2023年4月21日 隠棲動物学
4月5日に13歳の少女が目撃したネッシーの画像が、このたび、「オフィシャル・ロッホ・ネス・モンスター・サイティングス・レジスター」に公式認定されたというニュースが流れてきた。目撃情報を公式に認定する仕組みがあるというのがそもそも面白いし、21世紀のこのご時世に、「未確認生物(UMA)」というジャンルがまだ健在なのかと感じる人もいるかもしれない。
日本では、「未確認生物(UMA)」はオカルトとかファンタジィのジャンルに区分されて、妖怪や幽霊、宇宙人などとごちゃまぜになって扱われがちであるし、ボクのウェブサイト「ファンタジィ事典」も御多分に洩れず、未確認生物も含めて、「世界の妖怪」と定義して取り扱っている。
海外では、隠棲動物学(Cryptozoology)と言って、学問ジャンルとして扱われていて、アメリカには「国際隠棲動物学会」も設置されている。こういう隠棲動物の事例としてよく引き合いに出されるのが「ゴリラ」だ。ゴリラは当初は「隠棲動物」として取り扱われていて、19世紀に「発見」された。コモドオオトカゲも恐竜の生き残りとされていて、20世紀になって「発見」された。コビトカバもそう。パンダやオカピもそうだ。日本だと、イリオモテヤマネコが同様のジャンルだ。
つまり、未確認の生物が実際に存在することは論理的にはあり得る。そういう学問が隠棲動物学……なのだが、ネッシーの場合はどうだろうなあ……。植物プランクトンの量、魚類の量などから、大型肉食獣の生存は困難だとか、肺呼吸の生物だと仮定すると湖面に顔を出す頻度が低いとか、1987年の大規模なソナー調査の結果、大型生物が発見されなかったとか、いろいろと科学的裏付けのある否定がたくさんあって、やっぱり、少しだけオカルトっぽい印象がある。多分、隠棲動物学で真正面から取り扱うべきジャンルではなくて、イロモノではないかな、とは思う。
2023年4月23日 原点回帰:自分らしい文章を書くこと。
ウェブサイト「ファンタジィ事典」は「世界の妖怪」に関わる情報を集めてまとめているウェブサイトだ。でも、本音を述べると、Wikipediaが登場したときに、その存在意義を見失っていた。何しろ、ボク個人が一人で集められる情報なんて限られているし、アクセスできる情報も限られている。複数の人が同じように情報を集めてまとめるなら、圧倒的に数の論理でWikipediaの勝ちだ。
特に、一時期、北欧神話に関するWikipediaは、レベちでクオリティが高くなった。かなり専門家や専門家に近い人が中に入ったのだろうなという印象があって、情報の出典明示度が極めて高くなった。原典のどの部分にどのように書いてあるのかが、Wikipedia上で明確に分かるようになった。正直、これはお手上げだな、と思った。
そんなことを頭の片隅で考えながら、数年間、漫然と項目を更新していたような気がする。極力、読める範囲で原典を読む。原語にこだわる。そして、絵を描いてみる。でも、ChatGPTが登場して、もう、そういうのはやめようと思った。情報量で勝負するのではなく、自分らしい文章で自分らしい感性で記述することが、唯一の価値だ。やっと、そういう境地に至って、最近、自由に更新している。
そうしたら、また昔みたいに楽しくなって、生き生きとファンタジィ事典を更新している。「日々の雑記」を隔日で開始したのも、そういう背景がある。文章を自由に書いて、記事にする。当たり前の出発点に、再び戻ってきた。
2023年4月25日 メディアの闇に転嫁してはいけない。
岡本カウアンがGASYLEでジャニー喜多川からの性被害を告白した。時を同じくして、BBCが特集を組んで報じた。そして、先日、岡本カウアンが日本外国特派員協会にて記者会見をした。
性被害の実態については、昔からたくさん暴露本が出されていたし、週刊文春も報じていた。たとえば、フォーリーブスの北公次氏が1988年の『光GENJIへ』で暴露本を出版したのが最初で、次の年にはジャニーズの中谷良氏が『ジャニーズの逆襲』が性被害を告発していた。ジャニーズJr.としては、平本淳也の『ジャニーズのすべて-少年愛の館』(1996年)、木山将吾の『SMAPへ-そして、すべてのジャニーズタレントへ』(2005年)などがある。
