2015年10月1日 ポーランドにてマーマンが確保!?
ネッシーやイエティの記事でよく登場するイギリスのデイリー・ミラー紙。9月26日にはポーランドで人魚が確保されたと報じている。白い防護服みたいなものを着た集団に、マーマンが連れていかれる映像だ。
こんな画像が、今でも普通に出回ってデイリー・ミラー紙で紹介されるんだねえ。面白いなあ。確保されたのに、その後の報告がないのが未確認生物らしさを物語っている(笑)。
2015年10月2日 不思議な歌
最近、ツクル君のお陰でNHK教育を見る。朝から「0655」や「ピタゴラスイッチ」、「デザインあ」など、なかなか秀逸な番組をやっている。今日は「シャキーン!」で変な歌をやっていた。タイトルは『ぼくはしらない』。地球が主人公の歌で、この世界について問うている。歌詞を引用してみよう。
『ぼくはしらない』
作詞・作曲:岩見十夢
教えてくれないか ぼくの 本当の姿を
とぐろを巻いた ヘビの上 一匹 カメが 乗っかっている
カメの 甲羅に ゾウ 四頭 背中で 大地を 支えてる
そういうふうに ぼくのこと 言う人達がいるんだ
世界の 中心 大きな木 しっぽ くわえた ヘビがすむ
海が 大地を 囲んでる さらに 山が すべてを 包む
こんなふうに ぼくのこと 思ってる人たちもいるんだ
他にも 丸くて 青いっていう話も あるみたいなんだけど
本当のところは どうなんだい?
教えてくれないか ぼくの 本当の姿を
自分を写す 鏡を 持っては いないから
教えてくれくれないか 確かめたことが ないから
ぼくは しらない 本当の姿を
不思議な歌詞だ。古代インドの世界観や古代ゲルマン人の世界観(ただしどちらも異説あり)について歌っている。そして、科学技術が証明した球体としての地球についてもさらりと歌う。子供番組なのに、変な歌だなあ、と思う。子供たちは、この歌の意味、分かっているのだろうか。
2015年10月3日 無宗教形式の葬儀
28日に父方の祖母が亡くなったが、火葬場の都合で本日の告別式。祖父は無宗教を気取っているので、葬儀も無宗教形式だ。坊主も牧師も神父も神主も不在。
祖母はクリスチャン系の学校に通っていた時期があって、よく賛美歌をピアノで演奏して披露してくれた。だから、みんなで賛美歌を歌おう、ということになり、叔母がギターで伴奏。賛美歌312番「いつくしみ深き」を歌う。
ところが練習していないから、叔母は3小節目で間違えて、前奏がストップしてしまう。しーん、と静まり返る式場。仕方がないので、ボクは4小節が終わったところで勝手に歌い出す。みんな、それに釣られて歌い出す。叔母のギターが慌ててついてくる。何の学芸会だろうか。こんなへんてこな葬儀ってあるものだろうか。
その後、祖父が祖母との思い出を語る。夫婦で寺巡りをしては、般若心経を写経して楽しんでいたらしく、突如、祖父が般若心経を朗々と読み上げる。キリスト教も仏教もごった混ぜ。罰当たり甚だしい葬儀である。
でも、我が家らしいな、と思う。ボクは本当の意味での無宗教。そんなボクを育てたのは、この祖父母なのだな、と強く思う。
2015年10月5日 プロフェッショナルでない人々
最近、雑誌をつくるのにも慣れてきて、PhotoShopやIllustratorを使って、ちょいちょいと画像加工したり、デザインしたりできるようになってきた。せのせいで、プロのつくった雑誌を見ていても、下手だなあ、と感じることが多くなってきた。意外とプロだからと言って、PhotoShopを使いこなせているわけでもないし、デザインがいいわけでもない。髪の毛をちゃんと切り取れていなかったり、変な色を組み合わせていたり、配置がおかしかったりする。その一方で、実は簡単なことなんだけど、小手先の技術で工夫していて、意外とうまく誤魔化しているな、と関心することもある。
