2021年1月17日 日記はコラム的な発想で!?
昔から、ウェブサイト『ヘタっぴなアルコール蒸留』では「日々の雑記」として『日記』を書き綴っている。当初は創作サイトだったので、小説を書いたり、絵を描いたり、作曲したりするたびに、ウェブサイトが更新されていた。でも、当然、それでは更新頻度が低いので、ウェブサイトを動かす仕組みが欲しくて『日記』というスタイルを選択した。大学生の頃は、本当に『日記』だった。毎日、欠かさずに更新をしていた。最近は頻度が落ちている。サボっている。あるいは『日記』というスタイルに意義を見出していないとも言える。
『日記』というスタイルを選択したのは、当時、レンタル日記ツールがあって、Web日記が一般的だったからだ。みんながレンタルCGIで日記ツールをレンタルして、それに日記を書いていた時代だった。だから、アメリカからblogが日本に入って来たときにも、日本ではblog本来の使い方をされずに、Web日記の代替手段みたいになってしまった。そして、SNSが当たり前になって、今となっては日記はSNSで書く時代だ。htmlで日記を書くことに、あまり意味がなくなってしまった。
でも、実はボクはSNSで日記を書くことに少しだけ、抵抗がある。だから、こうして細々とhtmlで日記を書いている。SNSは「友達」のところに書いた記事が載る。読んでもらうという意味ではとても素敵な機能だけれど、一方で、とても押しつけがましいな、とも感じる。自分の近況報告みたいなものを「読め」とばかりに通知する。退屈な日常を下手くそな文章で綴って「読め」とばかりに相手の眼前に突きつけるような不躾さがあるように感じる。勿論、ちゃんと読んでもらうことを前提に遂行して、楽しんでもらえるような部分を用意した文章だったらそれでもいい。でも、書き殴りだったり、とりとめがなかったり、感情的だったりする文章を「えいや!」と投げることもある。そういうのをSNSに載せて、当たり前のように読ませてしまう恐ろしさが、実はSNSにはある。ボクは、読みたい人が読めばいいというスタンスなので、今まで、こうやって本当の意味での『日記』はウェブサイト『ヘタっぴなアルコール蒸留』の方に載せてきた。
でも、この『日記』というスタイルに限界があるかなあ、と感じている。もう、日記的なものは完全にSNSに囲い込まれてしまった。人々の生活スタイルがSNSを軸に回って、相手の近況はSNSで把握することが当たり前になった。場末のhtmlの記事で近況報告を知ることなんてなくなってしまった。最近では芸能人もSNSになってしまった。
そういう意味では、htmlの役割は、当初のblogのコンセプトと同じで『日記』ではなくって『コラム』の集積みたいな形にするのが望ましいのだろうな、と感じる。検索で飛んできた人が必要な『コラム』を読む。そういう形だったら、『日記』よりも価値があるかもしれない。勿論、ボクは『コラム』的な日記を書くことが多い。でも、タグをつけているとは言え、『コラム』として一覧を確認できるようなスタイルにはなっていない。
2021年は「日々の雑記」の在り方を模索する年にしようかな、と思っている。「日々の雑記」は『日記』的な「雑記」だ。でも、それなりに書くときには時間を要する。投資した時間がウェブサイトに形として積み上がっていく在り方が理想だろうな、と思う。
2021年1月16日 映画『えんとつ町のプペル』を観た
映画『えんとつ町のプペル』を観た。緊急事態宣言が出される前に観に行こうと思って、実は1月6日に観に行った。それから、バタバタと緊急事態宣言の対応に追われていて、今頃の感想だ。
「ちゃんとした映画だった」。これがまさに感想だ。いや、勿論、映画を観に行っているのだから、映画なのだけれど、最近、何となく、ドラマの映画化とか、アニメの映画化とか、漫画の実写化とか、そういうのが多かったような印象だ。映画のために作られたのではなく、別のものを映画化したものが多い。そうではなく、この『えんとつ町のプペル』は、冒頭から最後まで、徹頭徹尾、映画だった。映画のためにつくられた映画だ。当たり前のことなのだけれど、でも、実はそこが当たり前になっていない映画が、実は意外と多い。そして、絵本とはまるで違った。根っこの部分は同じだし、西野さんは映画を作ることを前提にして、その中から一部を絵本として切り出したと説明はしていた。でも、映画の台本を絵本にするに当たって、絵本のために再構築したのだ、ということが、映画を観るとすごく分かる。絵本は、必要なのだけれど難解になる部分を全て取っ払って、分かりやすく、そしてシンプルに作っている。映画はそうではない。だから、全然、同じシーン、同じ台詞でも、印象が異なる。
