《日々の雑記》

2020年3月5日 「一丸」に加われないとたちまち「非国民」扱いされ、糾弾される。

たまたまニュースサイトを読み漁っていたら見つけた。雨宮処凛の記事だ。ボクは政治的に彼女を支持するわけでも、彼女の思想の支持者でもない。でも、この記事の内容には概ねアグリーだ。ボクが感じていることを、うまく言葉で表現している。

「不要不急」ではないからとイベントなどの中止を要請される側からは多くの悲鳴が上がっている。観客にとっては「楽しみ」「遊び」であるイベントだが、それが「仕事」である人たちにとってはたまったものではないだろう。

非常時には、格差がむき出しになる。持つ者と持たざる者の差が歴然と開く。そして、「国民一丸となって乗り切ろう」みたいな時に、様々な事情からその「一丸」に加われないとたちまち「非国民」扱いされ、糾弾される。

コロナが問題となってから、私は電車に乗るのが怖くなった。コロナウイルスが怖いのではない。自分ではなくとも誰かが咳をするたびに凍りつくような空気や苛立ったような舌打ちが怖いのだ。(……中略……)もちろん、自分の身を守ることは大切だ。しかし、それを理由に行き過ぎた防衛、排除が大手を振っている気がしてならないのだ。誰かを吊るし上げる口実を常に探しているようなこの国の空気が、怖い。

ボクが感じていることを、うまく彼女が言語化してくれている。ボクの拙い言葉よりも、絶対、彼女の言葉の方が伝わるので、是非、読んでみて、そして一度、立ち止まって考えてみて欲しいな、と思う。今回の記事では登場しないが、彼女はしばしば「不寛容」という言葉を使う。そういう彼女の考え方そのものも、ボクは概ねアグリーだ。

2020年3月4日 緩やかな他殺

椎名林檎がライブを敢行してバッシングされている。25日の雑記に書いたとおり、ドミノ倒し的に社会全体がイベント強行をバッシングする流れになった。まあ、予想どおり。そして、何故だかYOSHIKIがイベント団体にイベント中止を呼び掛けるという慈善事業に精を出している。この活動で特段、彼の株が上がるわけではないので、自己犠牲の精神だろう。ボクはどちらもファンなので、少々、複雑で、ざわざわした波紋を投げかけている。椎名林檎かYOSHIKIかという取捨選択のゲームに身を投じてしまっている点で、やっぱり彼にとってはあんまり得はないのに、と感じる。それでも、わざわざツイートしたかったのだろう。

ただ、ボクはひとつだけ、投げかけをしたい。誰しもが社会に貢献すべきだけれど、でも、損得勘定を度外視して実施することではない、という点だ。椎名林檎がどうしてライブを敢行したのかは分からない。「この流れに身を任せてはいけない」という彼女の信念に基づくものなのかもしれないし、炎上商法であるかもしれない。でも、一番あり得るのは、彼女が会社の経営者として損得勘定を計算して判断したというところだ。もしそうだとしたら、ライブイベントで生計を立てる多くの関係者を抱えているし、会社の経営状況だって考える必要がある。赤字覚悟で社会貢献をしろ、とボクたちが彼女に自己犠牲を強いるのは間違っている。

彼女に自己犠牲を強いて彼女のライブの強行をバッシングする人間は、自分の生活と仕事を放棄するだけの覚悟が必要だ。自分だけはちゃんと会社に通って、ちゃんとお給料をもらっていて、安全な立場に立ったまんまで、外野として彼女をバッシングすることは許されない。1万人が参加するほどの規模の大きいイベントだから、確かに影響は大きい。でも、だからと言って彼女の会社が赤字になってもよいということではないし、それで彼女が路頭に迷ってもよいということではない。それをフォローするシステムの構築が先だ。クラウドファンディングで顧客にヘルプを求めればよいという意見もあるけれど、全てのアーティストが同じ手を使ったら、結局、ファンは全てのアーティストを救えないわけで、そんなのは理想論だ。うまく立ち回って助かるアーティストが出るというだけの話で、根本的な解決にはならない。ディズニーランドが閉園しているじゃないかとか、スポーツジムが休館しているじゃないかという意見もある。でも、赤字で倒産するという事態になっても、それでも彼らが閉園のまま、休館のままでいることを強いることはできない。終わりが見えない中で、いつか疲弊して、倒産するか、開業するかの選択肢を強いられる。結局、事態は同じだ。大手だけは多少、体力があるから、従える。中小企業は先に悲鳴を上げて、動き出す。タイミングを逸したら倒産する。そういう議論をしなきゃいけない。「無責任」と彼女を責めるなら、満員電車での濃厚接触を避けるためにあなたの会社の社員全てが出勤を禁止すべきだ、という世論に晒されることを想像すればよい。それで会社が倒産しても、誰もあなたを守ってはくれない。そこまで想像した上で、それでもよい、社会のためだ、と腹を括れる人間だけが、彼女をバッシングできる。少なくとも、ボクはそう思う。

