2017年2月14日 日本の神話について今頃、考えてみる。

ファンタジィ事典ではあんまり日本神話を取り扱っていない。そもそもボクにとっての神話への興味のきっかけが「ファイナルファンタジー」や「ウィザードリィ」みたいなRPGだったので、どちらか言えば、洋風の妖怪(妖怪という言葉を使っているけれど!)の方が心動かされていた。それに、所詮、日本のことだから、日本語のウェブサイトで誰かがすでに情報を提供しているだろうし、結構、資料も簡単に手に入るだろうから、いつでも着手できるだろうとかなり高を括って後回しにしていた。

でも、最近、日本の神話・伝承にも興味が出てきた。海外に行くことが多く、日常生活の中で、相対的に日本と海外を比較することが多いし、30年とちょっと生きてきて、ようやく大人になって、今更、日本に対して興味が出てきたということかもしれない。

それで「さてさて♪」とウェブサイトを巡回してみて、思いのほか、楽しいウェブサイトがないことに気づいた。資料が多いことが災いしているのかもしれないが、非常に難解で情報過多だ。それに非常に曖昧模糊としている。解説を読んで、何だか分かったような分からないような気持ちになる。

そんなわけで、ここ最近は改めて『古事記』と『日本書紀』を読んでいる。大昔にも何度か読んでいるが、今回はそれなりに本気で読んでいる。それと同時に日本史を勉強し始めた。何を隠そう、ボクは世界史派だったのだが、日本史の本を大量に買い込んで、いろいろと勉強中である。そして、現時点で、ふたつの結論に達している。

1つ目は、今こそもっと『日本書紀』をちゃんと読んだ方がいいのではないか、ということ。確かに読んでいて分かりやすいのは圧倒的に『古事記』である。面白いのも『古事記』だ。ストーリーになっている。でも、大昔は『日本書紀』が「正」だったのだ。『古事記』は抹殺されて、『日本書紀』に基づいて中世の日本神話は発展してきた。それなのに、みんな、何となく無自覚に『古事記』をベースに日本神話を語ろうとしている。断りもなく『古事記』の記述を採用して解説を試みている。安易に「高天原神話」として整理しようとしている。でも、本当にそうなのだろうか。仮に『日本書紀』を正として眺めると、『古事記』はかなり異端になってしまう。いくつかある「一書曰く」の中のひとつになって しまう。この意味をもっと真摯に考えた方がいい。そういう視点で『日本書紀』と『古事記』を眺めた方がいいのではないか。

2つ目は時間軸だ。「古代」、「中世」、「近世」の3層をちゃんと区別して神話を再構築した方がいい、ということ。「古代」というのは『古事記』や『日本書紀』が成立した時代。日本という国ができて、天皇中心の国家となった時代に、どのように神話が整理されたのか。「中世」は平安時代や鎌倉時代に日本神話が仏教と交じり合った時代だ。日本古来の神と仏教由来の思想が一緒くたになって、神話がどういう風に変質したのか。そして、最後の「近世」は江戸時代から明治。仏教を取り除いて、本来の日本の神話への回帰が検討された時代。このとき、神話はどのように再構築されたのか。多分、日本神話はこの3層がごちゃ混ぜになって今に至っている。それをちゃんと解き解してあげないといけない のだろう。

それを丁寧にやってあげられるのであれば、日本神話の世界にボクが入り込んでいく意味はある。今、そんな風に感じている。