そして、世界に没入できる作品だった。見終わった後に、えんとつ町の中にいたような気持ちがずぅっと残っていて、何だか劇場を離れるのがもったいないな、と感じた。これは、映像も綺麗だったし、世界の作り込みがよかったからだと思う。ものすごく精緻に世界が描かれていた。
映画上映中も、勿論、泣いたんだけど、でも、ボクは映画を観終わって、家に帰る道すがら、何度も泣いてしまった。仕事帰りで、とても遅い時間の回だったので、終わったのは11時過ぎ。そこから歩いて家まで帰った。その道すがら、自分のファイサラバードでの奮闘(「水なんて出せない」と散々に言われながら、何とか水を出したこと)や、今の業務のオンライン化の奮闘(ZoomやYouTubeを導入するまでの苦難)なんかを思い出して、ルビッチと自分を重ねた。ずぅっと1人で戦っていたと思っていたけれど、実はいろんな人に支えられて、応援されて前に進んでいたんだなあ、ということも、いろんなしがらみで邪魔をしてきた人たちがいたことも、そんな人たちをねじ伏せて乗り越えてきたことも、いろんなことを怒涛のように思い出して、何だか泣けてきた。決してネガティブな気持ちではなくって、乗り越えた達成感を思い出したし、応援してくれたみんなの顔も思い出せた。そして、これからも頑張らなくてはならない、と気持ちを新たにした。
そんな映画だった。
2021年1月10日 人間、できない理由はいっぱい思いつく
何かを始めるときに、あるいは何かを成し遂げようとするときに、多分、いくつかのことを考えなければならないのだと思う。たとえば「Want」。それを自分がやりたいのかどうか。「Have to」。やらなければならないものなのかどうか。「Should」。それがやるべきことなのかどうか。そして「Can」。果たしてやれるのかどうか。そういうのをないまぜにしながら、何かを始めていく。
でも、経験上、ボクはこれらをごちゃまぜにして考えていても、うまく始められないと思っている。特に「Can」。これを一緒くたに考えてしまうのは危険だ。できない理由なんていくらでも出てくる。だから、検討のときに「Can」を含めて考えると「何だか、難しそうだね」「いろいろと課題がありそうだね」となって、頓挫する。だから、「Can」だけはちょっと切り分けなきゃいけない。
もしも自分がそれをやりたいと思ったら、あるいはやらなければならないのだと自覚したら、あるいは、それをやるべきだと信じたなら、最初にやることは「Will」だ。つまり、「よし、やろう!」と決断する。その上で、どうやってやるのか、その方法論を考える。そのときに初めて「能力」を持ってくる。さあ、自分たちにやれるのか。でも、そのときには「やれるかどうか」という議論ではなくって「どうやったらやれるのか」という議論に変わっている。つまり、本質的に「Can」というのは乗り越えられるものなのだ。
検討の最初の段階で、できるできないを考え出してしまうと、不思議なことに、人間というのは、できない理由をいっぱい持ってくることができる。不安だし、面倒臭いし、戦わなきゃいけないし、だから、「今回はやめておこう」という結論になる。「この辺でいいだろう」と、手加減してしまう。背伸びを止めてしまう。だから、出来上がった結果が小さくまとまってしまう。
どうしたいの? どうすべきなの? 何が理想なの? どうなっていたらよいの?
そういう、いろいろなことをじっくりと考えて、それから踏み出す決断を下して……そうした後に登場する数多の課題や困難は、乗り越えていけばいいのだ。そういうマインドセットで物事を始められれば、きっと、いろんなことができるようになっている。諦めなければ、方法論なんていくらでもある。だから最初の段階では「Can」なんて考えなくていいのだ。そんなものは、必死になれば、絶対に何とかなる。
2021年1月5日 2021年の雑誌も無事に発行!!
