2017年9月17日 ネット普及率が1割の世界!?

明日からマラウイに行ってくる。ネット普及率が1割未満のマラウイ。このご時世、宿泊するホテルでフリーWi-Fiが使えない。そんなわけで、おそらく音信不通になるよ。ではでは。

2017年9月15日 googleの届かない世界

googleで検索すれば大抵のことは分かると思っていたけれど、SNSで囲い込まれた世界は、しばしば、google先生の与り知らない世界になる。検索に引っかからない。pixivもそのひとつ。いろんな綺麗な絵があるけれど、その大半はgoogle画像検索で引っ掛からない。そんなわけで、そういう絵にアクセスするために、思い切って、pixivを始めてみた。せっかくなので、過去の自分の絵も載せてみて、見るだけでなく見てもらう方にも片足を突っ込んでみる(笑)。インターネットは世界をひとつにした、と言われるけれど、そのインターネットの中で、世界がこうやって細分化されていくのだから、皮肉なことだ。でも、多様化している。うーん、面白いなあ。こんな未来は想像しなかったなあ。学生のときには、世界はひとつになる、とボクは思い込んでいたなあ。

2017年9月4日 うまくやるという「意思」!!

一度、舞台の幕が開けたら、引き返せない。それがライヴである。当然、ハプニングはつきもの。それでも、お客さんが目の前にいるわけで、何が起こったとしても、最後まで舞台を舞台として全うさせる。そういう信念が大切だ、とボクは常々思っている。

トランぺッターが舞台上で学生ドラマーをビンタしたらしい。教育とか暴力とかの問題ではない。舞台に立つ人として、本番にああいった形になったことが、ボクには信じられない。何が何でも、お客さんの前ではステージを全うすべきだろう。エンターテイメントが台無しだ。

実のところ、こういうのは舞台だけの話ではなくって、人生すべてにおいて言えることだ。何が起こったとしても、何が何でもうまくやる。そういう信念がとても大切である。

2017年8月11日 魔王オディオ!!

『LIVE A LIVE』というトラウマ系ゲームがある。ボクが中学生の頃のスクウェア社のゲームだ。シナリオはかなり攻めていて、言葉のない世界もあれば、主人公が途中で交代する世界もあれば、戦闘のない世界もある。結局、魔王は不在で、絶望した勇者が最終的には自ら魔王になって世界に襲い掛かる。音楽は激情型コンポーザの下村陽子氏で、オケヒとエレキを多用した荒々しいボス・バトルに多くの人が魅了された。

ももいろクローバーZの新曲『BLAST!』のカップリング曲の「境界のペンデュラム」のPVがYouTubeにアップされたので視聴したら、パイプオルガンが鳴り始め、格好いいなあと思っていたら、突然、この『LIVE A LIVE』の「魔王オディオ」のフレーズが流れてビックリした。最初、似ているのかなと思ったが、全く同じ楽器構成、コード進行、旋律だ。思わずGoogle先生に「境界のペンデュラム パクり」と問うてしまった。実際にはパクりではなく、ちゃんと許可を得てモティーフに取り入れたものらしい。

例えば、大森靖子の『夢幻クライマックス』はショパンの「革命のエチュード」で始まったかと思ったらベートーヴェンの「月光 第三楽章」になるというてんこ盛りな変則。例えば、SEKAI NO OWARIの『Love the warz』は同じく「月光 第一楽章」のピアノ旋律を下敷きにして、ヴォーカルがのっかっていく。実のところ、ボクもサワハト氏に頼まれてつくったRPG「Hello the world」のボスバトルの楽曲にはスメタナの「モルダウ」のヴァイオリン旋律をモティーフに用いた。クラシックだったらよくあることだ。でも、最近の楽曲(1994年だけれども)をこうやってモティーフにするというのは斬新で、なかなか面白いな、と思う。

今でこそ死に体みたいなスクウェアだけれども、まさにボクの子供の頃の、彼らの全盛期の音楽を持ってこられてしまうと、ももクロどうこうではなく、何だか無性に懐かしくなって、叫びだしたくなってしまう(笑)。

2017年7月21日 蒔いた種が芽吹き、繋ぎ合わせて形になることを祈る。

基本的に、ボクは現場合わせで生きている。いろんなことを想定しながら、ああでもないこうでもないと無数の準備をしておいて、走りながら、あ、こっちか、いや、こっちかもしれないな、いやいやこっちでやってみようか、と手持ちの素材を繋ぎ合わせながら、微調整を重ねて、重ねて、最終的には何とかする。捏ね繰り回して、結局は何とかするのである。間違えてはいけない。何とかなるのではない。何とかする。ばらばらのものを繋ぎ合わせようとする意志の力である。

