2015年8月1日 ママー!!
「ママ、ママ!」とツクル君が叫んでいる。でも、その意味するところは、必ずしも《母》ではない。いや、もしかしたら、《母》を意味することを知っているのかもしれない。でも、「ママ、ママ!」と呼んで、嬉しそうな顔でちぃ子がいそいそとやって来ると、別のものを指して、これがママだ、とやる。そしてちぃ子が落胆するのを見てゲラゲラと笑っている。きっと、わざとだ。この野郎め。
先日もボクのことを指さして「ママー!」とやっていた。ちぃ子が「それはパパ! ママはわたしー!」などとプリプリしている。それを見て、ツクル君はまた、ゲラゲラと笑っている。
2015年8月3日 嫌な奴だな
最近、自分が嫌な奴だな、と感じる。無能な人間、足を引っ張る人間に対して徹底的に冷たい。ちょっと前までは、一緒に頑張って前に進もう、と思っていた。でも、最近、面倒臭くなってしまった。そのためにかける労力が半端なくって、その見返りがあまりにも少ないので、疲れてしまった。若い人を相手にしているときには、それでも、彼らには未来があるから、一緒に頑張ろうかな、と思う。でも、年配の人を相手にしていると、もう、いいや、と諦めてしまう。「はいはい」と、さっさと白旗を揚げて、ボクは彼らとは無関係の位置まで逃げ出して、目を瞑り、耳を塞ぐ。その結果、台無しになっても「ボクは知りません」ってわけだ。
無能な人間には二種類いるらしい。必死にやってもうまくできない人間と、うまくやるつもりなんかさらさらない人間。要するに、手を抜いて今まで何とかなってしまって、それに甘んじている人間。海千山千のそういう連中とは、どこまで行っても平行線なのだ。彼らのために頑張っていては身が持たない。いいように利用されるだけなのだ。
ボクは原則、性善説を支持する人間なんだけど、どうも最近、そうではないのかもしれないな、と思い始めて、イライラしている。そういう現実を突きつけてくる人種に対して、徹底的に冷淡な態度をとっている。周囲の人が少しざわざわする程度の冷淡さ。多分、嫌な奴なのである、ボクは。
しくじり先生に紀里谷氏が出演していた。ああ、ボクに似ているな、と思った。最近、尖がりがすぎて危険だな、と思い始めている。あんまりにも鋭利なナイフを振り回していると、周りが敵ばかりになりそう。でも、嫌なものは嫌なので大人しくしていられない。その辺のバランスを失すると、しくじり先生になってしまうのだ、と思う。彼を反面教師に、いいバランスで攻撃をし続けていたいな、と思う。
2015年8月5日 芸術にバックグランドは必要か!?
たまたまテレビをつけたら「U-18歌うま甲子園」がやっていた。みんな、非常にうまい。プロ顔負けだ。歌がうまいっていいよねえ。羨ましい。でも、最終的にはカラオケ・マシンの採点で評価されてしまうところに、妙なおかしさとバカバカしさがある。評価が低くても、「まあ、カラオケ・マシンの採点だし」みたいな割り切りが出来るのも、シリアスにならないところか。
でも、カラオケ・マシンの評価の精度は確実に向上しているな、と感じた。ちゃんと歌のうまさが反映されている。一昔前だったら、正しい音程で、のっぺりとまっすぐ音を伸ばして、変に色気を出さない方が高得点だった。今は音程、声量、ロングトーン、ビブラート、しゃくりなど、いろんな要素で評価されていて、しかも、それなりに結果が妥当だな、と感じる。技術の進歩は目覚しい。そのうち、機械も音楽を演奏できる時代になっちゃうかもしれない。
それにしても、テレビ番組なので、高校生ヴォーカリストたちの生い立ちとか人となりを紹介してから歌わせることになる。そうなると、感傷的な人は、そういう事前情報に流されて涙を流したりする。どうしても、芸術って主観的な評価になるよなあ、と痛感する。どうしたって、生い立ちとセットで音楽を評価してしまう。事前VTRで「想いを伝えたい」というヴォーカルの主義を前面に押し出した特集がなされていて、おのののかや柴田理恵が歌を聴いて涙していた。でも、ボクはちょっと一歩引いていた。や、歌はうまかった。高い音も低い音も非常に上手。コントロールされていた。でも、スタジオでは「想いを伝えられる歌」という感想になってしまった。そういう評価は少し違うのではないか、と思う。それって生い立ちを前提とした感想で、そういう事前のVTRがなかったら、多分、コメントは違うものになっていた。そういうのが、芸術の難しいところである。歌のうまさは、本来、いろいろなバックグラウンドとは無関係なはずなんだけど、必ずしも、そうはならないところが芸術の面白いところであり、難しいところだよなあ。
2015年8月8日 あまい華はいつまでも咲けない!?
