2014年2月6日 雑音の中で、如何にして芸術と向き合うべきか!?

ゴーストライタのカミングアウトで世間は賑わっている。うーん。よく知らない人だなあ、佐村河内さん。でも、このニュースに、ボクはちょっと衝撃を受けた。何かというと、このご時勢、そんなことがあるんだなあ、ということ。やー、あるだろうけど、何だろうな。墓場まで持っていくのがせめてもの「誠意」じゃないかなあ、と思ってビックリしたわけだ。

「偶像(アイドル)」というのは、大なり小なり、理想化されている。テレビでの発言や雑誌でのコメントは、多分に演出されていて、美化されている。そういうのって、度が過ぎると誠実じゃなくなっちゃうかもしれないけれど、でも、みんな、そういう装飾的なものが多少はあることを了解していて、憧れている。もしもそうじゃないとしたら、それはただの馬鹿だ。

だから、そういう「演出」の範疇かどうかが問われるのだろう、と思う。「全聾の作曲家」というブランドと実態の乖離。これが「虚偽」か「演出」か。多分、印象としては、「虚偽」の側に傾くかなあ、と思う。でも、本当のことを言えば、本来、出来上がった作品の音楽性を評価するときに、作曲家の「全聾」という特性って無関係だ。誰がどういう状況で作ろうとも、いい曲はいい曲だし、悪い曲は悪い曲。「いい曲」だったのだとすれば(ボクは聴いたこともないし、知らないけれど!)、それでいいじゃないか、という気がする。もしも万が一、「まあ、他の楽曲に比べると劣るけど、全聾の作曲家がつくったのならいいかな」と思ってしまったのだとしたら、それって、作品そのものに対する正当な評価ではない。まんまと彼らの戦略に嵌っている。そして、嵌められてしまった自分に自己嫌悪すればいい。少なくとも「騙された!」と憤るのは間違いだ。

いずれにしても、芸能人が本を書いた場合、ゴーストライタを使って書く本だって多分にあって、その芸能人の知名度で本を売り出そうと画策しているのであって、みんな、ある程度はゴーストライタが書いたんじゃないかと疑って掛かっているのであって、商業なんてそんなもんだ、と思う。シンガソングライタだって、どこまで本人が作詞作曲しているか怪しいもんだ。もっと言えば、こういうのって、そういう明白なゴーストライタに限った話ではなくって、高名な大先生が書いたからとか、識者が認めたものだからとか、大きな賞を獲った作品だからとか、実は芸術作品って、そういうプロフィールという雑音と相俟って成立しているものってたくさんある。

結局、今回の事件で浮き彫りになったのは、人間が芸術に向き合うときに、如何に雑音の影響を受けるか、ということだ。いいものはいい。悪いものは悪い。雑音と切り離して、純粋に作品の価値だけで論じることって、とても難しい。そういうことが、この事件で明々白々になったのだ、と思う。