2021年6月6日 ほぼ1か月振りの投稿

最後の投稿が5月5日で、本日は6月6日。まるでCandy Foxxの新曲発表のような間隔での雑記の投稿だ。

実は、いろいろと書きたいことはあった。書けないほど忙しかったわけでもないし、書こうと思えば書けた。でも、書かなかった。何となく、話題のニュースに飛びついてネタにするみたいな物申す系YouTuberみたいなことをすると疲れるなあ、と感じた。だから、自制していた。Candy FoxxのPVが炎上したり、大坂なおみが記者会見を拒否して叩かれたり、なかなか新型コロナウイルス感染症のワクチンが進まなかったり、勿論、いろいろと思うところはある。ダイバーシティの時代を謳いながら、社会はものすごく画一的で、攻撃的だなあ、と思う。どんな在り方も、まずは受け容れる必要がある。そんなことを思いながら、何とか優しい社会にならないものか、と思ったりもした。でも、そういうことを書くのは思いの外、しんどいので、ROMっていた。

一方で、個人的には楽しい1か月でもあって、コロナ禍の影響もあってか、いろんな学問の専門家がYouTubeに活躍の場を見い出して参入してきていて、それに後押しされた格好なのか、「ゆる言語学ラジオ」みたいなレベルの高い教養あるYouTubeチャンネルが増えてきた。いろいろな分野で、好事家が知識を披露してくれていて、それを視聴者が楽しめるようになって、新しい時代だな、と感じている。

それから、最近は本を乱読していた。オズの魔法使いシリーズは15冊、全部、読んでしまった。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とかカレル・チャペックの『R.U.R.』も読んだ。マクシム・ゴーリキーの『どん底』みたいな本も読んでいた。中野美代子訳の『西遊記』シリーズ全10冊も、ちょうど読み始めたところだ。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』も読み始めた。そんなわけで、世界文学大系みたいな本を順次、読んでいこうと思っている昨今だ。

こういう話題だったら、「日々の雑記」に書いてもよいなあ、と思っている。

2021年6月26日 エンタメに効率を導入する時点で感性オワタだと思う。

YouTube業界に激震が走っている。ひとつは「ファスト映画」で逮捕者が出たこと。もうひとつはYouTuberたちの大宴会。文春にすっぱ抜かれた。

「ファスト映画」で逮捕されたのは20代の若者だった。彼らがどのくらい犯罪意識を持ってやっていたのかは分からない。案外、グレーゾーンでやっていると思っていたのではないか。YouTubeのアルゴリズムも、明らかに「ファスト映画」を優遇していたように感じる。青天の霹靂だったのではないか。あるいは、事前に何らかの警告なり注意喚起があったのだろうか。いずれにしても、逮捕された若者たちには不幸なことだな、と思う。

コンテンツ海外流通促進機構によれば、55アカウントが約2,100本の動画を投稿。合計で4億7,700万回再生されているという。「ファスト映画」による被害総額は956億円と推計されるらしい。

ボクは「ファスト映画」がどうしてこんなにも流行っているのか、正直、よく分からない。一度、「ファスト映画」という概念もよく分からないときに、YouTubeのオススメに出てきて視聴したことがある。強烈なタイトルがつけられていて、それに惹かれてクリックした。でも、結局、タイトルに関係するような内容はほとんど本編とは無関係で、いわゆる、タイトル詐欺の釣り動画だった。内容はよくまとまっていた。筋書きはよく分かった。でも、決して面白くはなかった。

映画に限った話ではないが、作品は、断片だけを切り取って楽しむものではない。10分で楽しませられるなら、その作者は10分の映画をつくる。映画が2時間なら、2時間が必要な中身なのだ。プロのクリエイターなら、決して作品を間延びさせようとは思わない。会話のやりとりやカメラワーク、間なども含めて、2時間で楽しまなければ、本当の映画の楽しさは分からない。だから、「ファスト映画」を観て、映画の筋書きはよく分かったけれど、一方で、映画の楽しさが満喫できるわけはないのだ。

過去には、世界文学を短くまとめた本もたくさん出版されていた。それも「10分でわかる」みたいな触れ込みだったように思う。でも、そもそもエンターテイメントに効率を求めるのはおかしい、とボクは強く主張したい。世界文学にしても、映画にしても、筋書きや結末だけに価値があるわけじゃない。お洒落な会話、示唆に富む作者の哲学や思想、文章の軽妙、そこで繰り広げられる人間関係……いろんなものが、エンタメをエンタメたらしめていて、部分的につまみ食いして、それで作品が分かった気分になるのは、エンタメの本質ではない。

「ファスト映画」の再生数はすごいらしい。ボクはそれにものすごく大きな衝撃を受けた。著作権が守られていないとか、作者に失礼だということではなく、そんなライトにエンタメを楽しもうという人間が多いことに驚いた。エンタメの世界にまで時短の概念を持ち出して、効率的に楽しもうという発想が、すでに悲しい。

価値観が多様化して、いろいろとマニアックな作品が日の目を見る時代だ。みんなが画一的に同じものを楽しむのではなく、各々が好きなものを選んで楽しむ時代で、とてもよい傾向だと思う。だからこそ、受け手の感性の劣化は悲しいな、と思う。もしかしたら、コンテンツが溢れすぎて、つまみ食いしながら、取捨選択しなきゃいけない時代になってしまったのかもしれない。「被害総額は956億円」とCODAは謳っている。DVDが売れないとか、作者が報われないとか、そんなことよりも、もっともっと、真正面からエンタメを楽しむ土壌をつくらないといけない。そんな気がした。

……YouTuberたちの大宴会については明日に譲ろう。

2021年6月27日 謝罪動画を1つ残らず駆逐したい!!