標題のとおり。無事に2021年の雑誌も発行できた。30日に郵便局で投函したので、近場の人は1日、遠い人でも3日には届いているはずだ。2020年はCOVID-19で海外渡航が制限されていたので、珍しく日本にいた。だから、結構、余裕を持って雑誌作成ができた。表紙は昨日の記事でも書いた「予言獣たち」だ。それぞれに描いたものなので、当初は一緒にするつもりもなかったのだけれど、ちぃ子の所望もあって、COVID-19退散を願って、一緒に並べてみた。そういう意味では超強力な魔除けの表紙だ(笑)!!。
予言獣の特集ページも組んだので、そのうち、ファンタジィ事典にも反映していきたいと思っている。著作権とか論文の引用とかの兼ね合いもあるので、少しだけ、アレンジしなきゃいけないかな、とは思っている。さてはて。
2021年1月3日 あけましておめでとうございます!!
2020年は新型コロナウイルス感染症が猛威を奮って、色々と大変な年だった。でも、お陰様でZoomやYouTubeなど、新しい取組みにもチャレンジできて、学びの多い年でもあった。こういう非常時にどれだけ創意工夫してこれまでの事業を推進していくか。対応力や発想力、柔軟性を求められる1年だった。
2021年は丑年なので、クダンを描いてみた。クダンもアマビエと類似の予言獣で、疫病退散の妖怪なので、ちょうど題材としては相応しかったかもしれない。
クダンは時代によって描かれ方は異なるが、江戸時代末期に、ウシからクダンが生まれるという形に落ち着いたので、その頃のクダン(すなわち、赤ん坊のクダン)を描いてみた。何とも不気味な表情になった(笑)。
2020年12月8日 正しい戦略
ウーマンラッシュアワーが「桜を見る会」をネタにしたことで賛否両論が起こっているらしい。もはや賛否の議論が巻き起こって話題になってニュースになっている時点で、彼らの勝利であって、賛否もクソもない。どれだけ彼らを批判したところで、ウーマンラッシュアワーが毎年、The MANZAIに起用されていることが、全てを物語っている。面白いとか面白くないとか、あれは漫才ではないとか、そんなことはどうでもいいのだ。世の中には腐るほど芸人がいて、ほとんどの芸人はあの日、あの番組に出演することはできない。彼らは出演できている。だから、彼らの勝ちだ。正しい戦略だ。……と思うと、批判している人たちって空しいよね? 否定すればするほど、番組的には美味しくて、結果、彼らは番組に出演できる。
2020年12月7日 「彼が出演するなら見ない」とネガキャンをしながら一方で実は彼を罵る材料を探すために一所懸命に番組をチェックする視聴者
某芸人が謝罪会見をした。ボクは徹頭徹尾、謝罪なんかいらない派だけど、でも、ある種、一所懸命、彼が頑張って説明していたので、まあ、それはそれとして評価しようと思った。決して、禊ということではなく、あの場に出てきて偉いな、すごいな、と単純に思った。「登らなくてもいい山を下山させられている」という印象は受けた。
それはそれとして、結局、某年末の番組での彼の撮影シーンが「お蔵」になったという報道もある。真偽は分からない。でも、もしもそうなら、異常な世界だな、と感じる。大体、世論を捉え間違っている。極度のクレーマーは自己主張するけれど、そこそこ満足している人や、どうでもいい人は敢えて自己主張しない。だから、真実の世論は「彼の不倫報道なんてどうでもいい」が大半だと思うし「彼のコントは面白いからまたやらないかな」という意見もそこそこいると思う。でも、不倫の是非を問う議論の中で、彼を擁護すると、痛い目を見るので、みんな、何となく黙っている。それが、本当のところの世論だ、と思う。
そんなわけで、ボクは某年末の番組は見ないことにした。きっと、カットになっても、使われても、ニュースとして取り上げられるだろう。それを注視したい。もしも彼の出番がカットされていたら、ボクは失望して、テレビからは距離を取ろうと思う。「彼が出演するなら見ない」というネガキャンが張られていたが、ボクは「彼が出演しないようなテレビならさようなら」のキャンペーンだ。どうせ、ビシバシと尻を叩く暴力的な番組なのだ。面白いけど、決して、上品な番組ではない。今更、世論なんか気にするようなら、情けない。テレビマンとしてのプライドがあるなら、面白いものをちゃんと作って提示すべきだ。面白いと思って撮ったのだから、それをちゃんと世に問うべきだ。それが出来ないのなら、金輪際、辞めてしまえ、と思う。
何だろうね。世知辛い世の中だよねえ、ホントに。
2020年12月2日 引退宣言!?
小林賢太郎引退のニュースに心がざわついて眠れそうにない。うーん。
2020年11月30日 # 転売ヤーには与しません!!
