2021年6月27日 謝罪動画を1つ残らず駆逐したい!!

YouTuberたちの大宴会を文春が報じてから、多くの謝罪動画が出された。みんな、正装をして、大真面目にカメラに向かって頭を下げている。そのスタイルがスタンダードになっている。でも、謝罪動画というスタイルが当たり前になっていることに、ボクは違和感を覚えずにはいられない。

一億総発信時代だ。自分の口で、自分の言葉で、何でも発信できる。だから、ファンの人たちは、会社が公式ウェブサイトに掲載する「型通りの謝罪文」では満足できない。本人の口からいろいろと経緯や弁明、主張を聞きたいと願う。それは、そのとおりだと思う。でも、それがテンプレート化してしまったら、「型通りの謝罪文」と変わらない。そして、みんなが「謝罪動画を出せ」とYouTuberたちに期待することも、気持ちが悪いな、と感じる。

ボクは、結構、YouTubeを見る方なので、個人的には、報道の中に関根りさの名前があったことにとてもショックを受けた。えっちゃんとりっちゃんの名前にも驚いた。勝手に、比較的、まともな人たちだと思っていた。そして、あれだけ人気者で、テレビでもラジオでも仕事をしている水溜まりボンドのトミーが、実は大宴会に積極的に関与していたらしき発表にも驚いた。そして、いろいろな面々の「謝罪動画」を見た。関根りさなんかは自分の言葉で一所懸命喋っていて、その点は好感が持てたし、ファンの願いに沿う形だった気がする。でも、他の多くのYouTuberたちはテンプレと化している気がした。そのテンプレの後、どうやって次の動画を発信していくのだろう。まるでイメージができない。

ボクは品行方正なんてものをYouTuberに求めてはいない。だから、えびすじゃっぷやヘラヘラ三銃士みたいなふざけた動画の方向性も、エンターテイメントとしてはひとつの在り方で、そこまで過度にバッシングすることではないと思っている。彼らが提供すべきはエンターテイメントであって、謝罪動画はエンタメではないし、エンターテイナーとして必須ではない。本人の口から説明して欲しいな、と願うファンの気持ちに寄り添うかどうか、そして、どんな形で寄り添うかは、演者が決めればよいことだ。いろいろな形があることを認めてあげられない社会が、感性に乏しいな、と思う。それに、謝罪することよりも、次の動画に繋げていくアプローチを、もっともっと彼らは模索する必要があると思う。あんな謝罪動画の後に、どんなエンタメが成立し得るのか。芸能人やYouTuberが大真面目に謝罪したら、その後のエンタメが成立しなくなる。いい加減に、学ぶべきだと思う。必要なことは形式ばった謝罪ではない。自分の言葉で本音を話すことであり、そして、できるならば、少しだけウィットを入れ、その人らしさを織り交ぜて、次に繋げることだ。

その意味では、えびすじゃっぷの動画は、個人的には面白かった。謝罪動画は出さないという覚悟も然ることながら、立ちションが軽犯罪だから警察に出頭しようという遊び心も、完全にエンターテイメントで、YouTuberらしかった。彼ららしい。ただ、一点だけ、彼らに伝えたいこともある。それでもやっぱり、今回の振る舞いは不適切で、咎められるべき行為だという点だ。30名を越える規模での会食、8時以降の飲食、さらには飲酒。そしてマスクなしでの外出。そこは、ちゃんと反省する必要がある。

彼らは「友達の誕生日に参加することは悪いことだとは思っていない」「娯楽とか遊びとか大事だと思う」という旨の発言をしていた。その点に関しては、ボクもそのとおりで、何でも自粛すればいいものではないと思っている。クオリティ・オブ・ライフという言葉があって、人生の質は高めなきゃいけない。生きるとは何ぞや、という問い掛けは、このコロナ禍で、ボクも何度も自問自答している。不要不急であらゆるエンタメを自粛してしまったら、何のために生きているのか分からなくなる。ライブに行くとか、演劇を楽しむとか、飲み会とか、そういう生きがいを「不要不急」で片付けて自粛して、ボクたちが人間らしく生きなければ、生きる意味はない。そこは同意する。でも、だからと言って、何でも許容されるわけではない。新型コロナウイルス感染症の対策をして、できる範囲でやれることもたくさんある。そういう工夫を一切放棄してしまうことは簡単だ。でも、それは怠慢だ。最大限、努力して、やれることはやるべきだ。そういう創意工夫の中でのクオリティ・オブ・ライフの実現は、いちいち目くじらを立てて咎める必要はないし、そういう寛容な社会であるべきだ。

謝罪動画を出さない覚悟も、形式張らずにいつも通りの動画を撮影する方向性も、自粛に対する問題提起をしようという若者らしい心意気も買う。でも、やれることはやるべきで、今回、そこが叩かれている。