2016年4月1日 アイヌ伝承の更新に着手したものの……

本日は世間一般ではエイプリル・フールで、ボクたちにとっては結婚記念日だけど、そんなこととは無関係に、ボクは黙々とファンタジィ事典を更新している。スーダンで準備していたアイヌ伝承だ。

正直、始めてみたものの、難しいな、と壁にぶつかっている。何しろ、資料が少ない。だから、ついつい「こういうことじゃないかな?」などと想像力でいろいろと補いたくなる。でも、その一方で、アイヌの人々が今でも語り継いでいる「生きた伝承」なのであって、ボクたちが勝手に想像力で補うものが間違っていることだってあり得る。それってアイヌの人々に対してとても失礼なことだ。

実はこういうことは、いつの時代のどこの地域の神話・伝承に対しても同じだ。たとえば、すでに信者のいない古代のギリシア神話であっても、その当時には生きた宗教だった。本気で信じていた人たちがいた。後代の人がいろいろと残された資料から類推して神話を再構築する。でも、その妥当性は実のところ分からない。たくさん資料が残っていて、あっちこっちで何度も言及されていることについてはある程度、妥当性があるかもしれない。でも、資料が少ない箇所になればなるほど、意外と見当外れだったりするかもしれない。当時を生きていた古代ギリシア人が現代にやってきたら「そんなんじゃないぞ!」と怒り出すかもしれない。大変、失礼なことである。

そんなわけだから、実は「ファンタジィ事典」の更新は、苦痛の連続だ。「所詮、趣味なのだから、好き勝手に楽しくやればいいじゃないか」という声もあるかもしれない。でも、苦痛を感じることが、事実を追求する人間の誠実さだと思う。あまりにいい加減なことを書いている本やウェブサイトがある。勿論、それはエンタメだと割り切ることもできるし、彼らの神話や宗教をベースに、創作に活用する場合には、自由にやってもいいと思う。でも、受け取り手がエンタメだと割り切って触れ合わないことが想定される場合(たとえば、古代ギリシア人は○○と考えていたなどと書く場合)には、やっぱり、誠実にやらなきゃいけないと思う。ヘーシオドスの言葉ではないが、「真実」と「真実らしいもの」は違う。ボクたちは「真実らしい」ものに飛びつく。でも、もっともっと「真実」に対して誠実であるべきだ。

そういう意味では、アイヌ伝承は、ボクにとっては手持ちのまだまだ資料が少なくって、「真実」を語れるほど咀嚼できていない、ということなのだろう。アイヌの人々から「そんなんじゃないぞ!」と叱られてしまうかもしれない。

でも、ボクの中で、ファンタジィ事典の一斉更新を、アイヌ伝承から始めようと心に決めてプロジェクトをスタートした。アイヌ伝承が終わったら、記紀神話、日本の妖怪、沖縄伝承……とやっつけていく算段だ。ぼちぼちと更新を始めたが、案外、もう少し時間が掛かるかもしれない。更新しては修正して……という繰り返しかもしれないし、そのうち、大幅に軌道修正するかもしれない。でも、取り敢えず、ゆるゆるとアイヌ伝承から着手したボクである。さてはて。どうなることやら。少なくとも「アイヌ語」の部分だけは事実を確認できるので、その辺は誠実にやっていこうと思う。

2016年4月2日 日々格闘である!?

ちぃ子(妻)が勉強会で東京のセミナに行ったので、本日はツクル氏(息子)と二人きりで一日を過ごす。

彼はここ数日間の間でイヤイヤ期に両足を突っ込んだらしい。変なことにこだわり、理不尽なことで腹を立てて泣く。たとえば、歩くときに踏むタイルが間違っているとか、渡したスプーンの色が紫じゃないとか、そんなことだ。そして、泣き始めると1時間でも2時間でも泣き続ける。泣き声をあげることが両親である我々への抵抗のつもりのようだ。泣いて、思い通りにさせようと執拗に攻撃を仕掛けてくる。手を緩めることなく、如何にこれを防衛するか。両親とツクル氏の必死の攻防が続く。

しかも本日は二人っきり。大体、ママといる時間の方が圧倒的に多いので、ママ不在は彼には耐えられないことらしく、それも不機嫌の原因になっている。「ママいない」「ママがいい」「ママとやり方が違う」と散々だ。でも、何とか宥め賺(すか)しながら昼と夜の食事を食べさせ、お風呂に入れる。こうして必死に切り抜けることで、少しずつ父親の自信をつけていくボクである。

2016年4月2日 映像と音で語学学習を始めてみよう!?