 * * *

さて、真面目な記事は疲れるので、たまには昔みたいにギャグでも。「せ」で始まるギャグを考えてみるというお題を自分に課してみる。

「羨望の眼差しで通せんぼう」

「センセーショナルな先生」

「洗濯をしないという選択」

「セミダブルで寝るセミだ」

「政府の発表はアウト!」

……うーん、最後のはちょっと難しいか!? そして、ちょっとエスプリが効きすぎている!?

2020年2月27日 天才的切り返し!!

最近、息子のツクル氏がダジャレにハマっている。ボクがダジャレを言うたびに「パパー、またダジャレだー」とケラケラと笑っているものだから、ボクもついつい調子に乗ってダジャレを連発している。最近、息子が気に入っているのが「カッターを買ったー。安かったー!」というヤツで「ダジャレが3つもある!!」と喜んでいる。3つで凄いと思っているなら、もっともっと父の凄みを見せつけてやるぞ、と思ったボクは……

「カッターを買ったー。君より安かったー! 勝ったー!!」

と言ってみた。「うわー、4つだー。大変ー!!」と大盛り上がり。それならば、とボクは調子に乗ってカッターを使って紙を切るジェスチャーをしながら……

「カッターを買ったー。君より安かったー! 勝ったー!! んー、硬(かった)ー!!!」

と言ったみた。「うわー、5つだー!!!」と盛りあがるかと思ったら、ツクル氏は即座に、

「パパ、それはきっと安かったからだよ。安いカッターだからうまく切れないんだよね?」

と切り返されてしまった。5歳児にして安かろう悪かろうの理屈が分かっているというのか!! さすが!! やるなッ!!

2020年2月25日 緩やかな自殺

新型コロナが大流行中だ。これに伴って、軒並み、各地のイベントが中止に追い込まれている。でも、誤解を恐れずに書くと、ボクはちょっとこのムーブメントに異を唱えたい。

リスクというのは、常に数字にして比較する必要がある。例えば、2019年の交通事故による死者数は3,215人だ。年々、減少傾向にあって、それ自体はとても素敵なことだけれど、1年間に3,000人を超える人が亡くなっている事実は重く受け止めなければならない。でも、それに対して、じゃあ、自動車を排除せよ、という主張はあまり聞かれない。インフルエンザではどうか。2019年のデータがないので、2018年のデータを持ってくるが、インフルエンザによる死者数は3,325人。実は日本では、交通事故で死ぬ人よりもインフルエンザで死ぬ人の方が少しだけ多い。それでも、やっぱり3,000人を超える人が亡くなっている。

今、日本で死者が新型コロナが大流行して死者が4人。交通事故による死者数やインフルエンザの死者数を越えるくらいの流行になるだろうか。あるいはそれを遥かに上回るくらいの脅威になるのだろうか。

……この辺の見極めが非常に難しいな、と思う。インフルエンザと同程度に落ち着くのであれば、インフルエンザと同じ対応でよい。新型コロナでイベントが中止ならば、インフルエンザが流行した瞬間にあまねくイベントは中止すべきだ。

それよりもボクが気にしているのは、経済だ。イベントが中止になると、それに付随する産業がダメージを受けて、経済は大ダメージだ。一説によると、今回のコロナ騒動で、東日本大震災以上に経済に悪影響が出ているらしい。それによって職を失う人や廃業に追い込まれる人が出る。そちらの方にも目を向けるべきでないのか。人間の命をコスト換算するな、と怒られそうだけれども、新型コロナで入院したり、死亡することの経済損失と、イベントを軒並み中止することの経済損失を考えたときに、果たしてどちらの方が大きいのか。そして、失われた経済の失速感は、取り戻すのに何年かかるのか。

