2022年1月30日 1,000項目達成を記念して

ボクがウェブサイト運営を始めたのは2003年で、大学生の頃だった。その中で「ファンタジィ事典」を立ち上げたのは2004年。その後、紆余曲折あって、方向性もあっちに行き、こっちに行き、いろんなスタイルを模索して、今(2022年1月)に至っている。

このたび、実は事典に掲載されている「世界の妖怪」の数が1,000項目を越えた。厳密に言えば、すでにとっくのとうに1,000項目は越えている。でも、単に辞書的に事実を載せるだけではなく、一定の要件を越えている項目を、ボクは別途、裏でカウントしていて、そんな納得している項目が、このたび、1,000項目を越えた。

そんな状況なので、今後は、新規の記事を増やすだけではなく、読み物としてもっと面白くなるように、過去の記事を再構築するような活動も、同時並行的に進めていければよいな、と思っている。

それから、単一の記事を書くのではなく、もっと俯瞰的な記事を増やすことも考えている。つまり、この国の妖怪ってこういう傾向にあるよね、とか、時代を経て、妖怪の在り方ってこういう風に変わっているよね、みたいな感じで、複数の項目を横断していくようなコラム的な特集記事を増やしていくと、「ファンタジィ事典」が単なる記事の総体ではなく、間口が広がって、読み物になっていく。

最近、いろいろな図鑑を読む。たとえば、動物図鑑だと、ネコ科とかイヌ科みたいな分類から始まって、個別の種の説明を載せるわけだけど、たとえば、食物連鎖についてまとめていたり、地域ごとに特集を組まれていたり、足の速い動物はどれかとか、肉食獣の獲物の捕まえ方の違いとか、いろいろな切り口で特集記事を書く。そうすると、単にその種の記事だけを読むのと違って、他の動物との比較ができたり、生態系の中でのその種の位置付けが分かったリ、進化の歴史が分かったリ、いろいろと理解が深まる。そういうアプローチを「ファンタジィ事典」の中でも取り入れられたら面白いだろうと思っている。こうして、1,000項目をまとめてきて、そんな分析ができるようなところまで来たのではないか。自分へのそんな期待もある。

何事も10年とは言うけれど、1,000項目を越えるのに、10年はとうに過ぎてしまった。ここから、さらに高いところを目指していきたいな、と思っている。そのときに、面白い世界が見えているといいなあ。

2022年1月5日 テスカトリポカを描いてみた。

今年の雑誌の表紙はテスカトリポカを描いてみた。アステカ神話の創造神だ。ジャガーに変身するので、寅年のネタとして採用してみた。顔の色は、本当はもう少し黄色いのかもしれない。塗ってみて、乾いたら、何だかオレンジっぽくなってしまったが、まあ、仕方ない。


2022年1月3日 2022年もよろしくお願いいたします。

あけましておめでとうございますーm(_ _)m ペコリ

年末年始は帰省していて、オンラインの世界からは離れておりました。ウェブサイト上での新年のご挨拶が遅れましたが、本年もよろしくお願いいたします。

相変わらず、コロナ禍で海外渡航は制限されており、本業のお仕事の方はリモートを駆使して精進する日々ですが、一方のウェブサイト運営の方は、安定的に日本にいられるし、リモートワークで通勤の時間はほぼゼロになるしで、昨年は比較的、順調に更新を進められていました。このような働き方が継続すれば、いろいろな活動が自由になるのになあと思っておりますが、大きな組織というのは旧態依然としているので、案外、難しいかもしれません。でも、新たな技術を導入したのだから、元の場所に戻ることなく、新しい境地に船を進めていけるように、私自身も尽力したいと思います。そこに新しい可能性があるはずです。

毎年恒例の雑誌も、定期的に刊行するようになって10年目を迎えました。ちぃ子(妻です)をパートナーに、刊行の火を絶やすことなく、毎年、毎年、雑誌を配り続けて、しんどいこともありましたが、無事に今年も雑誌を皆様のお手元にお届けできました。

そんなわけで、今年もウェブサイト『ヘタっぴなアルコール蒸留』と『ファンタジィ事典』をよろしくお願いいたします。ではでは。

2021年12月19日 こんな大らかな時代に生まれたかった

『ダンジョン飯』の10巻に「迷宮の兎」というのが登場して、一部のウィザードリィ・ファンの間で話題になっていた。ウサギが首を刈るというのは、ヴォーパル・バニーである。最近、『ダンジョン飯』の11巻を読んでいた妻のちぃ子が「そう言えば、ダンジョン飯に出てきた『迷宮の兎』には元ネタがあるのか?」と訊いてきた。どうも、かわいいウサギが首を刈るという設定にインパクトを受けたらしい。そんなこともあって、ウィザードリィのヴォーパル・バニーの話をして、現代の創作ではあるものの、面白いからウェブサイト「ファンタジィ事典」に載せてやろうと思って調べていたら、『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』という映画が初出だと分かったので、ブルー・レイを調達して、観てみた。アーサー王と円卓の騎士が聖杯を求める物語のパロディ作品だ。でも、正直、とても面白かった。こんなにバカバカしい映画が作れるんだなあ、と思って感動した。いい時代だったんだなあ。大らかな時代だ。映画の終わり方も含めて、ふざけ散らかしている。ボクたちが生きている「今」は、もはや、こういう「遊び」が許容されにくい時代なのかもしれない。

