2017年2月8日 Εν αρχη ην ο λογος,και ο λογος ην προς τον θεον, και θεος ην ο λογος.

会社の若手に、ボクが海外でどんなことをやっているのを伝えようと思って、善意で「日報的な何か」を作成し、社内で共有している。臨場感がとても大切だと思うので、写真とともに、極力、情報を総括しないで、その瞬間瞬間に考えたことや感じたことを記録している。だから、そのときにはそれが「正」だと思っても、次の日には違うことを「正」と思うこともある。それはそのときに得た情報、感じたことを記録しているからであって、もちろん、業務上、最終的には、公式の「正」を決める。要するに「途上の情報」も敢えて書いている。ボクが悩み、考え、苦しんでいる状況そのものを伝えたいからである。

始めてみたものの、実は結構、時間も掛かるし、うまくまとまらなくて悩むときもあって、骨が折れる。だから、何度辞めようと思ったか分からない。それでも、少しでも現場の雰囲気をみんなに伝えて、将来、海外に打って出るときの参考になれば、と思って続けている。まさにボランティア・ワークである。

自衛隊の「日報」が公表されて、「戦闘」に類することが書かれているなどと騒がれている。「日報」が公式なものなのか個人的な記録なのかは分からない。おそらく文章の雰囲気から察するに公式なものなのだろう。でも、こういう「日報」に基づいていろいろと事実の確認や責任の追及がなされると、気軽に「日報」なんて書けないなあ、と思う。極力、記録なんて残さない方がいいし、無難で実のない報告をつくった方が安全だ、ということになる。

最近、芸能人が番組内でちょっと発言したり、twitterで呟くだけでもニュース記事でとりあげられる。素人のtwitterが大手のニュースサイトで取り上げられたりして、きっと、その瞬間、その人へのアクセスはすごいことになるだろうなあ、と想像することもある。その上、そんな瑣末なことでバッシングされたりもするのだから、恐ろしい世の中である。まさに「言葉狩り」、ここに極めり、である。

一度、発信された文章は、基本的には全て同じ土俵にあげられてしまう。でも、文脈は尊重されるべきだし、書き手の中の重い軽いも想像すべきだと思う。深く考えないで発する言葉もあるし、非公式の、非常にプライベートなコメントだってある。十把一絡げに書かれたものを「正」とされたら、怖くて情報発信できなくなる。ネットは世の中を大きく変えたけれど、窮屈で嫌な世の中になったなあ、とも思う。