ブラックフライデーで、あっちもこっちも大安売りしている。これで経済が活性化するのだろうか。オンラインショップを持っているかどうかで、結構、この時代、収益を大きく左右するのではないかな、と思う。しかし、売れ筋商品は見事に転売ヤーの餌食になっている印象。クリスマス商戦で子供たちが欲しがるようなものも、ブラックフライデーで安くなった。数千円安くなっているものもある。逡巡していたら、あっという間に売り切れになって、その後、転売ヤーと思しき集団が一斉に商品の販売を始めた。普通、Amazon公式に中古が数十件の商品なのに、あっという間に数百件。しかもブラックフライデー前の定価よりもちょっと安くくらいの価格に揃えられている。うーん。
結構、この時期の商品って、サンタさんに扮する大人たちにすれば、クリスマスまでに入手できないと困るので「このまま売り切れが続くのではないか。ちょっと高いけど、今のうちに買ってしまわなければ!」的な発想になるのではないかと思う。そんな時期にブラックフライデーで安価に商品が入手できて、売り切れまで持っていければ、転売ヤーにとってはいい商売だ。
だからこそ、言いたい。転売ヤーに加担してはダメ。ぐっと堪えて、買わないようにしよう。みんなで。ブラックリストをつくるソフトが出たりもしているけれど、そもそも正規品が売り切れたら、非正規品は買わないのが一番だ。転売ヤーが味を占めたら、社会そのものがダメになる。ボクは絶対に与しないぞ、ということで、息子に「人気で売り切れみたいだ。ちょっと様子見だけど、どうする? 第二希望は?」と交渉を開始。もしも間に合うならご所望のものを買う。でも、ダメだったら代替のもので我慢してもらう。それが世のためである。
2020年11月29日 猫も杓子も謝罪会見!?
最近では、よく芸能人が謝罪会見をしている。YouTuberもする。もう、猫も杓子も謝罪会見の世の中だ。で、それを拒んでいる珍しい芸人がいる。年末の「ガキ使」で復帰すると噂されている彼だ。
彼の復帰に葉賛否両論あるらしい。むしろ、否の方が多いという印象で報じられている。「彼が出演しても笑えない」という声がある。まあ、笑いの感性は個々で違うので、笑えない人は笑えないし、笑える人は笑える。「彼が出演するなら見ない」という声もある。見るも見ないも個人の勝手。見たくない人は見なければいいし、見たい人は見ればいい。テレビは義務教育のような類いではないので、みんなが見なければならないものではない。見たくなければ見なければいい。少しだけ気になるのは「彼を出演させるべきではない」というコメントか。出演させるさせないは事務所とテレビ局、スポンサーが判断するもので、ちゃんと議論して決めたことだろうから、その「べき論」は視聴者が論じることではない。彼の出演に違法性がなくて、視聴率がとれると判断されれば、出演する。それだけだ。「見ない」という形で抗議をするのは自由だから、是非、そうすればよいと思う。
でも、何よりも違和感を覚えるのは「会見が先だ!」というコメント。謝罪会見って、そもそも必要なのだろうか。前例踏襲でみんな、謝罪会見をするけれど、謝罪は、謝罪すべき対象に向かってするものだ。たとえば、商品の不具合があった場合などはお客さまに謝罪する必要がある。会社に損失を出したときや不正があったときには、もしかしたら会社は株主に向かって謝罪をするのかもしれない。でも、不倫は、配偶者への裏切りであり、配偶者に謝罪すべきだ。番組降板によってスタッフやスポンサーに迷惑を掛けたなら、スタッフやスポンサーに謝罪すべきだ。謝罪会見をすべきだと言う声は、ボクには違和感しかない。謝罪は関係者に対してすべきであって、謝罪をどこまで公開すべきかは本人が決めればよい。配偶者に対して謝罪し、スタッフやスポンサーに対して謝罪すれば、その形は問われるべきものではない。それが不特定多数のお客さまであったり、株主みたいな場合には、公の場で謝罪することが有効なだけで、芸能人であるから駆らなず公の場で謝罪しなければならないわけではない。公の場で謝罪をすることで初めて許されるとか、マスコミの前でボコボコにされてから再出発みたいな発想は、陰湿なイジメ的な発想で、何となく、芸人仲間がそんな論調になっていることが、すでにズレた議論のような気がする。
彼が謝罪会見しないままリスタートしてどうなっていくのかはよく分からないが、謝罪会見をしないというのも、ひとつの選択肢だという世界であって欲しいな、と思う。それこそがダイバーシティを認めることだと思う。
2020年11月24日 新しい時代の幕開けに立ち会え!?
