2021年3月1日 自分が書きたいことを書くのではなく、相手が読みたいことを書く。

ボクもそんなに文章がうまい訳ではない。ついつい、自分が書きたいことを書いてしまう。でも、本当は相手が読みたいことこそ書くべきだ。文章を書くときに、読み手のことを想像することはとても大事で、ボクも、極力、読み手に思いを馳せて書くように心掛けている。

同僚の書いた「報告書」が酷くて、先方に受け入れてもらえなかった。それで、金曜日から、蜂の巣を突いたような大騒ぎになっている。自分で言うのも憚られるが、ボクは「報告書」を書くのが比較的、得意だ。多少、ロジカルじゃない部分があって、それは直されることもあるが、今まで「報告書」を書いて、先方から高い評価をいただいている。だから、駆り出された。でも、みんな、ボクが書いた文章にどんどん手を入れて滅茶苦茶にする。曰く「こんなに細かく丁寧に書いたらツッコミが入る」ということらしいが、細かく丁寧に書くのは、読み手が何も分からない前提だからだ。多少、くどいくらいに、いろんな情報を省略せず、説明してあげるから、どんな読み手も分かるのだ。それを怠って、自分勝手に書くから、受け入れてもらえない。そんなことを感じて、難しいもんだなあ、と思っている。

2021年3月2日 ベヒモスは《カバ》でレヴィアタンは《ワニ》であるという不都合な真実

久々にゆっくりと休んで、ウェブサイト「ファンタジィ事典」を更新。ベヒモスレヴィアタンを更新した。

ベヒモスが旧約聖書『ヨブ記』に登場することは有名だけど、じゃあ、『ヨブ記』を読んだことがあるのか、というと、読んでいない人が多いのだろう。でも、今はインターネットで何でも読める時代だ。Wikipediaの「ベヒモス」を見れば『ヨブ記』40章15-23節に登場することが分かる。そして、今度はWikipediaの「ヨブ記」に飛べば、Wikisourceで日本聖書協会の『明治元訳旧約聖書』(1953年)と『口語訳旧約聖書』(1955年)が引っ掛かる。従って、聖書を持っていない人でも、実は『ヨブ記』は読める。

というわけで、『ヨブ記』の40章15-23節を読むと、どちらにも「ベヒモス」は出てこない。実は「ベヒモス」はどちらも《河馬》と訳されている。ちなみに41章1節には「レヴィアタン」が登場するはずだが、これも「わに」あるいは「鱷」となっていて、「レヴィアタン」は出てこない。

ちなみに、ちょっと英語が出来れば、簡単にヘブライ語の『ヨブ記』を引っ張り出すこともできて、そこにはちゃんと「ベヒモス(בְהֵמוֹת)」も「レヴィアタン(לִוְיָתָן)」も出てくる。要するに、現在では「ベヒモス」は《カバ》と訳され、レヴィアタンは《ワニ》と訳されているということになる。それなら、ベヒモスは《カバ》でレヴィアタンは《ワニ》だ、とWikipediaで説明してもよさそうだし、神話系のウェブサイトで説明していてもよさそうだけど、そういう説明はない。やっぱり、ベヒモスやレヴィアタンを調べる人にとっては、ベヒモスが《カバ》で、レヴィアタンが《ワニ》であっては不都合なのだろうな、と感じる。

その当時(つまりヨブ記が書かれた紀元前7~4世紀)に、そういう認識だったのかどうかは分からない。少なくとも、カバの尻尾は杉のようではない。それに、現在では少なくともカバもワニもヨルダン川には棲息していない。ナイル川にはいたはずなので、そういう記憶が伝わったのかもしれない。でも、カバとワニだったら、確かに人類にとっては恐ろしい敵で、そこから着想してモンスターになったというのは、ない話ではないよなあ、と思う。だから、まあ、現在の聖書でカバとかワニとか訳されていても、それはそれで妥当ではあるかな、と感じる。勿論、ベヒモスはベヒモスであり、レヴィアタンはレヴィアタンなのだけれど。

2021年3月3日 英語ができる人が羨ましい。

英語は昔っから苦手だ。学生時代、体育の次に苦手だった。基本的には、ボクは訓練が必要な科目は苦手なことが多く、子供のときから、九九を覚えるとか、公式を覚えるとか、地名や年号を覚えるみたいなことには意味を見い出せなくて、結果、得意ではなかった。その意味では、英語も、英単語を覚えるとか、文法を覚えるということに興味が湧かなくて、畢竟、苦手な科目になった。結局、本質的には努力家ではないのだ。センター試験で200点中、130点くらいだった記憶がある。

