異邦人の街 ~la ville d'etranger

 ときどき、私は自分の頭がおかしいんじゃないか、と思う。粘着質な友情が妙に白々しくて、嘘っぱちみたいで、気持ち悪く思えるときがある。見ず知らずのタレントにキャアキャア騒ぐ友人たちを横目に、ひどく冷め切っている自分に気がついたりもする。それは何と表現したらいいのだろう。疎外感と言ったらしっくり来る感じのものだ。自分はおかしいんじゃないか。もうそればかり思う。
 そもそも、私、中町夕実は自分の顔が、ときどき、人間じゃないものに見える。見慣れぬ動物の顔。それはライオンタマリンの顔だ。
 ライオンタマリンと言っても、獰猛なライオンのような顔を想像してはダメだ。主体はライオンの方じゃなくて、むしろタマリンの方にある。キヌザル科と呼ばれるサルの仲間で、ライオンのようなタテガミを持ったサルのこと。
 私は初めてこの生き物を動物図鑑の中から見い出した瞬間、あぁ、これが自分なんだ、と思った。この感覚はどう言えば伝わるのだろう。納得というのが一番相応しい言葉だと思う。最後の1ピースだけ失くしてしまって完成させられなかったパズルの、その欠けていたピースを偶然にベットの下から発見して、ようやくパズルが完成したときのあの感覚に近い。
 いつから私が自分の正体に気づくようになったのか。それは私自身も説明できない。覚えていないのだ。でも、幼い頃は、別に普通の女の子だったのではないか、と思う。きっと、気がついたら、自分は人間ではなくなってしまったのだ。それとも、そんなのは幻想で、最初から私は人間じゃなかったのかも知れない。小学5年生の時、私は動物図鑑の中からライオンタマリンの写真を見つけて、そしてようやく自分の正体に気がついたのだ。気がついて、そして不思議なことに納得した。そう。納得したのだ。今まで抱いていた違和感とか、漠然とした不安がなくなって、むしろすっきりした感じがする。
 私が鏡を見ると、そこにはたまにライオンタマリンが映っているのだ。映っているというのは正確ではないかも知れない。ふ、と自分の顔にサルの顔が重なるようなイメージ。鏡に映っているのは確かに人間である私、中町夕実の顔に違いないのに、何故かそれが一瞬、ライオンタマリンに認識される。難しいけれど、そんな感じなのだから仕方ない。
 いつか、自分の正体を誰かが暴きにやってくる。それはある種の信仰だ。そして、その誰かは告発するのだ。『君は人間じゃないんだよ、ライオンタマリンなんだ』と。彼は私を連れて行ってくれるだろうか。私はその日を恐れていた。むしろ待ち望んでいたのかも知れない。もう、よく分からない。ずっと、ずっと。とうの昔に、そんな混濁した感情はなくなってしまった。はき潰したクツのかかとのよう。感情は擦り切れてしまった。
 学校にいるときも、友達と遊ぶときでも、私がライオンタマリンだという事実に誰も気が付かない。それが、私にはどうしても理解できないことなのだ。私はライオンタマリンなんだ。そう叫びたくてたまらなくなる。どうしてみんな、私のことを人間扱いするんだろう。みんな、私のことをちゃんと見ていないんじゃないかと思ったら怖くなる。あるいは気がついているクセに、みんなで気がつかない振りをしているだけなのかも知れない。どうしてだろう。
「ねぇ、夕実。あんたって少し変だよ」
 美和にそう言われて、一瞬、心臓がヒヤリとした。体育が終わって、水飲み場で水を飲んでいるときのこと。
「変って?」
「一人だけ離れたところに立って眺めているっていうか。ものすごい壁を作っているっていうか。溶け込みにくい」
 美和の言う通りなのだろう。私は、決して他者を自分の領域に踏み込ませない。正体がバレてしまうのが怖いから。もう少しだけ、人間のままでいたいと願ってしまう。だから、ついつい守りの体勢に入ってしまう。そんな分析をする。
「私ね、実はライオンタマリンなんだ」