2021年12月18日 絵巻物を漫画にしてしまう斬新さ!!

本屋に行ったら『まんが訳 稲生物怪録』(ちくま新書)が並んでいた。久々の本屋散策だったが、どうも2021年10月に出版されたらしい。ノーチェックだった。

監修が大塚英志氏だったので、彼好みの独特のタッチの画家による漫画なのかな、と思って本を開いたら、全然、そういうものではなくって、妖怪絵巻『稲生家妖怪傳巻物』そのものを写真で取り込んで、それを素材にしてうまくコマ割りして、吹き出しをつけている。まさに再構築といった様相で、全く新しい手法だった。このアイディアは面白い。

寡聞にして知らなかったが、実はこのアプローチは2作目で、『まんが訳 酒呑童子絵巻』というのが2020年5月にすでに出版されていたらしい。ともすれば、さらっと眺めて終わってしまう絵巻物だけれど、コマ割りがとても上手で、細部にフォーカスされるので、じっくりと絵巻物そのものを堪能できる仕掛けになっている。斬新だけど、これは発想として大成功しているな、と感じた。

近日中に『酒呑童子絵巻』も入手してみよう、と決意した。

本のページ

2021年11月19日 ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ

久々に、たまの『さよなら人類』を聴いている。古めかしいのに、全然、色褪せない。今でも斬新な楽曲だ。

息子のツクル氏(小2)に「ピテカントロプスって何?」と訊かれたので、今で言うところの「ホモ・エレクトゥス」のことだと説明した。そうしたら、何故だかすぅっと納得した顔をして「イリテーターも最初、頭の化石だけ見つかったんだよ。で、身体が後で見つかって、別の名前がついたんだけど、イリテーターの身体だって分かって、先に頭が見つかったから、イリテーターって名前になったんだよ」と物知り顔で説明された。恐竜のイリテーターの化石発見と命名の経緯を説明しているらしい。そして、それと同じだね、と言いたいらしい。厳密には違うのだけれど、まあ、大同小異だろう。

その後、しばらく何事かを考えていたが、やおら「ねえ、進化した生き物は、別の新しいものにだったら進化できるけど、昔の姿には戻れないんだよ。だから、人間からホモ・エレクトゥスには戻れないのに」と言い出した。どうやら、『さよなら人類』の歌詞にいちゃもんをつけているらしい。「それに、サルにはなりたくないって言っているけど、ホモ・エレクトゥスは、もう、サルではないんだよ。サルから人間に進化した『後』だから!」。なるほど。それならば、と父は最近仕入れているポケモンのネタで攻める。「でもさ。ポケモンは進化した後、退化の石で元に戻れるじゃん。だから、ホモ・サピエンスもホモ・エレクトゥスに戻ることができるかもしれないよ?」。するとツクル氏はこう答えた。「確かに。でも、どこまで戻るんだろうね。ホモ・エレクトゥス……えぇっと、何だっけ? ピテカントロプス? それに戻らずに、サルも通り越して、ピカイアになっちゃうかもよ? まあ、それも通り越して、細胞ひとつのやつまで戻っちゃうかもしれないけどね」。

うーん。子供の脳内はくるくるとしていて、とても不思議だ。追いつけないし、真似もできない。発想が自由だ。完敗。

2021年10月23日 「通知」って、実は「読め!」と同義じゃない!?

