2023年1月3日 美しきタロットの世界

本屋に行ったら『美しきタロットの世界 その歴史と図像の秘密』という本が平積みされていたので読んでみた。ボク自身は、特段、占いをするわけではない。信じているわけでもない。でも、ウェブサイト『ファンタジィ事典』を運営する好事家のボクからすれば、「タロット」も研究対象のひとつに含まれる。

過去にいろいろな解説本があったけれど、この本の内容は知らないことばかりだった。当初のタロットが「占い」の道具としてではなくてカードゲームとして普及していたことも、占いの道具としては黄金の夜明け団によって広く普及した事実も、ボクたちがよく知っているタロットの図版を監修していたのが黄金の夜明け団のウェイトだったことも、ボクは寡聞にして知らなかった。世界各地のタロットをたくさん蒐集して展示している「東京タロット美術館」の監修なので、おそらくは妥当な記述なのだろう。とても面白かった。

本書のオススメのポイントは、17~18世紀のタロット(「マルセイユ版」)のイラストが載っているところ。何となく北欧神話の神々のイラストに似たような雰囲気の絵があって、それとウェイトの監修した「ライダー版」やその他の版の絵が紹介されている。こういうのは、東京タロット美術館が監修している強みだろう。


『美しきタロットの世界 その歴史と図像の秘密』(著:読売新聞社「美術展ナビ」取材班,監修:東京タロット美術館,祥伝社,2022年)

2023年1月7日 遅まきながらのウサギの絵

あけましておめでとうございます。遅まきながら、ウサギの絵をご紹介。今回は映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』(1974年)に登場するキラー・ラビット。一見、かわいらしいシロウサギのように見えて、近づくと飛び掛かってきて首を嚙みちぎられる。辺りは血の海だ。

例によって、iPhoneで描いてみたシリーズ。そろそろいい加減にタブレットを購入して、ちゃんとお絵描きしようよ、という声が聞こえてきそうだけれど、もうしばらくはこのままのスタイルでやってみようと思っている。

  

2023年1月10日 一人称問題と「ボク」

YouTube「しらスタ」のおしらさんが先日、「一人称」について語っていた。彼の一人称が動画の中でしばしば「わたし」や「俺」で揺らいでいることから、しばしば「ビジネスおかま」を疑われるらしい。先日、知人から悪意なく丁寧に一人称の揺らぎについて質問され、改めて「一人称」について考えて、発信するに至ったらしい。

彼は動画の中で、学生時代、自分にしっくり来る「一人称」が見つからず、「一人称」を避けて会話をしていたと告白していた。実は、ここはものすごく共感するところだ。ボクも学生時代、一人称問題はすごく悩んでいた。「俺」みたいなたくましいキャラクタじゃないし、「僕」というのも子供っぽく感じる。「私」というのも女々しくて気恥ずかしかった。だから、ボクは会話の中で意識的に「一人称」を避けていた。日本語は英語とは違って、主語を省略しても文が成立しやすいので、誤解が生じない限り、一人称は使わずに会話をしていた。

英語だと単純に「I(アイ)」だけだ。そこには「性」のニュアンスはない。「役割語」もない。みんなが平等な「I(アイ)」だ。でも、日本語は主語にまつわるさまざまなニュアンスがついてまわる。「わし」と言えば老人っぽさ、「うち」と言えば女子高生っぽさ、「僕」と言えば幼児っぽさ、「俺」と言えばたくましさ……いろんなニュアンスがあって、おしらさん同様、ボクも自分にしっくり来る一人称を見つけられなかった。

大学生のときにウェブサイトを始めることになるが、そのときにオンライン上で「ボク」を使った。中性っぽくもあるし、カタカナにすることで、ちょっと架空っぽい印象もあって、初めてしっくり来る一人称を獲得したボクは、そのまま、大人になった今でも、この電脳空間の中では「ボク」を使っている。

ボクはおしらさんとは違う。おかまではない。ゲイでもない。恋愛対象は間違いなく女性だし、アイドルは大好きだし、深夜番組の性的な描写にも一丁前にドキドキする。でも、どちらかと言えば、中性的な性格なのだと思う。学生時代、多くの男子が好む球技にもヤンキー漫画にもプラモデルにもはまらなかった。ガンダムにもウルトラマンにも戦隊モノにも仮面ライダーにもはまらなかった。うちに引きこもる文学少年であり、華奢な自分が好きだった。多分、ボクは中性的でありたかったのだろうな、と想像する。だから、「俺」とか「僕」がしっくりこなくて、それでも、「私」とも言えなくて、その狭間で、「ボク」に至ったのだと思う。

正直、社会人になって、すごく楽になった。大人の社会においては、「私」は一番、ニュートラルな一人称だ。そんなことを、おしらさんのYouTubeを見ながら考えて、自分自身を振り返ってみた。

2023年1月14日 遅まきながらのウサギの絵 第2弾

卯年なので描いたシリーズ第2弾として、アルミラージキラー・ラビットに引き続き、iPhoneで描いてみた。ソフトウェアはCLIP STUDIO PAINT。彩色までやってみた。コピックでやっていたようにはうまく塗れない。でも、iPhoneだけあれば描けるので楽ちんと言えば楽ちんだ。

アルミラージはアラビア伝承に登場するツノウサギだが、ヨーロッパには、こういう類いのツノウサギの伝承はたくさんあるので、そういうのもまとめて調べて、ウェブサイト「ファンタジィ事典」に掲載してみようと思っている。

  

2023年1月21日 『古事記』だけじゃなくて『日本書紀』も読まなきゃ!?

