《日々の雑記》

2016年8月27日 実は個人情報なんてダダ漏れである!!

昨夜、イースト・プレスの『死者の書(まんがで読破)』のレビューをウェブサイトに書こうと思って、Amazonで検索した。

今日、昼休みに職場でFacebookを開いたら、イースト・プレスの「まんがで読破」シリーズの広告が並んでビックリした。

我が家のPCを使ってAmazon内で検索したのであって、会社のPCで検索したわけじゃない。それなのにFacebook氏はちゃんとボクの検索情報を追いかけている。

昔、Facebook氏はマイク機能をオンにしていると音声情報を収集して広告を出してくるという報告がなされていたが、ホント、Facebookにログインしたまま検索した情報が、そのまんま筒抜けらしい。すごい機能だが、怖い機能だなあ、と思う。

Google検索、Googleマップ、Google翻訳、Google+、Youtube、Gmail、Google Chromeなど、Googleもいろんなサービスを展開していて、正直、ボクの一挙手一投足はGoogle氏には監視されている。ボクが何を検索して、どこにいて、何を翻訳して、何を書いて、何を視聴して、誰にメールを送って、どんなウェブサイトを見ている。これらを分析することは、技術的にもプログラム的にも可能である。

Facebook氏も同様で、ログインしている間は、いろんな情報を掠め取っていくらしい。

常に監視されている。そういう自覚を持って生きないと、やられるゾ!!

2016年8月27日 玉石混交。

下の記事に関連して、最近、ファンタジィ事典の記事を書きながら感じていることでも書いてみよう。

ファンタジィ事典の記事も、実は匿名性という意味では同じことが言える。たとえば「○○という説がある」とか「○○と解釈されている」とか「○○と考えられている」という記述は、書き手として非常に楽チンだ。でも「説」と書く以上、その「説」を提唱している専門家がいるはずだ。「解釈」している専門家、「考え」を持っている専門家がいるはずなのである。ところが、よくよく調べていくと、その「説」を唱えている人は学者でも専門家でもない、素人の場合もある。あるいは胡散臭い専門家だったり、偏った過激な学者の場合もあって、その「説」の信憑性が疑わしいこともある。明らかに牽強付会だろう、という説だってあるわけだ。そういうのを無視して、ただただ漫然と「○○という説がある」と書くのは、実のところ、とっても楽チンなんだけど、とっても無責任だし、とても怖いことである。

失われてしまった神話というのは、かなりの部分、学説によって支えられている。掘り起こされた文字資料や絵、創作物、その他の遺物から、かなりの部分、仮説を積み上げて、解釈を加えて、再構築されている。あんなに文学作品が残されているギリシア神話ですら、想像で補完すべき部分がたくさんある。そういう意味では、書籍に「○○という説がある」と書いてあって、それを鵜呑みにするのも怖いことで、その根拠となる学説のロジックや信憑性、提唱者の立ち位置を探っていかないと、本当のところは分からないし、そもそも「本当」ってものがあるのかどうかも分からない。

どうもアステカ神話は胡散臭いな、と感じている。いろんな間違った学説や怪しい学説が入り混じっていて、市販の本も玉石混交の印象。そういう解釈も含めて楽しむのがファンタジィだ、というのも「あり」なんだけど(たとえば、シュメルの神さまが宇宙から来たというシッチン説も丸ごと取り込んで楽しんでしまうとか!!)、でも、大昔に本気でその神さまを信仰していた人々に失礼な気がして、もう少し、ちゃんと調べないと、と思ってしまうのがボクの正直な気持ちである。メソアメリカに暮らしてテスカトリポカやケツァルコアトル、ウィツィロポチトリを信じていた人々が、スペイン人が侵入して、文字を手に入れた後に、少しでも文字資料として神話を残そうとした気持ちを、大事にしたいなあ、と思う。

で、本当は、そういう一次文献に当たりたいんだけど、日本語になっているものはほとんどないのが現状だ。英語になっているものもあんまりなくって、スペイン語が一次文献になってしまうものが多そうだ。そういう状況だからこそ、胡散臭い学説がまかり通って、訂正されずに残り続けているのかもしれない。

とは言え、結局、ボクはスペイン語が出来ないので、ただただ悩ましいなあ、と愚痴るだけで、ならばどうする、というソリューションは、今のところ、持ち合わせていない。問題提起だけして、今後、考えていこうかな、という感じ。そんなことを考えている今日この頃である、という告白。

2016年8月27日 匿名性の弊害。

最近、ウェブのニュースを見ていて気になることがある。「ある業界関係者は」とか「元社員が」とか「身近な知人は」みたいな書き方で報じる記事だ。これって、メディアとしてのレベルを下げるのではないか、と思っている。