Amazonが日本郵便になって、梱包が袋になって圧倒的にコンパクトになった。しかもピンポンも押さずに郵便受けに投函していく。これは非常に便利だと思う。いろいろな宅配業者を巻き込むことで、Amazonサイドもその仕様に合わせて創意工夫して、事態は少しずつ改善されていく。

本日はアイヌ関連の書籍4冊とアメリカのテレビドラマのDVD1シーズンが届いた。昔だったら大きな段ボールに梱包されていて、とても郵便受けには入らなかっただろう。今は両方を投函しても、尚、隙間ができる。すごくいい。

アメリカのテレビドラマは英語の勉強に活用しようと思って試しに頼んでみたもの。語学の勉強は教科書よりも映像と音がいいと聞いたので、実験してみようと思っている。これでうまく行ったら、その他の言語も同様の手法を取り入れてみようと目論んでいる。

2016年4月3日 春仕様!?

急遽、思い立って、夕方、突然予約を入れて散髪をしに出掛ける。いつものサイバー嬢だ。普段は「お任せ! もう、お好きにどうぞ!」というスタイルのボクだが、今回は「髪を短く!」と頼んでみる。

何しろ、クローゼットから春物の洋服を引っ張り出して来たら、キュート系の洋服が多くて、髪が短い方が似合いそうだ。昨年の春のボクは髪が短かったのだろうか。

するとサイバー嬢が「普段髪の長い人が急に短くするときにはとても緊張するんですよー」とのこと。「失敗してもいいですよ」とは言ってみたものの、これは相手の腕前を舐めた表現で失礼に当たるな、と反省する。「信頼していますからどうぞ切ってください!」と言うべきであった。でも、上手に切ってもらえたので大満足である。

これで心置きなく春の装いで街に繰り出せるというものだ。

2016年4月4日 不義理。

SNSで出発の報告はするのに、帰国の報告はしないボク。出発のときには横浜からリムジンバスに揺られながら、不安や期待の入り混じった気持ちでSNSに投稿する。一方、帰国のときには消耗しきって完全に休息モードになっている。しかもリムジンバスの中では機内で読みかけの本をやっつけに掛かっている。でも、出発の報告をした以上、帰国の報告をすることも礼儀だなあ、と最近、感じている。基本的にボクはマメではないのだ。そんなわけで、29日にスーダンから帰国したよ、と今更ながら、ここに記載しておこう。

2016年4月4日 MP4にしてiPhoneへ

DVDの『アリーmy love』のシーズン1を購入したので、MP4に変換してiPhoneに落とし込む。育児に奔走するぼくには、家でゆっくりDVDを観る時間なんか作れない。英語の勉強のために、電車などの移動中に観ることができればいいな、と思っての措置だ。設定を英語の音声、英語の字幕にして、ファイルを変換する。フリーソフトを使ったけれど、うまく出来た。容量も1話当たり250MBくらいなので、iPhoneに入れても大きな負荷にはならなそう。よーし、明日から勉強だ。デイ・バイ・デイ。

2016年4月5日 3割は分かると考えるか7割分からないと考えるか(笑)

早速、今朝から英語のお勉強。昨夜、MP4に変換してiPhoneに落とし込んだ『アリーmy love』を、電車の移動中に鑑賞。英語の音声、英語の字幕だ。でも、これだけ外国を飛び回って英語で喋っているのに、3割くらいしか分からない。なかなか難しい。会話はネイティヴの速度で予想以上に速い。それに、意外と話し言葉は教科書で勉強する単語や文法と違って独特だな、と思う。でも、この話し言葉こそが生きた英語だ、とも思うので、聞き取れないながら、これからぶっ通しでシーズン1を見続けようと思っている。23話で18時間だ。18時間も英語に浸かっていれば、多少、耳も英語耳になる。そう期待している。ふふふ。

