2025年3月17日 「妖怪」の定義について考える(1)

「妖怪」の定義は人それぞれだ。もちろん、それはそれでいいと思う。でも、お互いに話すときには定義が異なると議論がすれ違うから厄介で、それぞれの定義を明確にしてから議論しないととんでもないことになる。

ボクなんかは「妖怪」をかなり幅広に捉えている。日本だけじゃなくて、海外を跳梁跋扈するやつらも十把一絡げに「妖怪」の範疇にしている。たとえば、ヘーラクレースが退治したレルネー沼のヒュドラーだって、ボクの定義の中では妖怪だ。いやいや、それは妖怪じゃなくて怪物だろうという人もいるかもしれない。でも、たとえば、ヒュドラー退治を表現した壷絵(前6世紀)と源頼光の土蜘蛛退治を描いた絵草子(1837年)を比較すれば、大して変わらない。ヒュドラーが怪物なら、土蜘蛛だって怪物だ。逆も然りで、土蜘蛛が妖怪なら、ヒュドラーだって妖怪だ。

ヒュドラー退治
土蜘蛛退治

ベッレロポンテースが退治したキマイラと源頼政が撃ち落とした鵺だって、絵として並べてみれば一緒だ。姿・形も似ているし、描かれているサイズ感だって似ている。キマイラが怪物だと言うのなら、鵺だって怪物だ。

キマイラ退治
鵺退治

詰まるところ、ボクは「妖怪」は世界中にいる存在だと定義している。日本では「妖怪」と呼ばれるけれど、こういう「妖怪」的な存在を各国が現地語でどんな言葉で呼ぼうとも、日本語に翻訳したらそれは結局、「妖怪」と訳すんじゃないのか。そんな感覚だ。Appleでもpommeでも苹果でも사과でもتفاحةでも、日本では「リンゴ」だ。イギリスのリンゴはアップルと呼んで、韓国のリンゴはサグヮと呼んで……と呼び分けない。もっと大きな括りで言えば、日本の「果物」とイギリスの「フルーツ」と韓国の「クヮイル」は結局、全部、「果物」であって、中に含まれる個々の果物は違うけれど「果物」でしかない。だったら、世界各地を跳梁跋扈するやつらは日本語に訳したら、結局、全部「妖怪」じゃん、と思っている。