でも、最近のボクは、このボクの仕事のストラクチャーがうまく行かない場合があることも知っている。どれだけうまく行くやり方で、どれだけボクが成功していても、ボクのコントロール下を離れた途端に、あっという間に破綻する。最近、何度かそういうシーンを突きつけられた。つまり、こういうのはアートなのであって、決して決してサイエンスではないということなのだろう。

これは、決して誰かをバカにしているわけではない。ボクが手を抜いていること、後でやろうと据え置いていること、予想して準備していること、そういう表には出てこないたくさんのものが、実のところ、他の人には見えない。だから、ボクのストラクチャーを模倣できないということだ。だからこそ、アートなのであって、サイエンスではない。こういうやり方は、組織としてはうまく行かないので、結局、個人プレーにならざるを得ない。でも、それじゃ、ダメだと思っている。何らかの方向転換が必要だろう。いつかは行き詰るような予感がしている。

* * *

本日、先輩に「あなたといると不思議とできちゃうような気がする」と言われた。次々と課題が降りかかってきて、不可能そうな現実が何度突きつけられても、何だか最終的には何とかなってしまいそうに感じるのだそうだ。それって、ボクがバカみたいに楽観しているということだろうか。それとも不屈の精神で何とかしてくれると信じてくれているのだろうか。「でも、あなたがいなくなると急に不安になって、諦めたくなる」。

実のところ、毎日、毎日、押しつぶされそうになっているボクだ。いろんな課題が次々と沸き起こる。ちゃんとできるのだろうか。失敗するのではないか。その不安に押しつぶされそうになりながら、それでも大見得を切って「何とかしますよー!」と笑っている。そして、今度はその言葉の重みに押しつぶされそうになる。

今回のお仕事は果たしてどうなるか。ボクのストラクチャーが破綻することのないように、必死に種を蒔く。蒔いて、蒔いて、どこかしらで芽が出て、それが最後には繋がるように祈る。繋ぎ合わせて形になることを祈る。それが現時点でのボクの仕事の進め方で、祈る神さまなんて、ボクは知らない。

2017年7月8日 ヒアリというアメリカの女優か何かかが活躍しているのか、と誤解したボクであ る。

最近、ネットニュースで頻繁にヒアリという単語が登場する。でも、ボクはこのヒアリという文字を読んだとき、すっと頭の中に入って来なかった。何しろ、ボクの頭の中では「火蟻」という認識だったからだ。

ヒアリと言えば、ちょうどボクが幼稚園の頃、アメリカに行っていたときに、妹がまさにこのヒアリの巣(蟻塚)を踏み潰して、わらわらわらーっと一瞬で下半身が蟻まみれになったのを目の当たりにした記憶がある。ヒアリに噛まれた妹はすぐに病院に運ばれたが、真っ赤に腫れて、大惨事だった。神戸港にヒアリが上陸したという話を受けて、そんなことをパキスタン出発前に父と話した。アナフィラキシーを起こすらしいので、今頃、妹君は戦々恐々だろう。

そんなわけで、ボクはヒアリをよく知っている。ヒアリの蟻塚だって見ている。それでも、ヒアリとカタカナで書かれてしまうと、頭の中で結びつかなかった。一瞬、ヒアリという名前の有名人でも登場したのかな、などと思ってしまった。

言葉は伝達の手段だ。「火蟻」と書けば絶対に伝わるし、強烈なイメージを喚起する。生き物だから厳密にはカタカナで書くべきなどという変な風習というか文化が、ヒアリという表現を使わせているのだろうか。日本には漢字、ひらがな、カタカナを組み合わせられるという素敵な文化があるのだから、漢字が適切なときには漢字を使うべきではないか。

2017年7月5日 パキスタンにいます!

いつも雑記での報告が遅くなるのだけれど、今、パキスタンにいる。7月3日から8月1日までの30日間である。この間にウルドゥー文字が読めるようになれればいいな、と内心、思っているのだけれど、いろいろとお仕事で各方面から先制パンチを喰らって、それどころではない。文字通り、斃れそうである。嗚呼! これがパキスタン・クオリティなのである! 全ッ然、働いていないじゃないか、お前たち!!(何のこっちゃ!!)

実は、出発の直前に食中毒みたいな雰囲気でお腹を壊したので、さてはて、何が原因だろうか、とチーズに八つ当たってみたりしたのだが、飛行機に乗っている間に何とか治まった。結局のところ、単に疲れが溜まっていたのかもしれない。夏風邪だったのかもしれない。あるいは、太田胃散の賜物かもしれない。だとしたら、太田胃散は偉大である。

現在、パキスタンは非常に暑くて大変である。天気予報では日中46℃などと表示されている。それだけでも気分はダウナーだ。護衛警官がつかないので現場に出られないのが幸いだが、でも、本当ならすぐにでも現場に行って遅れを取り戻したいので、この辺は矛盾した感情が渦巻いている。

何のことやら、という雑記ではあるが、要するにパキスタンにいるからね、という近況報告である。ふふふ。

2017年6月30日 詩人・ツクル氏の誕生!