週刊誌としては、1999年以降、週刊文春が繰り返し、報じていて、それに対してジャニーズ事務所が名誉毀損で訴えた裁判があって、2002年の判決では、ジャニーズ事務所が勝訴しているが、性的虐待については真実性が認められた。それでも、どこのメディアもこれまで大きく取り上げることはなかった。
今、これまでテレビが報じてこなかった過去、今でも小さな報道に留まっている事実が「メディアの闇」として、海外メディアやYouTube等の媒体で非難されている。確かに気持ち悪さはあって、芸能人の不倫とか、不適切発言なんかは大きく取り上げるのに、未成年に対する性犯罪という大きな出来事はちょっと触っておしまいにしてしまうメディアは異常だと感じる。
でも、もうひとつ、ボクたちが考えなければならないのは、1988年以降、元ジャニーズによる暴露本が出版され、1999年以降、週刊文春が報じ、2002年の判決で性的虐待が認定された歴史の中で、岡本カウアンの性被害は、実はそれ以降に起こっているという事実だ。社長がワンマンで強かったとしても、組織として一切の対応をしてこなかった。それを清算しないまま、前に進むことはできない。そんな気がしている。「メディアの闇」に目を向ける前に、そもそものジャニーズ事務所のこれまでの在り方を見つめなおさなきゃいけない。
2023年4月27日 「えーっと」と「あのー」はどう違うのか。
YouTubeの「ゆる言語学ラジオ」のパーソナリティのお二人が『言語沼』を4月に出版したので、早速、読んでみた。
いつものラジオの軽妙な会話が忠実に再現された対話型の本で、推敲されているので、無駄がなくてキレキレである。文体はゆるく書かれているし、難しくないけれど、よくよく読むと、「連濁」「アニマシー(生物性)」「音象徴」「フィラー」「調音点」「オノマトペ」「格助詞」など、実はがっつりと言語学っぽい内容でまとめられている。それを聞き手の堀元氏がちょいちょい難解な雑学を放り込みながら、面白おかしく茶化しながら進行していく。
純粋に「言語学って面白い」という読後感が残るので、とてもよい。是非、おすすめの1冊である。
2023年4月29日 バオウ・ザケルガ!!
『金色のガッシュ!!』と言えば、2001年から2008年まで「少年サンデー」に連載されていた人気漫画だ。アニメ化もされた。作者の雷句誠氏は、小学館と大揉めして講談社に移り、そこでも編集者と揉めたっぽくて、最終的には自分自身でBIRGDIN BOARD株式会社という会社を立ち上げたというから、ものすごく変わった人物ではある。でも、ちゃんと漫画を描き続けていて、2022年から『金色のガッシュ!!2』の連載が始まった。現在、2巻まで出版されている。
当時、雷句氏がTwitterで『金色のガッシュ!!2』の連載開始を発表したときには、ファンが歓喜する一方で、一度、完結した物語を再開することに対する不安の声もたくさんあった。実は、ボクも不安を抱いていた。『金色のガッシュ!!』は、清磨とガッシュが、魔界の王を決める戦いに参加し、「やさしい王様」を目指す物語だ。そして、33巻で有終の美で完結した。ちゃんと完結した物語を、もう一度、組み立てなおして、続編を描くのは難しいし、すでに清磨とガッシュの関係性も変わっているわけで、どのような展開になるのか、見当もつかなかった。
だから、1巻が本屋さんに並んだときには、ちょっと様子見というのか、遠巻きに眺めて静観していた。そうしたら、2巻が発売された。「あ、ちゃんと続いた!」とボクはビックリして、そして、買ってみた。冒頭は不安が渦巻く展開だったが、どんどん、昔の懐かしい面々が登場したら、ぐいぐいと引き込まれた。そして、新しい展開も、それほど大きな違和感なく、前作と繋がった。
