのドッキリ動画の企画力と笑顔に惹きつけられていた。まだ若いのに。。。 ちょっと言葉が出ないので、更新しようと思っていたネタは封印。ご冥福をお祈りいたします。

2020年7月15日 YouTuberラファエルに圧倒される!?

ユダヤ・キリスト教の四大天使を一気に更新した。ミカエルガブリエルラファエル、そしてウリエルだ。実はイスラームの四大天使(ジブリールミーカーイールイスラーフィール、そしてアズラーイール)は結構、前にやっつけていたんだけど、肝心かなめのユダヤ・キリスト教の方が放置されていたので、今更ながら、手を入れてみた。

今回、聖書をひとつひとつ引っ張り出してきて読みながら、結構、丁寧に調査はしたんだけれど、聖書って難しいな、と感じた。『創世記』は読み物として非常に読みやすいけれど、『ダニエル書』とか『エノク書』とかは抽象的だったり説明不足で、非常に難解だ。うーん、と唸ってしまって、正直、まだ消化不良なところはある。面白さはないけれど、事実は記載した、という状態だ。

それにしても、今回、Google検索で「ラファエル」で検索したら、天使のラファエルが調べたかったのに、YouTuberのラファエルしか出てこない。彼の名前が、本来、天使のラファエルに由来しているはずなのに、検索結果はひっくり返ってしまって、「ラファエル 天使」とかで検索しないと、本家本元の天使のラファエルが引っ掛からない。実は、神話を元ネタにしたキャラクタが、アニメとか漫画に登場したときにも、本来の神話ではなく、アニメや漫画の方が上位に来てしまう現象は頻繁に起こる。こういうのが、実はGoogleの弱いところだな、と思う。由緒ある方が大事だ、とボクは思う。

結局、Googleは正しいことが検索されるツールなのではなく、多くの人が知りたいことにアクセスさせるツールなのである。その点、留意しないといけない。

2020年7月15日 戦略的にウェブサイトを運営するって!?

ボクがウェブサイト運営を開始したのは2003年1月19日。大学生活の傍らで創作サイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」を立ち上げた。大学の授業の一環でhtmlを勉強し、大学の仮想サーバ内にウェブサイトを作ったことがキッカケだ。当時はホームページビルダーでウェブサイトを作る人が多かったが、キッカケがhtmlの授業だったので、当時はhtmlタグ打ちでウェブサイトをコツコツと作っていた。クリーム色を基調としたゆるーいウェブサイトで、小説や絵を掲載していた。でも、それでは更新頻度が低くなるので「日々の雑記」を綴ることで更新ペースを維持していた。「ボク」という固有名詞は、その当時に中性的な雰囲気を出したくて、恣意的に選択したものである。今でも、そのまま使っている。

2004年頃から、サイト内のひとつのコンテンツとして「ファンタジィ」に関する項目を作り始めた。最初はギリシア・ローマ神話の項目から始めていた。ヘーシオドスの『神統記』をベースに、ギリシア・ローマ神話をギリシア語の原典に照らしながら解説するサイトだった。でも、すぐに飽きてしまって、ロールプレイングゲームに登場するモンスターから、その原典を探していくスタイルになった。次第に興味の軸足が創作活動から神話・伝承に移っていって、2009年4月5日に「ファンタジィ事典」としてウェブサイトを分離した。そして「世界各地の神話や伝承の事典。古代の神話から都市伝説やUMA(未確認動物)まで」のコンセプトになった。

ウェブサイトを巡る環境は日々、目まぐるしく変わっている。ボクがウェブサイトを始めた2003年は、今で言う「Web日記」(当時はレンタルCGIサイトで「ダイアリー」をレンタルするイメージ)が流行っていたけれど、あっという間にblogになって、それからmixiに移行していった。こうやって各方面にプラットフォームが移っていくと、プラットフォームの中で閉じた活動が盛んになっていくので、ワールドワイドウェブ上のウェブサイトはあんまり見てもらえなくなる。事実、アクセス数はあっという間に減ったし(CGIカウンターが回らなくなった!)、掲示板を解したネットワーキングは今ではほとんど機能しなくなった。

だから、思い切って、2011年7月28日にhetappi.infoのドメインを取得して、大幅にリニューアルを敢行した。「今後もhtmlのウェブサイトで続けていくぞ」という決意表明みたいなものだ。時代遅れかもしれないけれど、でも、当時としては、そういう覚悟が必要だった。そうして、気づけば2020年。思った以上に長々と続けているなあ、と感慨に耽ってしまう。