物を書く以上、情報源というのは大切で、可能な限り、いろんな文献を読んだり、一次資料を参照したりする。もちろん、記者からすれば「ある業界関係者」というのは匿名の誰かではなくって「取材した特定の人物」がいるのだろう。だけど、大切なことは、その「業界関係者」が本当はどういうポジションにいるのか、ということ。「ある業界関係者」という記述は、その辺が非常に曖昧になる。非常に身近にいて、日常的にその案件に接している人物なのか、ただ遠巻きに眺めていただけなのかによっても情報の質は異なる。

たとえば、あるプロジェクトに直接、従事していた人と、そのプロジェクトをやっている同じ部署の同僚がいて、たまに相談を受けていた人と、全然部署は違うけど、そのプロジェクトのことを噂で聞き齧っただけの人で、情報の質って、全然、異なる。「ああ、知ってる知ってる。あの件ね!」と語っても、それがどの程度、現場の状況を把握したコメントかは分からない。小さな会社でサラリーマンとして仕事をしていて思うのは、直属の上司だって、実のところ、本当に現場で起こっている問題を把握していないことが多いのであって、それを外から見ている隣の部署の人間に何が分かるものか、と思う。だから「ある業界関係者」も「身近な知人」も、匿名である以上、その情報の質は担保されない。

それに匿名性を秘めた記事は、捏造の可能性を孕んでいる。ライダーが嘘を書いたって、誰も検証できない。それっぽく記事が書けてしまう。だから、ちょっとオーバに書いたりする癖がついたら、ずるずると質の低い記事を書き続けるだろうな、と思う。あるいは都合のいいよく喋る「業界関係者」を捕まえて、それを真実っぽく書くことだって、出来てしまう。

そんなわけだから、匿名性を含んだ記事そのものは、信憑性を損ないかねない、と思う。でも、最近、そんな記事が蔓延していて、ちょっと愕然としている。そんな記事を大手のメディアまでが紹介してしまう時代である。

昔っから、ボクはウェブ・ニュースの記事の質を向上させるために提案していることがある。それは記事に対する評価を読者がするシステムを導入するということ。大仰な釣りタイトルや、信憑性の薄い記事、他のメディアをコピペしたような質の低い記事に対して、読者が「ノー」と言えるシステムを作れば、記事の質は向上する。ライターも少しは気を引き締めるだろう。ライターが囲い込まれた小さなウェブサイトだと、そういうのもあるけれど、もっと影響力のある大きなニュース・サイトに、そういう制度を導入してもらいたいなあ、と常々、思っている。

2016年8月26日 日本のSNS利用は特異!?

ソーシャル化とモバイル化でも、「日本の特異性」が一段と進む:http://blogos.com/article/188173/

世界平均では、インターネット利用者の93%がSNSアカウントを持っているらしい。でも、先進国であるはずの日本は70%と低い。また、世界平均では7種類のアカウントを持つらしいが、日本では2種類のみ。

ボクの場合、アクティヴなのはFacebook、Twitter、LINEだけだなあ。YoutubeとGoogle+は登録だけだし、mixiはほとんど死んでいる。LinkedInは海外の方々からコンタクトがあって怖くなって止めてしまった。Pinterestも使いにくいから止めた。PixivとInstagramは興味があるけど未着手。そんな状況。

この記事では、利用時間についても言及されていて、他の国が1時間以上の中、日本は18分と極端に低い。まあ、これは文化的なものもあるだろうな、と感じる。海外に行くと、仕事中でもFacebookをやっている人がたくさんいるし、業務連絡にSNSを使っている場合だってある。日本じゃ、考えられないこと。業務中はSNS禁止が一般的だろう。最近、社内連絡に公式にLINEを使っている会社の人を見かけたが、日本ももっと積極的に活用すべきなのかもしれないなあ、と思う。

大体、フィリピン人なんて、メールを開かない人が多くって、返信が返ってくることはほとんどないが、Facebookに連絡すると、すぐに回答が来る。そういう文化的な違いは大きいだろうなあ、と思ったら、案の定、利用時間ではフィリピン人がダントツの3.7時間。でも、実のところ、ナイジェリア人もかなりの部分、Facebookで連絡を取り合っているので、時代はそういうものなのかもしれない。

2013年にミャンマーに行ったときに、停電ばっかりだし、水道インフラもない地域で、現地の人々がスマホを使っていて、ものすごく驚いたのを覚えている。当時はまだ日本でもスマホとガラケーが半々くらいだった頃だと思う。しかも事前に印刷した地図を示しながら、場所を探していたら、現地スタッフがスマホのgoogleマップで現在地を拾って、「今、ここだ!」と説明してくれた。電気も水もちゃんと整備されていないのに、ネットインフラだけは進んでいることにギャップを感じた。

でも、言い換えれば、まだまだ日本には潜在的なSNS利用者がいる、ということで、その辺にビジネス・チャンスが転がっている、ということでもある。SNSになびかないと見るか、これからSNSに引き込めると見るか。さてはて。