2016年4月5日 日々、自己嫌悪。

話をしながら、自分で自分のことが嫌いになるときがある。「ああ、何だかバカみたいなことをしゃべっているなあ」と感じる。程度の低い話をしているということではない。理路整然としていないとか、伝えたいことが充分に伝わらないなとか、うまく説明が出来ていないとか、そういうことが言いたいんじゃないのに、誤解されているだろうなとか、そういうことだ。

昔はそういうことを感じなかった。年々、感じることが多くなった。ボクの精神が成長して、喋りたい内容と喋っている内容のギャップに気付くようになった、と好意的に解釈すべきか、そうではなくって、ボクの脳ミソが劣化して考えて喋る能力が低下していると考えるべきか、実は悩んでいる。

もう少しスマートに喋りたいのだけれど。うーん。

2016年4月6日 2年越しの懸案事項が解消!

ようやく念願の本棚整理。漫画と新書は終わっていたが、今日は本番。文庫本のコーナの整理だ。新居を建てたのはいいものの、フィリピンやナイジェリア、スーダンと海外渡航ばっかりで本棚の整理が出来ずにいたのだ。2年越し。本日、ようやく胸の痞(つか)えが取れた感覚。

作家ごとに並べて、出版社ごとに並べる。昔は出版社ごとに並べていた。その方が背表紙が揃うのでキレイだ。でも、検索するには長けていない。小さい本屋だと、最近は作家ごとに並べていたりする。その方が本を探すには便利かもしれない。最近、ちぃ子(妻)と本棚をシェアしているので、尚更だ。

今回、京極夏彦の本がキレイに書棚に配架できた。彼の本はあまりに分厚いので、うまくハマらないときには、前後に無駄なスペースが出来てしまう。今回は何も考えずに順番に並べて行ったら、偶然、キレイに陳列できた。非常にラッキィだ。京極氏の言うとおり、コスパのためには分厚くても1冊になっていた方がいいが、電車の中で読んだり、本棚に配架したりするときには、分冊になっていた方が便利。ユーザがどちらに価値を置くか。おそらく、後者のニーズの方が大きい気がする。最近、分冊版が出て、そちらしか本屋で見かけなくなったのは、多分、そちらのニーズを優先したのだろう。問題は講談社が何故か背表紙の色を黒に変えた点。他のシリーズとの連帯感がなくなるから、色はそのままに分冊してくれればよかったのにな、と思うボクだ。

2016年4月6日 手ブレも怖くない!?

同僚のスーさん、どうやら、送別会の写真撮影に失敗したらしい。フラッシュを焚いていないので、真っ暗だし、手ブレが酷い。現像して渡すことを意図していたらしいが、ご破算になってしまった模様。やっちまったなーッ。

本日、何とかならないか、と電話にて相談を受けたので、Photoshopを立ち上げて、いろいろと試行錯誤してみる。暗いのは簡単だ。色調補正で何とかなる。明るくして、顔が見えるようにできた。でも、手ブレは難しい。CCだと手ブレ補正の機能が最初っから搭載されているようで、なかなか評判がいい。でも、我が家のPhotoshopはCS5なので、いろいろとぼかし機能を駆使して、それっぽく再現する。

まあまあの出来ではないか。早速、写真をスーさんに送り返す。きっとそれなりのクオリティで現像できることだろう。何だ、ある程度の手ブレなら怖くないじゃないか、と思ってしまった。

カメラの腕なんかなくても、Photoshopである程度の補正が出来てしまう時代である(悲)。

2016年4月6日 我が家の食事は今日からコース料理だ(笑)

イヤイヤ期のツクル氏(息子)は最近、食事を選り好みする。「これ、いらないよー。あれをもっとー」みたいな感じで、好きなものしか食べない。これではいかん、ということで、頭でっかちの両親(ボクのことだ!)は食事のコース料理化を開始する。

前菜に始まり、サラダ、メイン、そしてデザート。小皿に入れて、ひとつの料理が終わるまでは次の料理には移行しない。そもそも「これいらない」とか「あれがいい」など、選択肢があるから目移りするのだ。ひとつしかなければ悩むことなく食べるだろうという企みだ。それに、最後にはデザートが待っている。そこまでの道は一直線だ。

