2015年8月5日 芸術にバックグランドは必要か!?

たまたまテレビをつけたら「U-18歌うま甲子園」がやっていた。みんな、非常にうまい。プロ顔負けだ。歌がうまいっていいよねえ。羨ましい。でも、最終的にはカラオケ・マシンの採点で評価されてしまうところに、妙なおかしさとバカバカしさがある。評価が低くても、「まあ、カラオケ・マシンの採点だし」みたいな割り切りが出来るのも、シリアスにならないところか。

でも、カラオケ・マシンの評価の精度は確実に向上しているな、と感じた。ちゃんと歌のうまさが反映されている。一昔前だったら、正しい音程で、のっぺりとまっすぐ音を伸ばして、変に色気を出さない方が高得点だった。今は音程、声量、ロングトーン、ビブラート、しゃくりなど、いろんな要素で評価されていて、しかも、それなりに結果が妥当だな、と感じる。技術の進歩は目覚しい。そのうち、機械も音楽を演奏できる時代になっちゃうかもしれない。

それにしても、テレビ番組なので、高校生ヴォーカリストたちの生い立ちとか人となりを紹介してから歌わせることになる。そうなると、感傷的な人は、そういう事前情報に流されて涙を流したりする。どうしても、芸術って主観的な評価になるよなあ、と痛感する。どうしたって、生い立ちとセットで音楽を評価してしまう。事前VTRで「想いを伝えたい」というヴォーカルの主義を前面に押し出した特集がなされていて、おのののかや柴田理恵が歌を聴いて涙していた。でも、ボクはちょっと一歩引いていた。や、歌はうまかった。高い音も低い音も非常に上手。コントロールされていた。でも、スタジオでは「想いを伝えられる歌」という感想になってしまった。そういう評価は少し違うのではないか、と思う。それって生い立ちを前提とした感想で、そういう事前のVTRがなかったら、多分、コメントは違うものになっていた。そういうのが、芸術の難しいところである。歌のうまさは、本来、いろいろなバックグラウンドとは無関係なはずなんだけど、必ずしも、そうはならないところが芸術の面白いところであり、難しいところだよなあ。