2021年4月19日 ゆたぼんは学校に行くべきか問題。

もしも、ゆたぼんが日本においてチームで仕事をする未来を志向するなら、学校に行った方がよいのだろうな、と思う。社会性や協調性が大事になるからだ。ちゃんとした大人は理性があるから、お互い、いろんなものを飲み込んで寄り添って生きている。でも、子供は、そういう忖度や配慮、想像力が足りないから、結構、衝突したり、傷つけたりする。そういう積み重ねの中で、相手との距離感や思い遣りなんかを学ぶ。「ああ、こういうことをすると嫌われるのだな」とか「こういうことを言うと傷つくのだな」とか「ちょっと距離を詰め過ぎたな」とか「今のは理不尽だ」とか、まあ、そんないろんなことを感じる。

よく、大人になって意気投合して、それで一緒に旅行して喧嘩するみたいなことがある。距離というのはとても大事で、ちょっと離れた距離で付き合っていると見えないものが、近づくと分かるみたいなことはある。同棲してみて、彼女との相性が合わないみたいなこともある。学校というのは、いろんな個性を無理矢理、ひとつの教室に詰め込んで、濃厚接触する。そこで得られるものって、一定の価値はあるだろうな、と思う。

とは言え、人生、何事も可能性の取捨選択であり、一方を取ったら、一方は捨てることになる。決断というのはそういうで、常に何かを取り、何かを捨てている。たとえば、ピアノを習わせる選択をすると、音楽的素養は高まる。でも、それ以外のことをする時間は減る。水泳を習わせれば、泳げるようになる。でも、それ以外のことをする時間は減る。たとえば、その時間に、友達とサッカーや野球をすることができたかもしれない。選ぶということは可能性を広げることではなくて、一方の可能性を狭めることだ。だから、学校に行くことも行かないことも、どちらが正しいということではない。学校に行くことで経験できることと、行かないことで経験できることがある。

そして、マジョリティを選択した方が、圧倒的に楽チンだ。世界は意外とマイノリティには優しくない。はみ出す人間には優しくない。そういう仕組みになっている。だから、そういう取捨選択をしているのだ、という自覚は必要だろう。

ゆたぼんは今、YouTuberで、個として生きている。マイノリティな世界だ。ビジネスライクな感じで、いろいろな大人と付き合っていて、刺激もあって、それはそれでちょうどよい適度な距離感で、楽しいだろう。そういう生き方を志向するなら、それでよいような気もする。

現状、不登校小学生、そして不登校中学生だからこそ、コンテンツになっている。ずぅっとこのままの立ち位置でYouTubeは続けられないだろう。現状、YouTuberとしての彼の個性は「学校に行くことを拒否する中学生」だ。「中学校に通わなかった高校生」になったときに、ゆたぼんがどれだけのコンテンツを提供できるか。ここがひとつの分かれ目だと思う。そのときに、彼が新しい価値を生み出して、マイノリティとして飛躍できれば、それはそれでよい。でも、うまく行かなかったときに、新しい道を模索ことになる。そのときに、社会性や協調性の不足が障害になることもある。それを覚悟して、自分の道を自分で決断すればよいのだ。

問題は、子供が、どこまで自覚的に取捨選択して決断できるのか。そこは、大人のサポートなり指導が必要であり、そこをちゃんとやっているのか、というのが、父親に問われるのだろう。