2016年8月25日 まんがだからってバカにできないシリーズ

『死者の書 まんがで読破』が比較的、面白かった。主人公のトトがいきなり蛇に咬まれて死んでしまい、死者の書を片手に冥界に行き、苦難をくぐり抜け、オシリスの審判を受けて、イアルの野に行くという物語。オシリス神殿で暗闇を抜けたら、ずらり、と神さまが勢ぞろいして並んでいるシーンは非常に壮観で、感動した。マンガならではの演出だ。

実は同じシリーズの『日本書紀 まんがで読破』も、中身としてはかなり簡略化していて物足りない部分はあるが、絵が印象的で面白かった。ああ、神さまが動いている、という感じがした。『コーラン まんがで読破』もイスラームの思想や文化、歴史などを説明しながら、コーランに何が書いてあるかを簡単に学べて、なかなか興味深い。

このシリーズ、意外と調べて書いている印象があって、入門書としてはかなりオススメだと思う。神話だけじゃなくって、ドストエフスキーの『罪と罰』やゲーテの『ファウスト』みたいな文学作品やマクベスの『資本論』とかカントの『純粋理性批判』みたいな哲学書(?)もあったりするので、楽しいなあ、と思っている。

2016年8月25日 アステカ神話、始めました。

しばらくメソポタミア神話を続けていたんだけど、細々とアステカ神話の項目を始めてみた。興味があっちに飛んでこっちに飛んで、と散漫にやっているからダメなのは承知の上なのだけれど。

取り敢えず、3項目を更新。オメテオトルミシュコアトルウィツィロポチトリ

今回のシリーズは、少なくともテスカトリポカ、ケツァルコアトル、トラロック、チャルチウィトリクェ、トナティウの5項目をアップするまで続けてみようと思っている。何故アステカ神話なのかというと、Wikipediaの「神の一覧」の項目で最初がアステカ神話だったから、というだけの理由だ(笑)。この順番で行くので、次はアブラハムの宗教。ユダヤ教、キリスト教、イスラームなので、四大天使くらいは更新したいなあ。そんな感じで順繰りローラ作戦である。

2016年6月6日 復刊ドットコムがやりおった!?

復刊ドットコム

たまたま尾崎かおりの新作『人魚王子』を探して入った本屋で、新着コーナに佐藤有文の『世界妖怪図鑑』が1冊だけ並んでいてビックリして、思わず二度見、三度見してしまった。裏返したら、復刊ドットコム。ずぅっと復刊希望のランキング上位にいたわけだけど、遂に復刊まで漕ぎ着けたわけだ。ネタとして、迷わずレジに持っていってしまった。本屋には置いていなかったが、『日本妖怪図鑑』の方も少し前に復刊しているらしい。

それにしても、いい意味でも悪い意味でもいい加減な時代だったのだなあ、と思う。引用されている画像と解説は8割方合っていない。解説では中世の悪魔を紹介しているのに、引っ張ってきている図像は、似たような姿をしたインドの神さまだったりする。ちゃんと解説が書けている項目もあるので、その文献には当たっているわけで、ちゃんと文献を読んでいないし、まるで誠意が払われていない。こんな杜撰な(あるいは悪意ある)クオリティで本になってしまうのだから、大らかだったとは言え、すごい時代だよなあ、と思う。そんなアレな本なので、復刊は難しいだろうな、と思いながら、復刊リクエストに要望を出していたボクだったけれど、まさかまさかの復刊である。

「この本には、みなさんのよく知っているフランケンシュタイン、ミイラ男をはじめ二百種類もの妖怪と悪魔が百種類のっています。これ一冊で世界の妖怪はすべてがわかります」と書いてあるけど、完全に誇大広告だ(笑)。たかだか数百で世界の妖怪の全てが分かるはずはない。ましてや解説はいい加減な極まりないのだから、性質が悪い(笑)。

2016年6月1日 スマホで『よいこの太陽信仰』を読んでは電車の中で噴き出すボク

最近、ウェブサイト上の漫画の『よいこの太陽信仰』というのを発見して、密かに楽しんでいる。世界各地の太陽神をずらりと登場させて物語が展開していく4コマ漫画だ。たとえば、日本からは天照大神が登場するし、エジプト神話のラーも登場する。メソポタミア神話のシャマシュやインド神話のスーリヤも登場する。ギリシア神話からはアポロンが登壇だ。そういう登場人物たちが同じ世界でわいわいやっている漫画だ。もともと作者がどのような意図で太陽神にフィーチャーして、太陽神だけの漫画を描こうという着想を得たのかはよく分からない。でも、期してか期せずか、結果として各国神話比較の様相を呈している。ある国の常識は他の国にとっての非常識。そういうギャップがクローズアップされて、笑いを生み出していて、非常に面白い。

2016年5月12日 講談社もすげーな!!

