2014年11月6日 休暇なのにWorking!?
「100平米の土地を耕しなさい」。そう言われて、農夫Aはそのミッションを半日でやっつけてしまった。農夫Bは一日がかりで一所懸命取り組んでいる。さあ、彼らにお金を支払おう。農夫Aは半日しか働いていないので、半日分のお給料。農夫Bは1日みっちり働いてくれたので1日分のお給料。農夫Bは大喜び。……要するに、時間給というのが如何に馬鹿馬鹿しいかが分かる例えなわけだ。
逆に言えば、農夫Aがスタンダードな社会では、農夫Bの半日分の労働は無給かもしれない。みんなが半日でやっつけるのに、農夫Bだけが半日経っても半分しか出来上がらない。だから、残りの半日は給料はやれません、というわけ。これが、つまり、「サービス残業」というものの正体だとしたら、まあ、それなりに合理的で、納得できないわけでもない。無能な人間が、出来て当たり前の仕事が出来ないから、出来なかった分は無給で働くよ、ということ。つまり、サービス残業をやっている人間は無能なのである。
そんな啓蒙活動をしてみては如何か?
2014年11月8日 覚悟のナイジェリア
本日、0時30分発のエールフランス便でナイジェリアに向かう。実のところ、ドキドキしている。一応、エボラ出血熱の収束宣言は出されたし、ボコ・ハラムのテロルはナイジェリアの北部に限定されているので首都アブジャは安全だ、と説明を受けている。それでも、ボクにとって、アフリカは未知の世界だ。ナイジェリアなんか、世界史にはほとんど登場しないので、知らない世界、という印象が強い。マラリアとかデング熱とか、いろんな病気の話も聞く。ちぃ子やツクル君のことを考えると、いろいろと心配になる。まあ、ね。覚悟を決めて行くしかない。
2014年11月9日 危機意識
シャルル・ド・ゴール空港でトランジットして、ポート・ハーコート行きに搭乗。途中のアブジャで降りる。こういう飛行機(寄港便?)があることを、ボクは知らなかった。
アブジャまでのフライトの機内で、通路を歩いていた男性客が突然、倒れて騒然となる一幕があった。ナイジェリア人の若い女性客がハンドバックからアルコール消毒液を取り出して、みんなに配り始める。ボクの隣りに座っていたナイジェリア人の女性客に「あなたも!」と言われて、一緒になって手を消毒。消毒液が効くかどうかは別にして、彼らは病原菌の類に強い危機意識を持っている。
ああ、日本って安全なところだなあ、と思うのと同時に、ボクが向かうナイジェリアってどんなところだろうか、とますます不安になる。
2014年11月23日 先回り。
遥かナイジェリアの地よりフィリピンのホテルを予約しようと思ってAgoda(オンラインのホテル予約サイト)にアクセスしたら、いつも泊まっていた筈の格安ホテルが9000円と高額でビックリ。あれれ? と混乱していたら、よくよく見ると、勝手に通貨がナイラ表示になっていた。ナイジェリアの回線を使っているからだろう。日本円表示に変えたら6000円ちょっとになる。ああ、ビックリ。
最近は、コンピュータがいろいろと先回りしてやってくれることが多くなった。でも、たまに、こういう風にへんてこな対応をすることもある。人間がやっているわけじゃないので、必ずしも、こちらの望んだとおりの結果にはならないこともある。それが機械と人間の大きな違いだ。いつか機械も、この辺の機微を分かるようになる日がくるだろうか。
でも、最近、こういう先回りできる人間が少なくなっているような気がする。個人主義の傾向が強くなったせいかもしれない。一人っ子が増えたからかもしれない。こういう想像力がなくなったら、人間、必要なくなってしまうじゃないか。
2014年11月24日 和食の日?
11月24日は「和食の日」なのだそうだ。「いいにほんしょく」という語呂合わせらしい。何と無理矢理な!
ちなみに「和食」と「日本食」では印象が違うような気がする。「和食」と言えば伝統的な日本の食を連想するけれど、「日本食」と言えば現代の日本の食文化も含まれるような気がする。たとえば、ラーメンは「日本食」だけど、「和食」だろうか。カップヌードルは? 駅弁は?