最近、息子が夜、なかなか寝ないので、真っ暗な寝室に連れて行く。「パパ、何も見えないよー」と言うので「パパも見えない。目を開けてても目を瞑ってても何も見えない」と返したら「パパ、目を瞑ったら夢が見えるよ」との回答。詩人かッ。

「いつもうなされているけど、毎日、怖い夢でも見ているの?」と訊いてみる。すると「怖い夢は朝、ミックスジュースにして飲むんだよ、パパ!」とのたまう。五味太郎かッ!!

2017年6月27日 ボホト・ボホト・シュクリヤ!!

ウルドゥー語の文法書を買ってみた。パキスタンに何度も行って、少しウルドゥー語を学んでみようか、と思っている次第。別にウルドゥー語をマスタしようというわけではないし、ちょっとした努力でそんなことができるとは思っていない。でも、ウルドゥー語は基本的にはアラビア文字を援用しているので、ウルドゥー語を勉強する過程で、アラビア語が「読める」ようになればラッキィ、という期待が少しある。それにヨーロッパ系の文法とはまるで異なる文法を理解するのも面白いのではないか、と感じている。加えて、たまたまゾロアスター教で用いられているアヴェスター語とウルドゥー語が近縁であるという情報も、ボクに興味を抱かせている点である。

難しいのは、文字である。アラビア文字の援用なので見慣れないし、単独字に加えて、頭字、中字、尾字で形が変わる。それを覚えて、識別するところから始めなきゃいけない。でも、文字が読めるようになれば、これはアラビア語を「読む」ときにも援用できるので、頑張り甲斐があるというものである。

まあ、ウルドゥー語を学んでも、あんまり神話・伝承の分野には活かせなそうなので、その辺は玉に瑕である。

بہت بہت شکریہ.

2017年6月26日 科学反応

高校1年生を相手に50分の講義を3回する。こんなことが自分の人生に起こるとは思わなかった。海外を飛び回る仕事をする、なんてことも想定していなかったわけで、何が起こるか分からないのが人生である。

ボクは基本的には降って来た仕事は断らない。何かの「縁」だと思っている。そうやって歩いていたら、こんなところまでやって来た。不思議なものである。

キャピキャピと高校生が騒いでいるのを休み時間に眺めながら、ジェネレーション・ギャップを感じる。外から招かれた講師を相手に、タメ語で話しかけてくるし、内輪の世界でゲラゲラと楽しそうにふざけて、「始めますよー」と声を掛けても、全ッ然、すんなりと授業が始まらない。それでいて、授業の最後に「今日の講義でレポート書けそう?」などと気を回してみたら「ほら! もうこんなに書けた!」などと屈託なく笑って見せてくれる。ただ講義で喋った内容を書き写しているだけなのだけれど、それで『レポート』になってしまうのだから、高校は平和である。まあ、高校1年生なんて、ちょっと前は中学生なのである。

彼らが聴いている音楽ってどんなだろう。彼らが読んでいる漫画や小説ってどんなだろう。テレビは観るのだろうか。Youtubeの方が馴染みがあるのだろうか。全ッ然、想像ができない。でも、こういう若い感性と触れ合ったら、色んなことを学べそうだな、と思う。そういう意味じゃ、学校の先生って楽しいだろうな、と思う。

でも、その一方で、ボクの対応をした先生方はみんな、視野が狭く、凝り固まっていて、ダメダメだった。ボクが社会で働いていて、その視点で高校生と触れ合うからこそ、何らかの化学反応が起こるのだろう。毎日、高校生を相手にしていると、若い感性に刺激されることは少ないのかもしれない。逆に外の世界と触れ合ったときに、先生たちも何らか、感じるところがあるのだろうし、そうであって欲しいな、と思う。そういう意味では、こういう異文化交流みたいなものは、大きな意味があるのだろう、と思うがいかがか。

2017年6月13日 ひとつながりの「妖怪」として受け止める

ティラノサウルスって、大昔はゴジラみたいな姿だった。直立二足歩行で、尻尾を引き摺って歩いていた。肌の色も、爬虫類を参考に茶色にされていた。でも、研究が進んで、今では尻尾と頭でバランスをとった前傾姿勢で、背中には羽毛が生えている。肌の色も黒っぽい色だと判明してきた。

つまり、実在の生き物(ティラノサウルスは絶滅はしているが!)でも、姿・形は時代によって変化していく。それでも、実在の生き物である以上、その姿や色には「正解」があるはずで、生きた痕跡が残るので、研究が進めば、真実に辿り着けるかもしれない。

