水没した都市の中で

 世界一面が水に覆われていた。

「万物の根源は水である」
 偉大なる哲学の始祖の言葉だ。けれど、そんな言葉なんかどうでもいい。そんな気にさせるくらいに完膚なきまでに、世界一面は水で溢れていた。

「クッソォ、不便だよなー」
 ククルーは中型の船アドラック号の甲板の上で呟いた。
「何がよ」
 相棒のマナムがどうでもよさそうに訊く。
「船だよ。僕、船酔いしちゃう体質なんだよ。陸上移動の方が圧倒的なまでに便利だ」
「陸上移動、ねぇ」
 船は航路を東に、順調に進んでいた。
 世界がこんなになってしまったのは半年ほど前だ。それまでは陸上交通が発達し、馬車もモータリオンと呼ばれる機械の乗り物もあった。けれど、ある日、大雨が続き、気がついたら世界は水で溢れていた。建物の一階部分はほぼ水に沈み、水面から二階部分がにょきりと突き立っている。そんな世界。今では、船舶が世界の輸送手段の大半をシェアしていた。
「でも、私たちってラッキィだよ?」
 マナムがけらけらと笑った。
「どうして?」
「だって、こんなに立派な船を手に入れられたんだもの」
 マナムは甲板に真っ直ぐと指を突きつけた。
 確かにアドラック号は中型の船。乗るだけのボートとは段違いの快適性と移動力を有する。けれどこれはラッキィと言うよりもむしろ……
「マナムが強奪してきたんじゃないか」
 ククルーはぼそっと呟いたが、どうやらマナムは完全無視を決め込んでいるようだった。
 世界の各地に、洪水の神話が溢れている。昔、世界は水に覆われたことがあるらしい。その記憶が、神話という形で残ったとか何とか……。詳しいことはククルーには分からない。師匠であるハリオット先生なら色々と詳しく知っているかもしれない。今度、詳しく聞いてみようか。どうして世界がこんなになってしまったのか。先生なら、その答えを教えてくれるかもしれない。
「神様のせいよ」
 昔、マナムは言い切った。
「大抵、世界をこんなにするのは神様って、相場が決まってるんだわ」
 ククルーは神様なんて信じない。否、信じないというよりも、多神論者と言った方が正しいかもしれない。だから、彼にはマナムの言わんとしていることを、本当の意味では理解できていないのかもしれないけれど……
「神様は、ね。この世界が気に入らないのだわ」
 なるほど。そうなのかもしれない。なぜか妙な説得力があった。

「冒険屋」というのがいる。世界の真理を探求する人間のことをそう言うのかもしれないし、モンスターから街を守る人のことをそう呼ぶのかもしれない。いずれにしても、定義なんてものはないに等しい。資格も要らないし、ただ他人にそう名乗るだけで成立するゴムのような職業だ。つまりは柔軟だ、ということなんだけれど。だからこそ、定義が不明瞭なのかもしれない。オールラウンダ。要は「何でも屋」なのである。何でもやる人間のことをそう呼ぶ。いや、何でもやりたい放題の人間のことか。>
 つまる話、ククルーとマナムは「冒険屋」なのである。目的なんて、ない。マナムは純粋に金儲けしか考えてないようだし、ククルーはもっぱら探究だ。探求心の趣くままに、真実の探索に耽る。>

「ねぇ、ククルー。アンタってバカじゃないの?」
 マナムはククルーの顔の真ん中に人差し指を突きつけて言った。
「どうして?」
「だって、世界が全てに対する答えなんて用意する義務があると思って?」
 たまにだけれど、彼女は核心を突くようなことを言う。
「そりゃ、そうだけど……」
「アンタ、頭だけは良いんだから、さ。もっとビジネステイクな感じに、こうちょちょっと活かしてくんないかな?」
 そして、結論は全て、経済に直結する。生き方ってものに正解はないのだろうけれど、彼女の採択する方法論はある意味で正しい解法かもしれない、とククルーは思ったりする。ときどき、だけれど。
「神様は、どうして世界をこんなにしたんだろう」
 何気なく反芻してみる。
「だから、世界が気に入らないんだってば」
 マナムはひらひらと手の平を振った。
「そしてワタシはそろそろ退屈な船上生活が気に入らなくなって来たんだわ」
 ククルーもぱらぱらと両手を振って見せる。全くもって同感だといったニュアンスのジャスチャだ。船は真っ直ぐに水面を進む。
 しばらくして、マナムが手をパチン、と鳴らした。どうやら、目的の街が見えてきたようだった。セントラル・シティ。長い船上生活もようやくのピリオドだ。ククルーは大きく伸びをした。「あばよ船酔い」の歌でも即興で歌おうか、などと思いながら。