何よりも、読者の感情を揺さぶる瞬発力がすごい。雷句氏の鉄板のテンプレートなのだろう。普通だったら、周到に準備して、流れをつくって、ゆっくりと読者の心を動かしていく。でも、ガッシュは、1冊の中であっという間に感動の形を組み立てて、読者に向かって打ち込んでくる。1巻も、2巻も、ちゃんと感動のシーンまで持っていく。その瞬発力がものすごい。ああ、これがガッシュだ、と感じた。
大抵の場合、続編って失敗するものだけれど、今のところ、ガッシュに関しては、企画倒れにはなっていない。続編のストーリも成立しているし、かつての感動も損なわれていない。それもまた、すごいことだ。
2023年5月1日 アメリカの「禁書」のムーブメント
新型コロナウイルス感染症が世界を覆って以降、アメリカでは「禁書」がひとつのムーブメントになっているらしい。「禁書」とは言っても、発禁ではないので、本屋に行けば普通に購入はできるらしいが、学校や図書館から「禁書」が排除されている。去年だけでも、約1,600冊の本が「禁書」として規制されたという。そんな中、特にターゲットになっているのが、LGBTQや黒人差別を題材にした本。「子供にLGBTQを教育すべきではない」とか「過度に黒人差別を取り上げると白人差別につながる」ということらしい。
正直なところ、ボクも、敢えて子供たちに積極的にLGBTQや黒人差別を教える必要はないのではないかと思っている。でも、だからと言って、わざわざ学校や図書館からそういうものを排除して、子供たちが手に取る機会を奪うのは、間違っている。読みたい人は読めばいいし、子供たちにはあらゆることを学ぶ機会が提供されるべきだ。LGBTQや黒人差別に興味を持ったときに学ぶ権利は、全ての子供たちにある。過度のエログロや暴力でない限り、読書体験の取捨選択は子供がすればいい。
2023年5月3日 文化を根付かせることが大事
加古川駅のストリートピアノが撤去されるらしい。マナー違反が相次いだらしく、また、ピアノそのものに不快感を覚える市民もいたらしい。
ボクは学生時代、フランスを訪問したときに、駅の構内でチェロを弾いている人を目撃してものすごく感動した。人の往来するど真ん中で演奏していて、滅茶苦茶上手かったし、演奏が景色に溶け込んでいて、さすがはヨーロッパだなーと感じた。音楽が文化として定着している。そんな感想を持った。
ボクは横浜に暮らしている。たとえば、横浜では「横浜トリエンナーレ」というイベントで、現代アートを推している。でも、普段、馴染みのない現代アートをえいや、と目の前に突き出されても、みんな、ちんぷんかんぷんだと思う。林文子前市長は劇場建設を強く推進していた。ダンスと演劇の文化を横浜に根付かせるという姿勢だった。でも、劇場ができて、海外の有名な劇団が公演したとしても、一部の市民しかそれを享受しないだろう。ボクは、文化というのは、そういうものじゃないと思っている。
日常の中に、当たり前にあるものが文化だ。駅の構内でチェロを弾いている人がいる。それが当たり前に受容されている。それが文化だ。もしも文化の底上げをしたいなら、アプローチは、大きなイベントを開催することじゃない。有名人を連れてくることじゃない。横浜のあちこちで、当たり前のように現代アートがあって、演劇がある。そういう形を模索するべきだ。駅構内の空きスペースに、当たり前のように現代アートが飾られていて、解説がついていればいいし、小さい劇場がたくさんあって、演劇団体があっちこっちで演劇をしている姿が、文化だ。担い手がたくさんいて、受容する人がたくさんいて、そうやって文化はつくられる。
ストリートピアノは、そういう意味では、ボクは素敵なアプローチだと認識していた。日常の中にピアノがあって、いろんな担い手が演奏して、それを楽しむ土壌ができる。はらみちゃんやよみぃ氏など、YouTuberたちがそういう文化を一気に後押ししたからかもしれないが、今は玉石混交で、マナー違反をする人もいるのだろう。でも、成熟してくれば、それが文化になって、おのずとマナーもできてくる。今はその途上なのだと思う。もうちょっと時間が掛かるのだろうな、と思う。
2023年5月5日 俺が世界を滅ぼしてやるぜ!!