昔書いた記事を参照したくって、久々にmixiを開いて、衝撃を受けた。文章が若い。そして勢いがある。楽しい。今の「日々の雑記」にはない大胆さがそこにはあった。をを、こりゃすげーや、と迂闊にも感動してしまった。もちろん、学生だから時間もあったし、いろいろと考える時間もあった。今の雑記は控えめだ。もっと頑張って書いてもいいかな、と思う。昔は情熱とエナジィがあったのだなあ。わはは。
* * *
昔、少女詩人の螢というアーティストがいて、一部で絶大な人気を誇った。独特の詩で、呟くように朗読するように歌っていた。でも、いつの間にか消えてしまった。後になってプロデューサがblogで告白していたが、
不思議なのは……そんな日々の中で彼女の才能が段々消えていく感じがしていた事です。周りに認められ、彼女の中にあった哀しみや怒り、ストレスが昇華されていくにしたがって思う様な詩が書けなくなってきている現実に僕らは気付いたのです。(中略)あまい華はいつまでも咲けない。(中略)どんな子供でも大人になるまでに通る道があって、その中でも最も多感と言える時期に偶然開花した才能は、本当は誰にでもあるもの。それはどんな人にでも必ずキラッと輝く瞬間は必ずあるということ。
というわけで、ふざけんなよ、とボクは思ったりするわけだ。プロデューサがそんな風に投げ出しやがって、この野郎。才能を育てられなかった言い訳してんじゃねーやい、と。
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そんなわけで、mixiの記事を眺めながら、ボクはもう少し頑張ってみようかな、と思ったり思わなかったりするのである(どっちやねん!)。
2015年8月9日 HNの話
facebookは原則、本名で登録して活動することになっていて、どうやら、大抵の人は本名で活動しているようだ。
マテピ東京のオフ会幹事の打診があって、すぐにfacebookでイベを立ち上げた。マテピ東京のメンバもみんな、真面目に本名で登録しているようで、参加表明があっても、正直、ボクは誰が誰やら分からない。でも、しばらく考え込んで、それから、やおら、「をを!」と名前とHNが繋がって、顔を思い出す。一般に、自分とはまるで無関係のHNにする人は少ない、と言われている。実際、意外とみんな、本名をアレンヂしたHNで活躍しているものらしい。だから、プロフィールに飛んだり、写真を確認しなくても、ほとんどの場合、誰が誰なのか想像できた。
ボクはオンライン上では、最初っから本名は放棄している。大昔は「greenbard」名義で活動していた。これは緑色が好きだったことと、将来の夢が吟遊詩人になりたかったからだ。高校生のボクは、FF4のギルバートに憧れていたのだ(照)。今は「八朔シータ」。大学生になって、オフ会をするようになると、リアル社会で「greenbardさん」と呼び掛けられることになる。それに抵抗を感じて「greenbard」は止めにした。でも、当時の人からは「グリバーさん」と呼ばれている。困ったものだ。「八朔シータ」は、少し本名に近づいた、と言える。少なくとも、少しは日本人らしい名前になったかな、と思う。リアルで呼び掛けられても、まあ、そんなに恥ずかしくはない。特に「シータさん」と呼び掛けられたら、知らない人が聞いても、まあ、そういうもんかな、と思ってもらえるのではないか。
正直に白状すると、「水谷フーカ」という漫画家がいて、その名前の見た目の美しさに惹かれた。ボクもそれに倣って、漢字+カタカナで、カタカナの真ん中を長音符にしてみたわけだ。見た目のインパクトはいいのではないか。実は、もうひとつの対抗馬として「南Q太」という漫画家もいて、これを参考に名前に一文字、アルファベットを入れてみる、というのも面白いな、と考えた。こちらは採用しなかったが、気分が変わったら、そちらに改名することもあるかもしれない。
HNや芸名、ペンネームは響きだけじゃなくって、見た目も大切だ。「オダギリジョー」とか「瑛太」はインパクトがある。「ミムラ」というのはどうなんだろうね。「優香」というのも、最初はビックリしたけれど、すっかり認知されてしまった。ラルクのkenとかX Japanのhideとか、JAMのYUKIとか、よくそれで成立するなあ、と思うけど、こういうのは先行利得というのか、収穫逓増の法則というのか……。
2015年8月13日 真剣にやれよ! 仕事じゃねぇんだぞ!