オリラジのあっちゃんと雨上がりの宮迫が反撃の狼煙(のろし)を上げた。YouTubeで新しい挑戦だ。テレビでうまく立ち回れなかったあっちゃんと、忖度によってテレビに弾かれてしまった宮迫。この2人が、YouTubeを舞台に、今のテレビではできない、それでいて面白く斬新な企画として「Win Win Wiiin」を開始。これは、テレビ制作者の目にどう映ったのだろう。忖度なしのぶっちゃけトーク。尺にとらわれない長尺の編集。組織の理論から外れて、企画者のやりたいようにできる自由。ロコンドというスポンサーはついているし、YouTubeのCMは入るものの、長いコマーシャルはない。従って、コマーシャルを考慮した時間配分や編集も不要だ。それでいて、いつでもどこでも何度でも見ることができる利便性がある。そんな中でできる限界に、彼らは挑戦している。少なくとも、ボクは、テレビ制作に携わる人間からすれば、羨ましいだろうな、と思うだろう。悔しいだろうな、と思うだろう。きっと、いろんなやりたい企画があって、でも、組織の理論の中で無難な仕上がりになっていく。本当だったらこんなことがやりたい。そんな想いをふっ飛ばして、あっちゃんがやりたいことが、こんなにも凝縮されている。勿論、責任も問われる。ゲストの手越も言っていた。個人だったら自由。だけど責任は取らなきゃいけない。数字で評価されるえぐい世界。それでも、楽しそうな2人がいて、純粋に、羨ましいな、悔しいな、と思ったはずだ。そうじゃなかったら、嘘だ。
手越の心の叫びも、まさに多くの視聴者の感覚や意見を代弁している。本当に、おかしな世の中だ。理不尽な世の中だ。それを、ぶっ飛ばしていこうとする2人(あるいはゲストの手越もいれれば3人)の在り方に心打たれる。おそらく、あっちゃんにとっては新しい挑戦なのだろう。そして、あっちゃんは間違いなく勝った。でも、宮迫にとっては、正直、危険な賭けだったと思う。これで、テレビ復帰の道は遠退いたかもしれない。それでも、やる価値のある挑戦だと思ったのかもしれない。ここで乗ることがスターとして正しい道だと感じたのかも知れない。一世一代の賭けだったと思う。これが吉と出るか凶とでるか。正直、テレビ復帰がゴールだとすれば、結果は五分五分だと思う。でも、新しい時代を切り開いた。それだけの評価は、ちゃんとついてくるだろう。
ボクは、その瞬間に立ち会えたことが幸せだなーっと思った。電車の中で、号泣しそうだった。
2020年11月8日 好きなことで、生きていく
レペゼン地球のYouTubeで、DJ社長が「好きなことで、生きていく」ということの彼なりの答えを語っている。夢を持つこと。だけど、ちゃんと現実も鏡も見ること。やりたいことをやるために、やりたくないこともやること。全て正しいと思った。そして、そんなことよりも、DJ社長が意外とマニュアル人間で、ちゃんと教則本に則って考えているところにウケた。ボクも自由人に見えて、実は型通りにやってみるタイプだから、共感もした。
2020年10月25日 YouTuberに、俺はなる!?