でも、さすがにずぅっと海外を飛び回っていたので、今ではその苦手意識も大分、薄れてきた。それでも、得意ではないな、と感じる。会話はできる。相手に何か言われたときに、即座にレスポンスすることも、言い合いをすることもできる。だから、今のところ、業務上、不都合はない。でも、文法は滅茶苦茶だし、細かいニュアンスは伝えられないな、というのは常に感じている。おそらく、公式の場で、ちゃんとしたスピーチをしろ、と言われると、ちょっと不適切だろうな、と思う。あくまでも、現場レベルの会話ができるだけだ。

本日は、南アフリカの方々とテレビ会議をした。ボクが体調を崩していたところもあって、準備にあまり携われていなかったので、後輩に資料作成、ファシリテーションを全部、託した。彼はTOEIC満点で、帰国子女なわけだけど、流暢だ。相手との会話のキャッチボールも淀みなく、時折、ジョークも飛ばし、和気藹々と議論が進行していく。やっぱり、こういうことだよなあ、と思う。細かいニュアンスも敏感にキャッチできるし、何より、相手側にストレスがない。

勿論、語学力が全てではない。英語が得意だからオールオッケィということではなくて、普段から日本語でちゃんとコミュニケーションがとれない人は、英語でもとれない。今回の場合、彼は日本語においてもちゃんと頼れる後輩で、信念もあるし、同じヴィジョンを共有して仕事ができている。日本語でも論点も明確に伝えられるし、交渉も任せられる。その上で、英語ができるということがとても大事なのだけれど、心の底から、ああ、敵わないなあ、と思った。やっぱり、英語ができるっていいなあ、と。

一朝一夕にはできるようにならない分野はいくつかあるが、英語もそのひとつだ。学生のときに、ちゃんとやっておけばよかった、と思う。

2021年3月4日 安倍晋三はお友達!?

久々にfacebookを巡回していたら、お友達候補に「安倍晋三」が出てきた。悪戯や冗談の類いかと思ってクリックしたら、どうやら本物だ。安倍晋三の総理大臣時代のいろいろな出来事を彼が綴っていた。誰か、安倍晋三とお友達になったのだろうか。どういうアルゴリズム? Facebookのアルゴリズムも当てにならないなあ。

2021年3月5日 鍼治療の拷問をくぐり抜けて……

実のところ、ここ1か月くらい、背中から首にかけて、わずかに痛みが走っている。毎朝、憂鬱になる。酷いときには、夕方頃、痛みが増して動けなくなる。それでも、ボクが主催のオンライン研修やウェビナーが立て続けにあって、ボク自身が登壇するしかないので、騙し騙し、歯を食いしばってやってきた。それらがようやく一段落した瞬間、もう、出勤できなくなってしまった。2日くらい休んで、病院に行く。僧帽筋が固まっているらしい。オンラインでの会議や研修、セミナーが立て続けにあって、そのためのPowerPointをつくったり、モニタ越しのコミュニケーションをしたり、動画編集をしたりしていたのが原因らしい。そして、鍼治療を試みる。

鍼治療は一種の拷問だと思う。筋肉に細い鍼が刺さった瞬間に鈍痛があって、ぎゃあ、と叫びたくなる。それを歯を食いしばって抑え込む。あっちに刺され、こっちに刺され、悲鳴を押し殺して、15分くらいの地獄の時間。ちょっとした緩急の「緩」のタイミングで冷静になって「ボクは一体、何をしているんだろう」と思って、逃げ出したくなる。そして、鈍痛に襲われる。……それでも、終わってしまうと楽になる。禁断の黒魔術だな、と思う。

2021年3月6日 ワンピース的観光地に行ってみたくなったよ!!!!!