 私は冗談めかして白状した。美和は一瞬、怪訝な顔をする。問い詰めたところ、どうやら美和はライオンタマリンという言葉そのものを知らなかったみたいだ。だからライオンタマリンとは何たるか。私はその生態について説明するところから始めなければならなかった。そして散々、大笑いされた。
「あんたがサルだって言うなら、あたしはキリンがいいな」
 美和の言葉に、私は思わず顔を上げる。じっと美和の顔を見つめる。けれど、ボーイッシュな美和の顔はいつまでも美和の顔のまま。それはいつまで待ってもキリンの顔にはなってくれなかった。
 信号機が青に変わり、人々は一斉に横断歩道を渡り始める。黒い摩天楼に青い空が四角く切り取られて、雲は東に、東に流れていく。私は人波に背中を押されるようにして、道路の真ん中に投げ出される。スクランブル交差点。人、人、人。この街は人に溢れている。みんな、何を考えているのかさっぱり分からない。死んだような顔で歩いているのだ。私はちゃんと人間だろうか。何度も問い続けた疑問。人ごみに囲まれると、その疑問は一層強くなる。彼らは一斉に私に対してそっぽを向くかも知れないんだ。私がライオンタマリンだから。
 赤いバックを型から下げて、ハイヒールなんか履いて、よたよたと歩くOL。スーツ姿で汗を拭いながら歩くビジネスマン。ケータイでメールを打ちながら歩く高校生たち。後ろに、後ろに、群集は流れていく。腰の曲がった老夫婦。それに気づくことなくぶつかるスラックスを履いた女。大きなヘッドホンをつけた黒人。インディゴブルーのお洒落なズボンを履いたシマウマ―――
―――え?
 私は慌てて振り返る。一瞬、すれ違う女性の顔の上に、シマウマの映像が重なって見えた気がしたのだ。振り返った視線の先、その顔には、もうシマウマの顔は貼りついていない。でも、女が一人、こちらを振り返っていた。彼女の視線は、確かに私を捉えていたのだ。
「あの!」
 私は思わず声をかける。けれど彼女は何も言わない。そのまま行ってしまおうとする。
「あの!」
 私はもう一度、大きな声を出した。
「私がライオンタマリンに見えますか?」
 周囲が一瞬、ざわりとしたように思ったのは私の思い過ごしだろうか。
「……私の顔がシマウマに見えたのね?」
 女性の声は囁くように小さい。けれど……
 あぁ……
 時間が止まったような気分。だけど鼓動だけはやけに早い。
 信号機が点滅して、やがて赤に変わる。人々は急ぎ足になって横断歩道を渡り、私たち二人だけが大通りの真ん中に取り残される。自動車のクラクション。
 我に返る。
 私は慌ててUターン。あぁ、仲間なのだ。彼女も人間じゃない。自分は一人ではなかった。一人じゃなかったじゃないか。私は彼女の腕を掴むと、対岸に向かって歩き出した。
「不思議。もう、シマウマの顔には見えない」
 私は彼女の顔を見つめる。それはとても綺麗なお姉さん。
「あなたは高校生?」
 お姉さんは聞いて来た。
「えぇ」
 私は頷く。
「私、中町夕実です。お姉さんは?」
「宮村真帆」
 彼女はそう名乗った。
 午前中の喫茶店というのは、こんなに混雑した街の中でも空いているらしい。宮村真帆に連れられるままに喫茶店にやってきた私はメニューと格闘していた。何しろ聞きなれない単語ばかりが並ぶ。おまけにBGMはジャズだ。
「あの、宮村さん?」
「真帆でいい」
「じゃ、真帆さんで。真帆さんは何にされますか?」
 メニューを差し出す。彼女はそれを手で制した。
「私はエスプレッソ。決まっているから」
「そうですか」
 ますます悩んでしまう。私は普段、あまり喫茶店なんか入らない。一番安いのはブレンドコーヒーだろうか。でも、私はコーヒーが好きではない。あの苦いコーヒーを飲むとしたら、それは味覚の鍛錬のときだろうと思っているぐらいだ。
「カフェオレにしたらどう?」
 見透かしたように、真帆さんはそう言った。
「はぁ、なるほど」
 カフェオレを探す。少しばかり値が張る。財布の中身を感情して逡巡。
「いいわよ、私がおごる」
「はぁ。あ、いえ。そんな初対面ですから」