食事の時間になって、テーブルに座ったツクル氏。前菜のナムルとお茶だけが並んだ卓上に、「きょうはおにくないの? おっきなおさらないの?」と不安げ。でも、途中から順繰り食べていくというルールが理解できたらしい。一皿ずつやっつけていく。野菜も肉も満遍なく食べて、無事にデザートまで到達した。我ながら、なかなかいいアイディアではないか、と思う。

2016年4月7日 物事を管理するということ。

物事を管理するというのは、いつだってそうだけど、まずは現状分析から始まる。そこから課題を抽出し、対策を検討して、計画を立てる。その計画の進捗管理をする。実は考えるときのテンプレートそのものは難しいことではない。でも、適切に課題を抽出するのは難しいし、抽出された課題に対して適切な対策を打ち出すのも簡単じゃない。その上、計画どおりに物事を動かしていくことは非常に難易度が高い。

でも、どれだけ難しかろうと、まずはそのテンプレートに当て嵌めることが肝要だ、とボクは思う。つまり、現状分析、課題抽出、対策検討、計画策定、進捗管理の流れに形だけでも乗っけてやらないと、物事を管理できない。

意外とテンプレートにすら当て嵌められないで議論されている状況があちこちに散見される。それじゃ、物事は管理できない。

2016年4月11日 TSUTAYA初体験(笑)。

大学時代、演劇をしていた頃、音響担当になったときには、GEOでCDをレンタルしてBGMを探したことがある。でも、これまでの人生の中でボク自身のためにCDをレンタルしたことってなかった。DVDもそうだ。欲しいものは買う。逆に言えば、買おうと思うほどに魅力的じゃないものには触れない人生だ。そういう主義でやってきたわけではないのだけれど、何となく、そうやって生きてきた。

今日、TSUTAYAの窓口で緊張しながら会員カードを作って、CDレンタルを初体験してみた。ほとんどベスト・アルバムを選んで借りた。2014年と2015年のOriconのCDアルバムの100位に入っている売れ線のアーティストを事前にピックアップして、その人たちのベスト・アルバムを選んだ格好だ。

最近、海外に行く。執務室で音楽を聴くこともある。iPhoneにMP3を放り込んで、Bluethoothのスピーカで流して、みんなで楽しく共有する。ボクのチョイスは変なので、イマイチ、みんなが満足しているのかよく分からない。売れ線を流してやれば、もっと盛り上がるのではないか。もっと言えば、ボクも大人になったのだから、もっと売れ線を聴いてもいいのではないか、と丸くなったのである。聴く音楽のセレクトに敢えて個性を出さなきゃいけないほど、個性に枯渇していないことに気が付いた。AKB48や福山雅治、西野カナ、いきものがかりを聴いたって、別にいいじゃん、と思うようになった。

教養としてクラシック音楽を聴こうとか、JAZZも聴いてみようかとか、雅楽も嗜んでおこうか、という発想に近いと思う。ベストセラーの本を読んでみようか、とか、ね。ふふふ。

* * *

それにしても、最近のベスト・アルバムって、3枚組とか4枚組とかが多い。それって、本当にベスト・アルバムか? もっと厳密にベストなものを選んだ方がいいのでは? 「選んだんだけど絞り込めませんでした」というのは恥ずかしいことだ、と思う。

2016年4月14日 妖怪ってそもそも創作物でしょう!?

ボクは「ファンタジィ事典」を編纂しているので、よく世界の妖怪について話題にする。でも、ボク自身は残念なことに、本物の妖怪に出会ったことはないし、正直なところ、その存在を信じているわけではない。でも、ボクが妖怪に惹かれるのは、そのリアリティだ。非近代的、あるいは非合理的というレッテルを貼られる妖怪だけれど、いつかの時点でどこかで誰かが信じていたというのが、とても魅力的なのである。