「和食の日」だけあって、本日はいろいろと「和食」に関わる記事がウェブサイトに投稿されている(ボクもその一人になるわけだ!)。フランス料理のマナーはよく話題に上るけど、和食のマナーってあんまり知らなかった。和食のマナー違反を書いているウェブサイトがあったので、嫌い箸を調べたら、Wikipediaに出るわ出るわ。こんなに嫌い箸があるらしい。うーん。結構、みんな、当たり前にやっていることなんだけど、ホントにマナー違反なのかなあ。うーん。
2014年11月25日 フィクションを楽しむことも大人の嗜み。
小学4年生になりすました20歳大学生が話題になっている。でも、ウェブサイトなんてそもそも匿名の世界で、昔からネカマもいるし、嘘っこプロフィールなんて溢れ返っている。基本的にボクはウェブサイトの情報なんて信用していないし、ましてや管理人の素性なんて信じない。ボクの「日々の雑記」ですら、実のところ、フィクションの部分もある。そんなものだ。
だから、小学4年生というフィクションも、ボクは「あり」だと思う。与えたインパクトが大きかったからバッシングされた。でも、ウェブサイトなんてそんなものだ、と大人が割り切ってインターネットを使っていないから「騙された!」と憤る。いい大人なのに、インターネットの情報を鵜呑みにするのが悪い。
そもそも、本当にやいのやいのと騒いだ人間というのは、その大部分が、「フィクションだ」と分かっていながら、それを暴いてやろうというひねくれた人間だったのだ、と思う。今も昔も、オンラインの住人はひねくれ者が多い。そうやって「真実」を暴き立てて正義面をする。そういう作用が、残念ながら、インターネットにはある。マスコミまでもが、そういうひねくれ者に賛同して騒いでいるのだとしたら、大問題だ。うーん。
2014年11月26日 時間の使い方
今、ナイジェリアにいる。治安を確保する意味で、かなりリッチなホテルに泊まらせてもらっている。バーもあるし、プールもあるし、インターネットもある。でも、内心、腐っている。ホテルに缶詰というのは、こういう状態か、と思う。どれだけリッチなサービスがあっても、結局、飽きてしまう。
家にいるという当たり前のことが、とても素敵だ、と思える。何しろ、自分で自分の生活をカスタマイズできるのだ。絵を描く道具もあるし、読んでいない本もたくさんある。着替える服も選べるし、食べたい料理がつくれる。大音量で鳴るスピーカもないし、使い慣れたスキャナもプリンタもない。ホテルは、そういう当たり前のことが大きく制限される。
最近、仕事で1か月とか海外に行ったりする。残業はないし、育児に時間を取られることもないし、ちょっとした家事だってやらなくていい。時間は有り余っているはずなのに、でも、本当にやりたいことは何も出来ていないな、と感じる。ホント、もったいない過ごし方だと思う。
当面はこういう海外生活が続くので、何とか改善しなくちゃいけない。ホテルでできることとできないことを、もっと精査する必要があるだろう。ホテルでもできるように旅支度を改善する必要もあるだろう。
最近、まめに「日々の雑記」を更新するようにした。これはホテルでもできることのひとつだからだ。ちぃ子がWordPressでウェブサイトを構築してくれたので、どこからでも更新できるのである。それから読書。昔買って読まずに仕舞い込んでいたベスト・セラーなんかをスーツ・ケースに入れて、持ってきて読んでいる。ほかにはどんなことが出来るだろうか。いろいろと考えている途上である。
2014年11月27日 複雑なコミュニケーション
昔、マーケティングの専門家の牛窪恵さんが「さとり世代」について記事を書いていて、「日々の雑記」でも触れたことがある。ナウシカが放送されるときに、それをオンタイムで見て、Twitterなどで感想を共有することに価値を見い出す若者たちについて書いていた。彼らにナウシカを録画して、後で見ればいいなんて通じない、という記事。ボクはこれを「共時間性」を大切にする感性だ、と評価したような気がする。同じ時間を共有することに強い価値を見いだす、と考えたのだ。
でも、最近、ボクよりも若い世代の人たちを眺めていて、もう少し踏み込んで考えたことがあるので、ちょっと書いてみようと思う。
たまに電車に乗っていると、同じ空間にいながら、全ッ然、違うゲームをしている集団がいる。あるいは各自、勝手に漫画を読んでいる集団もいる。たまに会話もしているし、ゲームのモニタや漫画の1ページを見せたりして情報を共有しているが、ある瞬間には自分のプレイや読書に集中している。これって、とても不思議な景色だな、と思っていた。同じ空間にいながら、お互いに別々のことをしている。それでも彼らは友達で、群れている。「個」としてバラバラでありながら、何となく寄り添っている。絶妙なバランス感覚だ。こういうのは「空間」はともにしていながら、「時間」は別々だ。
