2014年10月3日 日本語が非論理的なのではなく、書き手が非論理的なのである。
日本語って論理的じゃないと言うけれど、ホント、論理を意識していない人の日本語って意味不明だ。日本語にも、上手と下手ってあるのだなあ。何のことを言っているのか、突き詰めていくとよくわからない、という文章に出くわす。特にそれを英語に翻訳しようとすると、あからさまになる。この文章はどこに掛かっているんだ? これの主語は何だ? 検討するって、何を? みたいな感じの連続。もう、発狂しそうになる。
日本語が論理的なのではなく、論理的でなくても文章として成立してしまう。だから、書いている本人が非論理的であることに気が付かない。そういうことなのだろう。ボクが書いたら、こんな風にはならない。結局のところ、日本語教育に問題があるのだ。国語の授業って、感性を育むのも大切だけど、非論理的にいろんなものを省略しちゃいけないよ、ということを、しっかりと教えてあげなきゃいけない。というか、主語を書かなくても文章は成立するし、目的語がなくても文章は成立する。でも、それは省略可であって、省略する前にちゃんと考えなきゃいけない。動詞を書いたら、主語を書こうが書くまいが、主語を想定して書かなきゃいけない。英語みたいに自動詞、他動詞の発想がないので、日本語の場合、目的語を省略することだって出来る。でも、本当に目的語が省略できるのかも、ちゃんと考えなきゃいけない。特に体格になる名詞(「~を」に当たる名詞)を省略して、文章が成立するのだろうか、ということは、日本語で物を書く場合でも、ちゃんと考えなきゃいけない。