つまり、そんなもんなのだ。プロだからって、みんながプロフェッショナルなわけじゃない。出来ていない部分もある。それでもちゃんと仕事になるのだ。大事なことは、ちゃんと納期までに完成させて、納品する、ということ。そうすれば生計が立てられる。完璧にプロフェッショナルに徹することが「プロ」のお仕事ではないのである。
実は、今回、ある雑誌の取材に応じていた。その完成品が届いた。デザインがひどくってガッカリしたのだ。ボクの写真を撮って、切り取って加工しているんだけれど、髪の毛を直線で切り取ってしまっているから、ヘルメットみたいになっている。本当はボサボサだったはずなのに。のっぺりしている。ひどいクオリティ。でも、それでも彼らはお仕事になるのだ。
だから、頑張ればプロになれるよ、という話。与えられた仕事を一定水準でこなせれば、プロになれる。だから、やってみればいいよ、という明るいお話。わははは。
2015年10月8日 密かな野望の準備作業
久々に森博嗣の『MORI LOG ACADEMY 1』(ダ・ヴィンチ ブックス,2006年)
を引っ張り出して読んでみる。あんまりテーマを定めずに、その日に思ったことや感じたこと、考えたことがつらつらと書いてある。ああ、そうか。あんまりテーマを固めると書くのが大変だよなあ、と思う。もっと自由にフランクに書くのも悪くないかもしれない。
最近はシュメル関連の本を読んでいる。いつかメソポタミア神話のウェブサイトを立ち上げても面白いかもしれない、と密かに企んでいて(もう公言してしまった!)、その準備作業だ。厚さが少し薄いのでどうかな、と思っていた前田徹氏の『世界史リブレット 1 都市国家の誕生』は都市という切り口で非常に練られていて面白いし、小林登志子氏の『五〇〇〇年前の日常 シュメル人たちの物語』は王侯貴族のものではあるけれど、人々の日常が抜き出されていて面白い。松島英子氏の『メソポタミアの神像 偶像と神殿祭儀』 はシュメル人とアッカド人のそれぞれの文化の混合という視点で神話を整理しようとしていて、その試みに非常に惹かれる。現在のボクは情報を貯め込む期間である。そのうち、自分の中で一定の整理ができたら、情報発信の側に回りたいな、と思う。ひとつの目標としては、シュメル・アッカド神話の神々の姿を確立することだ。他の神話の神々と違い、シュメル・アッカド神話の神々は明確にヴィジュアル化されていない。だから、イマイチ、ぱっとしないのだ。当時の髪型、当時のファッション、当時の食文化、当時の道具なんかをちゃんと頭の中に叩き込んで、ヴィジュアル化する。そのときに、きっと、シュメル・アッカド神話が、もう少し身近なものとして再構築されるのではないか。そんなことをぼんやりと頭の中に思い描いている。
そうそう。ようつべを散策していたら、懐かしいPVを発見。ファンが衝撃を受けた話題作(笑)。どうせなら、これもCDに入れてくれればよかったのにね。
2015年10月10日 非常に純度の高い正攻法的なミステリィ
ドラマ『掟上今日子の備忘録』を観た。実のところ、西尾維新の『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社文庫,2008年)のファンだったし、それよりも前から新垣結衣の大ファンである。戯言シリーズは途中でミステリィではなくなってしまったので、読まなくなってしまった。噂で、忘却探偵シリーズは再びミステリィになっていると聞いたので、実は読んでみようかなあ、と何度も本屋で手に取っては戻していた。そんなタイミングでのドラマ化。しかもガッキー主演。これは観ないわけがないッ!
