お嬢さまの夏休み

 辺りは見渡す限り、一面のひまわり畑だった。この世には黄色とブルーしかない。そんな風に錯覚してしまえるほどに、視界はひまわりと空とで埋め尽くされていた。佐野町浩平は土手に座って、煙草に火をつけた。思いのほか長いドライブだったので、少し休憩だ。眼下に広がる黄色いカーペットの中を、城ヶ崎玲南が歩いている。今日はいつもに増して派手な真っ赤なドレスに身を包んでいるはずなのだが、そんな彼女はさきほどからひまわりの海に沈んで、ときどき、麦わら帽子がぴょこぴょこと現れるだけだ。
 浩平はため息を吐いた。
 この辺り一帯が全て、彼女の父親の私有地だというのだから、途方もない話ではないか。財閥なんてものは、昭和の中頃にはとっくに絶滅してしまったものだと信じていたのだけれど、どうもそうでもないらしい。
「財閥なんて、ずいぶん古い言葉を使うのね、コーヘイは」
 彼女が土手を登ってきた。
「古いかな?」
 浩平は首を傾げた。そう簡単に流行り廃りするような単語ではないように思う。
「古いよ。それにパパンの場合、財閥というよりは、成金というやつね。この世の中、少しだけズルをして、上手に立ち回った人間が儲かるシステムになっているのね」
 城ヶ崎はこういうことを平気で言ってのける。もしかしたら、彼女なりのジョークなのかもしれない。だとしたら、笑ってやらなくてはならないのだが、浩平はどうも笑うのが苦手だから、少しだけ困る。
「コーヘイ。今、すっごい変な顔」
 彼女は帽子をとると、両端でくるりと回した。そんな仕草も優雅に見えるから不思議だ。
「ね、城ヶ埼。ひまわりの花言葉って知ってる?」
 思いついて、浩平は言ってみる。彼女はちょっと空を見上げた。それから、にこりと笑う。
「それって、私が『高慢』だってこと?」
「あれ。そうだったっけ。ごめん、ごめん。勘違いだ」
 浩平は誤魔化した。
「へぇ、そう」
「うん。飛びっきりの勘違い」
 こういう型にはまったようなジョークを、型にはまったように楽しめるだけの余裕があるのは、二人が大人である証拠。少なくとも、浩平はそう思っていた。
 城ヶ崎は再び麦わら帽子をかぶった。
「さ、コーヘイ。助手席に乗って」
 彼女は赤いオープンカーに乗り込む。クラウンだ。赤い車体、黒いシート、赤いドレス。城ヶ崎はとても運転がとても上手だ。今日だって、これに乗ってここまでやってきたのだけれど、結構、アップダウンの激しい土手を、彼女はぐいぐいと運転してきた。
「結構、ノスタルジィ誘うでしょ、このクラウン。かわいいやつなんだ」
 彼女はそう言って、ハンドルを叩いた。
「オープンカーなんて、乗ったことがなかったよ」
 浩平は告白した。彼女は笑った。
「でも、雨が降って来たらどうするの」
 浩平は訊いてみたが、
「雨の日には、カレラに乗る。だから困らない」
 城ヶ崎は当然という風に答えた。彼女の愛車は全部で3台。そういう経済観念がおかしいところが、財閥の娘なのだと思う。
「でも、途中で雨が降って来ることだってあるでしょ」
「バカね。クラウンには、雨が降らない日に乗るんじゃないの」
 理解できなかったが黙っていた。彼女は鍵を回した。エンジンの音がのどかな花畑に響き渡った。