たまたまAmazonで調べ物をしていたら、『るるぶ ONE PIECE』がオススメされて、そのまま勢いで購入してしまった。それが届いたので読んでいる。面白い。何が面白いって、るるぶ編集部が総力をあげてワンピース的な場所を調べて掲載しているらしいのだけれど、尾田っちの絵との一致の度合いが半端ない。元ネタなのか、偶然の一致なのか、その辺は分からない。でも、尾田っちはかなり初期の頃から、ちゃんと舞台を想定して、下調べして世界観を確定して絵を描いていることになる。

尾田っちの絵は結構、デフォルメされている。でも、ちゃんと動物はよく調べられているし、特徴を捉えている。そういうところにフォーカスして絵を捉えていたけれど、実は背景の建物も、ちゃんと練りに練られて、調べに調べて検討されているとしたら、ものすごいことだ。そんなことに感動してしまった。

2021年3月7日 バラバラ散漫雑記

今日は、ちょっとバラバラと散漫な雑記を書いてみよう。

息子のツクル氏の幼稚園時代の友人が家に訪問した。レゴマリオとWiiで遊んでいる。緊急事態宣言下ではあるので、どうなのか、という声もあるかもしれない。でも、子供がこうやって触れ合って遊ぶという体験は、新型コロナウイルス感染症なんかのために奪われていいものではない。そういう意味じゃ、我が家に遊びにやることに同意してくれた友人の両親にも感謝だ。

新コロに絡めてもうひとつ。地元の親たちの会合があって、本日、妻のちぃ子が参加した。何とZoom会議だ。これもいいよね。40分以上、やっていたので、誰かが有料のアカウントをゲットしたのか、会社のアカウントを勝手に使っているのかは分からない。でも、親たちの会合も、こうやってオンライン化が進んでいく。

そして、ボクはフランス伝承を調査。タラスクガルグイユグラウィリ。結構、フランスの竜退治って、地域によって類似の話があるのだなあ。そして、お祭りになっている。それもまた、面白いな、と思った。

2021年3月8日 飽きっぽさと継続性とマルチタスク

結構、ボクは好奇心旺盛で、いろんなことに手を出すけれど、その一方で飽きっぽくもある。飽きっぽいというのは、決して、最終的に飽きてしまうわけではない。たとえば、ウェブサイト運営も、2003年からやっていて、htmlが下火になっている今でも、継続している。お絵描きも、うまくもないのに、小学校のときからずぅっと飽きもせず続けている。だから、大局的に見れば、全ッ然、飽きっぽくはないのである。「何事も10年」を本気で信じてコツコツと続けていくスタンスだ。

正直、絵なんて、小学生のときには苦手なジャンルのひとつだった。10年やって、ようやく人並みになった感じがする。まさに10年が経ったそのタイミングで、ようやく自分で許容できるレベルになった。そんな印象がある。

でも、短期的にはものすごく飽きっぽい。飽きっぽいからこそ、ひとつのことを続けられない。投げ出してしまう。だから、多方面に手を出して、あれをやってこれをやってを繰り返して、総合的に全部を続けている。そういう性分なのだと思う。

こういうのを時代の言葉で言うと「マルチタスク」というのかもしれない。仕事も、ボクは同時並行でいくつでも進められる。でも、ひとつのことばっかりに掛かりっきりになると、多分、飽きてしまうのだろうな。

2021年3月11日 各種ウェビナーの聴講は仕事として認めるべきか否か問題

新型コロナウイルス感染症が流行して、逆説的にいろんなことのオンライン化が進んだ。それは歓迎すべきことだ。でも、少し気になることもある。今日はそれについて書いてみたい。

最近、いろんな会議がオンラインになって、自席で参加できる。あるいはウェビナーと題して、世界中の人と繋がれて、いろいろな人がオンライン研修やウェビナーを開催する。こういうのも自席からアクセスできる。便利と言えば便利だけれど、情報過多になっている気がする。今までだったら参加しなかったはずの会議や研修、セミナーに容易にアクセスできるので、猫も杓子も参加するようになった。ともすれば、職場の半分くらいの人が、イヤホンを耳に、ふむふむ、とばかりにウェビナーを聴講している。

たとえば、ね。同じ職場から5人も6人も「会議に行ってきます!」なんて出掛けようものなら、課長が「待て、待て! そんなにみんなで行くな」と言うはずだ。でも、自席で会議を聴講したり、研修やウェビナーにアクセスできてしまうと、本来、やるべき自分が抱えている業務と、会議や研修の聴講の線引きが曖昧になる。

知らないよりは知っている方がいい。だから、折角の機会だから聴講しよう。多分、そういう発想なのだろう。でも、何を聴講するにも時間コストは掛かる。時間コストを投じてでも知っておくべきことなのか。それをちゃんと考えた方がいい。

「会議で発言しないのは参加していないのと同じ」とはよく言われる。折角の機会だから情報を得るために聴講しようというのは、もっとちゃんとその必要性を精査しないといけない。最近、みんな、いろんなウェビナーを聴講して、それで働いた気になっている。生産性が下がっていないか?