イベントを中止することはたやすい。特にそれで収益をあげようとしていない会議や式典、報告会、研修みたいなものは、容易に中止できる。でも、そういう小さなイベントが次々と開催の中止を決めてしまうと、より大きなイベントは、それに引きずられるように中止に追い込まれていく。中止することで大損害を被るイベントは最後まで粘るかもしれないが、それでも、イベント中止が正義みたいな大きな世論の流れの中で、煩悶するだろう。そのうちに、イベント開催を強行する団体を叩いて喜ぶ輩が出現して、社会全体、お祭り状態になる。もう、ワンパターンの既定路線だ。

新型コロナと一緒に、日本人は緩やかに経済的に自殺しようとしているように見える。もうちょっと冷静に、科学的・定量的に議論して、方針を出せる社会を望む。

2020年2月10日 仕事は選ばなければいくらでもあるのだけれど、どうせなら選んで勝った方がいいじゃない!?

破竹の勢いだ。宮迫が1週間であっという間に登録者数が50万人を突破した。

明石家さんまがラジオで宮迫について口を開いたらしく、曰く、宮迫にも「生活がある」し「(復帰が)早いと言う」けれども「みんな生きていかなあかん」とのこと。まさにそのとおりだ。非常に庶民的な、そして、普通の感覚を持った発言だな、と感じて、明石家さんまに共感していたら、記事には続きがあって、ネットではこの発言に辛口なのな意見が『目立っている』らしい。「本当に生活費が必要なら、別に芸能界じゃなくてもいい」とか「仕事は選ばなければいくらでもある」ということらしい。

でも、本来、好きなことをして生きていくのが人間で、生活費のために人生を棒に振るものではない。仕事も自己実現のひとつであり、何でもいいわけじゃない。何でもいいなら、もっと簡単で、人生悩まない。金が稼げれば何でもいいじゃない、なんて生き方をしている人間はいない。大なり小なり、やり甲斐や達成感を求めて働いているし、自己の価値観の中で最適解を探して生きている。「仕事は選ばなければいくらでもある」とは、果たして何様の発言なのか。そして、わざわざそういう発言を持ってきて記事にする記者もよっぽど性格が悪いな、と感じる。

大体、若くして芸能界に入って、ずぅっとそこで生きて来た彼にとって、得意なことも、やりたいことも、芸能界にある。そこに執着する気持ちも理解できる。そして、得意なところで勝負して勝つのが人間の生き方だとしたら、YouTubeで彼はあっという間に登録者数を50万人突破。すなわち、稼ぐことを最優先に考えても、自己実現を最優先に考えても、結局、彼の勝ちだ。「仕事を選ばなければいくらでもある」社会の中で、彼は適切な職業を「選んだ」わけで、何か問題があるの!?

案外、若い世代の方が寛容で優しいのかもしれないよね。宮迫が受け入れられているのを見て、そんなことを感じる。だったら、若い世代の方が勝ち組で、きっとハッピィだろうな、と思う。

2020年2月9日 ノリ突っ込まないスタイル!?

M-1でぺこぱが3位になったが、ノリ突っ込まない優しい漫才としての新境地を切り開いた。まだまだ漫才に新しい可能性があるのだ、と見せつけられた感じだ。

さて、2019年11月に発売された「がっかりなファンタジーせいぶつ事典」。かなり面白い。今泉忠明さんが監修する「おもしろい! 進化のふしぎ ざんねんないきもの事典」のパロディと言えばパロディだが、「ああ、そういう切り口があったか!」と思ってしまった。がっかりなファンタジーせいぶつと言えば、アントライオンかバロメッツが断トツだよね、と思うけれど、カトブレパスとかアクリスなんかを並べられてしまうと、「確かにがっかりだ!!」と膝を打ってしまった。

この本、「がっかりなファンタジーせいぶつ事典」は、何よりも表紙がカワイイ。素敵。中の絵もカワイイ。素敵。そして、この絵がコミカルさを演出している。それでいて、知らない情報もちゃんと載っているあたり、池上さんが監修しているだけのことはあって、オススメの本である。

2020年2月8日 キラキラ・ネームだった!!!