何故、こんな思い出話みたいなことを書いたのかと言うと、こんなに長くウェブサイトを運営しているクセに、実はボクが戦略的にウェブサイトをやろうと思ったことがないことに気がついたからだ。SEO対策をしたこともないし、数多あるSNSのプラットフォームを活用しようと企画したこともない。最近はtwitterを齧ってみたり、pixivを齧ってみたりしているが、それらを「ヘタっぴなアルコール蒸留」や「ファンタジィ事典」と結び付けるような活動もしていない。

社会人になって、少しだけ大人になったボクは、改めて、ちょっと考え直したいな、と思っているのである。だから、この年になって、初めて、Google Search ConsoleとGoogle Analyticsを自分のウェブサイトに埋め込んでみた。そして、モニタリングを始めたのである。そして、驚いた。思っていたよりもたくさんの人がアクセスしている。神話について知りたくて検索で飛んでくる一見さんも多いし、思わぬところでリンクを貼られていて、そこから飛んでくるお客さんも多い。ああ、ちゃんとやらなきゃいけないなあ、と思い知った。そして、古いウェブサイト(忍者ツールズでレンタルしていたサーバのもの)を残ったままにしていたのだけれど、そちらを潰して、hetappi.infoのみで走る体制を整えているところである。

2020年7月16日 くだらないことでも、意外と影響を受けます。

戦慄かなのがZOCを「卒業」していた事実、そしてその後、揉めている事実をみずにゃんのYouTubeで知るボクだ(何でやねん!)。ボクは「猫舌SHOWROOM」で彼女のことを知った。そして、ZOCで活動することが発表されて、面白い人だな、と思っていたので、この展開はとても残念だ。

そもそも、ボクは個人的に大森靖子がアイドルグループを率いていることが奇跡だと思っていて、うまく回せないんじゃないかとも思っていて、やっぱりこういう展開になるんだなあ、としみじみしている。元々、ボクは大森靖子のつくる音楽は大好きで、歌詞も大好きで、PVも大好きだ。だから、超歌手・大森靖子は大好きなんだけど、でも、一方で、ドレス問題で衣装担当とウェブ上で揉めたり、生うどんの仲裁に入ったり、それらの立ち居振る舞いなんかを眺めていると、あんまりマネジメントは上手じゃないのかな、と勝手に思っている。だからこそ、彼女がアイドルグループをやるなんて、途中で空中分解するんじゃないか、と恐れていた(もちろん、ボクは関係者でもないから、素人として勝手に思っているだけだ)。だから、ZOCの最初の楽曲から次の楽曲までの間がかなり空いたときにはかなり心配したが、ここのところ、調子よく楽曲が出ていて、メンバー交代こそありながらも、比較的、よくやっているなあ、と思っていた矢先だった。アルバム発売まで漕ぎ着けられれば、大成功じゃないか、と勝手に期待していた。

うーん。ひなちょすの死に続いて、戦慄かなのの「卒業」かあ。なかなか心穏やかにはいられないなあ。や、別に芸能界のことなんて本当はどうでもいいんだけど、ちょっと心はブルーになるよね。

2020年7月17日 世界絵文字デー from Japan

へずまりゅうが新型コロナウイルスに感染していたらしく、一部で騒いでいる。あれまあ、という感じだけれど、必要以上に彼を叩くのもなあ、と思っている。

* * *

さて、本日は「世界絵文字デー(World Emoji Day)」らしい。これはEmojipediaの主宰者のジェレミー・バージ氏が2014年に勝手に始めたもので、いつの間にか多くの人に受け入れられたようだ。7月17日に制定されたのは、iOSの「カレンダー」の絵文字の日付が「7月17日」だったからである。バージ氏は「唯一、絵文字で表示できる日付だ」と表現している。ただし、これはiOSでの話であり、iOS以外のプラットフォームでは必ずしもカレンダーの絵文字は「7月17日」ではない。現在では、GoogleとTwitterは「7月17日」に合わせている。