SNSを更新しなくなって久しい。facebookだけじゃなくて、インスタもTwitterも、みんな止めてしまった。

基本的には自己開示が好きな性質(たち)なので、頻繁に更新していた時期もあった。自分のウェブサイトで日記を書いていたときには、365日、毎日、何かを発信していたときもあった。記事を書くことそのものは、全然、苦じゃないし、日常で、何か面白いネタを探すことも苦ではない。でも、たとえばfacebookだと、記事をアップすると「友達」にそれが通知される。自分の発信を「読め!」とばかりに押し付けるのは何だか違うよなあ、と思って煩悶する。

そりゃあ、反応があると嬉しい。「いいね!」が押されるだけでも、読んでもらっているという実感が湧く。そういう意味では、SNSは楽チンだ。昔は、読みたい人だけがウェブサイトやblogにアクセスしてくれて、読んでくれていた。だから、工夫しないと人が訪れないし、読んでもらえない。面白いコンテンツをつくらなければいけない。だから必死になって頑張る。多分、そういう発信をしている方が、健全じゃないか、と思う。書けば見てもらえて、反応がある、というのは、楽チンだけど、ちょっと横着だよな、と思う。

それに、わざわざ訪ねてくれた人が好きで見るものだと思えば、気兼ねすることなく書ける。基本的に、読みたいものを読みたい人が読む。それが自然な形だ。だから、こうして、のんびりと書いている。

2021年10月21日 牛牛バイトテロについて想いを馳せる

久々のバイトテロに、インターネットは沸いている。それがヒカルご用達の高級焼肉店「牛牛」なのだから、尚更だ。被写体となった女性と撮影した女性の氏名や大学が特定されて掲載されてしまっている(その信憑性は分からない)。その上、撮影した女性の父親の会社まで晒され、被害は拡大している模様だ。

バイトテロはバイトテロとして考えることはたくさんあるし、彼女たちも迂闊だったし、リスク管理ができていなかった。でも、ちょっと気になっていることが2つある。

1つ目は、果たして、被写体となった女性はこの動画がSNSにアップされることを了承していたのだろうか。勿論、仕事中だから、当然、ふざけちゃいけない。でも、たまには羽目を外して仲間内でふざけることもあるし、それを面白がって私的に撮影することを許してしまうことはあり得る。撮影者はその動画をSNSにアップしたが、被写体となった彼女は、どこまでそれを了解していたのだろう。

昨今、我々はSNSにいろんな写真や動画を載せる。被写体が自分だけならば問題ない。でも、当然、そこに居合わせる人々がいる。その掲載許可を、どこまで考えているだろう。ここはよくよく考えなきゃいけない。もしも彼女が何も了解していなければ、完全なる被害者だ。その辺、どうなっているのかがとても気になる。

2つ目は「流出」という表現が使われている点。いつも思うのは「承認済みのフォロワーのみに公開」という設定になっている記事や写真、動画を外部に「流出」させてよいのか、という問題だ。公開している動画に問題があったとしても、「流出」させなければ大事件にはならない。大事件は常に「流出」が引き金になる。「流出」することも想定してリスク管理しておくことは重要だが、「流出」させることも問題だ、という認識が必要だ。コレコレの配信にタレこんだ人物がいるわけだが、その行為も、実は問題じゃないか、と思う。つまり、狭いコミュニティだから安心して公開できることもあって、それは仲間内の井戸端会議から一般公開の記事に至るまで、グラデーションになっている。

世の中、狭いコミュニティだから開示できることもある。たとえば、社内の給湯室に盗聴器をおいておいて「お前、会社の悪口を言っていただろう!」と詰問されると、それはちょっとどうなのかな、と思うように、狭いコミュニティでの発言を「流出」させてバイトテロに仕立て上げてしまうのは、ちょっと違う。つまり、仮に内容に問題があったとしても、これは彼女たちの意図した公開範囲ではないのだ。

そんなわけで、2つの問題に無自覚になってはいけないような気がする。肖像権の問題と、公開範囲外への流出の問題だ。インターネットが普及して、一億総発信時代になった今だからこそ、改めて、情報管理について考えなければいけない。

2021年10月8日 fantasyはファンタシィ!?

ボクがウェブサイト運営を始めたのは2003年。大学生活の傍らで創作サイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」を立ち上げた。元々、大学の授業の一環でhtmlを学ぶ機会があり、そのまま、ウェブサイトの作成に没頭した。当時の日本では、まだ大手のウェブサイトは少なくて、大学に行けば「昨日の侍魂の記事、見た?」みたいに、ある程度、みんなの中で共通認識になるようなウェブサイトがあった。その後、2004年にサイト内のコンテンツのひとつとして「ファンタジィ事典」の構築に着手した。創作は時間が掛かる。ボクは音楽や絵は量産できないタイプなので、どうしても小説を書く方面に力を入れていたが、それだって、月に1本。それだけではウェブサイトとして成立しないので、日々の雑記で更新頻度を上げつつ、その傍らで、次第に創作活動から神話・伝承に軸足を移していった。そして、2009年に「ファンタジィ事典」を「ヘタっぴなアルコール蒸留」から分離した。2017年に大幅リニューアルを敢行して、現在に至る。

