2014年7月30日 メディアって何だろう?

佐世保の殺人事件の報道を見ていて考えることがある。今、インターネットは恐ろしいもので、ボクたちは、加害者の女の子の名前や学校名、父親の職業、実家の場所などの情報に簡単にアクセスできてしまう。彼女が表彰されたという眼光鋭い自画像も見れるし、スポーツの大会の写真も見ることができる。父親とのツー・ショット写真も掲載されている。このように、情報は巷に溢れている。それでも、マス・メディアでは、加害者の名前も学校名も出さない。父親の職業も報じない。そこにものすごいギャップが生じている。何がいいとか、何が悪いではなくって、報道される情報の方が、情報が制限されているため、情報量が少なくなっていて、巷に溢れていて、ボクたちがアクセスできる情報量の方が圧倒的に多い、という不可思議な現象が起こっている。こうなってしまうと、報道って何だろか、と思ってしまう。

もちろん、巷に溢れる情報は玉石混交だし、嘘も混じっているだろうから、報道は、情報を精査して正確なものにブラッシュ・アップしている、という捉え方は出来るかもしれない。警察の発表や専門家の見解みたいなところに重きを置けば、巷にはないコンテンツを形作ることも出来るだろう。それでも、何にも制限されない巷に溢れている情報の方が、圧倒的に早く、たくさんの情報を伝えてしまう。このギャップを、どう考えればいいのだろうか。

もしかしたら、報道側にもジレンマがあるのかもしれない。加害者の女の子の版画が県知事賞を獲ったとか、国会で活躍したとか、父親は地域の名士だとか、一見、伏せながらも伏せられていないような情報を発信し始めた。この辺は、もう、名前こそ出していないものの、組み合わせれば、個人を特定できてしまうレベルではないか、と思ってしまう。

誰もが情報を発信できる社会だけど、ボクたちはどうやって向き合っていけばいいのかなあ。難しいなあ。