20140512

会社帰りに『ライチ☆光クラブ』と『四月は君の嘘』の1巻を購入。久々に漫画なんか買ったなー。それにしても、たまたま実家で、お正月番組で尾田っちが講談社の『四月は君の嘘』をオススメしていたのを見た。他社の漫画なのに尾田っちすげーな、と思ったけど、一方の講談社も恥も外聞もなく尾田っちの名前を帯に冠して売っていて、これもこれですげーな、と思った。それで、ついつい手にとって、今更ながら購入してしまった。ホント、今更だけど。天下の講談社がこういう売り出しに掛かるとは思っていなかった。

『四月は君の嘘』については、絵がうまい。尾田っちが絶賛するだけのことはある。画力で読ませる漫画である。ストーリィは非常に軽くてポップな感じだけど、キャラクタの動きとかコマの運びとか、ぐいぐいと引き込まれる。すごい。

2016年5月10日 iPhoneで楔形文字が読めたよ!?

半年振りくらいにiOSアップデートした。そうしたら、Unicodeで記載していたボクのウェブサイトのメソポタミアの楔形文字が印字されるようになって驚いた。今までは◻︎に文字化けしていたのに!

まさかと思っていろいろ巡回したら、古代エジプトのヒエログリフとか古代ペルシアのアヴェスター文字まで印字される。ををッ、すごいな、iPhone。

どうやら、iOS9では、学術的な観点からこういう古代文字を印字できるようにした模様。2016年4月24日の記事でスマホの普及が多言語化の足枷になっていると書いたばかりなのに。

それならば、とミャンマー文字に挑戦したら、これは◻︎のまま文字化けている(笑)。すでに死んだ古い文字は印字されるのに、まさに今、生きて現地で使われている言語が疎かになっている片手落ち。

それでも、ウェブサイトの他言語化を強く推進して、文字化けしていても敢えていろんな言語をUnicodeで記載し続けているボクとしては、iPhoneのこの強い姿勢は評価できるし、嬉しい。少なくとも、iOS9以上の人がボクのウェブサイトにアクセスしたら、今までの文字化けの8割は解消しているはずだ。

GoogleもUnicodeの文字を全て印字させるべく昨年の9月にNoto Fontシリーズを発表したし、徐々にウェブサイトの他言語化が進んでいく。

大学生の頃からブツブツ言ってきたが、やっとここまで来たなあ、という感じ。

2016年5月9日 亭主関白なツクル氏

息子のツクル氏、最近、語尾が「○○だよね」から「○○だよな」に変わった。2歳児の分際で、あちこちで男の子っぽい言葉遣いをする。我が家ではテレビを見せていないし、ボク自身、非常に丁寧な言葉を喋るので、保育園の影響だろう。しかも、昔から気になっているのが、男の友達は「○○くん」と呼ぶのに対して、女の子は「ななみ」とか「ゆいか」とか「かな」などと呼び捨て。まるで亭主関白みたいな感じ。保育園の先生が女の子たちを呼び捨てで呼んでいるとは思えないので、何なのだろうか、と疑問を感じているこの頃である。子供って、よく分からないなあ。

2016年5月4日 自己顕示と社会貢献の狭間くらいの気持ち。

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今週から鯉を揚げている。3メートルの鯉なので、横浜の町中じゃ、珍しいので目立つ。鯉のぼりを揚げると毎日天気予報をチェックして、雨の前には降ろさなきゃいけないので、自己顕示と社会貢献の狭間くらいの気持ちで揚げている。

本日は珍しく強風なので、よく棚引く。

2016年4月24日 スマホの普及が多言語化の足枷に!?

昨日、Notoフォントについて書いて、ウェブサイトの多言語化に向けた希望的な話をした。一方では、多言語化に向けてのネガティヴな話題もある。アクセス解析をすれば明白だが、インターネット上は、パソコン・ユーザがどんどん減って、スマホ・ユーザが増えている。つまり、スマホでウェブサイトにアクセスする人が多いということ。その上、パソコンを持たない若いユーザも増えている。そうなると、いくらパソコン用に多言語対応のフォントが開発されても遍く多言語化に対応していくわけではない。

スマホでフォントをダウンロードして使うというユーザは少ないだろう。フォントを変更するアプリがないわけではないが、機能は非常に限定的だし、そもそも、スマホにはフォントを変更するという文化もないだろう。だから、スマホからアクセスされると、ボクのウェブサイトは文字化けだらけになってしまう。ウェブサイトの多言語化に向けて必死に頑張っているのに、スマホの普及で、実のところ、足踏み状態である。

Notoフォントの普及はウェブサイトの多言語化に明るい光を当てる。でも、スマホの普及が進んでいるので、それだけでは不十分である。Unicodeという概念があって、文字に関する統一的な規格を打ち立ててくれているのだから、それに対応する方向にパソコンもスマホもなればいいのだけれど、でも、楔形文字が表示できるなんて機能を求めている人は非常に限定されるので、わざわざ容量を使ってまで対応しようとはしないのだろうなあ。

