2014年11月27日 複雑なコミュニケーション

昔、マーケティングの専門家の牛窪恵さんが「さとり世代」について記事を書いていて、「日々の雑記」でも触れたことがある。ナウシカが放送されるときに、それをオンタイムで見て、Twitterなどで感想を共有することに価値を見い出す若者たちについて書いていた。彼らにナウシカを録画して、後で見ればいいなんて通じない、という記事。ボクはこれを「共時間性」を大切にする感性だ、と評価したような気がする。同じ時間を共有することに強い価値を見いだす、と考えたのだ。

でも、最近、ボクよりも若い世代の人たちを眺めていて、もう少し踏み込んで考えたことがあるので、ちょっと書いてみようと思う。

たまに電車に乗っていると、同じ空間にいながら、全ッ然、違うゲームをしている集団がいる。あるいは各自、勝手に漫画を読んでいる集団もいる。たまに会話もしているし、ゲームのモニタや漫画の1ページを見せたりして情報を共有しているが、ある瞬間には自分のプレイや読書に集中している。これって、とても不思議な景色だな、と思っていた。同じ空間にいながら、お互いに別々のことをしている。それでも彼らは友達で、群れている。「個」としてバラバラでありながら、何となく寄り添っている。絶妙なバランス感覚だ。こういうのは「空間」はともにしていながら、「時間」は別々だ。

その一方で、牛窪さんが紹介するように、顔も見えない不特定多数の人たちと同じ時間を共有したりするわけで、こっちは「場所」は別々なのに、過ごしている「時間」は同じ、ということになるので、正反対の過ごし方である。

たとえば、みんなで話をしているときに電話がなる。年配の人は「ちょっと、すみません」とその場を離れて電話して、終わって、また戻ってくる。若者は、輪の中にいるまんま、直前まで話していた内容の延長のような雰囲気で電話に出て、また何事もなかったかのように会話に戻ってくる。音だけ聞いていると、もしかしたら、彼が電話をしていることに気がつかないかもしれない。そのくらい自然に電話に出るのだ。ある意味で、彼らは器用だ、と言える。

ボクはこういうのを眺めながら、若者は複雑なコミュニケーション能力を持っているのだ、と分析する。こういう複雑なコミュニケーションは、インターネットやケータイの普及によるものだろう。同じ空間を共有しながら別の時間を過ごしたり、別の空間にいながら同じ時間を共有する。そういうコミュニケーションのスタイルが、若者に導入されたのだろう。そういうスタイルに馴染めない年配は、最近の若者はコミュニケーションができない、と感じるのかもしれない。

インターネットは、もしかしたら、「時間」や「場所」すらも共有しないコミュニケーションをも実現させているのかもしれない。誰かがどこか遠い場所で書き込んだ内容に、全然別の場所にいる誰かが、数時間後にコメントする。書いた人間は、それをまた別の場所で、別の時間にリプライするのだ。こんなに複雑なコミュニケーションってあるだろうか。

いい悪いの話ではなく、そういう形のコミュニケーションが誕生して、若者たちの間に定着した。おそらく、ボクはちょうどインターネットやケータイが普及する過渡期に育っていて、その狭間で過ごした。ボクも、半分くらいはそういう複雑なコミュニケーションを使っている部類に入るだろう。おそらく、こういうコミュニケーションが一般的になっていく。