「令和の麻原」が話題になっている。まるでサリンをばら撒いた極悪人のような印象を与えるが、でも、実は、単に「サリンばら撒くぞ」と書き込んだだけの迷惑系の人物だ。彼女が本当にサリンを持っていたとか、誰かを本気で傷つけようとしていたとかなら大問題だけど、実はそうではない。だから、彼女の本質は単なる迷惑系だ。だから、そんなに大仰に取り上げなくてもよいのでは、と思ったりする。もちろん、警察や駅職員は巻き込まれて大変だったとは思うけれど。
今も昔も「俺が世界を滅ぼしてやるぜ」系の妄想癖の人はいたのだろうけれど、個人の妄想は世界に影響を及ぼさなかった。1億総発信時代だからこその、とても今っぽい感じの事件だと思う。
2023年5月7日 ぎゃふん。
息子のツクル氏は長風呂だ。こちらが声掛けをしなければ、30分でも40分でも、待てども暮らせども上がってこない。今日も今日で、頭からシャワーを浴びてぼーっとしていたので、「頭は温(あった)まったかい?」と訊いてみた。そうしたら、「ダジャレなんて言わないでよ。パパは頭を冷やしなさい!」と返されてしまった。ぎゃふん。お風呂を上がって、妻に報告したところ、「あなたはダジャレ、息子はオシャレね」と返されて、さらにぎゃふん。
2023年5月9日 久々にイラストを描いてみた。
ゴールデン・ウィークで時間もあったので、イギリス伝承のインプを描いてみた。相変わらず、iPhoneにタッチペンという状況。彩色もしてみたが、どうやって塗るのが正解なのかよく分からない。ClipStudioでの色の塗り方を勉強した方がよいかなあ。ガリガリな感じとかは表現できたので、その点は気に入っている。
2023年5月11日 プロトタイプから外れた境界に近いところにいる。
ボク個人はLGBTQという概念と言葉が嫌いだ。昔はLGBTだったのに、いつの間にか、LGBTQとか、LGBTQQIAAPPO2Sとか、どんどん細分化されている。
本来、すべての物事は、明確に白と黒に二分することはできない。グレーも含めて、線状、あるいは放射線状に並んでいる。それを変に分類して、新しい概念を作って、名前を与えることを、ボクは必ずしも好ましいとは思っていない。
認知心理学とか言語学なんかに「プロトタイプ理論」というのがあって、よく例に出されるのが「鳥」である。単に「鳥」と言えば、ハトやツバメのような空を飛ぶ比較的小型の「鳥」を想起する。こういうのがプロトタイプで、ダチョウやペンギンはそういうプロトタイプからは外れる。それでも、「鳥」の中に含まれる。
「鳥」が分かりやすいので例に出したが、「鳥」だけでなく、あらゆる言葉や概念が、プロトタイプを中心に、明確な境界を持たずに、非典型的・周辺的なものを含んで広がっている。
近年のジェンダーの文脈では怒られるかもしれないが、いわゆる男性らしい「男性」や女性らしい「女性」というプロトタイプを、それぞれの人がイメージしていて、そこから「男性」や「女性」という概念は、境界を持たずにふわーっと広がっている。それを理解して、受容することが大事だとボクは思っていて、「性の対象が男性である男性」とか「女性の格好をしたい男性」とか「男性にも女性にも興味がない男性」のようなものを、別ジャンルで区別していくことは、あまり意味がないと思っている。いわゆるLGBTQに区分されない「男性」や「女性」だって、仔細に眺めていけば、細分化していろんなタイプがあって、そういうのもひっくるめて受容することが多様性なのだと思う。