2021年3月12日 仕事の持続可能性を考慮する

仕事で動画作成をするとき、しばしば、Adobe Premiereを使って動画編集をして、YouTubeにアップロードしていた。でも、Adobe Premiereはボクの私物なので、仕事として持続可能なスタイルではない。ボクしかできないし、ボクがいなくなったら続けない。だから、ちょっと別のソフトでやれないかな、と思って、フリーソフトをいろいろと模索していた。

大抵は、動画で不要な箇所を切って繋げる作業と、複数の動画を繋げ合わせる作業だ。加えて、テロップを入れる作業。そのくらいがやれれば十分だ。それを効率的にやれるソフトとして、今日はShotcutを使ってみた。音の山が大きく表示されるから、切るべき場所が分かりやすいし、操作も簡単だ。出来上がりの解像度も下がらない。いいじゃん。

というわけで、マニュアルをつくってみようか、とZoomを立ち上げて、Shotcutを操作している動画を作成している。簡単にいろんなことができる時代だなあ。

2021年3月13日 「顔出し引退」って何ぞや!?

昨晩は、オリラジのあっちゃんが「顔出し引退」などと宣言していて、ボクはちょっと衝撃を受けて眠りについた。いろんなことを考えてしまった。ノリにノッているYouTube番組『Win Win Wiiin』はどうなるんだろうか。雨上がり決死隊の宮迫と共同で投資して始めた事業だったのではなかったのか。そして、一緒に吉本を退所した相方の慎吾ちゃんはどうなってしまうのか。

そもそも「顔出し引退」とは何ぞや。嵐のニノの結婚相手は「一般女性」となっている。つまり、芸能人に「引退」というのはあるらしい。それなら「顔出し引退」とは何ぞや。たとえば、声優で顔出ししていない人がいる。VTuberで顔出ししていない人がいる。覆面レスラーもいる。ふなっしーとかラファエルみたいなキャラクタもいる。そういう状態になるということか。たとえば、ニュースなどで「中田敦彦」の顔写真を使うことを許可しないということなのか。

でも、そういうのは難しいと思う。「引退」というのは、芸能人の独特の文化なのだ、と思う。たとえば、会社経営者とかスポーツ選手とか、そもそも最初っから、宣材写真なんてないので、顔出しOKにしたつもりなんかないんだろう。たとえば、小室圭さんなんか、元々一般人で、今でも一般人なのに、ああやって報じられる。「顔出し引退」を宣言して顔を使わない判断をしてくれるとしたら、芸能界って優しいな、と思う。それこそ、ニノの結婚相手みたいなものだ。でも、今は全人類が情報発信者だ。本人が望む望まないに関わらず、全人類が情報を発信する。事実上の「顔出し引退」ってできないのでは? ……それを成し遂げてしまうのがあっちゃん流の武勇伝で、何か考えがあるのかしら(笑)。

2021年3月14日 動画よりも文字の方が、情報の質の見極めは早いのでは!?

最近、いろいろなハウツー系の情報が、YouTubeに掲載されるようになった。Googleで検索して、上位に出てくるのが、YouTubeだったりする検索結果もある。聞いた話では、最近、何か情報を得るために、最初からYouTubeで検索する新人類もいるらしい。これ、ボクは個人的にすごく嫌な傾向だな、と思っている。発信者側からすると、うまく行けば、YouTubeから広告収入を得られるので、それを狙っているのだろう。でも、受信者側からすると、動画だと、情報の品質、求めているものとの合致度合い、その内容の妥当性を瞬時に判断しづらい。文字情報だと、流し読みすれば一瞬で分かるので、読むか読まないかを判断できる。でも、動画だと、正直、分からない。その人の編集技術とか、喋り方とか、画質とか、いろんな要素があって、本質的な「情報」という意味での是非は、しばらく見てみないと判断ができない。だから、非常に残念なことだけど、ボクはGoogleから飛んだ先が動画だった場合、立ちどころにブラウザを戻してしまう。情報の質が高い可能性もある。参考になるのかもしれない。でも、それをジャッジする時間がもったいないからだ。