最近、精力的にウェブサイト「ファンタジィ事典」「日本神話」を更新している。日本神話と言えば『古事記』だとずっと思い込んでいた時期があって、『古事記』をベースに更新していた。何故なら、『古事記』を軸に神話を解説している二次的な文献が多かったからだ。でも、最近になって、『日本書紀』を読んでみて、いやいや、『古事記』をベースにしていてはいけないのではないかと思い直した。

『日本書紀』にはなくて、『古事記』だけに登場する神やエピソードがたくさんあって、おそらく、こういうのは『古事記』の編纂者(要するに、天武天皇になるわけだが)がかなり意図的に書かせた部分だ。『古事記』にしても『日本書紀』にしても、一応、天武天皇が命じてまとめさせたことになっている。上納された年も、8年しか変わらない。それなら、どうして2つの書物が同時並行的に書かれたのかはよく分からないらしい。でも、天武天皇と言えば、日本の土着文化の掘り起こしに精を出していた人物だ。日本に古くからあった伝統的な神話や祭りなどを掘り起こして、整理しようという精神が彼の中にはあったはずだ。『古事記』にはそういう側面が強く打ち出されているのだろう。

一方で、『日本書紀』は複数の編纂者の合議制で編纂されていて、客観的にまとめられていると言える。中国の文献をモティーフにした表現も多い。想像だけれど、たくさんの知識人たちがああでもないこうでもないと整理したのだろう。だから、『古事記』よりも編纂に時間が掛かった。そういうことなのだろう。

その辺の2つの書籍のギャップを感じながら神話を整理する方が、本当は意味があるのではないか。最近になって、そんなことを思い始めた。だから、『古事記』と『日本書紀』を両方とも参照しながら、もう一度、日本神話の項目を再構築している。

  

2023年1月29日 性的な表現が含まれている!?

猫も杓子もコンプラの時代である。

先日、pixiv事務局から「性的な表現が含まれている投稿作品に関するご連絡」というメッセージをいただいた。「性的な表現が含まれている作品の閲覧制限がR-18に設定されていなかったため、閲覧制限をR-18に変更いたしました」とのご報告。突然の連絡だったのでビックリして確認したところ、該当した作品は……

セイレーンの絵だった。……なるほど。これでもpixivの規約では「性的な表現」になるのか。ボクからすれば、もっと官能的な表現ってたくさんあると思っていて、まさかこんなエロさの欠片もない絵が引っ掛かるとは思っていなかった。迂闊だった。

実は、この絵には明確なモデルがあって、古代ギリシアの壺絵を参考にしている。人間の上半身に対して海鳥の下半身が圧倒的に小さくて、これじゃひっくり返っちゃうよ、という古代ギリシア人の妙を、そのまんま持ってきて描いてみた。でも、これでも引っ掛かってしまうのかあ。


出典:Theoi Project

昔はドリフのコントで上半身裸の女性が普通に出てきて、両親が気まずい顔をしていて、見ている子供たちも淫靡なものを見たという居心地の悪さを感じていた。今の子供たちはそういう刺激がないまま育ってしまうので、耐性がなくなってしまう。それはそれで怖いことじゃないのかなあ。うーん。

まあ、プラットフォームの規約なので、文句は言わないけれど。さてはて。

  

2023年1月31日 ハイエナのように群がる人々

三浦瑠麗氏が絶賛大炎上中だ。そりゃあ、もう、ものすごい攻撃だ。彼女にはどこか胡散臭さはあった。痛々しさもあった。危うさもあった。でも、それは今に始まったことじゃない。ずぅっと彼女はそうだった。それなのに、今まで何も言わずに彼女を受容してきたはずの人々が、手の平を返して一気に総攻撃。恐ろしい世の中だ。

ボクは、彼女はエンターテイナだと認識している。そういう芸風であり、テレビの中で求められる役割をきちんと果たしてきた。そういうお仕事だと認識しているので、メディアが彼女を論客として登壇させてきたことに、特に違和感を覚えない。テレビなんて大体そんなものだし、タレントもそんなものだ。ニーズがあって、それに応えるタレントが生まれる。

ところが、ここに来て、今まで批判してこなかった人が、一気に牙を剥いて、三浦瑠麗氏を登用したメディアの責任を問うような議論をしていて、とても不思議だな、と感じる。視聴率を取ることがテレビのひとつの目標であって、彼女が出演することで、あるいは彼女の発言することで、各方面でそれが話題になるのだから、テレビとしては十分に成功していた。その意味で彼女も成功していた。だから、それでいいじゃないか、と思う。

勿論、ここから先は別だ。テレビと彼女はウィンウィンの関係を構築できなくなった。だから、テレビ側は彼女を使おうとしないだろう。彼女は失脚するのかもしれない。その是非はあるかもしれないが、今、そんなに目くじらを立てて、弱った彼女に群がって、過去も含めて、ああでもないこうでもないと彼女をいじめなくてもよいのにな、と思う。「彼女をテレビに出すことに違和感があった」とか「間違っていた」とか、今更、そんなことを後出しジャンケンのように言うのは格好悪いし、あまりにも感情的だ。事件でもあるのだから、もう少しいろいろなことが明らかになってから、事実に立脚して批判すべきだ。

……と、また、あまり神話・伝承に関係のない記事を投稿してみた。でも、いつだって、寛容な世の中を望むボクなのであることよ。