 * * *

 毎年、夏休みになると、城ヶ崎はボーイフレンドを自分の別荘に招待する。それはある種、大学の伝説だった。彼女の恋愛は長く続かない。飽きてしまうのかもしれないし、ボーイフレンドの方が彼女についていけないのかもしれない。だから毎年、誘われるボーイフレンドは違う。そんな彼女だったので、当然、クラスの女の子たちの間では浮いていた。でも、彼女にとっては、そんな瑣末な事柄はどうでもよかったのだと思う。取り立ててそのことを気にする風でもなく、いつも彼女は颯爽と学内を歩いていた。そして、今年はなぜか、浩平に白羽の矢が立った。
「コーヘイ。夏休み、うちの別荘に遊びにおいでよ」
 唐突な話だった。友達になるのに、踏むべきステップが決まっているわけではない。でも、今までそんな予兆すらなく、話をしたこともなかったので、浩平は驚いた。驚いて、戸惑って、そして黙っているうちに、彼女はぽんぽんと矢継ぎ早に用件を言って、勝手に了解だと判断されて、うやむやのうちに、こうして助手席で車に揺られている。
「どうして僕を誘ったわけ?」
「さあ。そういうのって、私の場合、フィーリングだから。説明はできない」
 彼女は前を向いたまま言った。
「あ、そう」
 いつの間にか、森に入っていた。ここも彼女の父親の敷地だろうか。小道は曲がりくねり、そのたびに浩平は慣性の法則に逆らうのに一生懸命だった。
「みんなにね、驚かれたんだよ。何で僕なんかが誘われたんだろうって。城ヶ崎と僕、話なんか、一度だってしたことなかったじゃない?」
「うーん。そうかな」
城ヶ崎はハンドルを右に、左に操作しながら、巧みに重心を動かしてバランスをとっていた。
「コーヘイ、覚えてる? 波佐間教授がカマリング・オンネスの話をしたときのこと」
「オンネス? ヘリウムの液化の話?」
 波佐間教授の講義は覚えていた。でも、浩平は思い出す振りをする。
 学問というのは、日進月歩のように見えて、確実に前に進んでいる。人類は、ほとんどすべての元素を液化することに成功していた。酸素も、窒素も、水素も液体になった。そして、最後に残ったのは、ヘリウムだったのだ。学者たちは、こぞってヘリウムを液化させようとしていた。そして、1908年、オランダのカマリング・オンネス博士が、遂にヘリウムの液化に成功した。
「あのとき、講義をしている先生、すごく幸せそうな顔をしていたのね。でも、私はさっぱり分からなかった」
「何で? 飛びっきりのロマンじゃないか」
 浩平は言った。
「それが、私には分からなかった。多分、みんな、分からなかったと思うわ。あなただけが、とても幸せそうに講義を聴いていた。それがすごく印象的だった」
 しばらく、二人は喋らなかった。赤いクラウンは上に、下に揺れて、しばらくして、突然、森が開けた。目の前には今まで見たこともないような豪邸が広がっていた。

 * * *

「お待ちしておりました、お嬢さま」
 黒い燕尾服に白い手袋の外国人の男が出迎えたので、正直、驚いた。
「パパンは?」
「昌平様は午後9時頃にこちらに到着なさいます」
「そう。カール、こちらはコーヘイ。コーヘイ・サノマチよ」
 城ヶ崎が紹介した。
「ミスタ、サノマチ。承知いたしました」
 カールが慇懃に頭を下げたが、浩平は畏まってしまって突っ立ったままの格好なってしまった。
「アルコールを」
 城ヶ崎はそう言いつけて、彼を退散させると、浩平を中に招き入れた。入ってすぐのところが吹き抜けの広間になっていて、正面の中二階の壁には肖像画がかけられていた。高い天井からはシャンデリアがぶらさがっている。中二階から、ぐるりと弧を描くような形で両側に階段が降りてきていて、まるで映画で見るようなヨーロッパのお屋敷そのものである。贅沢な造りだ。
「これだけ広いと、うん。掃除が大変だろうね」
 浩平は言った。
「非常にアンラッキィなことに、別荘の掃除はお手伝いさんの仕事。だから、ここの掃除が大変かどうか、私には分からない」
 彼女が舌を出した。
「二階に私の部屋がある。行こう」
 城ヶ崎はさっさと階段を昇っていく。浩平は慌てて追いかけた。
「チェスが強いって本当?」
 彼女は振り向かずに訊いてきた。どこでどう回った噂だろうか。少し考えてみたけど、そういう人脈が思いつかなかった。
「大学の友人とチェスをたしなんだことはないんだけどな。どうしてバレているんだろう」
 浩平は言った。
「それじゃあ、チェスをしよう」
 彼女は微笑んだ。
「ゲームの間、煙草を吸ってもいいかな?」
 浩平が聞くと、
「それで私に勝てるのなら、ご自由に」
 彼女は答えた。部屋に入ると、真ん中のテーブルの上には、すでにチェス盤が置かれていた。最初からその予定で、準備されていたようだ。駒はきれいに並べられていて、鏡の国のアリスだった。有名なジョン・テニエルの絵が、みんな3Dになって立っていて、かなりグロテスクだった。
「何だか負けそうな気がしてきたな」
 浩平は肩をすくめた。
「あなたが勝ったら、ご褒美にキスしてあげる。だからがんばって」
 唐突に城ヶ崎がそう言ったので、思わず彼女の唇を見てしまう。彼女は何も言わずにそのままソファに座って、ポーンを2つ、進めた。
「僕は賭けるものがないけど?」
 浩平は彼女とは反対の側のポーンを押し出した。城ヶ崎のポーンは赤い服を着たウサギだったが、浩平の方は青い服を着たウサギだ。
「だったら、その名前を賭けたら?」
 城ヶ崎は言った。
「名前?」
「私が勝ったら、今日からあなたは“へちま”になる。新学期になったら、私はそう呼ぶことにするわ」
「へちま? へちまって、あのウリ科の? どうして?」
「“最高のへちま”くんって。みんなの前でそう呼んでやるんだから」
「ああ。……最高のへちま、ね。それは、ちょっと最低なあだ名だな。頑張らなければ」
 次第に赤と青が入り乱れる。チェスは将棋よりもイージィだ。何しろ、駒が復活することはない。赤いウサギも、青いイカれ帽子屋も、取られたところで、もう二度と盤上には現れない。だから、難しいことは何もない。
 途中、カールが音もなくウィスキィを持ってきた。彼女はあっと言う間にグラスを空にして、2杯目を作り出す。浩平はあまりアルコールが得意ではないので、ほとんど手はつけていない。代わりに煙草に火をつけた。目を閉じて、ゆっくりと煙草の煙を吸い込む。ビショップのマッド・ハッターを動かしてナイトを倒す。盤上は後3手でチェックメイトに持ち込めそうだった。彼女の方に視線を這わす。赤いドレス。大きく開いた胸元。白い肩。そして赤い唇。浩平は、もう一度、煙草の煙を吸い込んだ。どちらがトゥイードルダムで、どちらがトゥイードルディーなのだろうか。そんなことを考えながら、青い服を着た太っちょのルークの片方をつまみあげた。