2016年4月23日 Google Noto Fonts

ファンタジィ事典で世界各国の妖怪を紹介している関係、原語にこだわっている。たとえば、英語のウェブサイトで「天狗」のことを「Long-nosed Goblin」などと紹介してあったら、ちょっと引く。でも、これは冗談ではなくって、日本の英語の辞書なんかには、Long-nosed Goblinという項目があったりする。同様のことはよくあって、例えば、ウェールズの「ウォーター・リーパー」という妖精なんかは、Wikipediaでもウォーター・リーパーの項目で載っているが(英語でもWater Leaperだ)、これはウェールズではLlamhigyn Y Dwr(サムヒギン・ア・ドゥール)と呼ばれていて、勿論、意味するところは《ウォーター・リーパー》なんだけれど、英語圏の人がそういう紹介をして、いつの間にか、そういう名称が普及してしまった格好なのだろう。

ボクとしては、あんまり、そういう訳語を使いたくなくって、現地での固有名詞を並べるウェブサイトにしたいと思っている。その一方で、外国語には日本語にはない発音がたくさんあるので、当然、カタカナ化には限界があるので、その間で煩悶する。その解決策として、原語での記載を併記する。ドイツ語ならドイツ語、フランス語ならフランス語、ロシア語ならロシア語、ギリシア語ならギリシア語だ。ところが、当然、マニアックな言語、例えばタイ語やミャンマー語、ラオス語などになると、コンピュータ側の印字に問題が生じる。対応フォントを設定してやらないとうまく印字されない。ましてや古代の言葉、ヒエログリフや楔形文字、アヴェスター語になると、対応フォントがデフォルトではインストールされていない。従って、文字化けになる。

こういうのは、いつかは解消されるだろう、と大学生の頃から、ボクは楽観的に思っていた。Unicodeとしては種々の言葉がどんどん登録されていくので(最近では麻雀牌や日本のケータイ絵文字も登録されている!)、Unicodeに全て対応するフォントが、いずれは出てくるだろうと思っていた。そして、そういうフォントが作成されれば、デフォルトでOSにインストールされるのではないか、とも思っていた。でも、今のところ、Unicode全てに対応したフォントは登場していない。ニーズの問題と、技術的な問題と、両方あるのだろうけれど、想像していたよりもずぅっと遅れている。

そんな中で、Googleでひとつのプロジェクトが動いている。多言語化に対応するために、Notoフォントというパッケージが作成されている。Notoフォントのパッケージを全てダウンロードすると、全てのUnicodeに対応する。つまり、ボクの理想形に限りなく近い。ただし、ひとつのフォントではなく、フォントのパッケージである。全Unicodeに対応させるとものすごく重くなるらしく、結局、それぞれの言語で分割して、パッケージとして対応するという判断になったらしい。まあ、パッケージで全Unicodeに対応しているのだから、それでいいじゃないか、という話もあるのだが、例えば、Wordで文書を作成して、日本語で文章を書いていて、途中に楔形文字を入れることを想像してみる。Word全部でたったひとつの『Noto Fonts』で対応してくれれば楽ちんなのに、現状としては、日本語の部分は「Noto Sans CJK JP」、楔形文字の部分は「Noto Sans Cuneiform」を指定しなければならない。ウェブサイトも同様で、スタイルシートで言語に応じてフォントをしてやらなければならない。

その一方で不思議なこともあって、日本のケータイの絵文字だ。Unicode.orgを参照してもらいたいのだが、いつの間にか、日本のケータイ文化の中で育った絵文字は、いつの間にか「Emoji」として世界基準になって2010年にUnicodeに登録され、ケータイ会社3社で統一化されたり、各種のSNSやblogサービスにも対応するなど、広がりを見せているが、実は最新のwondows OSでは、普通に絵文字が印字できるようになっている。「らくだ」と打って変換すると「🐪」になる。絵文字を印字させるためにわざわざ対応したフォントを作成しているわけだ。こんなものをデフォルトに実装するくらいなら、もっと別のことをやってくれよ、と内心、ボクは思っているわけだけれど、ニーズには勝てない、ということ。だから、もっともっと多言語化にニーズがあることをアピールしなきゃいけない、ということで、ファンタジィ事典では、たとえ文字化けになっていようとも、原語を使い続けているわけである。

ちなみにNotoフォントのNotoは「no more tofu」の略らしい。文字化けしたときの□をgoogleは「豆腐」と読んでいて、これを取り除こうというコンセプトらしい。この主義主張には大いに賛同できるので、ボクは今、順次、ファンタジィ事典をNotoフォントに対応させている。ミャンマー文字を印字するためにMyanmar3フォントを、アヴェスター文字を印字するためにAhuramzdaフォントを、楔形文字を印字するためにAkkadianフォントをわざわざダウンロードしてインストールするのは大変だけれど、Notoフォントのパッケージをダウンロードすれば済むなら、その方が断然、いい。

NotoフォントのパッケージはGoogle Noto Fontsからダウンロードできるので、是非!!

