2019年1月5日 新年のご挨拶と抱負!

あけましておめでとうございます。2019年もよろしくお願いします。

さて、今年も無事に「近況報告の本」を発行できた。2010年の結婚式に参列者に配って以来、定期的に発行してきて、今回で8冊目。アイヌ特集を組んだが、個人的には、デザインが今までで一番、うまくまとめられた、と思っている。表紙の絵は「セーフリームニル」を描いたが、選んだ素材が悪かったのか、コンセプトが失敗したのか、あんまりうまく描けなかった(笑)。漫画家さんは小さなコマ割りの中で、小さな人をさらりと描くが、それってとても難しいのだ、ということを学んだ。ヴァルキュリャとエインヘリャルだが、小さい中で表情とか動きを表現するのが難しい。

セーフリームニル

もうひとつ、各人へのコメント記入用のカードに「オーク」を描いた。こちらは、猫背なので、自分に似ていて、まあ、それなりにいつもどおりに描けた。

オーク

「セーフリームニル」にしても「オーク」にしても、そのうち、ちゃんとファンタジィ事典で解説を書こうと思う。実は「ファンタジィ事典」が2016年9月以降、更新されていないので、ずぅっと気に病んでいる。思うところがあって、リニューアルを検討していて、すでにデザインは終わっていて、HTMLもCSSも出来上がっている。でも、PHP的な発想のプログラムのところが完成していなくって、今まで更新されていない。プログラムが出来たら、順次、更新していく予定だったので、各項目にも手をつけない状態になっている。今年は海外生活も減って、横浜にいられる見通しなので、何とか形にして、本来、やりたかったことをやろう、と思っている。お待ちいただければ、と。

リニューアルイメージ

2019年1月6日 懐古主義と旬の文化

最近のテレビを見ていると、どうも、我々の世代の懐古主義が蔓延っている印象を受ける。我々が子供の頃に流行っていたものを再登場させている印象だ。「懐かしいな」と思うけれど、でも、今の若者の感覚からすれば「古臭い」と感じるのではないか。我々の世代に向かって意図的に番組を作っているというのなら、それはそれでいいが、ボクはそうではないと思っている。クリエイティヴな現場で活躍している世代の意思決定をしている人たちが、ちょうどボクと同じ世代だから、何となく、彼らが懐古主義に囚われているのではないか。そう疑っている。

若かりし頃のボクは、テレビの前でずぅっとイライラしていた。古臭いスターなんかをテレビに引っ張り出してきて「昔、すごかった人です」なんて紹介されて、出演者がテレビの向こうで「すごい、すごい」と絶賛しても、ボクには全ッ然、分からなかった。「そんな過去の骨董品ではなく、今、まさに旬の人たちを出してくれないか」と憤っていた。それってボクだけではなかったはずだ。ボクたちは高校生の頃、みんなで「もっと新しい文化をテレビに映せ!」と憤っていなかったか。

ボクたちは大人になった。それなのに、ボクたちの世代が同じように懐古主義に囚われている。そんな気がする。そうだとしたら、それって「老害」だ。

懐かしさもよい。でも、それはそういう番組でやればいい。それよりも、やっぱり旬のものを旬のうちに。そういう方向転換をしてあげた方がいい。今、まさに最前線でクリエイティヴな活躍をしている上司の世代として、そんなことを思う回数が増えている。

2019年1月7日 文化を相対化して眺める

若者の気持ちが分かるかどうかは、どれだけ若者と一緒に過ごしているかどうかだと思う。幼稚園の先生は園児の気持ちがちゃんと分かるし、小学校の先生は小学生の気持ちが分かる。それは一緒になって文化を体験しているからだ。子供がシンカリオンにハマっていれば、一緒になってハマればよいのだし、価値観というのは、一緒に過ごさないと分からない。たとえば、高校生向け・大学生向けの雑誌を読んで、大いに共感できれば、多分、「分かっている」と言えるのだと思う。

文化や価値観というのは、接触時間に大きく依存すると思う。多く接していれば、そういう文化・価値観に染まっていく。文化・芸術がその世代の価値観の全ての原因者だとは思わないけれど、でも、時代の空気というのは確実にその世代に接触して、影響を与え、そうやって作られた文化や価値観が、またその世代に戻っていく。そういうものだ。

実はボク自身、昔、ジェネレーションギャップを感じたことがある。それは「SEKAI NO OWARI」だ。当時、若者の中で大ブームだったが、ボクにはどうしても理解できなかった。おっさんになったかなあ、と思った。だから、とにかくアルバムを買ってきて聞いた。そして、『Love the warz』という楽曲を聴いたときに、その歌詞に衝撃を受けた。「ラブandピース 美しい世界 完璧な時代 幸福な世代」。彼らの目には世界が美しく見え、完璧に映り、そして幸福な世代だと感じている。そして歌詞は「不自由なんかないこの世界でどんな自由を願ったらいいの?」と続いていく。自らを「幸福世代」と堂々と歌い上げてしまう感性に、ボクは唖然とし、そして、その瞬間に、生温い彼らの中二病みたいな歌詞の意味が、何となく分かったような気がした。圧倒的に、ボクらとは違う価値観で生きているのだ、と悟るともに、彼らが持て囃される事実と、彼らの良さが理解できないボクたちの世代間のギャップを思い知った。その視点で彼らの音楽を聴いてみると、その生温さの中にあるモヤモヤが分かるような気がした。

