2021年2月21日 自戒。

相手に必要以上を求めてはいけない。これは自戒の意味も込めて書いている。

今年度はチームとしていろいろと攻めの姿勢を貫いてきて、成果も出してきた。評価もされている。それはそれで、単純に嬉しい。でも、あるあるだとは思うんだけど、成果が出れば出るほど、そして評価されればされるほど、求められる水準は高くなっていくし、質だけじゃなくって、量的にも期待されていく。そんな経験はこれまでにたくさんしてきたので、ボクは案外、慣れている。そうなることも見越していて、それでもやれると判断したことしかやらないし、あるいは求められてもこれ以上はやらないという線引きもできている。でも、チームの若いメンバーはそうではないので、結構、しんどいだろうな、と想像する。だからこそ、ボクは結構、気を遣っている。あまり負荷を与えるとパンクしちゃうだろうな、と思って、求めないようにしている。それでも、多分、プレッシャーは半端なくて、先回りしてボクの要求に応えようと必死だ。

そんな中で、そういうことに頓着しない管理職というのはいて、もっともっとと詰め込んできて、それに対してボクも含めてメンバーが結構、アップアップになっていて、それでも、全然、そのことに気づかずに配慮のない物言いをしたので、さすがに頭に来て、金曜日にブチ切れた。でも、結局、よくよく思い返すと、「配慮ない物言い」が一番、ボクを激怒させた原因で、「配慮してよ」というのは、相手に「自分たちの大変な現状や苦労を分かって欲しい」という理解を強く求める行為であって、実はこちら側が適切に現状や想いを発信をしないと伝わらないこともあるので、双方のコミュニケーションの問題だったりもする。

相手に必要以上に理解を求めていなかったか。そう自戒した。そんな話。

2021年2月22日 オズの国の住民たちは素敵だ!?

最近、小1のツクル氏が寝る前、毎晩、本の読み聞かせをしている。今はフランク・ボームのオズ・シリーズだ。日本ではかかしやブリキのきこり、臆病ライオンが登場する1作目『オズの魔法使い』しか有名ではない。でも、オズ・シリーズは本当は全部で14作品(+短篇集が1作品)ある。それを順番に読んでいこうというプロジェクトだ。

すでに6作目『オズのエメラルドの都』に突入しているが、面白い。オズ・シリーズは突飛なキャラクターが登場して、面白いんだけど、6作目は集大成という感じで、本当にファンタジーをやっている。何しろ、ロクワットというノームの王が、周辺の極悪な民族と手を組んでオズの国に攻め込んでくるというシナリオだ。ロクワットに将軍に任命されたガプが休むことを知らないキテレツ族、筋肉だけのガリゴリ族、魔法に長けたマボロシ族と交渉して、同盟を組んでいく。その一方で、何も知らずに暢気にオズの国を旅して新しい出会いをするドロシー一行。この2つのプロットが、交互に入りながら、話は進んでいく。

ドロシー一行の旅も面白い。切り紙でつくられた人々が暮らすチョキリンの村、まるでパズルのように、ちょっとした衝撃でバラバラに崩れてしまうゴチャマゼ族の町、包丁や鍋、スプーンなどのキッチン用品の王国、パンが暮らす町、そして野ウサギが暮らす町、クドクドと訳の分からない理屈で話し続けるクドクド族の町、起こりもしないことを心配して大慌てするトリコシ族の村などだ。

ロクワット率いる乱暴な種族たちに対して、オズはどうやって危機を脱するのか……。そして、呆気ない終わり方。それがとてもオズらしくて面白い。

……問題は第6作『オズのエメラルドの都』がどうやっても手に入らないということ。仕方ないので、図書館から借りてきている。いつか入手したいなあ。我が家の本棚に正式にお招きしたい本である。

2021年2月23日 ゲームとしての終わり

夜なべして、SFC『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』をやっている。懐かしいし、改めてよく出来たゲームだな、と感じる。ダンジョンには謎解きの要素もあって、解決できたときの達成感があるし、隠しイベントや隠しアイテムがたくさんあって、やり込み要素もある。そして、アクションRPGなので、ボスとの戦いには、一定の技術を求められる。

何よりも素晴らしいのは、このゲームには終わりがある。ラスボスがいて、倒せばクリアーになって、エンドロールがある。どれだけの時間を投入しても、最後には、エンドロールがあって、「ああ、終わった!」と思って終わりになる。