というわけで、実のところ、2004年からウェブサイト「ファンタジィ事典」をやっている。「ファンタジー」ではなく「ファンタジィ」なのは、「y」をカタカナ化するときに何となく「ィ」にすると格好いいと思ったからで、大学生の頃の若気の至りではある。でも、今でもそのまま「ファンタジィ」の表記でやっている。まあ、「ファンタジー事典」では、あまりにも一般名詞っぽいので、「ファンタジィ事典」にすることで、ちょっとした固有名詞感が出てよいかな、とも思っているんだけど、でも、最近のGoogleは賢いので、「ファンタジィ」でも「ファンタジー」でも、ほぼ同じものとして認識しているようで、「ファンタジィ」という表記で差異化を図っても、検索上、何も有利に働かないらしく、ちょっと頭の痛い問題ではある。

さて、本日の本題である。タイトルのとおりだが、英語のfantasyは、実は【ˈfæntəsi】と発音するらしい。つまり、ファンタシである。「ファンタジィ」でも「ファンタジー」でもなく「ファンタシ」だ。そりゃあ、そうか。「s」だもんね。たまたま、ファンタジィという概念について整理していて、本日、発見した。いやはや。ファンタシィか。でも、もはや日本語としては「ファンタジィ」の方が定着してしまっている。

2021年9月30日 ミャンマーの伝承をガガッと大量更新中!!

ここのところ、ボクは「ファンタジィ事典」の更新に余念がない。各方面、各分野で更新しているが、本日はミャンマーの伝承に注力してみた。ミャンマーを旅して、現地で『The Thirty-Seven Nats』という本もゲットして、ずぅっと更新したいと思っていた分野だ。「ドゥッタバウン群」に分類される7柱のナッ神を更新してみた。マハギリナマードゥシュエナベシンニョシンピュトウン・バーンラシンネミだ。ちょっと、頑張って更新してみたので、是非、眺めてみて欲しい。ドゥッタバウン群の詳細はミャンマーの伝承を要チェック!!

そのうち、アノーヤタ群をまたガガッとまとめて大量に更新する日がやって来る……はず!?

2021年9月23日 ファンタジィの源流

ボクはウェブサイト「ファンタジィ事典」を運営している。その対象の範囲は「世界各地の神話や伝承の事典。古代の神話から都市伝説やUMA(未確認動物)まで」であり、「架空の存在でありながら、その存在が実在と信じられたもの」を『世界の妖怪』と定義して、「ファンタジィ」に関する言葉を事典形式で整理している。その一方で、実のところ、あんまり深く「ファンタジィ」という言葉を定義してこなかった。漠然と「ファンタジィ」という言葉を使っているけれど、さてはて、「ファンタジィ」って何だろう。

たとえば、ファンタジー小説の「ハリーポッター・シリーズ」は、分類として間違いなくファンタジィだ。映画『風の谷のナウシカ』もファンタジィ。RPGの「ドラゴンクエスト・シリーズ」や「ファイナル・ファンタジー・シリーズ」もファンタジィだろう。カードゲームの『マジック・ザ・ギャザリング』なんかもファンタジィなのだろう。中国を舞台にした『西遊記』や『封神演義』だって、ファンタジィだ。ファンタジィって幅広いな、と思う。最近は息子のツクル氏と一緒に、毎晩、「オズ・シリーズ」を読んでいて、もう少しで14作品を読破できる。こういうのもファンタジィだろう。

そんなわけで、ファンタジィの源流を探るべく、最近になって、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)を読み始めた。もっと遡れば、ジョン・ラスキンの『黄金の川の王様』(1851年)とか、チャールズ・キングズリーの『水の子』(1863年)などがあるらしいので、その辺も読んでみたいな、と思っている。ファンタジィはイギリスで誕生した。ちょうど、18世紀中頃に、書籍商のジョン・ニューベリー(1713~1767年)という人物が、子供向けに本を出版して売り出し始め、挿絵を付した本が売れるようになった時代らしい。その影響を受けて、18世紀後半には行商人たちによって「チャップブック」と呼ばれる通俗な本が販売され、その中で、フェアリーテール(おとぎ話)が人気を博すようになる。けれども、こういう通俗的な内容は、宗教的・道徳的・教育的に怪しからんということで、排斥する動きが出てくる。そんな中、1768年頃、ニューベリーがフランスで高い評価を得ていたシャルル・ペローの作品の英語版を出版する。そして、1823年にグリム兄弟の作品集の英訳、1840年代にはハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話の英訳が始まって、自由な発想による空想文学が出来上がる素地ができた。そうして、前述のラスキン、キングズリー、キャロルが作品を発表していく。

この辺の流れをちゃんと押さえれば、改めて「ファンタジィ」とは何か、を定義できるのではないか。そんなことを密かに目論んでいる。また、ヨーロッパの人々が新大陸アメリカに移住したときには、アメリカの地には「彼ら」にとっての神話・伝承がなかった。そのため、アメリカ人にとっての新たな神話として執筆された「オズ・シリーズ」も、ボクの中では、ひとつの探求のターゲットになっている。