ガッキーの忘却後の演技がよかった。隠館厄介といい感じに距離が近づいたーと思った後の、眠って目覚めて、「誰?」みたいな疎遠な雰囲気の演技には痺れた。ガッキーって、こんな演技もするのだなあ。あまりにもテンポが早くって、パッパ、パッパ、と展開する。その軽快さ、コミカルさの中に、一瞬だけ、ヒヤリ、とする程の悪意が入り込んでいて、上手な演出だ、と思った。
話は逸れるけれど、ボクは笠井潔の『バイバイ、エンジェル』(創元推理文庫,1995年)という作品が大好きだ。この作品では首なし死体が登場する。何故、犯人は首を切ったのか。主人公の矢吹駆はその理由を突き詰めて考える。その結果として犯人が自然と炙り出される。非常に純度の高い正攻法的なミステリィ。これぞミステリィという感じ。フランスを舞台にしているし、翻訳ものっぽい硬い文体だし、革命等の思想・哲学のやり取りも交わされていて、非常に難解な物語ではあるんだけれども、実はミステリィとしては非常に単純で、それでいて真っ向勝負。
実は『クビキリサイクル』を読んだときに、ボクは笠井潔の『バイバイ、エンジェル』と根本が重なる感じがした。何故、犯人は首を切ったのか。文章こそラノベっぽい感じで装飾されてはいるけれど、『バイバイ、エンジェル』と同じ純度の高い正攻法的なミステリィだな、と感じた。後になって、西尾維新が影響を受けた作家の一人として笠井潔を挙げているのを見て、やっぱりね、と。
何が言いたいのかと言うと、戯言シリーズはシリーズが進むに連れて、徐々にミステリィを放棄して人外バトルの様相を呈してくる。ボクは『クビキリサイクル』に本格ミステリィの構造を見て、そこに過度に期待してしまった。そして見事に裏切られて、読むのを止めてしまった。でも、本来、西尾維新はちゃんと純度の高い正攻法的なミステリィの視点を持った作家なのである。少なくとも『クビキリサイクル』はそうだった。『掟上今日子の備忘録』はまだ読んでいない。でも、テレビドラマシリーズは面白かった。だから、もう一度、『掟上今日子の備忘録』の原作にチャレンジしてみようかな、と思っている。あの独特なセリフ回しや文体で、『掟上今日子の備忘録』の世界を堪能するのも、また一興だろう。
『掟上今日子の備忘録』(著:西尾維新,講談社BOX,2014年)
2015年10月11日 キャベツたっぷりサンドイッチを堪能する休日
朝、沼サン(大沼の夫=沼夫のつくるサンドイッチ)をつくる。もう、ボクの土日のお決まりの料理だ。毎週、土日になるとつくっている。キャベツ、タマネギ、黒オリーブ、とろけるチーズにベーコンが入って、マヨネーズとマスタードと胡椒で味付けをする。特徴はキャベツで140gも入れること。140gも入れるので、もう、山盛りである。トーストの上に10cmほどの高さに積まれたキャベツを、もう一枚のトーストで一気に挟んで潰す。かなりのボリュームで、これだけで十分、お腹がいっぱいになる。
『野菜たっぷり! 幸せサンドイッチレシピ 沼サン(著:沼夫/大沼由樹,宝島社,2015年)
2015年10月13日 「くじら座問題」と「ティアマト≠ドラゴン問題」
ツクル君はイヤイヤ期に突入で、何を言ってもまずは「やや!」と言って拒否する。「ご飯食べるよ」「やや!」「お風呂入るよ」「やや!」「服着るよ」「やや!」「歯、磨こう」「やや!」「ねんねするよ」「やや!」。まったく困ったものである。夕餉から睡眠までの毎日のルーチンワークが地獄のようであることよ。
さて、近藤二郎さんの『わかってきた星座神話の起源 古代メソポタミアの星座』を読んでいる。星座と言えばギリシア・ローマ神話だけれど、その起源が、実はメソポタミアに遡れる、という視点でまとめられた本。たとえば「山羊座」と言えば上半身が山羊、下半身が魚の怪物だけれど、実はメソポタミアの水神エンキの象徴である上半身が山羊、下半身が魚の怪物スフルマシュに由来しているとか、「乙女座」が麦の穂とナツメヤシの葉を持っているのは、実はメソポタミアでは「畝」と「葉」という2つの星座だったとか、その内容は興味深い。でも、この本では、ボクがずぅっと懸案にしている「くじら座問題」は、結局、解けなかった。