YouTuberたちの大宴会を文春が報じてから、多くの謝罪動画が出された。みんな、正装をして、大真面目にカメラに向かって頭を下げている。そのスタイルがスタンダードになっている。でも、謝罪動画というスタイルが当たり前になっていることに、ボクは違和感を覚えずにはいられない。

一億総発信時代だ。自分の口で、自分の言葉で、何でも発信できる。だから、ファンの人たちは、会社が公式ウェブサイトに掲載する「型通りの謝罪文」では満足できない。本人の口からいろいろと経緯や弁明、主張を聞きたいと願う。それは、そのとおりだと思う。でも、それがテンプレート化してしまったら、「型通りの謝罪文」と変わらない。そして、みんなが「謝罪動画を出せ」とYouTuberたちに期待することも、気持ちが悪いな、と感じる。

ボクは、結構、YouTubeを見る方なので、個人的には、報道の中に関根りさの名前があったことにとてもショックを受けた。えっちゃんとりっちゃんの名前にも驚いた。勝手に、比較的、まともな人たちだと思っていた。そして、あれだけ人気者で、テレビでもラジオでも仕事をしている水溜まりボンドのトミーが、実は大宴会に積極的に関与していたらしき発表にも驚いた。そして、いろいろな面々の「謝罪動画」を見た。関根りさなんかは自分の言葉で一所懸命喋っていて、その点は好感が持てたし、ファンの願いに沿う形だった気がする。でも、他の多くのYouTuberたちはテンプレと化している気がした。そのテンプレの後、どうやって次の動画を発信していくのだろう。まるでイメージができない。

ボクは品行方正なんてものをYouTuberに求めてはいない。だから、えびすじゃっぷやヘラヘラ三銃士みたいなふざけた動画の方向性も、エンターテイメントとしてはひとつの在り方で、そこまで過度にバッシングすることではないと思っている。彼らが提供すべきはエンターテイメントであって、謝罪動画はエンタメではないし、エンターテイナーとして必須ではない。本人の口から説明して欲しいな、と願うファンの気持ちに寄り添うかどうか、そして、どんな形で寄り添うかは、演者が決めればよいことだ。いろいろな形があることを認めてあげられない社会が、感性に乏しいな、と思う。それに、謝罪することよりも、次の動画に繋げていくアプローチを、もっともっと彼らは模索する必要があると思う。あんな謝罪動画の後に、どんなエンタメが成立し得るのか。芸能人やYouTuberが大真面目に謝罪したら、その後のエンタメが成立しなくなる。いい加減に、学ぶべきだと思う。必要なことは形式ばった謝罪ではない。自分の言葉で本音を話すことであり、そして、できるならば、少しだけウィットを入れ、その人らしさを織り交ぜて、次に繋げることだ。

その意味では、えびすじゃっぷの動画は、個人的には面白かった。謝罪動画は出さないという覚悟も然ることながら、立ちションが軽犯罪だから警察に出頭しようという遊び心も、完全にエンターテイメントで、YouTuberらしかった。彼ららしい。ただ、一点だけ、彼らに伝えたいこともある。それでもやっぱり、今回の振る舞いは不適切で、咎められるべき行為だという点だ。30名を越える規模での会食、8時以降の飲食、さらには飲酒。そしてマスクなしでの外出。そこは、ちゃんと反省する必要がある。

彼らは「友達の誕生日に参加することは悪いことだとは思っていない」「娯楽とか遊びとか大事だと思う」という旨の発言をしていた。その点に関しては、ボクもそのとおりで、何でも自粛すればいいものではないと思っている。クオリティ・オブ・ライフという言葉があって、人生の質は高めなきゃいけない。生きるとは何ぞや、という問い掛けは、このコロナ禍で、ボクも何度も自問自答している。不要不急であらゆるエンタメを自粛してしまったら、何のために生きているのか分からなくなる。ライブに行くとか、演劇を楽しむとか、飲み会とか、そういう生きがいを「不要不急」で片付けて自粛して、ボクたちが人間らしく生きなければ、生きる意味はない。そこは同意する。でも、だからと言って、何でも許容されるわけではない。新型コロナウイルス感染症の対策をして、できる範囲でやれることもたくさんある。そういう工夫を一切放棄してしまうことは簡単だ。でも、それは怠慢だ。最大限、努力して、やれることはやるべきだ。そういう創意工夫の中でのクオリティ・オブ・ライフの実現は、いちいち目くじらを立てて咎める必要はないし、そういう寛容な社会であるべきだ。

謝罪動画を出さない覚悟も、形式張らずにいつも通りの動画を撮影する方向性も、自粛に対する問題提起をしようという若者らしい心意気も買う。でも、やれることはやるべきで、今回、そこが叩かれている。