 * * *

「コーヘイ、わざと負けたでしょう?」
 城ヶ崎が頬を膨らませた。
「本当だったら、トゥイードルダムを動かしていたら、チェックメイトだった。それなのに、あなた、トゥイードルディーの方を動かした」
「間違えたんだよ。何しろ、名前が似ているからさ。どっちがどっちだか分からなくなったんだ」
 浩平は言った。我ながら、素敵な表現だと思った。
「優しいのね、コーヘイは」
 城ヶ崎は拗ねたように下を向いて、それっきり、何も言わなくなった。彼女が何を考えているのか、まるで分からない。浩平は残っていたウィスキィを飲んだ。もう一度、彼女の唇を眺める。ほんの少しだけ、後悔している自分がいるような気もする。そんな気の迷いたちを、茶色い液体と一緒に飲み込んだ。ぐるぐると部屋が回っている。
「いつ、あんなアナグラムを思いついたの?」
 ふと思いついて、浩平は訊いてみた。城ヶ崎が驚いた顔をしたので、浩平はそれで少し満足する。
「あなたに最初に会ったとき。“佐野町浩平”、“最高のへちま”。面白いでしょう。だから、あなたの名前を覚えていたんだ」
 浩平は目を閉じる。ウィスキィが脳髄に到達したような気がした。このまんま、ここで眠ってしまいそうだと思う。
「コーヘイって、うわさ通り。とても頭がいいのね」
 彼女の声が聞こえる。
「頭がいい? 僕が?」
「それも飛び抜けて。だって、私って、誰にもチェスで負けたことないのに」
「あれ? 今のゲーム、君が勝ったんじゃなかったっけ?」
 自分で喋っているのに、何だか言葉がふわふわしている感じがする。
「それにアナグラムにもすぐに気がついた」
「ああ、うん。それは、そうかな」
「もう一回やろう」
 彼女が駒を並べ始める。
「私が勝ったら、コーヘイ、キスして」
「僕が勝ったら?」
 そう訊いてから後悔する。これでは第二ラウンドを肯定した格好になる。
「何でも。欲しいものを差し上げるわ」
「何でも? それって、とても難しいな」
 赤いドレス。そこから覗く細く白い腕を見る。浩平は箱からもう一本、煙草を取り出して口にくわえる。彼女はウィスキィを飲み乾す。ライタ。火を点ける。
「もし、僕が勝ったら――」
 そう言いながら、浩平は考える。何を所望しても、この場には似つかわしくない感じがした。ああ、そうか。思いつく。
「もし、僕が勝ったら、名前を返してくれる? “最高のへちま”は返上したい」
「了解です、へちまくん」
 城ヶ崎はにやりと笑った。