絵文字というのは日本で始まったもので、元々は1990年代半ば、ポケベルで始まった。その後、ケータイにも導入されたが、機種依存文字だった。auとdocomoとsoftbankで文字が異なっていて、同じキャリアの人同士じゃないと、適切に絵文字を送れなった。だから、当時のボクたちは、送信先のメールアドレスを見て、相手のキャリアが自分のキャリアと同じであることを確認して「あ、この人には絵文字を送れるんだな」と考えながら、絵文字を使っていた。そんな不思議な時代があったのだ。そんな中で、当然、他社にも絵文字を送りたいという欲求は起こる。2005年にsoftbankがVodafoneで他社宛て絵文字変換機能を搭載した。メールサーバーで他社でも表示できるように変換したのだ。ボクはずぅっとauだったけれど、いいなあ、と思った。当時は、本気でvodafoneに乗り替えようかと思ったくらいだ。でも、次の年には他社も同じような機能を搭載して、3者間で絵文字が送り合えるようになった。

そんな中で、2010年10月11日に絵文字がUnicodeに「Emoji」として登録された。世界が日本の絵文字文化を認めた。当時のボクは大きな衝撃を受けたのを覚えている。これを推進したのが、Apple社とGoogle社だ。日本にスマホを導入するに当たって、これまでケータイで定着していた絵文字文化を継承しようとしたわけだ。

今では普通に絵文字が使えて、世界中で「emoji」を使っている。でも、どれだけの人が日本発祥の文化だと認識しているのだろうか。たとえば、日本の季節のイベントというのが絵文字には色濃く反映されていて、七夕(🎋)、ひな祭り(🎎)、鯉のぼり(🎏)、ランドセル(🎒)、初心者マーク(🔰)なんて、海外の人にはわからないだろう。面白いのは、鬼(👹)や天狗(👺)などの絵文字もある。こういうのは、絵文字が日本発祥だからこそだ。

2020年7月19日 「亖」

最近、小学1年生の息子のツクル氏が漢字の勉強を始めた。数字の1、2、3は漢字で「一」「二」「三」だから理解しやすい。「1は1本だからね。2は2本!」などと嬉しそうだ。ところが4が「四」なのが納得いかないらしい。「なぜ、4からは漢字の形が違うのか」と憤っている。その上、漢字の教材には、文字の成り立ちとして「四」は「口の奥の形」からできた漢字だと説明が付されていて、これもまた、ツクル氏には理解ができないらしい。「なんで口の奥の形が4になるのか」とさらに憤っている。

とは言え、ボクも説明ができるわけではないので、「なんでだろうねー」という話なんだけど、それでは面白くないので、スマホで調べるわけだ。便利な時代。そうしてビックリした。元々、「亖」という字があったのだとか。「一」「二」「三」「亖」。これなら分かる。でも、時代の中で、「四」という漢字との競争に負けて淘汰されたらしい。「四」というのは「口の奥の形」で、息を意味していたらしい。読み方は「シ」。「三」と「亖」がぱっと視認できないため、同じ発音の「四」を4として仮借したというのが一般的な説だ。

確かにローマ数字も「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」の次は「Ⅳ」だ。「IIII」ではないのだ。おそらく、古代ローマでも、3本線までは読みやすいけれど、4本線だと視認性が悪い、と判断したのだろう。ちなみに、時計の世界では「4時」を表わすために「IIII」が使用されている(笑)。

そんなわけで、子供と一緒になって成長する父親である。

2020年7月20日 「これは何びれ!?」と息子は問う

最近、息子のツクル氏はアニアにご執心で、いろんなアニアで遊んでいる。アニアそのものは非常にリアルに出来ているし、動くギミックもあるので、大人のボクからしても見ていて楽しい。上の写真はホホジロザメだ。

あるとき、ツクル氏がホホジロザメを持ってやってきた。「ねえ、ねえ、パパ」。そしてサメのヒレを次々に指しながら「これ、背びれでしょ。これが胸びれでしょ。そして、これが尾びれ。それじゃ、これは何びれ?」と問う。確かに、お腹の真ん中のところにヒレがある。何だろう。

いい加減なボクは「胸びれじゃない?」と答える。そうすると今度は「胸びれの『ムナ』って何?」と訊いてくる。「ん? 胸のことだよ。胸」「そっかー。じゃ、ここはサメの胸?」と問われる。うーん。胸ではなさそうだ。そこで『学研の図鑑ライブ 魚』で調べてみる。すると、魚には『腹びれ』というのがあるらしい。「腹びれだってさー」と図鑑を示しながら、説明する。「腹かあ。確かに腹だな」と納得するツクル氏。

図鑑にはスズキが見本に載っていて『第1背びれ』とか『第2背びれ』、『尻びれ』というのも説明されている。「ツクル氏、スズキって魚には第1背びれ、第2背びれ、そして尻びれってのもあるらしいよ」と説明する。そうしたら、ツクル氏が「パパ! あるよ!! 第1背びれと第2背びれだ!!」と大興奮。

確かに、ホホジロザメにもたくさんの『ひれ』がある。

そんなわけで、息子と一緒に成長していくボクである。

2020年7月23日 ダンゴムシって、カニやエビの仲間なの!?