息子のツクル氏の作品展に行ってきた。幼稚園も年長なので、今年で最後の作品展だ。結構、先生たちが大変だなあ、と思う。教室をテーマに沿ってデコって、そこに子供たちの作品を展示する。年長のテーマは「エルマーのぼうけん」で、各クラス「7匹のトラ」「ライオン」「ゴリラ」などと出会い、逃げ出すシーンを再現していた。年中は「わゴムはどのくらいのびるかしら?」という本をテーマに「エジプト」や「海の中」や「宇宙」まで辿り着くといった世界観をつくりあげていて、面白かった。まさか幼稚園の作品展でファラオやピラミッド、マミー、ヒエログリフを見ることになるとは思わなかった!! 先生の趣味だろうか。だとしたら、気が合いそうだけど……? 子供の想像力と創造力はすごい。

……でも、それ以上に、作品の横に園児の名前が漢字で添えて合って、普段、耳で聞くと普通の響きで、うちの幼稚園の子供はキラキラが少ないなあ、と思っていたのに、実は用いている漢字が普通じゃなくって、キラキラであることに衝撃を受けた日だった。漢字を眺めながら、息子が普段、口にしているいろいろなお友達の名前を思い浮かべながら、「ああ、これはあの子か! こう読むのか!」と一人一人、紐づけないと理解ができない。そんな変な漢字を使わなくてもいいじゃん。……というか、響きは普通だけど、読めねぇよッ!!

2020年2月5日 2020年新作ショコラを求めて

2月はバレンタインがあるので、それに向けてあちこちでチョコレートのフェアをやっていて、幸せなことである。世界各地からいろんな種類のチョコレートがやってきて、特設店を構えている。横浜の高島屋も、ベルギーやフランス、イタリアやアメリカなど、世界各地のショコラティエたちの作品を取り揃えている。

実は毎年、そごうや高島屋を訪れては、かなりの散財をするボクである。女性客がたくさん訪れ、ものすごく混雑するので、平日に休暇をとって遊びに来たボクである。

ボクは結構、変わり種が好きで、昔っから、セバスチャン・ブイエの胡椒のチョコレートや、フレデリック・カッセル山椒のチョコなどに感銘を受け、いろいろと新しいショコラティエを発掘しようと毎年、勤しんでいる。今年はエドワートのインドカレーのプラリネとか、グイド・ゴビーノのオリーブのチョコなどが印象的だった。

そんなこんなで、そこいら辺のお姉さま方よりもバレンタインを満喫するチョコレート男子のボクである。

2020年2月4日 この世界にもっと寛容さを!!

宮迫がYoutubeで復帰して、随分と叩かれている。でも、メインで叩いているのはメディアであって、実は宮迫の評価は、必ずしもバッシングだけではない。低評価の方が多いのは事実だが、高評価もその半分近く押されていて、ある意味では順調な走り出しと言える。カジサックの始まりの方が酷かったし、ヒカルが復帰するときの方がもっとアウェーだった。それなのに、メディアは低評価の部分だけを取り上げて、先行きを案じる記事を出している。これは偏向報道だと思うし、イジメの構造に近い。

宮迫本人もYoutubeで述べているように、彼はミッキーではなくグーフィーなので、ボクも宮迫本人に取り立てて愛着があるワケでもないし、バラエティタレントその1という位置付けだったので、彼を特段、擁護する意図はない。復活を心待ちにしていたワケでもないし、今後の活躍に期待しているワケでもない。もっと正直に言ってしまえば、カジサックのチャンネルで下半身丸出しで料理をしている彼に対して「何が面白いのか?」と首を傾げていた側の人間である。それでも、ボクは彼が復活を目指して頑張っているのであれば、それはそれでいいじゃん、と思っている。再起を掛けて頑張ろうとする人間の足を引っ張る不寛容は不要だ。

勿論、彼を心配する部分もないわけではない。ロンドンブーツ1号2号がコンビでの復帰にこだわって、淳が必死に復帰の場を準備していたのと対照的に、宮迫は一人で勝手に走り出した印象を与えている。この対比は、彼にとっては苦しくなるだろうな、と思う。あるいは、吉本とうまく行かない中で、宮迫は、もう、コンビでの復活に見切りをつけて取り敢えず走り出したと見るべきだろうか。