Facebook上にタモリ語録が載っていた。その中に、「真剣にやれよ! 仕事じゃねぇんだぞ!」という言葉があって、強く惹かれた。
仕事じゃないこと、つまり、自分の趣味とか生き甲斐みたいなものだと思うけど、そういうものこそ半端にやるなよ、と戒められているなあ、と感じる。
ついつい、ね。忙しいとか、時間がないとか、仕事に汚されて、本当に大切な日常を蔑ろにしてしまう、ということはやりがちだ。
でも、それじゃ、ダメなのである。本当に楽しく生きるためには、仕事よりも何よりも、自分のやりたいことに熱中しなきゃダメだよなあ。頑張らにゃー、と励まされる。
2015年8月17日 ナイジェリアン・ジョーク!?
本日から2週間、ナイジェリアから4人の幹部が来日して研修を受ける。折角、日本に来るのだ。貴重な2週間。吸収できるものを何かしら持ち帰って欲しい、と思う。今回は、講義の内容も講師もスケジュールも、全部、ボクが一人で勝手に決めた。誰もアドバイスをくれないし、良し悪しも評価してくれない。完全に放任。果たしてちゃんと満足してもらえるか。責任重大だ。始まってみないとどうなるか分からないので、連日、不安に押し潰されそうである。
冒頭の挨拶でナイジェリアの営業課長が厚顔無恥にも言ってのける。「我々はついついもっと支援を、もっと援助を、とねだってしまう。そういう性格なので大目に見て欲しい。でも、我が国にもっともっと支援をくれたら嬉しいのでよろしく!」。総括と一緒に、頭を抱えてしまった。これはナイジェリアン・ジョークの一種なのだろうか。
今回は4人ともムスリムなので、お酒は飲まないし、当然、豚肉は食べない。ハラールじゃないと食べない。だから「食」という意味でのおもてなしは非常に難しい。ウェルカム・パーティも、レストランにハラールでお願いをした。でも、正直、ハラールであるかどうかは完全な信用商売だな、と思う。出されたものを見ても、分からないもんね。
2015年8月24日 「ビーだま・ビーすけの大冒険」に癒されて……
最近、「ビーだま・ビーすけの大冒険」に癒されている。「ピタゴラスイッチ」でここのところ、朝、放送されているのだ。基本は「ピタゴラ装置」なんだけど、「ビーだま・ビーすけの大冒険」は、それに物語が付加されている。さらわれた兄弟(ビータ、ビーゴロー)を助け出すために、ビーすけが奔走する、という救出劇だ。そのため、赤いビー玉のビーすけがトリガーになってピタゴラ装置は動き出す。
ただし、これまでのピタゴラ装置と圧倒的に違うところは、最初っから最後まで、赤いビー玉が機能し続ける、ということ。赤いビー玉がトリガーになって別の装置を動かしたとしても、最終的に、その装置は赤いビー玉を動かす仕組みになっていて、常に赤いビー玉が次の装置のトリガーになっていく。その意味では、スタートからゴールまで、赤いビー玉を繋いでいかなければならないので大変だ。当然、ビー玉は位置エネルギーを使って動くので、下に落ちる一方だ。途中、別の装置を発動させて、赤いビー玉は上に上がらなければならない。そのための工夫があっちこっちにあって面白い。
物語になっているため、途中で緑と黄色のビー玉を回収するとか、巨大な玉に追いかけられるとか、紙コップに捕らわれるとか、3人の力を合わせる(3つのビー玉の重さで駆動する装置)とか、最終的には3人でゴールする仕掛けとか、いろいろと頭を使わなければならないので、装置を作った人は大変だっただろうなあ、と思う。
歌がビーすけの応援歌になっていて、見ているこちらも、「ビーすけ、頑張れー!」と固唾を呑んで見守ってしまう。よく出来たピタゴラ装置だ。すごいなあ、NHK。