ボクの生涯において、唯一、その存在をリアルに信じた妖怪は、多分、「人面犬」だけである。都市伝説でいうところのいわゆる「友人の友人(Friend of friend)」というパターンで、小学生の頃、友人の塾での友達の友達が見たとか、隣のクラスの何某のお姉さんの友人が見たとか言われていて、ボクも夢中になって話を聞いた。小学生だったボクは、本気で「人面犬」の存在を信じていた。

リアリティの問題は難しくて、創作、たとえばテレビドラマや映画で演じられるホラーやファンタジィにもリアリティがある。ホラー映画を観た後に、何だか暗闇に何かいるような漠然とした不安に包まれる。漫画や小説を読んでドキドキしたりもする。キャプテン翼に憧れ、真似をしてサッカー選手になった人々はたくさんいる。彼らにとって、キャプテン翼の登場人物は憧れであり、目標になっただろう。

明確な版元があるものだって、いつかは実在のものになり得る。たとえば「ドラキュラ」や「フランケンシュタインの怪物」なんかはその典型例だ。ブラム・ストーカーやメアリー・シェリーの創作物は、いろんな人の作品の中に転用されて、今や独自の地位を築いている。ハロウィンになるとジャック・オ・ランタンや幽霊、狼男、魔女に混じって「ドラキュラ」や「フランケンシュタインの怪物」が描かれている。実はこいつらが小説家の創作だ、と知らないでいる人も多いかもしれない。J.R.R.トルキーンの創作した「オーク」もテーブル・トーク・ロールプレイング・ゲームの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の中で転用され、さも古い伝承に登場する妖怪のように振る舞っている。「オーク」が創作だなんて、ファンタジー小説の読者やテレビゲームのプレイヤの多くは知らないかもしれない。『ドラゴンクエスト』で有名なかわいらしい「スライム」だって、元々はブレナンの『沼の怪(Slime)』という小説が初出で、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』に転用されながら、定着した妖怪と言える。そもそも、日本で一般に知られている鳥山明のかわいらしい絵柄のスライムも、本来のスライムからはかなりかけ離れて、独自の進化を遂げている。『ロマンシング・サガ』シリーズでスライムを見た友人が「ロマ・サガのスライムってキモいよね」と言っていたが、本来のスライムのイメージとしては、こちらの方が正確だと思う(笑)。

水木しげるの創作した妖怪(樹木子や針女、百目など)も、今では市民権を得て(?)、正式な妖怪面をして、子供向けの妖怪関連書籍の中に掲載され、堂々と古い妖怪たちの中に混じっている。水木しげるが鬼太郎の仲間として描いている妖怪たち(「砂掛け婆」「一反木綿」「塗壁」など)も、その出典のほとんどは柳田國男の『妖怪談義』だが、水木の絵柄はほとんどオリジナルだ。そして、意外と日本では知られていないかもしれないが、ボルヘスの『幻獣辞典』に掲載されている「ア・バオ・ア・クゥー」も、実はボルヘスの創作だと指摘されていて、現時点では、英語のWikipediaでは明確に「fictional legendary creature」と説明が付されている。

結局、妖怪なんて、実在しないので(と言い切ると悲しくなるが)、いつかのどこかで誰かが創作したものである。それが特定され得る個人なのか、会社なのか、あるいは民族なのか、という違いはあれども、誰かが創作して、それをいろんな人が語り継いで、次第に広まっていったものだ。さすがにメジャーな任天堂のピカチューやレベルファイブのジバニャンがたちどころに古い妖怪たちの仲間入りをするとは思えないが、もう少しマイナな作品の創作物だったら、境界が曖昧になって、気付いたら子供向けの妖怪関連書籍の中で「妖怪」とカテゴライズされて紹介される、なんてこともあるかもしれないな、と感じる。ボクはその辺を明確に線引きするつもりはないし、そういう新しい創作物も含めて、妖怪にカテゴリィしながら整理していきたいなあ、と常々思っている。

2016年4月17日 独自ドメインでGo!!