2016年4月18日 日本の言葉は何種類あるか。

変なタイトルをつけたが、日本の言葉は何種類あるか、というお話。たとえば「ドイツの言葉は?」と問われたら「ドイツ語」と答えるだろうし、「フランスの言葉は?」と訊かれたら「フランス語」と答えるだろう。同様に「日本の言葉は?」と問われたら「そりゃー、日本語だ」と答える。でも、ちょっと賢い人なら、「待てよ。アイヌ語もあるな」とか「沖縄の言葉って、あれは方言だろうか」と立ち止まって考えるかもしれない。

実は国際SILという少数言語の研究団体のウェブサイトエスノローグには、日本の「生きた言語」として15語が挙げられている。掲載順(アルファベット順)に並べると、

アイヌ語/北奄美大島語/南奄美大島語/日本語/日本手話/喜界語/朝鮮語/国頭語/宮古語/沖永良部語/中部沖縄語/徳之島語/八重山語/与那国語/与論語

となる。15語もあるのか、とビックリする。

「日本手話」という部分は「なるほど、手話も言語なのだな」と改めて考えさせられる。実際、30万人近くが日本手話の話者らしいので、それなりだ。でも、結局、それって「日本語」の延長ではないのか、という疑問もある。「朝鮮語」というのは京都・大阪、東京、山口などの一部で話されている在日朝鮮人の言葉だが、これも果たして日本の言語だろうか。でも、90万人近くがこの「朝鮮語」の話者らしいので、決して少数派とは言えない。そのうち、外国人が増えていけば「英語」話者とか「中国語」話者が増えていくので、そういうのも一大勢力になるのではないか。

一方で、このエスノローグの分類は「アイヌ語」「日本語」「日本手話」「朝鮮語」以外は鹿児島・沖縄の言語じゃないか、とも思う。南方の島々には、島によってそれぞれ独自の言語があるという解釈らしい。でも、こういう鹿児島や沖縄の言葉を方言とするかどうかで学者の見解は分かれていて、日本語の沖縄方言と定義する人もいるし、独立した言語として琉球諸語と定義する人もいる。

エスノローグの分類に対する批判的な意見は多いが、日本の言語を15語とする考え方がある、ということは日本人として留意しておくべきことかもしれない。

ちなみにユネスコの「消滅危機言語」のリストには、日本の言語として8言語がリストアップされている。極めて深刻には「アイヌ語」が、重大な危機には「八重山語」と「与那国語」が、危険には「八丈語」、「奄美語」、「国頭語」、「沖縄語」、「宮古語」がリストアップされていて、一応、ここでも琉球諸語はそれぞれ別々の言語として位置付けられている。

ちなみにここで4番目に言及されている「八丈語」というのは伊豆諸島の八丈島や青ヶ島などで話される言葉で、現地で島言葉と呼ばれるもの。これも「八丈方言」とされることが多い。本島との交流が少なかったため、非常に古い日本語表現が保存されているが、これも一方言とすべきものかもしれない。でも、ユネスコは独立した言語と定義している。

ボクの母は会津の生まれで、田舎に帰るとバリバリの会津方言を喋る。ボクは幼い頃に母に連れられて頻繁に会津に里帰りしていたが、実のところ、会津の祖父とは一切、会話が出来ない。こちらの言っていることは伝わっているのだろうが、向こうが何を言っているのか、ボクにはまるで分からない。だから、ボクの認識としては、会津方言は方言というよりも、まるで外国語だ。だから、沖縄諸語の中での言語的な開きと、本島の内部の方言の開きと、どちらが言語的に離れているのか、ボクには正直、よく分からない。

でも、日本語と沖縄諸語は同じ系統に属する。単語も日本語と比較的、対応している。例えば、幽霊はユーリーだし、木の精はキーヌシーだ。アヒルの魔物はアフィラーマジムンだし、火の神さまはヒヌカンだ。だから、ボクは沖縄諸語は広義の「日本語」に含まれると思うし、一方言なのだろうな、と感じている。琉球民族が大和民族とは別の民族だ、という民族主義は分かるが、言語は国境や文化とは必ずしも合致しないので、表現としての「日本語」という定義が適切かどうかは別にして、同じ言語系統にある、とは言えると思う。

一方のアイヌ語は明らかに日本語の系統とは異なるので、やはり別の言語である。例えば、アペ・フチが《火・老婆》とかコタン・コロ・カムイが《村・持つ・神》だなんて、想像できない。文法だって、全ッ然、違う。これは日本語とは別物だ。

だから、ボクの中では、日本の言葉は何種類か、と問われたら、大枠で2種類だろう、と考えている。つまるところ、「日本語」と「アイヌ語」の2つだ。

最近、ファンタジィ事典で「沖縄の妖怪」を更新していないが、もしかしたら、原語のところを「沖縄方言」に修正すべきだろうか、と考えて始めている。うーん。学問は学べば学ぶほど、厳密になればなるほど、難しいなあ。

2016年4月17日 独自ドメインでGo!!