何に共感し、何に反発し、何を目標にし、どう生きるのか。それって、結局、時代の空気とか、経済、それから文化に影響される。その意味じゃ、そういうのを一緒に体験してやって初めて「分かった」と言えるのだと思う。だから、積極的に若者文化を知ることが、イコール、彼らのことを理解する一番の早道だと思うから、ボクは常にティーン誌に掲載されているような情報に触れようと必死だ。Youtuberも、ミュージシャンも、小説も、漫画も。

別に、若者に迎合しようと思っているワケではない。でも、時代は目まぐるしく変わっていき、今を生きている若者が感じるものに、今の時代が象徴される。今を生きようと思うなら、今を直視しなきゃいけない。10年前、20年前の感覚で生きていたら、取り残される。

加えて、彼らの時代や価値観に触れるだけじゃなくって、それと同時並行で、ボクたちの青春の文化と比較して、自分たちの時代の文化そのものを相対化しなきゃいけない。「今の若者の歌詞はバカみたい!」と鼻で笑う前に、LUNA SEAとかPenicillinとかのひどい歌詞を聴きながら「ああ、自分たちもこんなバカみたいな歌詞の歌をよいと思って育ったのだ」とか、あるいは「ヴィジュアル系バンド」の刹那主義的な薄っぺらい歌詞を思い出しながら、そういうのを相対化することが、やっぱり必要なのである。決して自分たちの時代の文化を賛美するわけではなく、そして、若者の文化を扱き下ろすでもなく(笑)。

2019年1月11日 ミュージシャンは楽器と歌声で戦う

去年の12月6日に公開されて話題になっているYoutubeだから、情報としてはちょっと古いけど、紹介したくなったので貼っておく。Radwimpsの『PAPARAZZI~*この物語はフィクションです』のミュージック・ヴィデオ。

何だろう。今までのはフィクションだと思って聴けたけど、この楽曲は生々しい。息をひそめてじぃっと聴いてしまう感じ。音楽と映像、そして歌詞に没入して、ようやく全てが終わってから、息をするような感じ。言葉の選び方が少し粗い印象もあるんだけど、でも、そのストレートで愚直な感じも含めて、呑まれてしまった。

文筆家がペンで、画家が筆で、そしてミュージシャンは楽器と歌声で戦うのだすれば、これはまさにそういう作品だ。これを聴いた「パパラッチ」は何を想うのだろう。うーん。

2019年1月13日 正義の一般市民なんていないから!!

本当は12月のBiSHのライヴの話でも書こうかな、と思っていたんだけど、NGT48が炎上中なので、そっちについて書こうと思う。BiSHの話はまた今度。

事実関係は分からない。だから、これについては静観するしかない。まほほんの言っていることが100%正しいかどうかも分からないし、犯人だと名指しされているメンバーの関与の度合いも分からない。いずれにせよ、内部で抗争というのか、衝突があったのだろうな、ということは分かる。チームで仕事をするというのは、必ずしも正義や理想だけでは進まないし、人間関係のトラブルもあって然るべきだ。だから、いろいろあったのかもしれないし、若いから、行き過ぎた行動があった可能性もあるだろう。

いつも同じことしか言わないな、と飽きられているかもしれないけれど、ボクは何度でも書く。匿名だからって何を書いても許されるわけじゃない。「あいつが犯人だ」とか「実はこうなっていた」みたいな無責任な発言はよくないし、それ以上に、罵詈雑言は許されない。もしも、事実として暴行を示唆したメンバーがいたとして、今、名指しされているメンバーが「犯人」だったとして、それを裁くのは法だ。ネット私刑は許されない。寄ってたかって個人を攻撃することは許されない。ましてや現段階では真実は分からない。事実、犯人だったらいいということではないけれど、彼女、彼らが犯人であることも事実認定されていない中で、やっぱり行き過ぎではないか、と思う。

ボクは、もっと社会が寛容であるべきだと思っている。「罪を憎んで人を憎まず」だ。もしも罪があったなら、その罪の責任は問われなきゃいけない。でも、個人をバッシングすることではない。全ての人間性まで否定されることではない。犯した罪こそが問われるのであって、その罪にふさわしい罰則が与えられるのであって、そのための法治国家だ。罪があるからと言って、個人の全人間性まで非難していいわけではない。もしも、だ。もしも暴行を示唆する事実があったとして、そうだとしても、インスタグラムでああもバッシングされていいわけではないし、人間性を否定されていいわけではない。もしも無関係の人がいたら、尚更だ。

少なくとも、犯人と名指しされているメンバーのインスタグラムへのみんなの書き込みを見て、その残酷さや無神経さに戦慄する。