もうひとつは「戦略」だ。カジサックにしろ、オリラジのあっちゃんにしろ、かなりYoutubeを研究して、戦略を練って乗り込んできた。カジサックはテレビのやり方をYoutubeに持ち込みながら、一方で距離感を視聴者に寄せて、うまくテレビ的な画とYoutube的な枠組みの融合を図ろうとしているし、あっちゃんはとことんコンテンツと喋りだけで攻めて、編集しないスタイルで進めている。宮迫はどんな戦略で攻めるつもりなのか。ここは楽しみなところでもあり、不安の残る部分ではある。たくさんの芸能人がYoutubeに乗り込んできて撃沈しているので、そうならないだけの戦略が必要だ。

奇しくもレぺゼン地球のDJ社長が言及していたが、対象をどこに絞り込むかは悩ましい問題だろう。宮迫は30~40代にウケる芸風だが、今、コラボをしているヒカルやレぺゼン地球は20代にウケるクリエイターだ。おそらく、今回のコラボで宮迫を支持したのは、Youtubeを見る習慣のある若い世代だ。一度、宮迫や亮を追放したテレビの旧態依然とした古臭さに疑問を感じる若い感性が彼を支持した。宮迫は、そういう世代に対して面白さを提供していく必要がある。その辺は、結構、大変なのではないかな、と思っている。

メディアのバッシングとは裏腹に、彼の走り出しは順調で、あっという間に登録者数は45万人を突破したらしい。ヒカル、レペゼン地球とのコラボが効いたのだろう。敢えて亮の復活イベントの前日に復活するという荒っぽい広告(おそらく、これは宮迫本人の意思というよりは、ブレーンの差し金だろうと推察される!)も、効果があったのかもしれない。この波にうまくノッていけるのか。そして、いつものようにメディアは掌返しをするのか?

いずれにしても、ボクは社会にもっと寛容さが必要だと思う。それは、闇営業の件だけではなくって、いろんなところに感じるところである。東出さんも、徳井さんも、いろいろと、ね。そんなことでここまでバッシングしてくれるなよ、と思う。そして、最近、こういうメディアの論調が、段々、大衆の感覚以上に過激で、攻撃的になっている気がする。大衆の方がもっとずっと冷めていて、はたと冷静になるのに、メディアの方がその冷静さに気づかずに突っ走る。そんなに大衆をバカにするものではないぞ、と思いつつ。

2020年1月7日 木端微塵にしてやるよ!!

年賀状用に火鼠だけでなく、コダマネズミの絵も描いてみた。彩色はしていないが、絵としては面白い感じ。ぷくーっと膨れていく感じがよい。かわいい顔をして、猟師がやってくると木端微塵に弾け飛び、肉片を撒き散らすという性質の悪い妖怪だ。

2020年1月5日 インドネシアの妖怪に対する雑感。

最近のボクは仕事でインドネシアを頻繁に訪れている。インドネシアと言えば、オラン・ペンデグとかオラン・ガダンとかオラン・バッチみたいな未確認生物が有名で、ボクとしては、あれだけジャカルタが発展していて、先進国の仲間入りをしていて、JKT48とかが活躍しているのに、その一方では依然として未開のジャングルが残っていて、非接触部族も残っていて、不思議な島国だなあ、と思っていた。訪問した今でもその感想は変わらない。何しろ、メダンなんてインドネシアで第4の都市なのに、すぐ近くにはオランウータンが棲む熱帯雨林が広がっているわけだ。

未確認生物はともかくとして、インドネシアの妖怪について調べると、同じ熱帯の島国だからか、フィリピンの妖怪に似ている印象を受ける。フィリピンと言えば、アスワンとかマナナンガルみたいな恐ろしい女性の妖怪が大活躍する。同様に、インドネシアもお産で亡くなる妖怪が跋扈している。ポンティアナックとかクンティラナックなんかはおどろおどろしい感じだし、スンデルボロンも怖い。ポチョンはお産で亡くなったわけではないが、ホラー映画に登場したら怖いだろうな、と思う。そういうホラー映画向きの恐ろしい幽霊たちがたくさんいる。それがフィリピン的だし、日本的だな、と感じている。そのうち、詳細をまとめてレポートしたいな、と思っている。

2020年1月3日 2020年もよろしくお願いいたします。

あけましておめでとうございます。無事に新年の雑誌もお届けできました。恥ずかしい話、昨年は仕事に忙殺されており、入稿できないのではないかと危ぶんでおりましたが、綱渡りのように生きております。

子年なので、火鼠を描いてみました。中国伝承に登場する幻獣です。要するに、石綿です。

そんなわけで、2020年もよろしくお願いいたします。

2019年12月16日 入稿!!