こうやって、少しずつ「ファンタジィ」の外堀を埋めながら「ファンタジィ事典」を編纂していければよい。40歳になって、そんなことを感じている。

2021年7月7日 こうえんによにんいました。ふたりがかえりました。さて……

タイトルのとおりだ。

 こうえんによにんいました。ふたりがかえりました。さて、いま、こうえんにはなんにんいますか。

小学校1年生の姪っ子が、そんな算数の問題に直面したらしい。当然、「4-2=2」だ。そこで、彼女は「2たり」と書いたらしい。先生は不正解にして、「2り」と直したらしい。姪っ子の母親がこの仕打ちに激怒していた。

さて、「ふたり」は「2たり」なのか。それとも「2り」なのか。それとも「二人」は熟字訓で「二人」と漢字で書いたときにのみ「ふたり」と読むのか。

ちなみに、熟字訓というのは、たとえば「大和」みたいな字のことだ。この漢字二文字を「や-まと」とも「やま-と」とも分けることはできない。あるいは「仙人掌」を「さ-ぼ-てん」などと分けられないのも同様だ。

ちゃんと調べてみると、どうも『日本書紀』(奈良時代)の大和言葉では、人の数え方が、

 ひと-たり、ふた-たり、み-たり、よ-たり、いっ-たり……

と「たり」で数えていたらしい。で、「一人」、「二人」はよく使うので、省略されて、

 ひと-り、ふた-り……

となったという。今でも田舎の高齢者は「ひとり」「ふたり」「みたり」「よたり」「いったり」と数える人もいるという。ということなので、担任の先生がどこまで自覚的に言っていたのかは分からない。でも、どうも「2り」が正しいようだ。……算数のテストだから、本質的じゃないし、この歴史的なプロセスを小学生には説明できないので、何だかなあ、というところではあるのだけれど。

2021年6月27日 謝罪動画を1つ残らず駆逐したい!!

YouTuberたちの大宴会を文春が報じてから、多くの謝罪動画が出された。みんな、正装をして、大真面目にカメラに向かって頭を下げている。そのスタイルがスタンダードになっている。でも、謝罪動画というスタイルが当たり前になっていることに、ボクは違和感を覚えずにはいられない。

一億総発信時代だ。自分の口で、自分の言葉で、何でも発信できる。だから、ファンの人たちは、会社が公式ウェブサイトに掲載する「型通りの謝罪文」では満足できない。本人の口からいろいろと経緯や弁明、主張を聞きたいと願う。それは、そのとおりだと思う。でも、それがテンプレート化してしまったら、「型通りの謝罪文」と変わらない。そして、みんなが「謝罪動画を出せ」とYouTuberたちに期待することも、気持ちが悪いな、と感じる。

ボクは、結構、YouTubeを見る方なので、個人的には、報道の中に関根りさの名前があったことにとてもショックを受けた。えっちゃんとりっちゃんの名前にも驚いた。勝手に、比較的、まともな人たちだと思っていた。そして、あれだけ人気者で、テレビでもラジオでも仕事をしている水溜まりボンドのトミーが、実は大宴会に積極的に関与していたらしき発表にも驚いた。そして、いろいろな面々の「謝罪動画」を見た。関根りさなんかは自分の言葉で一所懸命喋っていて、その点は好感が持てたし、ファンの願いに沿う形だった気がする。でも、他の多くのYouTuberたちはテンプレと化している気がした。そのテンプレの後、どうやって次の動画を発信していくのだろう。まるでイメージができない。

ボクは品行方正なんてものをYouTuberに求めてはいない。だから、えびすじゃっぷやヘラヘラ三銃士みたいなふざけた動画の方向性も、エンターテイメントとしてはひとつの在り方で、そこまで過度にバッシングすることではないと思っている。彼らが提供すべきはエンターテイメントであって、謝罪動画はエンタメではないし、エンターテイナーとして必須ではない。本人の口から説明して欲しいな、と願うファンの気持ちに寄り添うかどうか、そして、どんな形で寄り添うかは、演者が決めればよいことだ。いろいろな形があることを認めてあげられない社会が、感性に乏しいな、と思う。それに、謝罪することよりも、次の動画に繋げていくアプローチを、もっともっと彼らは模索する必要があると思う。あんな謝罪動画の後に、どんなエンタメが成立し得るのか。芸能人やYouTuberが大真面目に謝罪したら、その後のエンタメが成立しなくなる。いい加減に、学ぶべきだと思う。必要なことは形式ばった謝罪ではない。自分の言葉で本音を話すことであり、そして、できるならば、少しだけウィットを入れ、その人らしさを織り交ぜて、次に繋げることだ。