「くじら座問題」(とボクが勝手に命名している!)というのは「くじら座の起源がメソポタミアのティアマトだ」とする説の真偽だ。そもそもの「くじら座」というのは、ギリシア神話では、ペルセウスとアンドロメダーのエピソードに登場する「海の怪物」のこと。簡単にあらすじを紹介すると、あるとき、エティオピア(現在のエチオピアとは場所が異なる!)の王妃カッシオペイアが調子に乗って「私はネーレーイス(海の精霊)たちよりも美しい!」などと自慢したため、ネーレーイスたちが怒って父親の海神ポセイドーンに「何とかしろ!」と泣きつき、ポセイドーンは海の怪物(ケートス)をエティオピアに差し向けた。困ったエティオピア王のケーペウスが神託を立てると、この怪物を鎮めるためには娘のアンドロメダーを差し出さなければならないという。そこで岩に王女アンドロメダーを縛り付けて怪物に捧げていたところ、ちょうど通りかかった英雄のペルセウスが怪物を退治して、アンドロメダーと結ばれた、めでたしめでたし、というお話。で、ここに登場する海の怪物(ケートス)を星座にしたのが「くじら座」、というわけ。ちなみに、このエピソードに登場するケーペウスもカッシオペイアーもアンドロメダーもペルセウスも、みんな星座になっている。
で、「くじら座問題」。インターネットで「くじら座」を検索すると、どうしてだか「海の怪物の名前はティアマト」と書いている頭のおかしいウェブサイトが大量に引っ掛かる。ん? ティアマトはアッカド神話の登場人物で、ギリシア神話には登場しないし、残念ながら(というほど残念ではないが)ボクは「海の怪物(ケートス)」の固有名詞を記載しているギリシア語文献に出会ったことがない。「海の怪物の名前はティアマト」という記述は間違いである。
もう少しだけましなウェブサイトになると「くじら座はメソポタミアではティアマト座」と書いてある。でも、ボクはこの出典がよく分からないでいる。そういうウェブサイトによれば、どうやら「ペルセウス座はメソポタミアではマルドゥク座」だったらしく、メソポタミアでマルドゥクがティアマトを退治した神話が、ギリシアではペルセウスがケートスを退治した神話になっている、ということらしい。バビロニアの主神マルドゥクが、単なる英雄に格下げになってしまうところには哀愁は漂うが、一見すると面白い解釈だ。でも、これ、本当なのだろうか。これがボクの掲げる「くじら座問題」だ。ずぅっと、いろんな本を読んでいて、この出典がよく分からない。
そもそもの近藤さんの本では、ペルセウス座に該当するところに記載があるのは「Old Man」であって、マルドゥクではない。くじら座に該当するところに至っては何の星座もない。つまり、古代メソポタミアの時代に、マルドゥク座とかティアマト座があったような印象が全ッ然、感じられない。それなのに、インターネット上には「くじら座の起源がメソポタミアのティアマトだ」という言説で溢れているのである。これ、何なのだろう。何の本が出典なのだろう。実は、英語で同様のキーワードで検索しても、同様のサイトがちょこちょこ引っ掛かるので、どうやら、これは日本だけで展開されている言説ではないようだ。
何故、ボクがこんなに「くじら座問題」にこだわっているのか、というと、この「くじら座問題」が、ひいてはtoroiaさんが提唱している「ティアマト≠ドラゴン問題」にも関わってくるからである。アッカド神話に登場する「ティアマト」は海水の女神さまで、多くの神々と怪物を生み出した母である。ところが、うるさいという理由で息子である神々を滅ぼそうと画策し、マルドゥク神に倒され、その身体は引き裂かれて、この世界の礎にされる。ちょっとウェブサイトで検索すると、ティアマト=ドラゴンと説明したサイトがたくさん見つかると思う。実際、ゲームなどではドラゴンとして描かれる。ところが、楔形文字の文献を見ても、容姿に関する記述はないし、「これがティアマト!」という絵も残されていないので、ティアマトがドラゴンであるという根拠は、実のところ、どこにもない。それでも、何故か巷ではティアマトはドラゴン、という言説が流れている。海外でもそう。でも、普通に神々を生み出した女神さまなので、人間の姿ではないか。
さて、ここで「くじら座問題」が重要になる。もし仮に「くじら座の起源がメソポタミアのティアマトだ」ということであれば、ティアマトは海の怪物であり、ドラゴンのような姿だったと想像されていた可能性が高まる。でも、残念ながら、ボクはこの説を支持する文献に出会わない。出会わないのに、巷では「くじら座の起源はティアマト」説が広く出回っている。うーん。この辺の謎を解明したくって、この近藤さんの本を読んでみたんだけど、少なくとも、この本を読む限り、「くじら座」はティアマトではなさそうだなあ。
「くじら座の起源がメソポタミアのティアマト」説、誰がどの本で唱えているんだろうか。
2015年10月15日 スカート禁止!