今の独自ドメイン(hetappi.info)を取得したときに、昔のウェブサイト(hetappi.gozaru.jpとかfantasy.kakurezato.jp)を明確には閉鎖しなかった。新しいドメインにリンクを送ることも積極的にしなかった。今となっては記憶がおぼろげで覚えていないが、多分、当時のボクとしては、独自ドメインでサイト運営をすることに不安があったり、疑問があったりして、忍者ツールズのドメインに戻る可能性を考えていたのかもしれない。何しろ、当時としては、忍者ツールズは強かったので、そこでウェブサイトを構築することは、SEO的には大きな強みだったはずだ。

今、独自ドメインでサイト運営をしている。WordPressやcgiを駆使している分、自由度は高いが、それでも、ドメインの強さはイマイチで、googleにも好かれていない。検索すると、忍者ツールズに展開していた時代のボクのウェブサイトの方が上位に来る。そもそも、積極的にSEO対策を施していないのだから、当たり前だ。

最近、自分のウェブサイトにあげた記事が、googleにキャッシュされるのが遅いな、と感じるようになった。多分、googleのサイトランクが下がって、目に見えて影響が出てきたのだろう。だから、ちょっと重い腰を上げて、SEO対策を施そうと暗躍している。6月くらいには、もう少し強いウェブサイトにしたいなあ。

2016年4月18日 日本の言葉は何種類あるか。

変なタイトルをつけたが、日本の言葉は何種類あるか、というお話。たとえば「ドイツの言葉は?」と問われたら「ドイツ語」と答えるだろうし、「フランスの言葉は?」と訊かれたら「フランス語」と答えるだろう。同様に「日本の言葉は?」と問われたら「そりゃー、日本語だ」と答える。でも、ちょっと賢い人なら、「待てよ。アイヌ語もあるな」とか「沖縄の言葉って、あれは方言だろうか」と立ち止まって考えるかもしれない。

実は国際SILという少数言語の研究団体のウェブサイトエスノローグには、日本の「生きた言語」として15語が挙げられている。掲載順(アルファベット順)に並べると、

アイヌ語/北奄美大島語/南奄美大島語/日本語/日本手話/喜界語/朝鮮語/国頭語/宮古語/沖永良部語/中部沖縄語/徳之島語/八重山語/与那国語/与論語

となる。15語もあるのか、とビックリする。

「日本手話」という部分は「なるほど、手話も言語なのだな」と改めて考えさせられる。実際、30万人近くが日本手話の話者らしいので、それなりだ。でも、結局、それって「日本語」の延長ではないのか、という疑問もある。「朝鮮語」というのは京都・大阪、東京、山口などの一部で話されている在日朝鮮人の言葉だが、これも果たして日本の言語だろうか。でも、90万人近くがこの「朝鮮語」の話者らしいので、決して少数派とは言えない。そのうち、外国人が増えていけば「英語」話者とか「中国語」話者が増えていくので、そういうのも一大勢力になるのではないか。

一方で、このエスノローグの分類は「アイヌ語」「日本語」「日本手話」「朝鮮語」以外は鹿児島・沖縄の言語じゃないか、とも思う。南方の島々には、島によってそれぞれ独自の言語があるという解釈らしい。でも、こういう鹿児島や沖縄の言葉を方言とするかどうかで学者の見解は分かれていて、日本語の沖縄方言と定義する人もいるし、独立した言語として琉球諸語と定義する人もいる。

エスノローグの分類に対する批判的な意見は多いが、日本の言語を15語とする考え方がある、ということは日本人として留意しておくべきことかもしれない。

ちなみにユネスコの「消滅危機言語」のリストには、日本の言語として8言語がリストアップされている。極めて深刻には「アイヌ語」が、重大な危機には「八重山語」と「与那国語」が、危険には「八丈語」、「奄美語」、「国頭語」、「沖縄語」、「宮古語」がリストアップされていて、一応、ここでも琉球諸語はそれぞれ別々の言語として位置付けられている。

ちなみにここで4番目に言及されている「八丈語」というのは伊豆諸島の八丈島や青ヶ島などで話される言葉で、現地で島言葉と呼ばれるもの。これも「八丈方言」とされることが多い。本島との交流が少なかったため、非常に古い日本語表現が保存されているが、これも一方言とすべきものかもしれない。でも、ユネスコは独立した言語と定義している。