最近は音声の時代とも言われていて、ながら聞きができるという意味で、ラジオが見直されている。運動しながら、料理しながら、通勤しながら、音声で情報を得る形だ。おそらく、ライフスタイルとしては、それもありで、だからこそ、ウェブラジオみたいなスタイルが流行っている。こういうのも、実は有益かどうかのジャッジは聞いてみるまでは分からない。だから、ラジオで言うところのパーソナリティみたいな人の是非で質をジャッジするしかない。

一億総情報発信時代だ。情報を発信する人は、ツールの特性を理解しておく必要があるし、受け手も、プラットホーム検索で何でもYouTubeやInstagramの中で完結して検索しないで、有益な情報にアクセスする方法を考えた方がよいだろう。たとえば、コーヒーを淹れているときの泡立ち方はどんなものなのか、お湯の注ぐスピードって、どんなものなのか。こういう視覚情報をゲットしたいときに、初めて、YouTubeのハウツーが有効になる。多分、運動の仕方みたいなものやダンスの仕方みたいなものも、向いている。でも、文字情報の方が優れたプラットホームである場合の方が、多分、多い。

2021年3月15日 息を吸うようにCOVID-19

新型コロナウイルス感染症が蔓延した1年前の4月、5月は、ホントにみんなピリピリしていた。咳ひとつしようものなら痛いほど視線が突き刺さる。互いに監視して、ちょっとでもはみだしたら、集中砲火。ウイルスよりも人々の悪意が怖くて、外に出るのが嫌になった。

1年経って、もう、みんなの気は緩んでいる。ワクチンを打つみたいな対処法が見えては来たものの、でも、多分、秋頃になるのだろうな、と思っている今、実リスクは1年前とそんなに変わっていない。それなのに、人混みで、明らかにソーシャルディスタンスを踏み越えて身体を寄せ合うような場面になっても、不快感や恐怖は感じない。誰も何も言わないで押し黙っている。順応してしまって、麻痺してしまった。

1年前は、ものすごく警戒したのになあ。この距離感。こうやって、新型コロナウイルス感染症が日常の一コマのようになっていく悲しさだ。

2021年3月16日 人間は全知全能ではない。

情報番組「スッキリ」におけるアイヌへの差別発言が問題視されている。でも、ちょっとだけ違和感を覚えたので、書いておこうと思う。もしかしたら、こんなことを書くと批判もあるかもしれない。

よく、知識人は「勉強が足らない」「もっと勉強しろ」「こんなのは常識だ」とマウントをとる。「気づいて然るべき」と言う。でも、それって結果論だ。人間、知らないことの方が多いし、気づかずに通り過ぎていることが大半だ。まずは、それを認識することから始めないといけない。

今、SNSでいろんな本や論文が引用されていて、「あ、イヌ」が差別表現なのは常識だ、みたいな書き方をしている人がたくさんいる。でも、そこで引用されている本をあまねくすべての日本人が読んでいるわけもないし、読まなきゃいけないものでもない。論文まで引っ張り出してきて「ほら、ここにイヌが差別だって書いてあるじゃん!」とか言われても、その論文を読んでいる人の方が少数であることは明白だ。

歴史的にアイヌが差別されている事実は学ぶべきだし、そのこと自体はある種、日本人として知っているべきだとは思う。でも、この世のすべての差別表現を学んで知っていなければならないというのは、どだい無理な話だし、差別表現ひとつひとつを学ぶことには限界がある。大体、知っていることが偉いわけじゃない。差別しないことが大事なのだ。知らないことに対してマウントをとってはいけない。そもそも、全ジャンル、全方位において不勉強をそしられない立場でいられるのか、といえば、そうではない。知らなきゃいけないこと、知っておいた方がいいことなんてたくさんあって、でも、人間、知らないことなんてたくさんある。知ることについては、人間、限界がある。そのことをもっとわきまえた方がいい。

もちろん、番組は、知らなかったとは言え、アイヌを傷つけた。そのことについては誠心誠意、謝罪すべきだし、反省もすべきだろう。

2021年3月17日 本名が「摩萌挟」だったとは!?

