龍馬(ロンマー)

分 類中国伝承
名 称 龍馬(龙马)〔LóngMă〕(ルォンマァ、ロンマー)【中国語】
龍馬(リュウマ、リュウメ)【日本語】
容 姿巨大な白馬。身体には鱗。背中には翼。頭には2本の角。
特 徴龍と馬の混成動物。伏羲の前に出現し、八卦と『易経』を授けた。
出 典『書経』(前3世紀頃)ほか

龍と馬の混成動物、八卦と『易』をもたらす!?

龍馬(ロンマー)は中国伝承に登場する龍(ロン)と馬(マー)の混成動物である。龍は非常に好色で、ブタと交尾するとゾウ、ウマと交尾すると龍馬が生まれるとされた。龍馬はウマのような姿をしているが、背丈は8尺5寸(およそ2.8メートル)と巨大で、身体には龍の鱗があるという。一説では、背中には翼、頭には2本の角をはやしていた。河や海などに棲み、水面を走ることができるという。

ちなみに、三皇五帝の一人として知られる伏羲は八卦を発明したとされているが、伏羲は黄河から出現した龍馬の背中の模様から八卦を編み出したと伝えられている。また、伏羲は『易経』の著者とされているが、龍馬が『易経』そのものを背中に乗せて黄河から出現したとも伝えられている。

伏羲王天下,龍馬出河,遂則其文以畫八卦,謂之河圖,及典謨皆歷代傳寶之。

伏羲が天下の王だったとき、黄河から龍馬が出現し、それからその文に基づいて、八卦を書いた。これが「河図」と呼ばれ、経典は代々宝として伝えられた。

『書経』「洪範」より

三蔵法師を乗せる白馬も龍馬!?

『西遊記』に登場する玄奘三蔵を乗せる白馬も、実は龍馬が変化したものとされている。西海龍王である敖閏の三太子「玉龍」は、三蔵が太宗からもらった白馬を食べてしまい、悟空と戦って敗れ、ウマに変化して三蔵の乗用となり、天竺まで同行したという。

九州の大宰府と奈良の都を毎日往復する!?

日本でも、龍馬は龍が雌ウマ交わって誕生すると信じられ、実際、鎌倉時代の『古今著聞集』には、奈良時代の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が龍馬に乗っていたという伝説が残されている。聖武天皇の時代、広嗣は、中央での政争に破れて、天平10年(738年)に大宰府に左遷された。彼は大宰府で一頭のウマに出会い、大金を叩いて買い入れた。やがてウマは秘めた力を見せるようになり、広嗣は、毎日、そのウマに乗って、九州の大宰府と奈良の都とを行き来し、仕事をこなすという離れ業をやってのけたという。

コラム:藤原広嗣とは……!?

藤原広嗣は、聖武天皇の時代に朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原一族の生まれだったが、天然痘による藤原四兄弟の相次ぐ病死の後、反藤原氏勢力の台頭によって太宰府に左遷されてしまう。しかし、これを不服に思った広嗣は「天地の災厄の元凶は悪政のせいである。すなわち、僧正・玄昉(げんぼう)は僧侶のクセして私服を肥やし、皇后を誑かして国家転覆を企んでいる。吉備真備(きびのまきび)もその片棒を担いでいる。彼らを排除すべし」などとする上奏文を朝廷に送り、彼らの起用を決めた時の権力者である左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)をも痛烈に批判した。橘諸兄は、これを朝廷に対する謀反とし、出廷の命令を出したが、広嗣はその命令を拒み、太宰府で1万の軍勢を率いて反乱を起こした。しかし、大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国で捕らえられ、唐津にて処刑されたという。その後、広嗣の怨霊を鎮めるために、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。

鎌倉時代になると、藤原広嗣は人々から崇拝されるようになった。おそらく、中央の圧政に苦しむ人民のために「上奏文」を掲げて、中央で利権を貪る権力者たちに立ち向かったが、無念の死を遂げたというイメージが大衆に受けたのだろう。

《参考文献》

Last update: 2024/07/14

サイト内検索