ももクロの男性限定ライブは憲法違反だとかで市民団体が騒いでいるらしい。男性限定ライブもあれば、女性限定ライブもあるので、ある意味では平等ではないか、と思う。でも、男性しか入れない空間とか、女性しか入れない空間というのが、そもそもの差別だ、ということなのかもしれない。となると、究極、トイレもお風呂もジェンダー・フリーにすればいいじゃんね? ……って、実はトイレについてはジェンダー・フリーを進めている地域もある。カルフォルニアでは段階的に小学校の男女別トイレを廃止していく方向性だとか。うーん。それが目指すべき姿ならどうぞご自由にって感じだなあ。
ボクからすれば、映画のレディース・デーなんて堂々たる差別だ、と思う。最近じゃ、女子会なるものが増えたためか、女性限定メニューを取り扱うレストランや飲み屋も増えている。この間、マテピのオフ会でいろいろとホットペッパーでお店を調べたら、男女で価格が違うコース料理も結構、設定されている。メンズ・デーとか男性限定メニューはないわけで、明らかに不平等。実のところ、商業的な分野では、女性が優遇されている。
この背景には「価格弾力性」という経済の特性があるらしい。価格の変動が供給にどれだけの影響を及ぼすか、というもので、女性の方が「価格弾力性」が大きいのだとか。だから、レディース・デーにはインパクトがある。メンズ・デーをつくってもインパクトが小さいのだ。でも、それって売り手の勝手な思惑であって、サービスを受けるボクたち男子諸君には関係ないわけで、やっぱり差別である。
あ、真剣にそんなことを考えているわけではないよ? いつだってボクはバカバカしいなあ、と思っているのだ。だって、ボクがポスターに女の子を描いたら「女の子を描いたら男の子も描かなきゃダメ!」と広報担当者に叱られ、女の子にスカートをはかせたら「女の子にスカートをはかせるのはダメ!」と言われる。スカートをはきたい女子はどうすればいい? 大体、知っている? 緑、オレンジ、紫、黄色、茶色。行政のポスターをよく見ると、イラストに描かれる人々の服の色って、ものすごく限定的だ。青い服を着たらダメなの? 赤い服はダメ? それこそ男女差別以前に自由への冒涜だ。大体、描かれた子供が女の子だって、君はどうやって判断をした? 髪の毛がちょっと長いから? スカートをはいているから? 男の子かもしれないじゃん! ボクはスカートをはきたかったし、髪の毛だって長い方が好き。男女共同参画って何だろうね? わははー。
来週の24日からナイジェリアに行くことになりそうだ。今回は1か月半の渡航。折角なので、ファンタジィ事典用にイラストでも書こうか、と画策中。シュメル・アッカド神話のウェブサイトも構想してみようかなあ。ナイジェリアでも日本同様に楽しめるように、いろいろと準備を進めなきゃ。
2015年10月24日 またまた出発!?
本日よりナイジェリアに向けて出発。45日間の渡航。微熱が続いているのが心配だが、仕方がない。さてはて。
ツクル君も最近では、大分、色んなことが理解るようになってきた。大きい小さいとか、こことそこ、あそこの違いが分かる。そんな彼は45日間の父不在で何を感じるだろうか。
暑いところに行って、寒いところに帰って
来る。これも辛いところ。さて、頑張ろう!
2015年10月26日 嗚呼、ナイジェリア!!
昨夜、ナイジェリアに着いた。赤茶けた大地を護送車両で揺られながら、ああ、戻ってきてしまったなあ、と脱力。
赤茶けた大地
ホテル前にて護送警官に支払い
それにしても、目に見える恐怖と目に見えない恐怖があるなら、ボクは目に見えない恐怖の方が怖いらしい。最近、アブジャ市内でもテロがあったと聞いているけれど、エボラが流行っていたときのナイジェリアの方が、ボクには怖く感じられた。どちらにしても遭遇したら避けられないので一緒のはずなんだけど。
機内が非常に寒くて毛布に包まっていた。後ろのお客さんがフライトアテンダントにクレームを言っているのが聞こえる。主語が全部「we」だ。「我々はとても寒さを感じている」とか「我々は温度の適正な管理を望んでいる」とか(直訳的だけど!)。こういうときに「we」を使うんだねえ。ワンオブゼム。代表意見みたいな感じがして不思議な感覚。代弁してもらってありがとうという気もするが、お前なんかにひとまとめにして欲しくない、という気持ちもあり、複雑な気持ち。