ボクは会社で国際人材育成を担当していて、2か月に1度の頻度で、研修を主催している。とは言え、新型コロナウイルス感染症対策として三密回避をしなければならないため、人を集めにくい状況は続いており、仕方がないので、会場を2つや3つに分けて、Zoomで繋いで、オンラインで研修を実施したりしている。
研修にはワークショップはつきもので、お互い、顔を突き合わせてグループワークをするのが有効だと思っているので、メンバーが分断されてしまう状況は苦しいところだ。一方で、文明の利器として、ZoomやYouTubeを活用する気運が高まっていて、ボクもそういうものに触れる機会が多くなって、畢竟、そういうスキルがどんどん上がっている。先日はZoomで複数の会場を中継しながら、それをYouTubeでストリームライブ配信をして、会場に来ることができない人々にも情報を届けようと画策して、うまく行った。
実際にやってみた感想として、研修会場に人を集めるよりも、ずぅっと簡単に参加者を増やせそうな印象があって、今まで30~40人にしか伝えられなかった講義が、容易にたくさんの人に届けられるのではないかという可能性を感じた。単なる一方通行の講義でよければ、全然、いいアプローチだ。さらにはYouTubeにアーカイブが残る。その瞬間に立ち会えなかったとしても、後から見ることができるので、その意味では、さらにたくさんの人に見せることができるので、その可能性も大いに感じた。
多くの人は「研修イコール講義」だと勘違いしている。実際にはそれは間違いで、受講者の情報を引っ張り出したり、ワークショップをしたりして、研修で伝えたい情報を記憶に定着させ、行動変容を促すところまで持って行かなければいけないので、講師の情報を届けるデリバリースキルだけではなく、当日のファシリテーションも大事だし、如何にして参加者に関与させ、行動変容させるかという研修デザインも重要だ。その意味では、やっぱり、インタラクティヴでなければ研修は成立しない。でも、依然として「研修イコール講義」スタイルが蔓延していて、そういう要素がメインになっている。であるならば、実は一方通行でもよくて、こういう研修スタイルなのであれば、YouTube配信やアーカイブでも十分であることになる。そういう意味では、研修の前段になる「情報付与型」の部分だけは、YouTubeを活用するのは有効だ。
そんなことで、実は新コロの煽りを受けながらも、情報付与型の一方通行の講義は、もう、人を1か所に集める必要はないし、同じ時間を共有する必要すらないことに気づかされる。そして、そういう情報付与型の研修はYouTubeを活用することで、一度、録画したもので繰り返しアプローチできてしまうので、改めて毎回、講師がわざわざ登壇しなくてもよいということになる。とても効率的。そして、我々は、本来の研修の役割であるインタラクティブな部分にのみ、注力すればよいということになる。
そんなわけで、ボクは今、ちまちまと情報付与型の一方通行の講義資料をYouTubeにアップロードする作業を繰り返している。この動画の情報が色褪せるまでは、ずぅっとこれを視聴してもらえばいいということにして、ボクはそれ以外のことに時間を割けばいい。そのために「これを見ればこの内容が分かるのか!」と印象付けられるような素敵なサムネイルの作成にご執心なのである。わっはっは。
2020年10月24日 近況報告。
随分と雑記の更新の日が空いてしまった。楽しみにしてくれている人がいるのかどうかは定かではなく、その辺のモチベーションはないのだけれど、でも「書くぞ!」と決めて書いているので、その覚悟が続かないことに対する罪悪感には苛まれる。
近況を報告すると、新型コロナウイルス感染症の影響で、海外からの研修員が日本に来ることができない中、次善の策としてウェブ会議システムを用いたオンライン研修に代えて対応している。それでも、時差の関係で、複数の国を相手にすると、オンラインとは言え、みんなで顔を突き合わせるのは難しい。そんな中、動画教材を作成して配信することになり、今、その資料作成にあくせくしている。オンライン研修だと、ある種、相手の反応を見ながら現場合わせができる。でも、動画教材の配信だと、完成形が相手の許に届く。万が一、それが不発だった場合、もう、どうにも軌道修正はできない。だから、企画の段階がとても重要になってくる。今、まさにその企画の段階にあって、研修を担う講師との調整に追われて、忙しくしていた。ボク個人としても、会社としても、全く新しい取組なので、結構、チャレンジングだな、と思っている。
また、今月の上旬に祖父が体調を崩し、18日に亡くなった。無事、22日に山梨にて葬儀を執り行った。そういうことも重なって、珍しくバタバタしていた。
