2020年9月10日 作品と演者

伊勢谷友介が逮捕されて、作品の行く末がどうなるのか議論されている。

正直、ボクは伊勢谷氏の記事が出たときに、名前と顔が一致しなかった。「誰ー?」って感じ。名前の字面は見たことがあったし、耳で聞いたことがあった。ニュースにもなっているし、有名なのだろうな、と思った。でも、名前と顔は一致しなかった。だから検索をした。そして、「ああ、知っている!」とすぐに思った。でも、どの作品に出ている人かというと、実はピン、と来なかった。いろんなところで見るなあ、CMで見たことがあるのかなあ、という感じ。

これは決して、伊勢谷氏が悪いということではなくって、ボクが芸能について不勉強なだけ。いずれにせよ、ボクにとって伊勢谷氏の印象はそんなもんだ、ということを、まずはここに書いておく。その上で、作品と演者について書こうと思う。だから、決して、伊勢谷氏を擁護するわけでも、何でもない。

日本では、演者が何か問題を起こしたときに、作品そのものを封印する傾向がある。そして、勝手に自粛しておいて、演者に違約金を求める。でも、それっておかしい。ファンは作品を求めていて「買うよ!」と言っているのに、それで得られる利益を勝手に放棄しておいて、生じた損害を演者に請求する。つまり、世論と一緒になって法律以上の罰を犯罪者に科して気持ちよがっているだけだ。たとえば、不特定多数の人が見る可能性のあるテレビでの放送を自粛するのは分かる(これも、最近は見たい人が見るんだからいいじゃん、と思うけど)。でも、映画は見たい人が映画館に行くのだ。DVDは買いたい人が買うのだ。今や、どんな手段でも顧客に作品を提供できる時代だ。

それに、罪を犯した個人以外の損失が大きすぎる。たとえば、すごく名演技をした他の役者が、それでもって注目されてスターダムにのし上がれるかもしれないのに、それを封印することで、その役者の人生を潰す。その役者に何の非がある? あるいは監督だってそうだ。長年構想してきた作品で評価される道を潰されて、その監督に何か非があるのか。連帯責任という得体のしれない何かをおっかぶせて、社会のマスターベーションだと思う。

ここまで過激に書くのは、ボクが伊勢谷氏を知らないからだ。擁護じゃないからだ。大抵の場合、薬物や性犯罪や……こういう事態になると、ボクが知っている人が多いので、どうしてもその人の才能に肩入れして、勿体ないじゃん、という論調になりがちなのだけれど、今回は伊勢谷氏を知らないので、自由に書けるなあ、と思って書いている。そんなこんな。