 街は思っていた以上に賑わっていた。大雨の後、水に溢れて混乱するこの世界の中で、このセントラル・シティの復興はほとんどといっても差し支えないぐらいに終了していた。
「すごいな。さすがに世界の中枢って呼ばれるだけのことはあるね」
 ククルーが言うと、
「そりゃそうよ。ワタシたちの税金の大半は、真っ先にこのセンタの復旧に注ぎ込まれるんだから。この中央集権体制は何とかならないのかしらね」
 マナムが言った。
「税金、ね。払っちゃいないくせに」
 船を錨で大地に繋ぎとめると、彼らは水上に作られた桟橋のような道をてくてくと歩いて上陸した。水上にプカプカと浮かぶ木組みの道。何とも不思議な景色である。 「これってククルーの渇望していた陸上移動だわ」
 マナムが笑った。
「うーん、二足歩行って素晴らしいね」
 ククルーが万歳をするような仕草をすると、
「あら、まるで人間に進化したてのサルみたいな台詞ね」
 言い放つマナム。
「だって、断然、陸上の方がステキだよ」
「それが陸上に上がってきた両性類の気持ち?」
 二人はそのままセントラル・シティの仮組みの桟橋を真っ直ぐに歩く。
「中央都市だから、図書館くらいあるかな?」
 ククルーがぽつりと呟いて、
「あるかもしれないし、ないかもしれないけれど、ワタシには必要ない」
 間髪入れないマナムのレスポンス。
「むしろ、手っ取り早い儲け話を探しましょ」
「僕、ちょっと調べ物をしたいんだ」
「アナタは興味があるかも知れないけれど、ワタシは本には興味ないし」
 マナムは腕をぐるんぐるんと回した。
「それよりも、仕事しましょ。この辺は水没のとき地下からたくさんの埋没物が……」
「……あの、さ」
 ククルーは立ち止まり、そうして振り返る。
「何?」
「情報って冒険の基本だと思うんだよね」
 マナムは一瞬、難しい試験問題に出くわした学生のような顔をした。それから、
「冒険の必要条件の中には経済の安定ってのがある、と思うのよ」
 ククルーは一瞬、考える。そして、
「それってつまり、今、僕たちは貧乏だってこと?」
 マナムはにっこりと微笑んで、後ろを向いた。
「だって、この間の仕事でキミ、不法なぐらいの報酬をふんだくったじゃないか」
「そうだっけ?」
 そう言うと、マナムは早足で歩き出した。
「何で?」
「さぁ、何でだろう」
「この間の報酬はどうしたのさ」
「年頃の女の子にお洒落って必要条件だ、と思うのよ」
 今やマナムは駆け足だった。
「マナム、また無駄遣いをしたの?」
 ククルーは慌ててマナムの後ろ姿を追いかける。ゆらゆらと桟橋が揺れて、安定性を失った。そしてふわりと大きくうねると、
「キャー!」
 二人はそのまま水の中に落っこちた。

「もー、最低なんだから」
 びしょぬれになった二人は、水を滴らせながら、再び桟橋を歩いていた。
「僕は悪くないだろ」
「アナタが走るからいけないのよ!」
 ポカポカとマナムはククルーの背中を叩いた。どうやら彼女の不機嫌は最高潮であった。そもそも悪いのは彼女だったような気がする。ククルーは内心思う。思っただけで口に出しては、言わない。
「そういえば、さっき、何を言おうとしていたの?」
 ククルーは訊いた。
「埋設物がどうのこうのって……」
「ああ、洪水で大地が押し流されて、どうやらこの辺の古代遺跡が隆起したとか何とか。だから埋設物が上がってきたのよ」
「なるほど。それでこの街に……」
 納得である。
「だから、アンタはバカだって言うのよ。頭でっかちなんだから。本の情報よりも現実を見つめることのがよっぽど大事だわ」
 マナムはけらけらと笑って、ククルーはうなだれた。

「知ってる?」
 そこそこ大きな宿の中。ククルーは言った。
「何?」
 マナムが振り返る。
「世界に雨が降り続いたのは、気候が変動したからなんだって」
「気候が変動? 何でよ?」
 マナムが宝石を指で弾きながら言った。セントラル・シティで手に入れた宝石だ。
「僕たちの生活スタイルが大気を破壊したんだ」
 ククルーは早速、図書館で仕入れてきた情報を披露する。
「興味ない」
 マナムは言った。
「だって、ワタシたちにとって重要なのは、今、宝石を持っているって現実だわ」
「うーん」
 ククルーは頭をぽりぽりと掻く。
「だって、これで今夜はこんなステキな宿に泊まれる。温かいご飯が食べられる」
 マナムがイタズラっぽく微笑んでいた。そうかもしれない、とククルーは思った。