ボクは、どちらかと言えば、女性的なものが好きだ。パステル調の色味が好きだし、ゴリゴリのバトル漫画よりもふわっとした女性漫画の方が好きだ。ラーメンを食べるよりも喫茶店でケーキを食べる方が好きだ。それでも、ボクは「男性」に区分される。でも、「男性」の中でも比較的、プロトタイプからは外れた境界に近いところにいる。それでいいじゃん、と思っている。
2023年5月13日 知的好奇心を掻き立てる。
本屋に『中野京子の西洋奇譚』(著:中野京子,中公新書ラクレ,2023年4月)が平積みになっていた。ハードカバーで出版されていたのは前から知っていたが、ボクは文庫や新書が好きなタイプなので、この機会に買ってみた。
カラーの絵が豊富に載っていて、それも楽しいし、いろんな文献に当たって調査されているのも好印象。「ハーメルンの笛吹き男」や「ジェヴォーダンの獣」、「ファウスト伝説」などの古い話もあれば、「コティングリー事件」やロバート・ジョンソンの十字路の悪魔などの比較的、新しい話もあって、全部で21の西洋奇譚が載っていた。新旧あるところが面白かった。資料性も高くて、ウェブサイト「ファンタジィ事典」の参考文献としても十分活用できそうな印象も受けた。
その意味で、とても興味深かったのが「マンドラゴラ」の章だ。マンドラゴラは、人間の姿に似た根を持つ植物で、引き抜くときに大きな悲鳴を上げ、その悲鳴を聞くと気が狂うとか死んでしまうと言われている。だから、犬に引き抜かせて、自分は耳を塞いでおく。引き抜いた植物は毒にも薬にもなってとても有用だとされる。その辺までは、おそらく、何となくみんなが知っているところかと思う。でも、『ロミオとジュリエット』でジュリエットを仮死状態にした薬がマンドラゴラだとか、旧約聖書での言及、ローマ時代の挿絵、古代エジプトのレリーフ、映画「ハリーポッター」での描写など、さまざまなマンドラゴラについて書かれていて、面白かった。いろいろと調べて、確認したいなと思った次第。
こういう風に、読んで、知的好奇心を掻き立ててくれる本に、ボクは魅力を感じてしまう。
2023年5月15日 天才的なアイドル様♪
YOASOBIの「アイドル」を聴いている。歌詞に物語性があるのがYOASOBIの魅力のひとつではあるが、この楽曲の推しポイントは、曲調が変幻自在なところだ。
全体的には、ザ・ボカロという感じで、音が上に下にポンポンと飛んで行ったり来たりする。高いところまで上り詰めたと思うと、あっという間に急降下する。IKURAさんも歌うのが大変だろうなあと思う。サビは王道のアイドルソングっぽく、ノリノリだ。ところが、そこに至るまでは、ものすごくダークでクール。そして、途中、ゲーム音楽の魔王登場かと思うくらいにおどろおどろしい雰囲気になる。このように楽曲の各所で雰囲気がころころと変わっていく。それでいて、ちゃんと1曲として収まっている。そして、その曲調の変化と歌詞の内容がピタッとハマって、物語として成立するのが、とても面白いな、と思う。
2023年5月17日 素直キャンペーンやりませんか?