今回も無事に2020年の雑誌を印刷会社に入稿。いやー、よかった。今年こそ落とすかと思った。何とか無理矢理に入稿まで漕ぎ着けた自分を褒めてあげたい。

2019年12月15日 忘年会スルー!?

「忘年会スルー」というワードがネットで話題になっている。ダウンタウンの松ちゃんも反応しているようだけれど、先日、職場の忘年会をブッチしたボクは、流行りにノッてしまっているらしい(笑)。

ボクは松ちゃんの発言も分からないではない。上司だって、部下とのコミュニケーションに悩みがないわけじゃないし、職場を盛り上げるために一所懸命なのであって、忘年会もそのためのひとつの手法である。だから、部下のサイドから一方的に「無意味」とか「地獄」などと言われては、可哀想である。上司の側も、いろいろと悩んでいる。そりゃあ、そうだ。

ボクは1週間前に担当の方が忘年会のとりまとめが来たときに「あ、その日は体調不良の予定ですので行けません」などといけしゃあしゃあと言い放って、早々に欠席を決め込んでいた。同じ職場の若手も、理由はボクとは違うのだろうが(当たり前だ!)、欠席を宣言していた。まあ、そういう時代である。結局、ボクは予定どおりに体調不良になって声が出なくなったので、想定どおりの欠席である(笑)。

いずれにせよ、日常から職場でちゃんとコミュニケーションをとれるのが理想で、アルコホルの力に依存しないのがいいと思う。結果として、そういう楽しい職場の忘年会は楽しいので、参加者も増える。定期的な飲み会でテコ入れしようという発想は間違っているし、結局、日々の積み重ねであることよ。

2019年12月14日 アンガーコントロールに努める10代

非難されるかもしれないが、ボクは個人的にグレタさんが好きじゃない。まあ、彼女は若いので、そのうち、もう少しよくなる可能性もあるので、そこに期待したいのだけれど、こうやって持ちあげられて、これが正しい道だ、と勘違いしてしまったら、ダメだろうなあ、と思う。

基本的に、ボクは理想主義者だ。その点ではグレタさんと同じ。でも、活動は常に実学であるべし。これがボクの徹底したスタンスだ。理想を追求すると、現実とのギャップが立ち現れる。そこで、現実の方を否定して理想を貫くと、それは夢想家とか空想家と同じで、ファンタジーになってしまう。現実を受け入れた上で、現実と理想のギャップを埋めていくのが、あるべき姿だ、とボクは思う。その意味で、飛行機に乗らずにヨットで移動、というのは面白いパフォーマンスだけれど、パフォーマンスでしかない。人間、時間は平等で、限られているので、誰もがヨットでのんびり海外に出掛けるなんて理想は実現できないし、こうやってグローバルな世界になったので、ボクはぱぱっと飛行機に乗ることで、短期間の渡航でアフリカやアジアを訪問し、彼らをサポートできる。ヨットなんかで途上国を助けようと思ったら、いつまで経っても救えない。ミレニアム開発目標は達成され、世界の貧困は半減した。こういうのは、人間の技術が成し遂げた偉業であり、飛行機の存在は無視はできない。

アルピニストの野口さんが、電車に乗っているグレタさんが揶揄したらしい。賛否両論で、そんなことで彼女をいじめるな、という声もある。でも、結局、それが現実というものだ。グレタさんも文明を享受し、満喫する。それって当然のことで、それが人間的に生きるということ。理想だけを追求する極端な発想は、矛盾が出る。矛盾を抱えて生きているのが人間で、必ずしも理想どおりには生きていけないのも人間。それを受け入れた上で、ソリューションを見つけていく。それが正しい道だ、とボクは思う。

まあ、ウェブの対応とかを見ていると、基本的には今風の賢いっぽい人に見えるので、過激な思想家にシンボルとして利用されて終わらないように、どこかで新たな道を切り開いて欲しいなあ、と思う。あるいは、極論を述べることで注目されることを、戦略としてやっているのであれば、それはそれでそのまま突き進みながら、獲得した知名度を活用して面白いことでもやってもらえればいいなあ。

2019年10月27日 馬から落ちて落馬する!?