その上、毎年1月に発行する「近況報告の本」の作成も佳境に入っていて、連夜、妻と編集会議に明け暮れている(笑)。おそらく、12月までは走りっ放しだな、と思っている。気が抜けない。
そんな近況ではあるものの、何らかウェブサイトも動かしていければよいな、と思っている。
2020年10月5日 インド神話に力を入れつつも……
ここのところ、ファンタジィ事典では「インド」に注力している。草野巧の『Truth In Fantasy 事典シリーズ 2 幻想動物事典』の索引でインドの項目に載っているものを全てやっつけながら、そこから派生していくものを潰していくという機械的な作業を進めている。そして、はたと困っている。
分類として「インド神話」という項目を立てている。ここにはヴェーダ神話とヒンドゥー神話が含まれる。それとは別に「仏教」という項目も立てている。けれども、この分類だと、厳密にはチュレルとかピシャーチャ、マサーンのような宗教学、神話学ではなくって、民俗学っぽいジャンルに含まれる現代に比較的近いところで信じられている(あるいは信じられていた)インドの妖怪の置きどころがない。歴史は必ずしも大昔のものではなくって、断絶せずに現在まで連綿と続いた地続きの存在だ。その途上にいる存在をうまく分類できない。仕方がないので、取り敢えずは「インド伝承」とでもしながら「インド神話」の中に仮置きしている。
昔、トルコに行ったときに、あの山にはゴルゴーンが棲んでいたなどと大真面目に現地ガイドに説明された。現地に根差した伝説みたいになっていて、すでに神話とは切り離されていた。ギリシアにも、ギリシア神話だけでなく、現在も巣食う妖怪や精霊たちがいる。そういうのはギリシア伝承とでもいいのだろうか。そういう意味じゃ、神話で分類していては、この辺が収まらない。そのうち、整理しなければいけないなあ、とは思っている。
2020年10月4日 軸足を恐竜に置きつつ……
最近、映画ドラえもん「のび太の新恐竜」を満喫したり、国立科学博物館に行って恐竜の化石を見たり、大和市の「古代レストランバー・ダイナソー」で恐竜に囲まれてランチを食べたりしている。小学生の息子のツクル氏が恐竜に興味を持っているので、そこを掘り下げながら、映画、博物館、異国料理などの幅を広げている。古代レストランではジャンバラヤを食べさせることに成功した。育児の難しさと、それを乗り越える工夫に日々、煩悶しているところである。
2020年10月2日 よりひとは「一般男性」なのか否か!?
伊勢谷氏が保釈されたタイミングで、よりひとが突撃した。これ自体は他愛のない話というか、取り上げるようなことではない。よりひとらしいな、と思うし、彼としてはこれだけ話題になったから満足だろうな、とも思う。昔から、彼の「笑い」は根っこの部分が暗く、陰湿で、じめじめしている。彼はネタをやっているんだけど、彼の動画を見た後には気持ち悪さとか不快感が残る。だから、何となく怖いもの見たさみたいな感じがあって、それが不思議と人を惹きつける。そういう構造の特殊な笑いであり、ネタである。伊勢谷氏サイドにしてみれば、罪を犯したとは言え、保釈のタイミングは殊更注目されるので、次のステップに向かうためには大舞台だったはずだ。それなのに、話題をよりひとにかっさらわれた。邪魔が入ったという感じで、怒りを覚えているかもしれない。そういう台無しにする感じが、よりひとらしい。悪意がある。
ただ、ボクが書きたいのはそういうことではない。記事によって、よりひとの取り上げられ方があまりにも違うので、単純に面白いな、と思った次第。ある記事では「人気YouTuberのよりひと」と紹介していて、別の記事では「YouTuberの男」と書いていて、その後、よりひとを紹介している。記事によっては「YouTuberの男性」だけで、よりひとの名前を出していないものもある。さらには「一般男性」と書いている記事もある。
この記事の間に存在する揺らぎは、YouTuberに対する記者の認知度の違いだろう。YouTubeに触れる機会の多い記者からすれば「あのよりひとが!」と思うだろうし、YouTubeに馴染みのない記者からすれば「誰だ、あの男。何かYouTuberらしいけど……」となる。さらにはYouTubeを見ない人からすれば、YouTuberは「一般男性」となる。
でも、客観的に見れば、よりひとは登録者59万人のYouTuberだ。最近、人気に陰りがあるとは言え、概ね動画は10万再生はされていて、かなりの頻度で50~60万再生を叩き出している。それなりい知名度はある。これを「一般男性」と書いてしまうのは、あまりにも記者として鈍感だな、と思う。
そういう意味で、記者の質にばらつきがあることがよく分かる今日この頃である。
2020年10月1日 予想外の緊張にやられる!?