先日、岡本カウアンがYouTubeを更新していて、誰かを攻撃する意図がないことを明言していた。ジャニー喜多川氏を訴えるとか、藤島ジュリー景子氏を追い出すとか、ジャニーズ事務所を潰すとか、そういうネガティヴなアクションには、彼は関心がない。それって健全だな、と感じた。
ついついボクたちは制裁を与えたくなる。罰を与えたくなる。でも、法治国家だ。勝手に誰かが誰かの尺度で罰を与えることはできない。社会が寄って集って誰かを罰することはできない。でも、何となく義憤の先に、誰かを追い詰めたくなる。それは行き過ぎた正義かもしれないし、歪んだ正義かもしれない。ただの妬みや嫉み、鬱憤の矛先を向けているだけなのかもしれない。
罪を憎んで人を憎まず。ボクたちには寛容さが必要だ。だから、岡本カウアン氏のYouTubeのリンクを張っておこうと思う。とてもいい動画だと思う。
その上で、ジュリー氏の性加害を「知らなかった」という説明は、完全に悪手だと思った。「素直キャンペーンどうですか?」というカウアンの提案には沿えなかった格好だ。
だって、知らないわけがない。ボクですら、大学生のときに、ビレッジバンガードでアングラ本の間に配架されていた暴露本を手に取って立ち読みしたことがある。タイトルまでは明確に覚えていないけど、おそらく北公次氏のものと平本淳也氏のものだった。読んで衝撃を受けた。今でも覚えている。こんなことがあるのかと思ったし、それがまるでメディアで報じられていないことに衝撃を受けた。
その後、いろいろとネットサーフして、この事実を承知でジャニーズに子供を入れる母親がいることにも、衝撃を受けた。そんな情報はオンライン上に腐るほど溢れている。それを、経営幹部が知らなかったはずはない。ただただ、見たくないものに蓋をして、目を伏せていただけだ。逃げていただけだ。そういう風に語るべきだったと思う。本気で、本音で、語るべきだった。
ボクは、岡本カウアン氏の目指す世界が美しいと思う。そこに着地できればよかったのに。それがとても残念だ。
2023年5月19日 世界パラダピアン計画
ゴールデンウィークに映画「ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)」を観に行った。とても混雑していて、ビックリした。
事前情報で、エヴァのオマージュだという映画評論家のコメントを見て、子供向けのドラえもんでそんなもんが作れるのかな、と疑問を抱きながら、好奇心をそそられながら観に行った。冒頭、サイレンが鳴り響き、使徒襲来のような始まり方に驚いたし、パラダピアの三賢人もMAGIシステムを連想させる。そして、「世界パラダピアン計画」も、「人類補完計画」を彷彿とさせる。確かにエヴァのオマージュが各所に見られた。でも、ちゃんとドラえもんでもあった。
ユートピアは、蓋を開けたらディストピアだったというのは定石の展開で、この映画でも、誰もがパーフェクトになれるというのは、三賢人に無抵抗な画一的な人間になることを指していた。パラダピアンライトを浴びて、洗脳されて、ジャイアンからは乱暴さが、スネ夫からはいじわるさが、しずかちゃんからは強情さがなくなって、穏やかに暮らす。のび太はいち早くそこに違和感を覚える。そして、のび太だけはパラダピアンライトが効かないといういつも通りの特殊能力っぷりを遺憾なく発揮する。そして「ダメなところも含めて、それでいい」という結論を叫ぶ。
脚本が古沢良太氏(最近は「コンフィデンスマンJP」の、と紹介されることが多いが、ボクは「キサラギ」から入ったので、その印象が強い!)なので、伏線回収が半端ない。序盤、ゆっくりで冗長なのは彼の特徴かもしれないけれど、後半はぐいぐいと進んでいき、キレイにバタバタと伏線が回収されていくので、見事! と思いながら楽しんで観ることができた。とても面白かった。
2023年5月21日 働いて、疲れて、眠る。
労働とは何か。最近、そんなことを考える。昔は、どれだけクリエイティブであれるかが労働の価値だと思っていた。とかく生産性を高めることが大事だと信じていた。最近、肉体労働を伴う仕事をすることもあって、これはこれで、とても充実している。とてもベーシックな部分だけど、そういう肉体労働によって支えられている世界も確かにある。
