2017年5月1日 なかったことにされてしまうのが嫌なので。

いるま嬢が一昨日、新譜のMVを公開していた。予定は把握していたが、うっかり失念していた。

今の時代、音楽は音だけでなく、映像もセットらしい。映像がないと、そしてYoutubeにアップロードされないと、なかったことにされてしまう。そんな風に大森靖子が言っていて、はたと、ああ、そうだなあ、と痛感した。Youtubeをきっかけに新しいアーティストを知ることも多くなったし、膨大な楽曲があるはずなのに、Youtubeを梯子して、そのアーティストの楽曲を知った気になったりすることも多い。Youtubeを介してしか触れ合わない音楽が圧倒的に多くなっている。だから「なかったことにされてしまう」というのは、決して過大な表現ではない。そういう意味じゃ、あまりガンガンと新譜を出さないいるま嬢が、こうしてMVを引っ提げてやって来るというのは、非常にいいことである。

いるま嬢の良さというよりは、ヴァイオリンとギターを全面に押し出したような楽曲で、彼らの魅力が存分に堪能できる。その一歩引いた感じも、また、面白いな、と感じる。プロデューサだなあ、彼女は。

2017年5月5日 クラシック音楽を聴きながら過ごすゴールデンウィーク

両親が二人ともチェロを弾く。趣味の楽団に入っていて、その演奏会がゴールデンウィーク真っ只中の5日にあった。練習している二人を見た3歳の息子のツクル氏が「演奏会、行きたい!」などと言うので、試しに連れて行ってみた。退屈かな、と思っていたが、目をキラキラさせて聞いている。素敵なことである。モーツァルトとメンデルスゾーンだったが、メンデルスゾーンはピチカートがあって、そういう面白さは伝わるらしく、身体を起こして聞いている。

そんなワケで、我が家に久々にクラシック音楽ライフが戻って来た。昔はボクもよく聞いていたが、ここのところ、ご無沙汰だった。最近では、著作権切れの演奏もフリーで手に入る時代だし、音楽環境はかなり変わりつつある。サン=サーンスの「死の舞踏」が聴きたいなあ、と思ったら、フリーで落ちていた。演奏はそこそこだが、でも、ボクは演奏よりもどちらかと言えば、作曲家の視点で音楽を聞くので、それはそれでよい。

ゴールデンウィークは大音量でクラシックが流れている我が家である。

2017年5月10日 古屋兎丸ってメジャーだっけ!?

最近、古屋兎丸の漫画が書店で平積みされている。彼はアングラ作家だと認識していたボクとしてはビックリしている。『帝一の國』が映画化されたというのは大きいが、彼の作品は昔から根強いファンがいて、劇脚本化もされていたわけで、映画のメジャー度合ってすごいな、とも思う。売れているということなのだろう。

もしかしたら、音楽も漫画も同様で、価値観が多様化して、ニーズが多様化しているので、一極集中ではなく、いろんなものが売れる時代になっているのかもしれない。だからこそ、アングラ志向の音楽や漫画も表に出てきて、日の目を見ている。そういう意味では、いい時代になったなあ、と思う。

『帝一の國』は完全にギャグ漫画で、キャラクタの個性が立っていて、いい意味でも悪い意味でも同人受けしそうな感じ。どのキャラクタで組み立てても、面白いドラマが描けそうなので、その辺は兎丸さんも上手だ。そして熱血学園ものなので、大衆受けしそうだ。それでも、大真面目なギャグ漫画なので、やっぱりアングラ志向だよなあ。わっはっは。

2017年5月18日 緑鬼は角3本って本当!?

ウェブサイトで調べていたら、「赤鬼は金棒、青鬼は刺股、黄鬼は両刃のこぎり、緑鬼は薙刀、黒鬼は斧」と肌の色によって所持している武器が異なるとの説明を発見した。ボクはいろんな妖怪本を読んでいるけれど、この記述は初めて見た。どこからの引用だろうか。いろいろとインターネットで調べてみるが、みんな、文面が同じなので、きっと、誰かが書いた文章をコピペしているのだろうと思われる。インターネットに出回ると、それがさも真実のように浸透していく。そして、一次文献が不明確になる。ホント、出典はどこだろうか? 誰かご存知か? とは言え、面白いので、ボクもこれから絵を描くときには、青鬼には刺股を、緑鬼には薙刀を持たせてみようと思っている。

ちなみに、うちの息子は「赤鬼は角が1本なんだよ! 青鬼は2本なんだってさー!」などと言っている。保育園の先生が節分のときにそう教えたのだろう。いじわるなボクが「じゃ、緑鬼は?」と訊いてみたら、しばらくはうーん、と考え込んでから「3本だ!」と答える。こうやって、「真実」は形成されていくのかもしれないな、と思う。特に妖怪の場合は実態がないので、証明のしようもないので、言ったもん勝ちだ、という側面は否定できない。

2017年5月21日 死番虫!?

パキスタンで購入したスパイス。瓶につめてキッチンに飾っておいたら、死番虫が大量発生していてビックリした。ぎゃあ。発生していたのはクミン。コリアンダーとカイエンペッパーにも1匹いたが、大量発生はしていないのは、環境が厳しいからだろう。

幸い、瓶が封をされている状態だったので、外に出てくるようなことはなく、まるで蟻の巣観察キットみたいに、クミンの中でうじゃうじゃと動き回る死番虫を観察できる状態。

海外渡航が多く、常温に放置したまま、ほとんど使わなかったのがいけないのだろう。でも、もともと卵があったということで、衛生管理的にはいかがなものか、と思う。途上国のスパイスは信用ならない。一度、冷凍すれば、卵は死ぬらしいので、持ち帰った後、そういうやり方を徹底する必要がありそうだ。

2017年5月30日 ノンアル生活のすゝめ

意外に思われるかどうかは正直分からないが、ボクは積極的にアルコールを飲みたいと思わない。

たとえば、相手が5本飲めば、ボクも5本飲む。日本酒をあけたいと言えば付き合うし、ウィスキィを1本空けるぞ、と誘われればのる。対外的にはカクテルが趣味で、シェイカを持っていると公言している。

それでも、ボク自身は自分の意思でアルコールを飲まない。何せ飲んでしまったら、その後のボクは使えなくなることを、誰でもないボク自身がよく諒解している。

ボクは時間があれば文章を書きたいし、絵を描きたいし、神話・伝承にのめり込んでいたい。飲むと、それが出来なくなる。

勿論、アルコールを飲んで、常識からぶっ飛んで自由な状態で創作をするスタイルの人をボクは知っている。でも、ボクはそのやり方はできない。何だか分からないが、妙な罪悪感を覚えてしまう。それはつまり、アルコールというシークレットブーツで産み出した創作はボクのものではないという変な思い込みで、願わくは頭がクリアーなときに創作をしたいと常々思っている。

アルコールの摂取は、ボクにとって、その日は創作をしない、という決意を意味する。そんな一日は無意味だ。だからボクは飲まない。願わくは創作活動が一段落したその瞬間に誘われるのが理想だ。でも、そんな時間に誘えるのはちぃ子(妻)だけなのである。