「ダイオウグソクムシは『虫』なのか」と息子のツクル氏に訊かれた。とても難しい質問。でも、足がたくさんあるから「虫」だろう。ダンゴムシの仲間だと読んだような気もする。でも、正確に答えたいので調べてみた。

分類学では、界、門、綱、目、科、属、種という階級で生き物を分類する。ダイオウグソクムシは、動物界、節足動物門、軟甲綱、等脚目、ウオノエ亜目、スナホリムシ科、オオグソクムシ属、ダイオウグソクムシだ。動物界は、そりゃあ、そうだ。節足動物門だから、虫の仲間と言えるだろう。続く軟甲綱はちょっと難しい。別名はエビ綱で、カニやエビの仲間ということになる。虫……だろうか。エビは「蝦」と書くし、カニは「蟹」と書くし、虫なのかな? オオグソクムシを食べたYouTuberが「エビみたいな味」と言っていたのを思い出した。次の等脚目はワラジムシ目とも言って、ワラジムシ、フナムシ、ダンゴムシなどの仲間らしい。なるほど、ここでダンゴムシの仲間という言い方が出てくるのだな、と分かった。そこから下は、もう細かい分類だ。

いずれにしても、こうやってちゃんと整理していくと、面白い。ダンゴムシがカニやエビの仲間であることが面白かったので、こうして記事を書いている。……ダンゴムシも、エビの味がするのだろうか。さてはて。

2020年7月26日 カクテル健忘症!?

大昔、カクテルにハマっていたけれど、ツクル氏が生まれたときに酒瓶が危ないという理由で、いったんは中断していた。そんなツクル氏も小学校に入学したので、緩やかにカクテル・ライフを復活させようと画策している。ドライ・ジン、ホワイト・ラム、ホワイト・キュラソー、ブルー・キュラソー、カカオ・リキュール、ミント・リキュールを購入。日々、シェーカーを振っている。

それにしても、長く触っていなかったので、ジガーの使い方が分からない。「あれ? これ、何mlだったかな? こっちが30ml?」などと大混乱。そんなことをしているうちに、氷がどんどん溶けていく。そして、カクテルの名前と配合が全ッ然、出てこない。たとえば、ラムとホワイト・キュラソーを前にすれば、昔だったら「ここにレモン・ジュースがあればホワイト・レディがつくれるぞ! レモン・ジュースはあったかな?」といろんなカクテルのアイディアが飛び出したのに、今は酒瓶を前に、うーん、うーん、と唸ってしまう。「今、手持ちのアルコールで何がつくれるんだ?」状態だ。

そんなわけで、今更ながら、カクテルのレシピ集を広げながら、勉強をしている今日この頃のボクである。

* * *

最近、メソポタミア神話を更新している。まずはシュメル神話の代表的な神を追加して、シュメル神話の体系を完成させて、メソポタミア全土に広げていこうという作戦。

2020年7月27日 ウェビナーのホストってなかなか難しいゾ!?

新型コロナウイルス感染症の対策として、ようやく我が社もZoomを導入した。でも、ここまで漕ぎ着けるのが、実は大変で、情報セキュリティがどうだとか、運用ルールがどうだとか、費用対効果の算定だとか、それはもう、想像を絶する抵抗勢力がわんさか現れて、既存の枠組から抜け出したくない連中との交渉に日々、追われていた。多くの仲間が疲弊した。多くの部署は途中で挫折して、諦めた。でも、粘りに粘って、ようやく社内LANとは切り離されたパソコンを入手し、通信環境を整えて、月額のZoomアカウントをゲットするところまでやってきた。