最初は、全然、クリエイティブではないので、どうしたものかと音を上げそうだった。身体は正直なもので、すぐに悲鳴をあげる。でも、1週間が経ち、2週間が経った頃、とても清々しくなった。働いて、疲れて、そして眠る。このサイクルが、とても人間的だな、と感じるようになった。
ボクは、設計や計画と言った部門に放り込まれて、実は生の現場に間近で接したことがなかった。それでも、コンサルテーションを求められて、勉強もして、対応してきた。今、現場で一緒になって汗をかくことで、その部分の弱点が圧倒的に補完されている。頭で理解しようと努力していたことが、手を動かして理解できている。きっと無敵になれる気がする。怖いものがなくなりそうな気がするし、何となく、コンプレックスだった部分が取り除かれていく気がする。
2023年5月23日 バラに囲まれて
バラを眺めに平塚市の「花菜ガーデン」に行った。
こうやって、たくさんの花に囲まれた空間を歩くのは、とても幸せなことで、目から元気をもらえる感じがする。
息子のツクル氏は「迷路だ!」と言いながら、バラ園をあっちに行き、こっちに行き、走り回っている。バラに興味があるわけでも、花に興味があるわけでもなく、単純に広い空間で道が錯綜しているので、行き止まっては戻ってを繰り返す作業が楽しくて仕方ないらしい。その意味でも、こうやって遊びに来てよかった。息子を追い掛けて走り回るので、ボクもいい運動になった。
バラのアイスがあったので息子のツクル氏に与えてみた。癖の強い香りだから、嫌がるかなと思ったら、美味しいと食べていた。だんだんと大人の舌になっていくツクル氏である。いいことだ。
「チャペックの家と庭」があった。カレル・チャペックと言えば、戯曲「R.U.R.」だ。「ロボット」の語の初出はこの作品だ。彼は多趣味だったらしく、園芸も趣味のひとつだったらしい。ボクも彼のように、生涯、多趣味でありたいな、と常々思っている。
2023年5月25日 「本日は休肝日をお休みします」
最近、妻のちぃ子が体調を崩していて、原因不明の頭痛に悩まされている。背中が凝り固まっていて、マッサージすると解消するので、血流がよくないのかもしれない。
そんなこんなで、日々の晩酌を取りやめて、休肝日にしていた。ところが、先日、「本日は休肝日をお休みします」と言って晩酌を始めた。あまりにも面白い表現に笑ってしまった。アルコールを節制して、肝臓を休める日なのに、それを休むというのだから、休むことを休むという不思議な構造の表現になっている。
言葉の面白さについつい記事にしてみたよ、というだけの話。
2023年5月27日 ヨーウィーはトカゲと虫の混成獣なのか!?
今日はちゃんとウェブサイト「ファンタジィ事典」の話。アボリジニ伝承に「ヨーウィー」という怪物が登場する。実はオーストラリアには2種類のヨーウィーの伝承があって混乱するんだけれど、イエティみたいな獣人型のヨーウィーではなくって、爬虫類型のヨーウィーの話をしている。このヨーウィーは6本脚のトカゲの怪物なんだけど、しばしば、昆虫のような脚で描かれる。
でも、海外のウェブサイトを見ると、結構、普通に6本脚のトカゲで描かれていたりする。サイズも思った以上に大きくて、複数の部族が集まって、総がかりで戦って退治していて、まるで洞窟に棲み、村を襲うドラゴンのようなイメージである。Wikipediaの記述も、特に昆虫の脚とは明示されていない。さてはて。
実は明確に「昆虫の脚」という表現をしているのは、草野巧氏だ。『幻想動物博物館』(1993年)では、
ヨーウィーはカブト虫のように、とげとげした六本の足を持った鱗のある巨大なトカゲである。
と記載されている。以降、『幻想動物事典』(1997年)では
犬くらいの大きさがあり、身体つきは蜥蜴のようだが、胴体には鱗があり、蛇のような尾がある。奇妙なのは足で、かぶと虫のようなとげとげの足が6本ある。
と書かれている。
参考文献には『想像と幻想の不思議な世界』が挙げられている。これはオーストラリア在住のマイケル・ページとロバート・イングペンの共著の辞典である。英語のタイトルは『Encyclopedia of things that never were』である。1985年にイギリスで発行されている。日本語訳は教育社から1889年に出版されている。ページの文章、イングペンのイラストでまとめられているが、そこにヨーウィーが登場する。