今の独自ドメイン(hetappi.info)を取得したときに、昔のウェブサイト(hetappi.gozaru.jpとかfantasy.kakurezato.jp)を明確には閉鎖しなかった。新しいドメインにリンクを送ることも積極的にしなかった。今となっては記憶がおぼろげで覚えていないが、多分、当時のボクとしては、独自ドメインでサイト運営をすることに不安があったり、疑問があったりして、忍者ツールズのドメインに戻る可能性を考えていたのかもしれない。何しろ、当時としては、忍者ツールズは強かったので、そこでウェブサイトを構築することは、SEO的には大きな強みだったはずだ。

今、独自ドメインでサイト運営をしている。WordPressやcgiを駆使している分、自由度は高いが、それでも、ドメインの強さはイマイチで、googleにも好かれていない。検索すると、忍者ツールズに展開していた時代のボクのウェブサイトの方が上位に来る。そもそも、積極的にSEO対策を施していないのだから、当たり前だ。

最近、自分のウェブサイトにあげた記事が、googleにキャッシュされるのが遅いな、と感じるようになった。多分、googleのサイトランクが下がって、目に見えて影響が出てきたのだろう。だから、ちょっと重い腰を上げて、SEO対策を施そうと暗躍している。6月くらいには、もう少し強いウェブサイトにしたいなあ。

2016年4月14日 妖怪ってそもそも創作物でしょう!?

ボクは「ファンタジィ事典」を編纂しているので、よく世界の妖怪について話題にする。でも、ボク自身は残念なことに、本物の妖怪に出会ったことはないし、正直なところ、その存在を信じているわけではない。でも、ボクが妖怪に惹かれるのは、そのリアリティだ。非近代的、あるいは非合理的というレッテルを貼られる妖怪だけれど、いつかの時点でどこかで誰かが信じていたというのが、とても魅力的なのである。

ボクの生涯において、唯一、その存在をリアルに信じた妖怪は、多分、「人面犬」だけである。都市伝説でいうところのいわゆる「友人の友人(Friend of friend)」というパターンで、小学生の頃、友人の塾での友達の友達が見たとか、隣のクラスの何某のお姉さんの友人が見たとか言われていて、ボクも夢中になって話を聞いた。小学生だったボクは、本気で「人面犬」の存在を信じていた。

リアリティの問題は難しくて、創作、たとえばテレビドラマや映画で演じられるホラーやファンタジィにもリアリティがある。ホラー映画を観た後に、何だか暗闇に何かいるような漠然とした不安に包まれる。漫画や小説を読んでドキドキしたりもする。キャプテン翼に憧れ、真似をしてサッカー選手になった人々はたくさんいる。彼らにとって、キャプテン翼の登場人物は憧れであり、目標になっただろう。

明確な版元があるものだって、いつかは実在のものになり得る。たとえば「ドラキュラ」や「フランケンシュタインの怪物」なんかはその典型例だ。ブラム・ストーカーやメアリー・シェリーの創作物は、いろんな人の作品の中に転用されて、今や独自の地位を築いている。ハロウィンになるとジャック・オ・ランタンや幽霊、狼男、魔女に混じって「ドラキュラ」や「フランケンシュタインの怪物」が描かれている。実はこいつらが小説家の創作だ、と知らないでいる人も多いかもしれない。J.R.R.トルキーンの創作した「オーク」もテーブル・トーク・ロールプレイング・ゲームの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の中で転用され、さも古い伝承に登場する妖怪のように振る舞っている。「オーク」が創作だなんて、ファンタジー小説の読者やテレビゲームのプレイヤの多くは知らないかもしれない。『ドラゴンクエスト』で有名なかわいらしい「スライム」だって、元々はブレナンの『沼の怪(Slime)』という小説が初出で、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』に転用されながら、定着した妖怪と言える。そもそも、日本で一般に知られている鳥山明のかわいらしい絵柄のスライムも、本来のスライムからはかなりかけ離れて、独自の進化を遂げている。『ロマンシング・サガ』シリーズでスライムを見た友人が「ロマ・サガのスライムってキモいよね」と言っていたが、本来のスライムのイメージはこちらの方が正確だと思う(笑)。

水木しげるの創作した妖怪(樹木子や針女、百目など)も、今では市民権を得て(?)、正式な妖怪面をして、子供向けの妖怪関連書籍の中に掲載され、堂々と古い妖怪たちの中に混じっている。水木しげるが鬼太郎の仲間として描いている妖怪たち(「砂掛け婆」「一反木綿」「塗壁」など)も、その出典のほとんどは柳田國男の『妖怪談義』だが、水木の絵柄はほとんどオリジナルだ。そして、意外と日本では知られていないかもしれないが、ボルヘスの『幻獣辞典』に掲載されている「ア・バオ・ア・クゥー」も、実はボルヘスの創作だと指摘されていて、現時点では、英語のWikipediaでは明確に「fictional legendary creature」と説明が付されている。