ボクの母は会津の生まれで、田舎に帰るとバリバリの会津方言を喋る。ボクは幼い頃に母に連れられて頻繁に会津に里帰りしていたが、実のところ、会津の祖父とは一切、会話が出来ない。こちらの言っていることは伝わっているのだろうが、向こうが何を言っているのか、ボクにはまるで分からない。だから、ボクの認識としては、会津方言は方言というよりも、まるで外国語だ。だから、沖縄諸語の中での言語的な開きと、本島の内部の方言の開きと、どちらが言語的に離れているのか、ボクには正直、よく分からない。

でも、日本語と沖縄諸語は同じ系統に属する。単語も日本語と比較的、対応している。例えば、幽霊はユーリーだし、木の精はキーヌシーだ。アヒルの魔物はアフィラーマジムンだし、火の神さまはヒヌカンだ。だから、ボクは沖縄諸語は広義の「日本語」に含まれると思うし、一方言なのだろうな、と感じている。琉球民族が大和民族とは別の民族だ、という民族主義は分かるが、言語は国境や文化とは必ずしも合致しないので、表現としての「日本語」という定義が適切かどうかは別にして、同じ言語系統にある、とは言えると思う。

一方のアイヌ語は明らかに日本語の系統とは異なるので、やはり別の言語である。例えば、アペ・フチが《火・老婆》とかコタン・コロ・カムイが《村・持つ・神》だなんて、想像できない。文法だって、全ッ然、違う。これは日本語とは別物だ。

だから、ボクの中では、日本の言葉は何種類か、と問われたら、大枠で2種類だろう、と考えている。つまるところ、「日本語」と「アイヌ語」の2つだ。

最近、ファンタジィ事典で「沖縄の妖怪」を更新していないが、もしかしたら、原語のところを「沖縄方言」に修正すべきだろうか、と考えて始めている。うーん。学問は学べば学ぶほど、厳密になればなるほど、難しいなあ。

2016年4月23日 Google Noto Fonts

ファンタジィ事典で世界各国の妖怪を紹介している関係、原語にこだわっている。たとえば、英語のウェブサイトで「天狗」のことを「Long-nosed Goblin」などと紹介してあったら、ちょっと引く。でも、これは冗談ではなくって、日本の英語の辞書なんかには、Long-nosed Goblinという項目があったりする。同様のことはよくあって、例えば、ウェールズの「ウォーター・リーパー」という妖精なんかは、Wikipediaでもウォーター・リーパーの項目で載っているが(英語でもWater Leaperだ)、これはウェールズではLlamhigyn Y Dwr(サムヒギン・ア・ドゥール)と呼ばれていて、勿論、意味するところは《ウォーター・リーパー》なんだけれど、英語圏の人がそういう紹介をして、いつの間にか、そういう名称が普及してしまった格好なのだろう。

ボクとしては、あんまり、そういう訳語を使いたくなくって、現地での固有名詞を並べるウェブサイトにしたいと思っている。その一方で、外国語には日本語にはない発音がたくさんあるので、当然、カタカナ化には限界があるので、その間で煩悶する。その解決策として、原語での記載を併記する。ドイツ語ならドイツ語、フランス語ならフランス語、ロシア語ならロシア語、ギリシア語ならギリシア語だ。ところが、当然、マニアックな言語、例えばタイ語やミャンマー語、ラオス語などになると、コンピュータ側の印字に問題が生じる。対応フォントを設定してやらないとうまく印字されない。ましてや古代の言葉、ヒエログリフや楔形文字、アヴェスター語になると、対応フォントがデフォルトではインストールされていない。従って、文字化けになる。

こういうのは、いつかは解消されるだろう、と大学生の頃から、ボクは楽観的に思っていた。Unicodeとしては種々の言葉がどんどん登録されていくので(最近では麻雀牌や日本のケータイ絵文字も登録されている!)、Unicodeに全て対応するフォントが、いずれは出てくるだろうと思っていた。そして、そういうフォントが作成されれば、デフォルトでOSにインストールされるのではないか、とも思っていた。でも、今のところ、Unicode全てに対応したフォントは登場していない。ニーズの問題と、技術的な問題と、両方あるのだろうけれど、想像していたよりもずぅっと遅れている。