オーストラリアの夜行性の生き物。爬虫類と昆虫の中間の形態をしているらしい。目撃者は、昆虫のような6本の足を持ち、頭はオオトカゲで、胴体は爬虫類のようなうろこに覆われ、ヘビのような尾をしていたと言っている。
とあって、イングペンはアリのような身体にトカゲの頭、ヘビの尾を生やした怪物を描いている。草野巧はこれを参考にしたのだろう。
セガサターンの『真・女神転生デビルサマナー』(1995年)では、妖虫としてヨーウィーが登場していて、その後、2021年には『遊戯王』のカードにも登場した。これらの作品でも、昆虫の脚を持った爬虫類の怪物として描かれている。
マイケル・ページもロバート・イングペンもオーストラリア在住の作者だから、一見するとアボリジニ伝承に関する情報は正しそうな印象を受けるが、虹蛇のユルルングルの記述などもほとんどなくて、どこまで信用していいのかはよく分からない。そもそも「昆虫のような6本の足」という部分をマイケル・ページがどのような意図で書いたのかはよく分からない。でも「6本脚であることがまるで昆虫のようだ」とも読める。ロバート・イングペンは明確にアリのような身体を描いているが、果たして、ロバート・イングペン以前にこのような昆虫と爬虫類の混成動物としてのヨーウィーを描いた人がいるのだろうか。
そんなこんなで、「ファンタジィ事典」の記事をどのようにまとめるか悩んでいる。
2023年5月29日 YouTubeで音楽を聴く時代である。
昔は音楽はレコードやテープで聞いていた。それがCDになってデジタル化し、MDになって好きなトラックを組むことができるようになった。そして、mp3などにダウンロードする形になって、気軽に音楽にアクセスできるようになった。CDショップに足を運ぶ必要がないのだ。そして、今はYouTubeなどのストリーミングで音楽を聴く文化もあれば、サブスクで音楽を楽しむ文化もあって、音楽の楽しみ方は多様化している。
CDやダウンロードの時代は、音源を購入してもらうことがひとつのビジネスモデルだった。だから、ミュージックビデオをつくるのは、ある種のPRでもあったと思う。テレビのランキングなどで取り上げてもらえたし、音楽チャンネルでミュージックビデオが流れることもとても大事な広告になったはずだ。昔、大森靖子が「ミュージックビデオを作ってない曲って、存在すら知られていなかったりする」と言っていたのが印象的だった。
昔のミュージックビデオは、雑踏や走行音などの環境音が入ったり、途中で寸劇やインタビューがインサートされたり、途中でフェードアウトするものもあった。こういうのは、最終的にちゃんとした音源は買って聴いてくださいね、というマインドがあったからだと思う。音楽チャンネルで無料で流れているミュージックビデオを録音しても、そういう邪魔が入るように設計されていた。
でも、今は好きなアーティストの音楽をYouTubeなどで繰り返し聴くみたいなスタイルが定着している。最近、YOASOBIの「アイドル」がストリーミング再生で5週目で1億回突破の最速記録を打ち立てたことが話題になった。YouTubeは現在、1.2億回再生だ。……実はYOASOBIは再生回数1億回以上の楽曲が14曲もあって、これは日本のアーティストの中でもトップだ。2位はOfficial髭男dismで13曲。総再生数でみても、「夜に駆ける」が8.9億回再生でランキングNo.1だったりする。そんな時代である。
そんな中で、依然として一部の楽曲のミュージックビデオで、途中で環境音が入ったり、インサートが入ったりする。こういうのは、何度も繰り返し聴くには辛かったりするので、当然、再生数が伸びていかない。それって、少しだけ損をしている気がする。「YouTubeにアップしているのはあくまで広告目的であって、音源を買ってね」というアプローチは、少しだけ古くなっているのではないか。そんな風に感じる今日この頃のボクである。もちろん、ね。YouTubeを1回再生してもらっても薄利多売で、mp3をダウンロードしてもらった方が利益は出るので分からないではない。でも、不便を強いて購買に向かわせるというアプローチも、きっと、今風ではないような気がする。