その意味では、えびすじゃっぷの動画は、個人的には面白かった。謝罪動画は出さないという覚悟も然ることながら、立ちションが軽犯罪だから警察に出頭しようという遊び心も、完全にエンターテイメントで、YouTuberらしかった。彼ららしい。ただ、一点だけ、彼らに伝えたいこともある。それでもやっぱり、今回の振る舞いは不適切で、咎められるべき行為だという点だ。30名を越える規模での会食、8時以降の飲食、さらには飲酒。そしてマスクなしでの外出。そこは、ちゃんと反省する必要がある。

彼らは「友達の誕生日に参加することは悪いことだとは思っていない」「娯楽とか遊びとか大事だと思う」という旨の発言をしていた。その点に関しては、ボクもそのとおりで、何でも自粛すればいいものではないと思っている。クオリティ・オブ・ライフという言葉があって、人生の質は高めなきゃいけない。生きるとは何ぞや、という問い掛けは、このコロナ禍で、ボクも何度も自問自答している。不要不急であらゆるエンタメを自粛してしまったら、何のために生きているのか分からなくなる。ライブに行くとか、演劇を楽しむとか、飲み会とか、そういう生きがいを「不要不急」で片付けて自粛して、ボクたちが人間らしく生きなければ、生きる意味はない。そこは同意する。でも、だからと言って、何でも許容されるわけではない。新型コロナウイルス感染症の対策をして、できる範囲でやれることもたくさんある。そういう工夫を一切放棄してしまうことは簡単だ。でも、それは怠慢だ。最大限、努力して、やれることはやるべきだ。そういう創意工夫の中でのクオリティ・オブ・ライフの実現は、いちいち目くじらを立てて咎める必要はないし、そういう寛容な社会であるべきだ。

謝罪動画を出さない覚悟も、形式張らずにいつも通りの動画を撮影する方向性も、自粛に対する問題提起をしようという若者らしい心意気も買う。でも、やれることはやるべきで、今回、そこが叩かれている。

2021年6月26日 エンタメに効率を導入する時点で感性オワタだと思う。

YouTube業界に激震が走っている。ひとつは「ファスト映画」で逮捕者が出たこと。もうひとつはYouTuberたちの大宴会。文春にすっぱ抜かれた。

「ファスト映画」で逮捕されたのは20代の若者だった。彼らがどのくらい犯罪意識を持ってやっていたのかは分からない。案外、グレーゾーンでやっていると思っていたのではないか。YouTubeのアルゴリズムも、明らかに「ファスト映画」を優遇していたように感じる。青天の霹靂だったのではないか。あるいは、事前に何らかの警告なり注意喚起があったのだろうか。いずれにしても、逮捕された若者たちには不幸なことだな、と思う。

コンテンツ海外流通促進機構によれば、55アカウントが約2,100本の動画を投稿。合計で4億7,700万回再生されているという。「ファスト映画」による被害総額は956億円と推計されるらしい。

ボクは「ファスト映画」がどうしてこんなにも流行っているのか、正直、よく分からない。一度、「ファスト映画」という概念もよく分からないときに、YouTubeのオススメに出てきて視聴したことがある。強烈なタイトルがつけられていて、それに惹かれてクリックした。でも、結局、タイトルに関係するような内容はほとんど本編とは無関係で、いわゆる、タイトル詐欺の釣り動画だった。内容はよくまとまっていた。筋書きはよく分かった。でも、決して面白くはなかった。

映画に限った話ではないが、作品は、断片だけを切り取って楽しむものではない。10分で楽しませられるなら、その作者は10分の映画をつくる。映画が2時間なら、2時間が必要な中身なのだ。プロのクリエイターなら、決して作品を間延びさせようとは思わない。会話のやりとりやカメラワーク、間なども含めて、2時間で楽しまなければ、本当の映画の楽しさは分からない。だから、「ファスト映画」を観て、映画の筋書きはよく分かったけれど、一方で、映画の楽しさが満喫できるわけはないのだ。

過去には、世界文学を短くまとめた本もたくさん出版されていた。それも「10分でわかる」みたいな触れ込みだったように思う。でも、そもそもエンターテイメントに効率を求めるのはおかしい、とボクは強く主張したい。世界文学にしても、映画にしても、筋書きや結末だけに価値があるわけじゃない。お洒落な会話、示唆に富む作者の哲学や思想、文章の軽妙、そこで繰り広げられる人間関係……いろんなものが、エンタメをエンタメたらしめていて、部分的につまみ食いして、それで作品が分かった気分になるのは、エンタメの本質ではない。