意外と略語というのは危険だ。たとえば「HTML言語」という表現を見かけるが、厳密には「HTM言語」だ。何故なら、「HTML」の「L」は「language(言語)」だからだ。ボクはよく知らずに使っていたこともあるが「HIVウイルス」も、実は「V」が「Virus(ウイルス)」なので重複している。意外と当たり前に使われている「IT技術」も「T」は「Technology(技術)」なので、おかしなことになる。「JIS規格」の「S」も、厳密には「Standard(規格)」なので、本来は「JI規格」とすべきだったのだろうが、もう広まってしまったので今更、という感じだろう。「SUV車」というのも、「V」が「Vehicle(車)」だ。

実は外来語というのは、我々はよく理解しないで使っているケースも多い。「サハラ」は《砂漠》なので、「サハラ砂漠」は「砂漠砂漠」になってしまう。「ゴビ」もそうだ。「ゴビ砂漠」は「砂漠砂漠」。有名なのが「チゲ鍋」。「チゲ」が「鍋」なので「鍋鍋」になっている。意外と知られていないかもしれないのは「サンスクリット」。これは《洗練された言語》という意味なので、「サンスクリット語」とは言わない。専門家は気をつけているけれど、素人は「サンスクリット語」と呼んでいるだろうな、と思う。「ハングル」も同じ。「ハン」が韓国、「グル」が「語」なので「ハングル語」と訳したら間違い。

日本語でも重語というのはしばしばやってしまうのであって「違和感を感じる」などと言ってしまったりするけれど、日本語だとおかしいな、と気づくことができる。でも、略語や外来語は、深くその意味を考えないことが多いので、ともすれば、誤用する。

2019年10月26日 新しいことを学ぶ。

高校になると、科目が選択制になる。だから、たとえば、理科だと、物理、化学、生物、地学などの中から1つないしは2つを選択することになる。社会だと世界史、日本史、倫理、現代社会、地理などから選ぶ。

ボクは高校生のときに、理科の中からは物理と化学、社会の中からは世界史と倫理を選択した。でも、今になって、ボクは理科・社会のおさらいをしつつ、新たに生物や現社の勉強を始めた。いくつになっても、新しいことを知るのは楽しいもので、いろいろな発見がある。

2019年8月12日 N国党が暴れている……

政治的な発言をする意図はないが、ここのところ、N国党が大暴れだ。「NHKをぶっ壊す!」をスローガンにしていたが、今度は「マツコをぶっ壊す!」に切り替えて、メディアを駆使してマツコ・デラックスを口撃している。「ふざけて(票を)入れている人も相当数いる」という一部分を切り取って、「有権者をバカにした」と煽情的に叩かれ、一部では、多少、マツコ・デラックスの印象が悪くなったのではないか、と思うから、彼の口撃は成功しているのではないか。

正直、立花さんって政見放送にしても、今回の動き方にしても、メディア戦略がうまい。視聴者を盛り上げていく。悪い言い方をすれば、厚顔無恥で、手段を選ばないからこそ出来る戦略とも言える。こういうのと戦っていかなきゃいけない他の政党やメディアも、大変だなあ、と思う。インターネットが生まれ、SNS、YouTubeが生まれて、みんなが発信者になった。これまでみたいに紳士協定的にやってくれるわけではなく、こういうあざといこともやってくる発信者も登場する。そして、その方が面白く見えるときだってあるだろう。

ある意味では、NGT48の事件でも、吉本騒動でも同じで、メディアの中で大衆の心を捕まえ損なうとダメージを負う。我々は、まさにメディアを使った弱肉強食の世界にいる。そう割り切って、メディアをガンガン活用しながら、視聴者を煽りながらひた走るN国党のやり方は、まさに現代の政党なのだなあ、と思う。いい悪いではなくって、そういう時代だからこそ、我々は気を引き締め、メディアに踊らされないようにしなきゃいけないな、と思う。