最近のスマホのゲームは、ひとつのイベントが終わると、新たに次のイベントが始まる。ゲームとしてのゴールが設定されておらず、制作会社は遊び手を囲い込んで、手を変え、品を変え、商品をゲットさせて課金させる。そういうビジネスモデルになってしまっている。こういうのは、どうなのかな、と思う。だらだらと中毒のように続けさせることがよいことだとは思えない。

2021年2月24日 「私が子供の頃にスマホがなくてよかった」

妻のちぃ子が『スマホ脳』を読んでいる。ボクがオススメしたからだ。子供にスマホを与えるべきか否か。そんな壁がやってきて、読んでみたらどうか、とオススメした。

スマホが普及するだけでなく、新型コロナウイルス感染症はさらにデジタル化、オンライン化を押し進めるだろう。そんな中で、それらの流れを否定することはできない。でも、問題点も理解しておく必要がある。

2021年2月25日 オンデマンドって凄いこと!!

大昔に「きかんしゃトーマス」にハマって、テレビシリーズのDVDを全部、集めた。でも、結構、古いので、中古のものもあったりして、テレビで再生すると映像が飛んだり、止まったリするものもあった。もう一度、確認して、画像が飛んじゃうようなものは買い直そうかと思って、パソコンで見ている。折角なので、mp4に変換しようかと思って、コンバータでmp4に変換する作業をしていて気がついた。テレビやパソコンで映像が飛ぶようなものでも、コンバータで変換すると、mp4ではちゃんと見ることができる。多分、データだからだろう。盤面に瑕があってうまく見れなくても、データを取り出してコンバートすると、見ることができる。ああ、これはいい! ということで、せっせとDVDをmp4に変換していたら、あっという間にハードディスクがいっぱいになってしまった。仕方ない。mp4を保存する用のハードディスクを買いに行こう。

そういう意味じゃ、今、オンデマンドでいろいろと見られるのは、凄いことだな。こうやって、自分でデータを保存すると、あっという間に容量いっぱいになってしまうのを、サーバ上で保管して、こちら側はアクセスするだけで見られるのだから、便利な時代だな、と思った。

2021年2月26日 グラッド・アイ

最近、比較的、毎晩、カクテルをつくっている。鋭意、カクテル・サイトをつくっているためだ。そこに写真を掲載するため、取り敢えず、カクテルをつくっては、写真を撮影して、飲んでいる。

そんな中で、グラッド・アイというカクテルをつくった。ペルノとグリーン・ペパーミントでつくるカクテルで、どちらも癖のあるお酒だ。でも、混ぜたら、意外と美味しい。それにとてもビックリした。

2021年2月27日 時代の寵児、新人類

最近、『Win Win Wiiin』は欠かさずに「テレビ」で観ている。今までのゲストは、いわゆるテレビを主戦場にする「芸能人」だった。初回ゲストは手越祐也、第2回ゲストは西野亮廣、第3回ゲストは極楽とんぼの山本圭壱で、一癖も二癖もある「芸能人」。そして、第4回の今回のゲストはヒカルだ。

「今回は大丈夫かな? コケないかな?」といつも心配になる。ずぅっと急上昇にランキングされているわけだし、それに続く出演者は相当なプレッシャーだろう。何しろ、第2回までは注目もされていたし、それなりに旬の人というか、順当に来ていた。ジャニーズを退所した手越祐也、映画「えんとつ町のプペル」で映画デビューを果たした西野亮廣……。でも、山本圭壱のときには「何で今? 大丈夫?」と思った。でも、いろいろあったし、ドキドキ感もあった。その上で、あっちゃんはちゃんと「けいちょんチャンネル」のサクセス・ストーリーを示しながら「今が旬のYouTubeチャンネル」というキーワードで、うまくゲストをWinnerにした。それでは、ヒカルは? どうやって料理する? しかも、今回は初めて、ゲストを事前に周知した状態でのプレミアム配信だ。「どんな大物芸能人が来るかな?」というワクワク感ではなく、「ヒカルにフィーチャーするよ」と喧伝するアプローチだ。宮迫と頻繁にコラボしている相手だし、あっちゃんの「XENO」でも対決している相手なので、伏せておいて直前に「どーん!」と紹介されたときに「何だよ、ヒカルかよ!」となるだろうから、事前周知は正しい判断だ。しかも、ヒカルは生粋のYouTuberだから、コラボを全面に出して、ヒカルファンを『Win Win Wiiin』に誘導した方が再生数もとれる。そういう戦略なのだろう。