そして、いよいよ、明後日はZoomでの報告会だ。外部に開かれた報告会で、他社の方々も参加するので、今、会社としては結構、ピリピリしている。だから、本日、予行演習をした。4台のPCをオンラインに繋いで、それぞれの役割分担に分かれて、台本通りにやってみる。事前に動画で撮影した開会の挨拶を冒頭に流す。その後、複数の発表者がPowerPointを使って海外での活動などを報告をする。最後に部長がそれらを好評する。司会の画面とつないだり、発表者の画面とつないだり、Zoomの画面共有をオンにしたりオフにしたり……。これが意外と難しく、トラブルの連続だ。手間取って、頭の中が大混乱。何度もトライアル・アンド・エラーを繰り返す。当日、あたふたしないように最適の手順を模索して、チーム全体で納得するまでシミュレーションする。Zoomで会議をするのは容易だが、ウェビナーとして使うにはコツがいる。それをチーム一同、痛感する。ここからは果報は寝て待て、だ。

今回、Zoomでウェビナーを開催できれば、またひとつ、チームが大きく成長する。大風呂敷を広げながらも、こうやってついてきてくれている仲間たちに感謝だ。

2020年7月30日 主催者としてのボクと、発表者としてのボク。

無事に29日、Zoomを用いたウェブセミナーが終わった。裏ではバタバタだったし、冷や汗でいっぱいだった。冒頭、のっけからトラブル発生だ。司会者が「それでは開会の挨拶です。録画したものを流します。それではどうぞ!」と伝えるも、「開会の挨拶」の動画が流れない。あらかじめWindows Media Playerで立ち上げていたmp4ファイルを「画面共有」にして再生ボタンを押したけれど、うんともすんとも動かない。どうも、長時間立って、Windows Media Playerとmp4ファイルのリンクが切れたらしい。そう判断して、一度、「画面共有」を「目次」のPowerPointに戻して、Windows Media Playerを消して、mp4を立ち上げ直して、その後、「画面共有」をし直す。それで、無事に流れ出す。安堵する。時間にして15秒くらいだろうか。テレビやラジオだったら、まさに放送事故だ。司会者はドキドキしていたことだろう。ボクもドキドキしていた。でも、それ以外、特に大きなトラブルはなく、最後まで行った。

一番の問題は、ボクが主催者であり、Zoomのオペレーションの中核を担っていながら、発表者でもあったことだ。ボクはずぅっと発表者の横について発表者用パソコンを操作していた。発表が終わればビデオとマイクをオフにして、発表者のPowerPointを立ち上げて「画面共有」をする。ところが、ボクの前の発表者の発表が終わって、司会が次の発表者の紹介を始めたとき、ボクは丸腰で、何も準備ができていなかった。

司会者がボクの名前を呼んで「それではよろしくお願いします」と言われたときに初めて「ああ、そうか、次は自分の番か!」と思って、発表者用パソコンの前に座って、ビデオをオンにして、マイクをオンにした。そして、PowerPointを立ち上げながら「画面共有」をした。ボクがつくった見慣れたスライドが現れる。その瞬間、ボクは主催者から発表者に切り替わる。でも、ちょっと心の準備が間に合わなかった。台本はすべて頭の中に叩き込まれているし、発表なんて慣れたものだから、心の準備とは裏腹に、プレゼンは進む。順調に流れていく。ところが、2枚目のスライドから7枚目のスライドに飛ばそうと思ったら、飛ばない。「あれ?」とちょっと混乱。仕方ないので、ちょっと追加説明をして場を繋ぎながら、キーボードを操作するが、指定のスライドが現れない。画面に全角の数字が並ぶ。「ああ、そうか。半角じゃないのか。全角モードになっている!」と気がついて、それから打たれた数字を全部、デリートして、半角にして、それから操作を再開する。これで完全にペースを乱された。ボクの中での時間配分が乱れたので、後半、ものすごく駆け足になり、説明をスキップしなければならない部分もあった。ボクの中では、だから、満足の行く発表にはならなかった。

見ていた人に「プレゼン、慣れているね」と声をかけられた。ということは、意外とこちらの内心のパニックは伝わらなかったのかな。その辺、よく分からない。Zoomの一部始終を記録しているので、その辺は後で確認しなきゃいけないな、と思っている。

ウェブセミナー全体としては大成功だけれど、発表者としては悔いの残る結果になった。発表者としてもちゃんとやり切りたかったな。うーん。後半、発表者用パソコンの操作を誰かに任せればよかったかなあ……。