「ファスト映画」の再生数はすごいらしい。ボクはそれにものすごく大きな衝撃を受けた。著作権が守られていないとか、作者に失礼だということではなく、そんなライトにエンタメを楽しもうという人間が多いことに驚いた。エンタメの世界にまで時短の概念を持ち出して、効率的に楽しもうという発想が、すでに悲しい。

価値観が多様化して、いろいろとマニアックな作品が日の目を見る時代だ。みんなが画一的に同じものを楽しむのではなく、各々が好きなものを選んで楽しむ時代で、とてもよい傾向だと思う。だからこそ、受け手の感性の劣化は悲しいな、と思う。もしかしたら、コンテンツが溢れすぎて、つまみ食いしながら、取捨選択しなきゃいけない時代になってしまったのかもしれない。「被害総額は956億円」とCODAは謳っている。DVDが売れないとか、作者が報われないとか、そんなことよりも、もっともっと、真正面からエンタメを楽しむ土壌をつくらないといけない。そんな気がした。

……YouTuberたちの大宴会については明日に譲ろう。

2021年6月6日 ほぼ1か月振りの投稿

最後の投稿が5月5日で、本日は6月6日。まるでCandy Foxxの新曲発表のような間隔での雑記の投稿だ。

実は、いろいろと書きたいことはあった。書けないほど忙しかったわけでもないし、書こうと思えば書けた。でも、書かなかった。何となく、話題のニュースに飛びついてネタにするみたいな物申す系YouTuberみたいなことをすると疲れるなあ、と感じた。だから、自制していた。Candy FoxxのPVが炎上したり、大坂なおみが記者会見を拒否して叩かれたり、なかなか新型コロナウイルス感染症のワクチンが進まなかったり、勿論、いろいろと思うところはある。ダイバーシティの時代を謳いながら、社会はものすごく画一的で、攻撃的だなあ、と思う。どんな在り方も、まずは受け容れる必要がある。そんなことを思いながら、何とか優しい社会にならないものか、と思ったりもした。でも、そういうことを書くのは思いの外、しんどいので、ROMっていた。

一方で、個人的には楽しい1か月でもあって、コロナ禍の影響もあってか、いろんな学問の専門家がYouTubeに活躍の場を見い出して参入してきていて、それに後押しされた格好なのか、「ゆる言語学ラジオ」みたいなレベルの高い教養あるYouTubeチャンネルが増えてきた。いろいろな分野で、好事家が知識を披露してくれていて、それを視聴者が楽しめるようになって、新しい時代だな、と感じている。

それから、最近は本を乱読していた。オズの魔法使いシリーズは15冊、全部、読んでしまった。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とかカレル・チャペックの『R.U.R.』も読んだ。マクシム・ゴーリキーの『どん底』みたいな本も読んでいた。中野美代子訳の『西遊記』シリーズ全10冊も、ちょうど読み始めたところだ。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』も読み始めた。そんなわけで、世界文学大系みたいな本を順次、読んでいこうと思っている昨今だ。

こういう話題だったら、「日々の雑記」に書いてもよいなあ、と思っている。

2021年5月5日 妖怪図書館 – 冥途のミヤゲ

最近、YouTubeで注目しているアカウントがある。「妖怪図書館 – 冥土のミヤゲ」(YouTube)だ。すでに1年ほど運営されていて、ボク自身は半年前くらいから見ていた。日本の妖怪について、熱く語っている。登録者数が1,000人にいかないので、収益化はできていないんだろうけれど、それでも、諦めずに定期的に投稿を続けている。すごいのは、情報のクオリティが高いこと。ちゃんと一次資料を参照していることが分かる。それでいて、分かりやすくて噛み砕かれていて、ちゃんとエンタメになっている。

正直、このクオリティでこの更新頻度なら、もっと登録者数が増えてもいいのにな、と思う。でも、YouTubeはコラボで登録者数を増やしていく側面があるので、このアプローチだとなかなか認知度が上がっていかないよなあ、とも思う。だから、こうやって陰ながら応援していこうと思って、小さいウェブサイトながら、紹介してみた。

2021年5月1日 経験値

結局のところ、人間のスキルは、その活動と接している時間とその濃さに結びつく。何でも、やったらやっただけ、そのスキルは高まる。できるようになる。それを1年間かけて実証したような気がする。

動画を企画し、プロットを書いて、撮影(出演)し、編集する。それを去年の4月はボクが一人で担っていた。プロットもボクが書き、プレゼンもボクがして、そして撮影・編集もボクがした。でも、1年間かけて、チームの中で、この一連の活動ができる人間が4人になった。

演者のスキル、撮影機材操作のスキル、動画編集のスキルなんて、職場内じゃ、限られた人間のスキルだと思っていた人が大半だ。でも、いまや、そんなスキルを持った人の方がマジョリティだ。

2021年4月30日 YouTuberの時代!?

