2019年2月10日 罪を憎んで人を憎まず。

たとえば、誰かが逮捕されたり、逮捕されないまでも、不倫だったり、差別発言みたいな失言だったりすると、その人そのものに対するものすごい苛烈な攻撃が始まる。そして、その人の社会的地位を完膚なきまでに貶めようとする「正義の群衆」が登場する。そんな訳の分からない「正義の群衆」に引き摺られて、社会がおかしな方に歪んでいく。

イジメはよくない。差別はよくない。不倫をするのはよくない。未成年飲酒もよくない。そりゃあ、そうだ。覚醒剤を嗜むのはもっとよろしくないし、ましてや強制性交等なんて許されることではない。そこを否定するつもりはない。その過ちや罪そのものは裁かれる必要がある。でも、だからと言って、その人の人間性を否定してはいけない。罪は罪で、人は人だ。罪を憎んで人を憎まず。罪を罪として捉えて、法で裁き、必要な対策を考える。それだけだ。

新井浩文氏はたくさんの作品に出演していて、逮捕の影響がデカいと言われている。映画の公開も中止になったらしい。名前こそ知らなかったが、ボクも彼が出演している作品は多数、見ていて、彼の顔は知っていたし、彼の演技そのものはインパクトがあったので、ちゃんと記憶している。その意味では、名脇役だったのだろう。ただ、ボクがいつもいつも主張しているが、罪を憎んで人を憎まず、だ。

「映画の公開中止」という判断。ボクは、これには異論がある。映画の話だけではない。テレビにしても、音楽にしても、そうだ。制作会社の勝手な判断の部分なので、公開中止の損害を新井氏に請求するのは如何なものか、と思っている。仮に犯罪を犯したとしても、芝居をしたという「業務」はこなしており、その分の対価は支払われるべきだし、犯罪者が画面に映ってはいけないという法もないだろう。確かに、俳優という業務は、イメージも必要なので、その点、「イメージを汚さない」という契約になっているのはそのとおり。その契約に違反している。その点で損害賠償を求めることは、これは認められるだろう。あるいは公開をしたところ、顧客からクレームが来たとして、そのクレームに対応した人間の労働に対する対価は請求できる。スポンサーが「降りたい」と言い出したら、その分の損害は請求してもいい。でも、映画の公開中止を決めたのは制作会社の勝手だ、と思う。法律上、禁止されていない以上、公開するもしないも、制作会社の判断だと思う。公開する選択肢があった中で、公開しないと決めてしまったら、それは制作会社の勝手な判断だ。たとえば、スポンサーが降りて、結果的に公開を断念せざるを得ないところまで追い込まれたのなら、それはそれだ。だったら、そう報告すればいい。何となく、訳の分からない「正義の群衆」という世論に忖度するんだったら、それは間違いだ。

それ以上に、過去の作品まで封印する風潮は、これはおかしな話だな、と思う。過去作品のオンデマンドを停止したり、メディア化を取りやめる動きがあるらしい。これこそ、勝手な制作会社の判断だ。スポンサーがつかずに断念したということではない。大体、勝手にリモコンを操作するだけで映るテレビ番組とは違って、買いたい人が買う作品まで勝手に自主規制するのはバカらしい。その勝手な損失は、どうぞ、制作会社で勝手に負担してくれ、と思う。

まあ、でも、訳の分からない「正義の群衆」は面倒くさいので、相手にしたくないという気持ちは分からないでもない。そういう判断なのだろう。でも、そういう訳の分からない「正義の群衆」を作り上げ、増長させるのもメディアだ。「あいつを社会的に抹殺しようぜ!」という悪意ある「正義の群衆」に勝利の満足感を与えちゃ、いけない。もしも、メディアに正義の心があるなら、そういう「正義の群衆」をつけあがらせないような、せめてもの抵抗を示してほしいな、と切に思う。

そういう意味では、最近のYoutuberのヒカルやラファエルのシニカルな態度や、カジサックのその都度、謝ってみせるパフォーマンスなんかは、いい特効薬になるのでは、と思っていて、見習うべきである。