ワタナベマホトが逮捕された。まあ、やったことから考えれば、当然の結果だとは思う。有名YouTuberだし、初期からYouTuberを牽引してきたことから考えると、リスクも考えずによくもそんな危ない橋を渡ったな、と思う。しかも一度、暴行容疑で活動自粛した後の話だから、すごい度胸だな、とも思う。そして、結局、彼はあれだけ登録者を増やしながら、デビュー当時のYouTuberのままだったのだな、とも思う。プロフェッショナルにならなきゃいけなかった。まあ、でも、最近は大手事務所の芸能人もプロフェッショナルじゃない人が増えた。社会全体が、プロフェッショナルじゃなくなりつつある。そんな印象を持っている。

でも、そんなことよりも、本名が渡辺摩萌挟だったことに驚いた。28歳なんだもんなあ。完全にジェネレーションギャップだなあ。「摩萌挟」って名前が同級生にいたら、ちょっとビックリするよなあ。響きはいいけどなあ。漢字は……ヤンキー臭がするよねえ。「ま」も「ほ」も「と」もいろいろあるのに、漢字。

ひろゆき氏が書いているけれど、ボクも同意する。子供が一生、抱えて生きていくものだから、そこに親の我というか、個性を入れるべきではない。子供が誇れる名前がいいよね、やっぱりね。

もちろん、「ワタナベマホト」が「渡辺摩萌挟」だったから犯罪者になったわけではない。そこは切り分けなきゃいけない。でも、名前って大事だと思うし、親の姿勢が試される、とも思う。

2021年3月18日 それでもやっぱり「差別発言」ではなく「不適切発言」というのが適切では!?

アイヌ差別問題、Twitterもニュースも荒れに荒れている。論点がおかしいような気がするので、もう一度、丁寧に書いてみよう。

「なぞかけ」というお笑いのジャンルは、異なる事象のものが同じように聞こえる言葉として重なるから面白い。そのお笑いの大前提で行けば、あの発言そのものは「アイヌ=犬」という意味で捉えることはできない。だから、結果として「不適切」ではあるけど「差別的」ではない。

言葉そのものは、間違いなく歴史的に「差別」の場面で使われてきた。だから、当然、傷ついた人たちがいる。怒りに震えた人々がいる。それはちゃんと理解すべきで、反省すべきで、謝罪すべきだけど、今回の発言そのものは決して「差別表現」ではない。発言者はアイヌを犬に譬えたわけではないし、アイヌに対して差別意識を持っているわけでもない。結果的に差別として使われたシチェエーションと同じ形になって、差別を強く連想させる。差別に見えるかもしれない。でも、発言そのものは差別しているわけではない。

だから、仮に今回、芸人とテレビ局スタッフの無知が非難されたとしても、決して彼らは差別主義者ではないし、差別をした咎でそしられるべきではない。そこは、ちゃんと分けて議論すべきだ。その辺がごちゃ混ぜになって感情的になって議論されている気がする。アイヌの人々の気持ちは分かる。でも、怒りの矛先は「無知」であることだけにすべきだ。「差別」として彼らを非難するのは適当ではない。

2021年3月19日 日本では3月11日に赤飯を炊いてはいけないのだそうな!?

3月11日の給食に赤飯は不適切だとの教員からの声があって、横浜市がメニュー変更したことがニュースになっていた。うーん。いいじゃんね、赤飯。そんなこと、気にする必要はない。

3月11日に地震があって、たくさんの人が死んだかもしれない。でも、3月12日が家族の命日の人もいるし、逆に3月11日にめでたいことがある人もいる。それをお祝いしたって、別にいい。大体、3月11日以外の日に不幸がある人もたくさんいるのであって、3月11日だけを特別扱いしたらダメだと思う。喪に服すのは、遺族がすればいいことで、我々は、あの地震に想いを馳せつつ、地震や津波への備えについて考えればよい。

実は3月11日の当日、職場で「黙祷」のアナウンスがあった。これについても、本当はボクは疑問を感じている。黙祷は毎年、やっているんだけど、正直、どうして3月11日だけを特別視するんだろう、という感情がある。世界各地、実はたくさんの災害に見舞われている。直近だと、北海道胆振東部地震で40名ちょっとが亡くなっている。熊本地震では270名近くが亡くなられている。東日本大震災は、勿論、2万2000人近くの方が亡くなられていて、規模は大きい。でも、死者数が多いから黙祷を捧げるというのは、死者を「数」で評価しているようで、ちょっと個々人を蔑ろにしているような感じがする。それに、数だけで見れば、たとえば、2010年のハイチ地震では22万人以上が亡くなっている。死者数の桁が違う。我々は日本人だから、黙祷は日本で起こった地震に限定されるべきだ、ということでもないだろう。惑星地球号の一員として、世界を捉えていく必要がある。