その一方で、牛窪さんが紹介するように、顔も見えない不特定多数の人たちと同じ時間を共有したりするわけで、こっちは「場所」は別々なのに、過ごしている「時間」は同じ、ということになるので、正反対の過ごし方である。
たとえば、みんなで話をしているときに電話がなる。年配の人は「ちょっと、すみません」とその場を離れて電話して、終わって、また戻ってくる。若者は、輪の中にいるまんま、直前まで話していた内容の延長のような雰囲気で電話に出て、また何事もなかったかのように会話に戻ってくる。音だけ聞いていると、もしかしたら、彼が電話をしていることに気がつかないかもしれない。そのくらい自然に電話に出るのだ。ある意味で、彼らは器用だ、と言える。
ボクはこういうのを眺めながら、若者は複雑なコミュニケーション能力を持っているのだ、と分析する。こういう複雑なコミュニケーションは、インターネットやケータイの普及によるものだろう。同じ空間を共有しながら別の時間を過ごしたり、別の空間にいながら同じ時間を共有する。そういうコミュニケーションのスタイルが、若者に導入されたのだろう。そういうスタイルに馴染めない年配は、最近の若者はコミュニケーションができない、と感じるのかもしれない。
インターネットは、もしかしたら、「時間」や「場所」すらも共有しないコミュニケーションをも実現させているのかもしれない。誰かがどこか遠い場所で書き込んだ内容に、全然別の場所にいる誰かが、数時間後にコメントする。書いた人間は、それをまた別の場所で、別の時間にリプライするのだ。こんなに複雑なコミュニケーションってあるだろうか。
いい悪いの話ではなく、そういう形のコミュニケーションが誕生して、若者たちの間に定着した。おそらく、ボクはちょうどインターネットやケータイが普及する過渡期に育っていて、その狭間で過ごした。ボクも、半分くらいはそういう複雑なコミュニケーションを使っている部類に入るだろう。おそらく、こういうコミュニケーションが一般的になっていく。
2014年11月28日 活動写真
写真の撮り方には人間性が出るなあ、と思っている。
ボクの写真はいつだって散漫だ。いつもいろんなことを考えていて、ひとつのことに集中していない。それが如実に表れている。実にいろんなものを撮りながら、今ひとつ、焦点が合っていない。多分、シャッタを切るときには、頭の中が次のものに移っていて、もう、今撮ろうとしているものから興味が離れているのだ。
興味のあるものに集中している。そんな写真を撮る人もいる。写真を見ると、ああ、この人はこれに興味を持ったんだなあ、とよく分かる。でも、その代わり、自分に興味のないものはほとんど撮っていない。
仕事をしていて、現場に出掛けて、写真を撮る。今のところ、ボクは一番、若いので、みんなのプロジェクトの写真を集めて、撮影日や場所、撮影目的など、適切なカテゴリィで写真を整理する。だから、いろんな人のSDカードの中身を見ることになる。
感動したのはK山さん。ちゃんと活動写真になっている。写っているのは、風景でも、場所でもなく、仕事をしているボクたちだ。ボクたちの表情を撮影している。こういう写真の撮り方をする人に、ボクはあんまり出会わない。現場に行って、説明を受けて、いろんな物を見る。普通は現場の風景とか、説明をしてくれている人とか、説明されている物を撮る。あるいはちょっと離れたところから、作業風景を撮る。でも、彼の場合、そうではなくって、ボクがちょっと地図を広げて考え込んでいる様子とか、大丈夫かな、と心配げに様子を見ているT田さんの様子とか、そういう瞬間瞬間の表情を捉えている。まさに活動写真である。
ああ、こういう写真の撮り方もあるのだ、と思うとともに、こういう写真の撮り方をしたいな、と感服されられた。
2014年11月29日 モスク爆破テロル
カノのモスクが爆破されたらしい。240人死んだと報道されている。本国であるナイジェリアでは、思いの外、大騒動になっていない。日常のヒトコマになってしまっている。でも、日本国内では大きく取り上げられているかもしれない。心配のメールをいくつかいただいた。
クリスチャンは日曜日に教会に行くが、ムスリムは金曜日にモスクに行く。それを狙ったテロルだ。直接、ボコ・ハラムがやったのかどうかは分からない。でも、そのモスクのイスラーム指導者がボコ・ハラムに対する抵抗を訴えていたらしい。イスラームがイスラームを襲うなんて、もう、滅茶苦茶だ。全ッ然、統制が取れていないのだろう。
本来、西洋教育に対する抵抗と、ナイジェリア国内でのイスラーム法の制定が目的だったはずなのに、指導者もよく分からなくなっているし、どこかで歪んでしまっている。うーん。