アン

[メソポタミア神話]

名称 𒀭〔an〕(アン)《天》【シュメル語】
𒀭𒀀𒉡da-nu〕(アヌ)、𒀭𒁹d60〕(アヌ)【アッカド語】
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容姿角冠をかぶった髭の男性神。玉座に座り、王笏を持つ。
特徴天空神。神々の父。神々の会議の主宰神。ウルク市の都市神。
出典『エヌマ・エリシュ』(紀元前18世紀頃?)ほか

アンはその名も「天」

シュメル語で「アン」は《天》を意味している。その名前が示すとおり、アンはシュメル神話の天空神である。アッカド神話ではアヌと呼ばれている。彼は神々の王であり、王冠をかぶった髭(ひげ)の男性神として描かれる。特に玉座と雄牛の角を象った王冠(角冠)はアンの象徴である。

古くはウルク市の都市神!?

天空神アンは、大気の神エンリル、水の神エンキと並んで非常に古い神さまで、後代に女神イナンナに取って代られるまで、ウルク市(ウヌグ)の守護神として崇拝されていた。ウルク市の中央には古くからアンの聖域があり、ここにアンのためのジッグラト(聖塔)が建てられていた痕跡がある(「アヌのジッグラト地区」と呼ばれる)。イナンナがウルク市の都市神となった後でも、この地区にはアンの聖所として、神殿が建設され続けている。

今や隠居したシュメル神話の最高神!?

シュメル神話の中では、事実上、エンリル(時代が下るとマルドゥクアッシュル)が主神として振る舞っているが、もともとシュメル神話の主神はアンである。紀元前3000年頃までは、シュメル神話の主神と言えばアンで、やがてウルク市が政治的な覇権を失うとともに、ウルク市の都市神であるアンは失脚し、ニップル市の都市神エンリルにその地位を奪われたようだ。その後、バビロン市(バビリ)が強くなるとマルドゥクが、アッシリアがメソポタミアを統一する頃にはアッシュルが最高神の地位を引き継いでいる。それでも、アンの最高神の地位はメソポタミアの歴史を通して残っていて、たとえば、『エヌマ・エリシュ』(紀元前18世紀頃成立)の中では、マルドゥクの権威を表現するために、神々は「あなたの言葉はアヌの言葉だ」と宣言している。

現在残っている神話の中では、アンが活躍するエピソードは少なく、非常に影が薄い存在だが、神々が会議を行う場合には、会議を主宰するのは必ずアンであり、会議の場においてアンは議長の役割を果たしている。意思決定にはアンが欠かせないのである。会議に参加する他の神々もアンの子孫であり、アンは神々の父と呼ばれる。このあたりに主神だった痕跡が残されている。

こうして天と地は分離し、アンは失脚した!?

シュメル・アッカド神話には、天と地の分離を説明する神話が残されている。太古には天空の神アンと大地の女神は分離していなかった。しかし、彼らは大気の神エンリルを産み、エンリルによって天地は分離されたという。アンは天を運び去り、エンリルは大地の女神キと交わって、地上の支配者になったと説明されている。

似たような天地分離の神話は、エジプトや古代ギリシアにも残されている。エジプト神話では大地の神ゲブと天空の女神ヌゥトがくっついて離れないため、大気の神シュウが間に入って、天地を分離したと説明している。互いの手と手、足と足をくっつけて離れまいとするゲブとヌゥトの間に入って、天空神ゲブを押し上げているコミカルなシュウの姿が描かれている。ギリシア・ローマ神話では、天空神ウーラノスが大地ガイアと交わって覆いかぶさったところを、息子クロノスが鎌でウーラノスの生殖器を切り取るという神話が語られており、これによって天地の分離が説明されている。これらの神話はシュメルの影響を多大に受けている。

いずれにしても、この出来事によって、地上の支配権がアンからエンリルに移行したことが説明されている。

新しき神々と古き神々の世代交代!?

アンは本来、この世界の創造神であるため、両親を持たないが、時代が下ったアッカド神話の『エヌマ・エリシュ』では、アヌに系譜が付け加えられている。『エヌマ・エリシュ』によれば、この世界の始まりは淡水神アプスーと塩水の女神ティアマトの夫妻から始まった。アプスーとティアマトが交わり、さまざまな神々が生まれたが、その中に天を支える神アンシャルと地を支える女神キシャルが生まれ、このアンシャルとキシャルからアヌが生まれたと説明されている。

アヌは神々の王となり、次々に神々を生んでいった。しかし、神々が増えていくにつれて、静寂だった世界は次第に騒がしくなっていき、古い神アプスーと新しい神アヌの子孫たちの間に軋轢が生じる。アプスーは新しい神々を滅ぼそうとしたが、逆にエア(エンキ)によって倒されてしまった。この事態に、今度はティアマトと新しい神々が対立し、ティアマトはエアの息子であるマルドゥクによって退治される。こうして『エヌマ・エリシュ』の世界では、アヌの子孫たちが古い神々を追放して、新しい世界の支配者に君臨することになる。

天空の星はアンの兵士たち!?

シュメル語のアンという楔形文字は星を象った文字で、天空神アンは強く星と結びつけられた。天の星はアンの兵士として、アンによって創造されたものだと信じられた。そして、悪事を見張らせ、不正を行うものがいれば、アンの元に引き出させたのである。アンは罪を犯したものを裁く役割も与えられていたようである。

《コラム:アンの楔形文字は「神さま」をも意味する!?》

楔形文字の「𒀭」は星を象ったもので、「アン」と読むときには《天》という意味になるが、「ディンギル」と読むときには《神さま》という意味になる。また、「神さま」であることを示す限定詞にもなる。たとえば、女神イナンナは楔形文字では「𒀭𒈹」と記述するが、頭についている「𒀭」は「神さま」であることを意味する限定詞で、発音はされない。アルファベットに翻字するときには上付き文字で「d」をつけて、「dinanna」と記述する。単語の頭に「ディンギル」のマークがついていれば、すぐに神さまの名前だ、と分かるわけである。

アンだけは特別で、この「神さま」を意味する決定詞がつかない。そのままズバリ《神さま》という楔形文字を冠されているところも、アンが大昔には偉い神さまだったことの表れである。