普段、あまり緊張しないボクだけれど、今日は久々に変な緊張をした。
我が社の社長はペーパーレスを徹底している。本日、上司が説明をするタイミングに他の人が不在で、メモ係として説明の場に入った。会議室にはパソコンがあって、大きなモニタに資料が投影されている。そして、秘書の方に「あそこのパソコンを操作してください」と言われる。こんなのは初めての体験なので、驚く。
誘導されるままにパソコンの前に座る。隣で上司が説明を開始。説明に合わせて、ボクはスクロールバーをそっと操作しながら、字を上へ、上へと送っていく。そして、最後まで説明が終わる。
すると社長から「はじめのページに戻って」との指示。ボクは急ぎ、スクロールする。すると、「この資料、ここはこういう表現に直して欲しい」との指示。すると秘書がそっと寄ってきてボクに耳打ちする。「ここで直せるなら直して」。おお、さすがペーパーレス。すごいな、と思ってキーボードに手を置いた瞬間、ものすごい緊張が身体を襲う。
そう。経営層がモニタに注目している。その視線が突き刺さる。大衆に見られながら、タッチタイピングをするというのが、こんなに緊張するものだとは思わなった。しかも「ここをこうして、そこをこうして」という指示に合わせて、大慌てでキーボードを叩く。別に気にすることではないんだろうけれど、ミスタッチしないように、と細心の注意を払うことになる。
いやー、ビックリした。確かに、普段でも人が見ている前で検索するときとかに文字を打つのって、結構、緊張するよな、と思った。それが経営層の前だから、尚更だ。ものすごく緊張した。……というような他愛のないお話(笑)。
2020年9月30日 実は日本こそが発展途上国だ!?
仕事でマラウイに行ったのは2017年のこと。行ったのは商業都市ブランタイヤだ。2019年には首都リロングウェに行った。頻繁に停電するし、通信状況も安定しないし、水も出ない。幹線道路沿いにてんてんと井戸があって、女性が水汲みをしている。ザ・アフリカのイメージそのままだった。
新型コロナウイルス感染症の影響で、世界の行き来ができなくなった。だから、今、ボクたちはZoomやTeamsなどを駆使して、世界とつながろうとしている。
我が社は、ようやく9月になってZoomが使える端末を会社として3台購入して、テレビ会議で世界に挑む体制が整った。そして、先日、満を持してブランタイヤとテレビ会議を試みた。ブランタイヤの通信状況を心配していたが、難なくつながる。音声は途切れないし、映像もクリアーだ。モニタの向こう側で、懐かしい顔。レナさんが手を振っている。
通信環境と契約状況を尋ねてみたら、会社としてちゃんとTelekom Networks Malawiと契約して、端末も1人1台と言えないまでも、それに近いくらい整っているという。新型コロナウイルス感染症の状況を踏まえて、現在は国内他社との会議も全てZoomを使用しているという。もう、当たり前のように、遠隔会議ができるインフラ環境が整備されている。
ボクたちはウェブ会議ひとつ、まともに開催できず、世界に取り残されている。日本が先進国なんて言うのは幻想で、実はボクたちこそが支援を受けなきゃいけない途上国なのではないか。そんな風に思った。ああ、大きな分岐点に立たされているな、と痛感する。
実は、2013年にミャンマーに行ったときにも、不思議な気持ちになったことがある。ボクたちはミャンマーの本屋さんで地図を購入して、紙を広げながら、ミャンマー人に「今、どこにいるのか」と尋ねた。そうしたら、ミャンマー人はささっとスマホを立ち上げて、Googleマップを示し、「ここだ!」と指し示した。当時の日本のスマホ普及率は25%で、ボクたちはそこまでスマホを使いこなしてはいなかった。カルチャーショックを覚えた。
そして2020年。そのギャップはどんどん大きくなる。「ハンコ禁止」とか「いやいや押印禁止だろう」なんて冗談を言っている場合じゃないのかもしれない。
2020年9月25日 それじゃあ、二重苦、三重苦じゃない!?
不倫問題でスポーツ選手が問題になっている。すれ違いコントで有名な芸人のときにも思ったことなので、改めて書いておこうかな、と思う。
不倫って、ボク自身は、まずは夫婦の問題だと思う。多分、不倫が発覚して、一番、ショックなのは、配偶者だ。その上で、配偶者が何を望むか。そこを考えて対応しないと、逆効果になる。
たとえば、夫が不倫をしたとして、それが発覚して、ショックを受けるわけだけど、それが報じられて、白日の下に晒される。これもまた、ショックだとボクは思う。さらに追い打ちをかけるように職を奪われるとする。もしもそれを妻が望んでいたならよいだろう。でも、離婚せず、修復してやり直したいと思っていた場合に、夫が社会的に攻撃され、職を奪われ、収入が絶たれて、結局、一番、社会的制裁の被害を受けているのって、不倫した本人ではなくって、その配偶者にならないか? オリンピックに出られないのではないかとか言われているけれど、夫が批判されること、夫の仕事が制限されること、夫の収入が途切れることは、そのまんま、生計をともにする妻への攻撃になる。
……なんてことを考えて、やりきれないな、と思っている。メディアって罪よね。