結局、妖怪なんて、実在しないので(と言い切ると悲しくなるが)、いつかのどこかで誰かが創作したものである。それが特定され得る個人なのか、会社なのか、あるいは民族なのか、という違いはあれども、誰かが創作して、それをいろんな人が語り継いで、次第に広まっていったものだ。さすがにメジャーな任天堂のピカチューやレベルファイブのジバニャンがたちどころに古い妖怪たちの仲間入りをするとは思えないが、もう少しマイナな作品の創作物だったら、境界が曖昧になって、気付いたら子供向けの妖怪関連書籍の中で「妖怪」とカテゴライズされて紹介される、なんてこともあるかもしれないな、と感じる。ボクはその辺を明確に線引きするつもりはないし、そういう新しい創作物も含めて、妖怪にカテゴリィしながら整理していきたいなあ、と常々思っている。

2016年4月11日 TSUTAYA初体験(笑)。

大学時代、演劇をしていた頃、音響担当になったときには、GEOでCDをレンタルしてBGMを探したことがある。でも、これまでの人生の中でボク自身のためにCDをレンタルしたことってなかった。DVDもそうだ。欲しいものは買う。逆に言えば、買おうと思うほどに魅力的じゃないものには触れない人生だ。そういう主義でやってきたわけではないのだけれど、何となく、そうやって生きてきた。

今日、TSUTAYAの窓口で緊張しながら会員カードを作って、CDレンタルを初体験してみた。ほとんどベスト・アルバムを選んで借りた。2014年と2015年のOriconのCDアルバムの100位に入っている売れ線のアーティストを事前にピックアップして、その人たちのベスト・アルバムを選んだ格好だ。

最近、海外に行く。執務室で音楽を聴くこともある。iPhoneにMP3を放り込んで、Bluethoothのスピーカで流して、みんなで楽しく共有する。ボクのチョイスは変なので、イマイチ、みんなが満足しているのかよく分からない。売れ線を流してやれば、もっと盛り上がるのではないか。もっと言えば、ボクも大人になったのだから、もっと売れ線を聴いてもいいのではないか、と丸くなったのである。聴く音楽のセレクトに敢えて個性を出さなきゃいけないほど、個性に枯渇していないことに気が付いた。AKB48や福山雅治、西野カナ、いきものがかりを聴いたって、別にいいじゃん、と思うようになった。

教養としてクラシック音楽を聴こうとか、JAZZも聴いてみようかとか、雅楽も嗜んでおこうか、という発想に近いと思う。ベストセラーの本を読んでみようか、とか、ね。ふふふ。

* * *

それにしても、最近のベスト・アルバムって、3枚組とか4枚組とかが多い。それって、本当にベスト・アルバムか? もっと厳密にベストなものを選んだ方がいいのでは? 「選んだんだけど絞り込めませんでした」というのは恥ずかしいことだ、と思う。

2016年4月7日 物事を管理するということ。

物事を管理するというのは、いつだってそうだけど、まずは現状分析から始まる。そこから課題を抽出し、対策を検討して、計画を立てる。その計画の進捗管理をする。実は考えるときのテンプレートそのものは難しいことではない。でも、適切に課題を抽出するのは難しいし、抽出された課題に対して適切な対策を打ち出すのも簡単じゃない。その上、計画どおりに物事を動かしていくことは非常に難易度が高い。

でも、どれだけ難しかろうと、まずはそのテンプレートに当て嵌めることが肝要だ、とボクは思う。つまり、現状分析、課題抽出、対策検討、計画策定、進捗管理の流れに形だけでも乗っけてやらないと、物事を管理できない。

意外とテンプレートにすら当て嵌められないで議論されている状況があちこちに散見される。それじゃ、物事は管理できない。

2016年4月6日 我が家の食事は今日からコース料理だ(笑)

イヤイヤ期のツクル氏(息子)は最近、食事を選り好みする。「これ、いらないよー。あれをもっとー」みたいな感じで、好きなものしか食べない。これではいかん、ということで、頭でっかちの両親(ボクのことだ!)は食事のコース料理化を開始する。

前菜に始まり、サラダ、メイン、そしてデザート。小皿に入れて、ひとつの料理が終わるまでは次の料理には移行しない。そもそも「これいらない」とか「あれがいい」など、選択肢があるから目移りするのだ。ひとつしかなければ悩むことなく食べるだろうという企みだ。それに、最後にはデザートが待っている。そこまでの道は一直線だ。

食事の時間になって、テーブルに座ったツクル氏。前菜のナムルとお茶だけが並んだ卓上に、「きょうはおにくないの? おっきなおさらないの?」と不安げ。でも、途中から順繰り食べていくというルールが理解できたらしい。一皿ずつやっつけていく。野菜も肉も満遍なく食べて、無事にデザートまで到達した。我ながら、なかなかいいアイディアではないか、と思う。