ちなみに、ボク個人的には、NHKの教育チャンネルは大好きだし、このまま視聴率を気にせずにクオリティの高いものを作ってもらえればいいなあ、と思っている。一方で、大河ドラマにしろ朝ドラにしろ紅白歌合戦にしろ、ちょっと視聴率に振り回さ過ぎじゃないか、と思う。今回の大河ドラマの視聴率が振るわないという点で、いろいろと叩かれているが、本来、スポンサーがいるわけじゃないので、視聴率なんてどうでもいいはずだ。それに、有名人を駆使して、民放でも視聴率が取れそうな番組をつくって、それって民業圧迫じゃないか、とも思ったりする。民放がやって採算がとれるだろう分野はNHKがやる必要はない。そして、これだけネットやメディアが発達してきて、各人がいろいろな手段で情報を得られるようになった今、実は公共放送って何なのかという点を改めて議論すべきだろう、と思う。

総務大臣が「政見放送」と「災害情報」を挙げて公共放送の必要性を訴えていたが、どちらも、ちょっと考えれば代替手段がたくさん出てきそうだから、NHKだけの専売特許ではないし、NHKが担保しなくちゃ成り立たないものでもないような気がする。もっともっとNHKは公共放送とは何か、という議論をして、民放とのデマケーション、他のメディアとのデマケーションを考える。そういう時期に来ているのだろうな、とは思っている。

2019年8月11日 LGBTQIA+

言葉は日々、変化していく。知らない間に「ディスる」とか「エモい」という言葉が浸透して、普通に使われるようになった。「GAFA」という語もビジネスシーンで見かける。新しい概念が生まれるたびに、言葉は変化していく。「LGBT」という言葉があったが、今ではその4つの枠にハマらない性も意識されて、もっともっと多様になっているらしい。最終的にどういう言葉に落ち着くのかは分からないけれど、「LGBTQ」とか「LGBTQIA」、あるいは「LGBTQIA+」という語になってきている。カナダでは「LGBTTIQQ2SA」と呼んでいる事例もあるらしい。でも、そういうのは、正直、覚えにくいし、定着しないと思う。

そもそも、それぞれの事象に次々に名前をつけて細分化していったら、微に入り細に行って非常に難解になるような気がする。「LGBTの4つです」という定義の仕方そのものが誤りのような気がする。多様な性を認めよう、という広い定義にしておけばよかったのかもしれない。人はそれぞれで、多様なのだから、多様だ、というだけの定義でよかったのだ。

時代が変わって、新しい概念が生まれれば、新しい言葉が生まれる。でも、無理矢理に捻り出した言葉は、多分、定着しないのではないか、と思う。「LGBT」は語呂がいい。「LGBTQ」も、まあ、悪くはない。でも、それ以上に長くなると、何だかちょっと違うような気もする。その言葉の意味する多様性は否定しないが、言葉としての在り方に対しては、ボクは懐疑的だ。

2019年8月10日 時代は変わる……恐竜も変わる……

5歳の息子のツクル氏。マクドナルドのハッピーセットが大好物なわけだけれど、最近のハッピーセットは小学館と組んでハッピーセットオリジナルの「小学館の図鑑NEO」のミニ図鑑を出している。単なるオモチャではなくって、こういう教育的なオマケというのは悪くない。そんなわけで、息子がここ最近、恐竜に超ハマっている。奇しくも横須賀で「ヨコスカ恐竜パーク」がやっているので、そのうち連れて行こうと思っていた矢先だったので、その予習としてはちょうどよい感じ。勢いに任せて「小学館の図鑑NEO」も購入して息子に与えた。それを黙々と読んでいてくれるので、楽チンだ。

それにしても、ボクが子供の頃に説明されていた中身とは全ッ然違うことに驚かされた。「恐竜」と言えば、ティラノサウルス、ステゴサウルス、トリケラトプス、プテラノドン、フタバスズキリュウ、イクチオサウルス……と思っていたら、最近の定義では、プテラノドンのような「翼竜」やフタバスズキリュウのような「首長竜」、そしてイクチオサウルスのような「魚竜」は「恐竜」とは別の爬虫類にされている。また、「恐竜」の枠の中に「鳥類」が定義されていて、鳥類は恐竜の生き残り的な位置付けにされている。

研究が進んで、いろいろと分類も変わっていくらしい。しかも、かなり生態も判明しているらしく、恐竜の暮らしぶりが分かってきていることにも驚いた。

子供の本を介して、いろいろなことを学ぶ今日この頃である。