そんな中で、Googleでひとつのプロジェクトが動いている。多言語化に対応するために、Notoフォントというパッケージが作成されている。Notoフォントのパッケージを全てダウンロードすると、全てのUnicodeに対応する。つまり、ボクの理想形に限りなく近い。ただし、ひとつのフォントではなく、フォントのパッケージである。全Unicodeに対応させるとものすごく重くなるらしく、結局、それぞれの言語で分割して、パッケージとして対応するという判断になったらしい。まあ、パッケージで全Unicodeに対応しているのだから、それでいいじゃないか、という話もあるのだが、例えば、Wordで文書を作成して、日本語で文章を書いていて、途中に楔形文字を入れることを想像してみる。Word全部でたったひとつの『Noto Fonts』で対応してくれれば楽ちんなのに、現状としては、日本語の部分は「Noto Sans CJK JP」、楔形文字の部分は「Noto Sans Cuneiform」を指定しなければならない。ウェブサイトも同様で、スタイルシートで言語に応じてフォントをしてやらなければならない。

その一方で不思議なこともあって、日本のケータイの絵文字だ。Unicode.orgを参照してもらいたいのだが、いつの間にか、日本のケータイ文化の中で育った絵文字は、いつの間にか「Emoji」として世界基準になって2010年にUnicodeに登録され、ケータイ会社3社で統一化されたり、各種のSNSやblogサービスにも対応するなど、広がりを見せているが、実は最新のwondows OSでは、普通に絵文字が印字できるようになっている。「らくだ」と打って変換すると「🐪」になる。絵文字を印字させるためにわざわざ対応したフォントを作成しているわけだ。こんなものをデフォルトに実装するくらいなら、もっと別のことをやってくれよ、と内心、ボクは思っているわけだけれど、ニーズには勝てない、ということ。だから、もっともっと多言語化にニーズがあることをアピールしなきゃいけない、ということで、ファンタジィ事典では、たとえ文字化けになっていようとも、原語を使い続けているわけである。

ちなみにNotoフォントのNotoは「no more tofu」の略らしい。文字化けしたときの□をgoogleは「豆腐」と読んでいて、これを取り除こうというコンセプトらしい。この主義主張には大いに賛同できるので、ボクは今、順次、ファンタジィ事典をNotoフォントに対応させている。ミャンマー文字を印字するためにMyanmar3フォントを、アヴェスター文字を印字するためにAhuramzdaフォントを、楔形文字を印字するためにAkkadianフォントをわざわざダウンロードしてインストールするのは大変だけれど、Notoフォントのパッケージをダウンロードすれば済むなら、その方が断然、いい。

NotoフォントのパッケージはGoogle Noto Fontsからダウンロードできるので、是非!!

2016年4月24日 スマホの普及が多言語化の足枷に!?

昨日、Notoフォントについて書いて、ウェブサイトの多言語化に向けた希望的な話をした。一方では、多言語化に向けてのネガティヴな話題もある。アクセス解析をすれば明白だが、インターネット上は、パソコン・ユーザがどんどん減って、スマホ・ユーザが増えている。つまり、スマホでウェブサイトにアクセスする人が多いということ。その上、パソコンを持たない若いユーザも増えている。そうなると、いくらパソコン用に多言語対応のフォントが開発されても遍く多言語化に対応していくわけではない。

スマホでフォントをダウンロードして使うというユーザは少ないだろう。フォントを変更するアプリがないわけではないが、機能は非常に限定的だし、そもそも、スマホにはフォントを変更するという文化もないだろう。だから、スマホからアクセスされると、ボクのウェブサイトは文字化けだらけになってしまう。ウェブサイトの多言語化に向けて必死に頑張っているのに、スマホの普及で、実のところ、足踏み状態である。

Notoフォントの普及はウェブサイトの多言語化に明るい光を当てる。でも、スマホの普及が進んでいるので、それだけでは不十分である。Unicodeという概念があって、文字に関する統一的な規格を打ち立ててくれているのだから、それに対応する方向にパソコンもスマホもなればいいのだけれど、でも、楔形文字が表示できるなんて機能を求めている人は非常に限定されるので、わざわざ容量を使ってまで対応しようとはしないのだろうなあ。