九千坊(クセンボウ)

[日本伝承]

名称九千坊(クセンボウ、クゼンボウ、キュウセンボウ)【日本語】
容姿河童。
特徴 九州地方の河童を統べる親分。九千匹の河童の子分がいる。球磨川に棲んでいたが、加藤清正に追われ、筑後川に大移動。

九州を統べる河童の親分!?

九千坊(クセンボウ)は熊本の筑後川に棲んでいた河童(カッパ)の親分。東に関八州・利根川の禰々子(ネネコ)という河童の女親分がいるとすれば、西には九州・筑後川の九千坊ありと謳われるほどの大親分。もともとは中国の黄河に棲んでいた河童の首領で、仁徳天皇の時代(すなわち3世紀から4世紀にかけての古墳時代)に一族を引き連れて海原を渡ってやって来た。そして熊本の八代に辿り着いたという。そして球磨川に棲みつき、九州一帯に勢力を広げ、その子分は九千匹にも及んだという。このため、九千坊と呼ばれるようになったのである。

武将・加藤清正 VS 九千坊!?

九千坊の手下たちはあちこちで乱暴狼藉を働き、傍若無人で、当時、負けなしだったという。そんな彼らを征伐したとして知られるのが、武将・加藤清正である。各地で狼藉を続ける九千坊の手下たちに業を煮やした加藤清正は、遂に自分のかわいがっていた小姓が九千坊に尻子玉を抜かれて殺されたことに腹を立て、全軍を挙げて九千坊を攻め立てた。しかも、九千坊たちを一掃するため、河童がもっとも苦手とする猿の軍団を九州全土から集めてきたというから恐ろしい。さすがにこれには九千坊の手下たちもなす術はなかったようだ。遂には球磨川を追放された九千坊たちは、水の豊かな福岡の筑後川、田主丸馬場の蛇淵へと辿り着いた。当時、この地を統治していた有馬公は「今後、人畜に悪さをしないように誓うなら、この地に暮らすことを許す」として九千坊たちを受け入れた。暴れ川として知られる筑後川。そこではすでに水天宮(水の神様)が祀られていたが、九千坊は有馬公の温情に感涙し、水天宮の眷属として領民を水害から守ることを誓ったという。以降、九千坊は有馬家に祀られるようになった。

西の河童の親分、東の河童の女親分に挑戦する!?

もうひとつ、九千坊の伝承として知られるのは、関東を総べる禰々子との戦いである。利根川は禰々子河童の根城だったが、この利根川の所有権を巡り、九千坊と禰々子は争ったという。結局、この抗争は禰々子に軍配が上がったようで、九千坊は東の親分を倒すことはできなかった。

田主丸町には河童を保護するヘンテコ条例があった!?

ちなみに、現在でも、九千坊が中国から泳いで辿り着いた熊本県の八代市には「河童渡来之碑」が立てられていて、巨大な河童の像まである。また、九千坊が加藤清正から逃れて辿り着いた久留米市の田主丸町では、九千坊の総本山は田主丸町として、昭和30年に「九千坊本山田主丸河童族」が結成されている。しかも、田主丸町は「河童等特別水棲生物に関する保護条例」というヘンテコな条例までつくってしまっている(久留米市に編入された際に残念ながら廃止されてしまっている)。もうひとつ、「河童九千坊」という麦焼酎もある。キュウリとよく合うらしい。

《参考文献》