強制的にYouTuberにならざるを得ない時代だ。コロナ禍で3密回避が求められる中、説明会や報告会などのイベントが出来ない。新年度を迎えて、情報発信したり、説明をしなきゃいけないことはたくさんあるので、畢竟、YouTube配信に頼ることになる。勿論、YouTubeで収益を稼ぐわけじゃないから、厳密には職業YouTuberではない。でも、企画、撮影、出演、編集をこなさなければならない。

チームで、誰もができることを考えて、Zoomで撮って、Shotcutで編集する体制を採用した。そうすれば、簡単に画面共有ができて、PowerPointやWordも使える。原稿も画面上に写しながら、ウェブカメラに向かって話せる。編集はフリーソフトのShotcutだ。音声の波が見やすいので、切り貼りが容易だ。

気づけば、昨年度末から、チームメンバーはPowerPointをつくって、台本を書いて、小部屋で撮影して、そして編集する体制になっている。執務室で、みんな、Shotcutで動画を切り貼りしているので、後ろから見ていると、まるでYouTuberの編集チームみたいだ。社内の人にもたくさん出演をしてもらっている。みんな、「よい経験をさせていただいた」と言っている。そういう感性が素晴らしい。

とは言え、演者になるためには、はっちゃけが必要だ。さて、今年、我々のチームに配属になった新しい後輩はどうなるか。楽しみだなあ。

Zoomで撮ってShotcutで編集

2021年4月28日 屋外撮影!?

例によって例の如く、最近は職場内YouTuberと化している。本日はプロジェクト関係者の声を収録しに、繰り出した。「会議室の様子だけじゃ面白くないから、外で撮ろう」。みんな、いろいろなことを考える。ちょうど一年前にも、ある人が「コロナ禍だから室内はダメだよ。外で撮ろう」と当日に言い出して外で収録したら、風の音がゴウゴウとマイクに入り込んで、そりゃあ、酷い出来栄えだった。何しろ、こちらは本職のYouTuberではないので、野外撮影の機材なんて持っていない。

今回は同じ轍を踏まないように、二の舞いを演じないように、ちょっとだけ、機材を検討する。前回はビデオカメラに内蔵のマイクで撮ったので、当然、海風の音も拾ってしまった。今回は、さすがにガンマイクを購入する予算はないので、スポンジつきのピンマイクで距離を縮めてやってみる。風の音はゼロではないが、かなり軽減され、聞くに堪えるクオリティになった。

……いろんなことに挑戦すると、知らず知らずのうちにいろんなスキルやノウハウが身につく。そんなのばっかりだな。

2021年4月27日 意思決定の主体を誰にするか問題。

意思決定をするときに、その主体を誰にするかはとても重要だ。

たとえば、こちら側で予め案を作成して持って行くのがふさわしいときがある。「結局、お前はどうしたいんだ」と会議中に問われるようなら、多分、こちら側の方で、事前にもう少し方向性を決めて臨むべきだったのだろう。

逆に相手側に主体性や責任を持たせたいときには、こちらであまり詰めないで、相手の裁量権に任せてみる。そういう必要性もある。たとえば「この条件に合致する適切な人材を選んでいただきたい」みたいな議論のときに、こちらで人選ができていて、コントロールしたいときには、こちらで例示みたいな形で案を出すことも必要だが、でも、大抵、それはうまく行かない。「そっちで勝手に決めるな」と言われる場合もあるだろうし、「そちらがそれでいいなら、どうぞ。でも、あなたが選んだんだからね」とプロジェクトの成否に対して他人事になってしまう場合もある。

本来、組織として一丸となってプロジェクトを進めることが必要で、決して、他人事にしてはいけない。だから、相手側に主体性や責任を持たせるしくみが必要になる。「この条件に合った適切な人材を選んでいただきたい」という議論のときに、相手側がより主体的に考えて、人選に関与することが、無関心の回避につながる。その一方で、完全に相手任せにあいて、ババを引くこともあるわけで、そのさじ加減が難しい。腹の中に自分の案を準備しておきながら、ギリギリまでそれは外には出さずに、相手が自ら決めているように議論を進め、自分の案に向かって、徐々に誘導していくのが、本当は、最良のやり方なのだろう。

そんなことを戦略的に考える必要があるときに、身内に「あの人、仕事のことは分からないけど、話してみたらいい人だったから、あの人を出してもらう?」とか言って、調整を始める上司がいると、辟易する。プロジェクトは仲良しこよしのお遊びじゃない。成果が求められている。「いい人」で成り立つわけじゃないのに……。