ヒカルのトーク力はこれまでの「芸能人」たちと遜色なかった。特に、おしゃべりのプロフェッショナルである芸人が2回も続いていて、それでも遜色なく宮迫とあっちゃんと対峙して見せる腕はさすがだ。ただ、これまではテレビ業界の闇にかなり踏み込んで、ヒリヒリした感じがあったのに対して、今回は彼がYouTubeを主戦場とする人だからか、その辺の話題からは少し離れた。ちょっと距離を置く方向に舵取りをした。そういう意味では、次回以降のゲストに繋げていく意味でのクッション的な回になっていて、テレビとYouTubeの仲介者であるヒカルを、そういう風に使うのだな、と思って、あっちゃんの技量に感心した。その意味では、ヒカルの「どんな風に利用してもらっても構わない」的な割り切りや覚悟も感じた。

そして、タイトルのとおりだ。「時代の寵児、新人類」。ちょうど2021年2月24日の記事で『スマホ脳』という本を紹介したが、情報技術の発展が速すぎて、人間の進化が追いついていない。追いつかないからストレスを感じる。でも、ある意味、ヒカルはこのオンラインの時代に適合して生まれた人間だなあ、と感じた。

2021年2月28日 スタイル

他の人から自分がどういう風に見られているのか、正直、分からない。でも、間違いなく「うまくやっている」と思われているだろうな、と思う。「うまくやっている」というのは、失敗していないとか、成功が多いという意味だ。だけど、失敗がないのかというと、決して、そういうことではないのだと思う。自分の中では、日々、失敗の連続である。でも、他の人には失敗しない人だと思われているのだ、と想像する。

最近、そのギャップが大きくなってきたな、と感じる。「任せて大丈夫」と信頼されているうちは楽しかったし、「どんどん仕事持ってこい! 自分に任せろ!!」と思って引き受けていた。自分の持てるだけのパワーで、最大の成果を出せばよいと思っていた。でも、段々、そうじゃないフェーズに入っているな、と自覚している。つまり、若手じゃなくなったのだ。チームから自分が抜けることも想定しなきゃいけない。自分がいなくなった後に、誰かがそれを引き継ぐ。その人たちが自分の仕事をやらなきゃいけない。段々、自分の裁量権でできることが増えて、決められることが増えたときに、自分の能力で仕事を進めると、持続可能でなくなることが見えてきた。

そうなったときに「失敗しない人」という評価はよくないな、と思った。もちろん、ボクは自分のことを「失敗しない人」だなんて思っていないし、そんな喧伝をしているわけじゃない。毎日が失敗の連続だと思っている。勝手に周りの人が「失敗しない人」というレッテルを貼っているだけだ。でも、最近、そういうのが邪魔になってきた。「いやいや、私はあなたみたいにはできません」とか「あなただからできる仕事で私には無理」みたいなことを言われることが多くなった。そんなことはないはずだ。でも、実際、そういう風に言われてしまう。

言葉が適切かは分からないけれど、自分は高圧的なのかな、と思った。「成功」というパワーで相手にプレッシャーを与えているのかな、と。だったら、失敗を開示するべきかな、と思った。失敗している自分をもっと見せていくべきなのかな、と。誤解して欲しくないのは、決して、失敗を隠しているわけじゃない。失敗は何度もあるんだけど、最後の最後まで諦めずに「あ、これはダメなのか」「この方法……でもうまく行かないのか」「それじゃ、このアプローチ……もこういう結果になるのか」「うーん」とか言いながら、喰らいついて喰らいついて「あ、うまく行った! これが正解だったのか!」となるのがボクのアプローチだ。で、「いろいろ試行錯誤してうまく行きました」という報告をすると「失敗しない人」みたいになる。

結論から言えば「失敗しました」という報告をしたくないので、諦めずに何度も何度もチャレンジして、成功まで持って行くという地道な作業をしているということ。そして、ひとつだけコツみたいなものがあるとすれば「速く仕事を進める」ということ。失敗したときにリカバーするためには時間が必要だ。手数を増やす必要がある。だから、仕事が回ってきたら、取り敢えず大急ぎで「形」にする。うまく行かなくてもよい。質は問わない。取り敢えず「形」にして「あ、ダメだな」と思って、それからいろんな形を試す。そのための時間を確保するためには、「まだ時間があるから後で考えよう」としないで、その瞬間に「形」にする。この「早く仕事を進める」が有効だと思う。