フランスでテロルがあったときに、facebookのプロフィール写真を「トリコロール」で飾る行為が流行ったときにも書いたが、テロルはフランスだけで起こったわけではない。そもそも、あのときはイスラームと西欧近代化が衝突して、あちこちでテロルが起こっていた。イスラーム世界の中でも、たくさんのテロルがあったし、先進国の爆撃でシリアでは毎日、ものすごい数の人が死んでいた。そういうたくさんの死者に想いを馳せずに、よく知った先進国のフランスにだけ想いを馳せるのはおかしい。だから、ボクは「トリコロール運動」には賛同しなかったし、「トリコロール運動」をした人とは距離をとった。

他人を思い遣るのはとても素敵なことだ。死者を偲ぶのも大事なこと。でも、実は不幸なんてものは数えきれないほどあって、そこに優劣も大小もない。3月12日に赤飯を移動させて、3月11日の死者には配慮できた形になるのかもしれないけれど、それでは3月12日の死者は配慮されない。89校もあれば、3月12日に祖父母や両親が亡くなっている児童だっているはずだ。その個人の死に対しては「配慮が足りなかった」とはならないのか? そんな風に感じる。

2021年3月23日 クイズとクイズ力、学問と学力!?

東大王の鈴木光さんの本が平積みになっていてビックリした。本を書いたのか。歌も歌えて、英語もできて、クイズもできて、本まで書くのか。多才だなあ。東大に行って、クイズ研究会に入って、テレビに出て……そして、卒業。充実した学生生活だっただろうなあ。何よりも、学生のサークル活動の延長としてテレビに出ているのがすごいな、と思う。普通だったら、あれだけちやほやされたら、このまま芸能人になってしまおうか、と思ったりするだろう。ましてや、彼女は中学生の頃、芸能人を目指していた時期もあったはず。でも、そういう道ではなく、大学を卒業したら、就職して働く道を選んだ。モラトリアムには浸らない。その割り切りが、単純にすごいことだと思う。

何故か、茂木健一郎は『東大王』を目の敵のようにいつもバッシングしている。「『東大王』は、時代遅れの地上波テレビの芸能人タレント文化のアンシャンレジームが、東大生という安いギャラでそれなりの視聴率をとれる素材を見つけて利用」「東大生たちは真面目で適応力があるゆえのストックホルム症候群。日本の子どもたちに悪影響。日本没落を加速。そこには答えも未来もない」。ちょっと詩的で難解で何を言っているのか分からないのだけれど、「ストックホルム症候群」とは、結構、過激な表現だなあ、と感じる。

おそらくだけど、クイズと学問は違うよ、ということを言いたいのだろうな、と思う。それはそのとおりで、『東大王』の出演者はクイズの腕を磨いているから番組に出演できている。彼らは一般の東大生ではなくて、実はクイズに長けた東大生だ。その意味では、東大生を代表していないし、学問を代表していない。主従関係で言えば、クイズの腕があるというのが「主」で、東大生であるというのは「従」なのだ。それなのに彼らを「東大生」として説明してしまうことを問題視しているのだろう。

まあ、そういう一面もあるかな。クイズ=学問でも、学問=クイズでもない。そこに「東大」というラベルを貼って番組展開することへの違和感はあるのだろう。でも、おそらく、ボク個人の勝手な推測だけど、出演している彼らは、そんなに深刻には捉えていない。学生だから、楽しんで出演している。そもそも、クイズをやってきて、活躍の場があるというのは、単純に嬉しいだろうな、と思う。今後の後輩のために、この現場を終わらせないように、少しでも延命化しなければという発想、あるいは義務感みたいなものは、もしかしたら、あるかもしれない。いずれにしても、ストックホルム症候群というのは適切ではないような気がする。