 私の動転っぷりが可笑しかったのか、真帆さんはくすくすと笑った。
「私、実は自分以外の人間が動物に見えたのって、初めてなんです」
 慌てて話題を反らそうとするけれど、唐突過ぎた。これは失敗だ。
「そう?」
 真帆さんはちょっと小首を傾げると、カウンタに手を挙げた。ウェイタが伝票を持ってやって来る。
「エスプレッソと、それからカフェオレ。1つずつね」
 ウェイタがボールペンを動かそうとしたその瞬間だ。ふ、と真帆さんの顔がまたシマウマに見えて、
「わっ!」
 私は思わず大きな声を出してしまう。
「どうしたの?」
「いや、真帆さん、シマウマ」
 何を言っているんだ、私は。
「あぁ」
 ウェイタが一瞬、怪訝な顔をした。
「以上で」
 真帆さんはそう言って彼を追い払った。
「自分の顔はとうの昔に見慣れてしまったのに、人の顔だといつまで経っても慣れないものよね」
 真帆さんは私の顔を見つめる。
「今、私もライオンタマリンの顔になってますか?」
「その動物がライオンタマリンだって言うなら、そうね」
「そうです、そうです。ライオンタマリン」
 私は一頻り、ライオンタマリンの説明をした。もう嫌というほどライオンタマリンの項目だけは読み込んだ。何でも知っていると言える。実際にライオンタマリンに会ったことはないけれど。真帆さんはくすくすと可笑しそうに笑った。張り切って説明しすぎたのかも知れない。今日は笑われてばかりでいけない。
 エスプレッソとカフェオレがテーブルに到着した。エスプレッソは何とも小さなカップだった。ウェイタは慇懃に礼をすると、伝票を置いて去っていく。真帆さんはエスプレッソをおいしそうに飲んだ。私も少しだけカフェオレを飲んだ。けれど、全然、甘くなくて驚いてしまう。
「砂糖」
 真帆さんは指差した。白い球状の容器に金色のスプーン。
「砂糖、入れるんですか? カフェオレに?」
「入れたくなければ入れる必要はないけれど」
 真帆はひらひらと手を振った。私はまた馬鹿にされたのだろうか。私は砂糖を入れて飲む。なるほど、おいしいカフェオレだった。
「ずっと寂しかったんです」
 私は告白した。
「ずっと疎外感を感じていて。私は人間じゃないんじゃないかって。そう思ったらずっと孤独だったから」
 真帆は黙ってエスプレッソを飲んでいる。
「ようやく仲間に出会えたと思った。すごく嬉しかったんです」
 私は微笑んだ。真帆さんはそっとカップを置くと口を開いた。
「仲間?」
「そうです。真帆さんは仲間です。真帆さんだって、ずっと仲間外れだったでしょ?」
「そうね。疎外感。ずっと、孤独だった。何しろ私の周りにはシマウマの顔をした人はいなかった」
「だったら……」
「でもね、夕実ちゃん」
 真帆さんは遠くを見るような表情をした。
「疎外感を感じ合った者同士が互いに惹かれ合う。それって非常に危険なことだと思う」
 真帆さんの視線の先、大きく開かれた窓。炎天下の街。そこを行き交う群集が見える。
「危険?」
「私はね、夕実ちゃん」
 太陽光線がキラキラとビルに反射して輝く。
「ときどき、本当にときどきなんだけど、あらゆる人の顔が動物に見えるの」
 一瞬、意図を汲み損なう。それから、私は街を見る。そこは、動物で溢れていた。ゾウやキリン、ウサギやカメレオン。その他、名前も知らないような動物たち。洋服を着込んで、ビルの谷間を悠然と歩いていく。慌てて真帆さんを見る。一瞬、シマウマのイメージが重なって、消えた。彼女は何でもないかのようにエスプレッソを飲んでいた。街も、何事もなかったかのように人々が行き交うだけ。ひどく喉が渇いた。
「ねぇ、夕実ちゃん。カフェオレとカフェラテの違いって知ってる?」
 真帆さんは尋ねて来る。あぁ。私は目を閉じる。私も何事もなかったかのようにカフェオレを飲むんだ。甘い味が口の中に広がった。
「いいえ。知りません」
 私はそう答えると、また窓の外に目をやる。ガラス窓に映る自分の顔は、確かに人間、中町夕実のそれだった。