2021年3月28日 「好きなもの」は誠心誠意、還元する

これはボクの持論だけど、「好きなもの」は誠心誠意、ちゃんと形で示すべきだと思う。つまり、欲しい本は買え、という話だ。読むだけなら、図書館で借りてもいいし、友人に借りてもいい。古本を購入してもいい。でも、「好きなもの」だったら、ちゃんと本屋で新品を買うべきだ。そうすることで、作者に還元できる。それだけじゃない。本屋にも、輸送業者にも、取次にも、出版社にも還元できる。全てのプロセスに還元することで、次の「好きなもの」を送り出して欲しい。そう、切に願う。

よく、おいしいレストランが潰れたときに「あの店、大好きだったのに! また行きたかった!」と言って残念がる人がいる。でも、そのレストランがよいと思ったら、それを示す方法は「大好き!」と発信することではなく、「おいしい」ということでもなく、その店に足しげく通うことだ。みんながそう思ったら、潰れない。

結局、そういう個人の活動の積み上げが世界を動かしているのだと思う。

2021年3月28日 実は失敗を繰り返すことが成功の道

他の人から自分がどういう風に見られているのか、正直、分からない。でも、間違いなく「うまくやっている」と思われているだろうな、と思う。「うまくやっている」というのは、失敗していないとか、成功が多いという意味だ。だけど、失敗がないのかというと、決して、そういうことではないのだと思う。自分の中では、日々、失敗の連続である。でも、他の人には「失敗しない人だ」と思われているのだろうな、と想像する。

最近、そのギャップが大きくなってきたな、と感じる。「任せて大丈夫」と信頼されているうちは楽しかったし、「どんどん仕事持ってこい! 自分に任せろ!!」と思って引き受けていた。自分の持てるだけのパワーで、最大の成果を出せばよいと思っていた。でも、段々、そうじゃないフェーズに入っているな、と自覚している。つまり、若手じゃなくなったのだ。チームから自分が抜けることも想定しなきゃいけない。自分がいなくなった後に、誰かがそれを引き継ぐ。その人たちが自分の仕事をやらなきゃいけない。段々、自分の裁量権でできることが増えて、決められることが増えたときに、自分の能力で仕事を進めると、持続可能でなくなることが見えてきた。

そうなったときに「失敗しない人」という評価はよくないな、と思った。もちろん、ボクは自分のことを「失敗しない人」だなんて思っていないし、そんな喧伝をしているわけじゃない。毎日が失敗の連続だと思っている。勝手に周りの人が「失敗しない人」というレッテルを貼っているだけだ。でも、最近、そういうのが邪魔になってきた。「いやいや、私はあなたみたいにはできません」とか「あなただからできる仕事で私には無理」みたいなことを言われることが多くなった。本当は、そんなことはない。でも、実際、そういう風に言われてしまう。

言葉が適切かは分からないけれど、ある種、自分は高圧的なのかな、と思った。「成功」というパワーで相手にプレッシャーを与えているのかな、と。だったら、失敗を開示するべきかな、と思った。失敗している自分をもっと見せていくべきなのかな、と。勿論、ボクが失敗を隠しているわけじゃない。失敗は何度もある。「あ、これはダメなのか」「この方法……でもうまく行かないのか」「それじゃ、このアプローチ……もこういう結果になるのか」「うーん」とか言いながら、最後の最後まで諦めずに喰らいついて、最終的に「あ、うまく行った! これが正解だったのか!」。これがボクのアプローチだ。だから結果的には「成功」している。「いろいろ試行錯誤してうまく行きました」という報告で「失敗しない人」みたいになる。

逆説的に言えば「失敗しました」という報告をしたくないから、諦めずに何度も何度もチャレンジして、成功まで持って行くという地道な作業をしているということ。一足飛びに成功をしているわけじゃない。ひとつだけコツみたいなものがあるとすれば「速く仕事を進める」ということ。失敗したときにリカバーするためには時間が必要だ。手数を増やす必要がある。だから、仕事が回ってきたら、取り敢えず大急ぎで「形」にする。うまく行かなくてもよい。質は問わない。取り敢えず「形」にして「あ、ダメだな」と思って、それからいろんな形を試す。そのための時間を確保するためには、「まだ時間があるから後で考えよう」としないで、その瞬間に「形」にする。そして、限られた時間の中でいろんなアプローチを模索して、失敗をして、最後には成功する。そういう繰り返しが成功に持って行く確度を高める。そのプロセスを、多分、開示しなきゃいけないんだろうな、と最近、感じている。