一方の想像上の生き物の場合、彼らは人々の頭の中にしか存在していない。だから、当然、語る人によって姿・形は変わる。語り手がいなくなったら、何も残らない。従って、文献や絵画、彫刻になって残されたものから類推してやるしかない。でも、それだって、時代や社会によっていろいろと変化、あるいは変質していくので、「正解」はなくって、どれだけ研究しても、本当のところ、真実には辿り着けないかもしれない。

古代の人々が思い描いた「妖怪」と、それを受けて中世の人々が思い描いた「妖怪」と、近世の人々が思い描いた「妖怪」は、たとえ同じものであっても、全ッ然、違うかもしれない。それは現代でも同じで、ゲームや漫画、ラノベのモティーフにされて、その「妖怪」は新たに解釈される。そして、それもまた、その「妖怪」の一部になっていく。そういうのも含めて、全部、ひとつながりの「妖怪」として受け止めることが、とても大切だ、と最近のボクは思っている。

2017年5月30日 ノンアル生活のすゝめ

意外に思われるかどうかは正直分からないが、ボクは積極的にアルコールを飲みたいと思わない。

たとえば、相手が5本飲めば、ボクも5本飲む。日本酒をあけたいと言えば付き合うし、ウィスキィを1本空けるぞ、と誘われればのる。対外的にはカクテルが趣味で、シェイカを持っていると公言している。

それでも、ボク自身は自分の意思でアルコールを飲まない。何せ飲んでしまったら、その後のボクは使えなくなることを、誰でもないボク自身がよく諒解している。

ボクは時間があれば文章を書きたいし、絵を描きたいし、神話・伝承にのめり込んでいたい。飲むと、それが出来なくなる。

勿論、アルコールを飲んで、常識からぶっ飛んで自由な状態で創作をするスタイルの人をボクは知っている。でも、ボクはそのやり方はできない。何だか分からないが、妙な罪悪感を覚えてしまう。それはつまり、アルコールというシークレットブーツで産み出した創作はボクのものではないという変な思い込みで、願わくは頭がクリアーなときに創作をしたいと常々思っている。

アルコールの摂取は、ボクにとって、その日は創作をしない、という決意を意味する。そんな一日は無意味だ。だからボクは飲まない。願わくは創作活動が一段落したその瞬間に誘われるのが理想だ。でも、そんな時間に誘えるのはちぃ子(妻)だけなのである。

2017年5月21日 死番虫!?

パキスタンで購入したスパイス。瓶につめてキッチンに飾っておいたら、死番虫が大量発生していてビックリした。ぎゃあ。発生していたのはクミン。コリアンダーとカイエンペッパーにも1匹いたが、大量発生はしていないのは、環境が厳しいからだろう。

幸い、瓶が封をされている状態だったので、外に出てくるようなことはなく、まるで蟻の巣観察キットみたいに、クミンの中でうじゃうじゃと動き回る死番虫を観察できる状態。

海外渡航が多く、常温に放置したまま、ほとんど使わなかったのがいけないのだろう。でも、もともと卵があったということで、衛生管理的にはいかがなものか、と思う。途上国のスパイスは信用ならない。一度、冷凍すれば、卵は死ぬらしいので、持ち帰った後、そういうやり方を徹底する必要がありそうだ。

2017年5月18日 緑鬼は角3本って本当!?

ウェブサイトで調べていたら、「赤鬼は金棒、青鬼は刺股、黄鬼は両刃のこぎり、緑鬼は薙刀、黒鬼は斧」と肌の色によって所持している武器が異なるとの説明を発見した。ボクはいろんな妖怪本を読んでいるけれど、この記述は初めて見た。どこからの引用だろうか。いろいろとインターネットで調べてみるが、みんな、文面が同じなので、きっと、誰かが書いた文章をコピペしているのだろうと思われる。インターネットに出回ると、それがさも真実のように浸透していく。そして、一次文献が不明確になる。ホント、出典はどこだろうか? 誰かご存知か? とは言え、面白いので、ボクもこれから絵を描くときには、青鬼には刺股を、緑鬼には薙刀を持たせてみようと思っている。

ちなみに、うちの息子は「赤鬼は角が1本なんだよ! 青鬼は2本なんだってさー!」などと言っている。保育園の先生が節分のときにそう教えたのだろう。いじわるなボクが「じゃ、緑鬼は?」と訊いてみたら、しばらくはうーん、と考え込んでから「3本だ!」と答える。こうやって、「真実」は形成されていくのかもしれないな、と思う。特に妖怪の場合は実態がないので、証明のしようもないので、言ったもん勝ちだ、という側面は否定できない。

2017年5月10日 古屋兎丸ってメジャーだっけ!?

最近、古屋兎丸の漫画が書店で平積みされている。彼はアングラ作家だと認識していたボクとしてはビックリしている。『帝一の國』が映画化されたというのは大きいが、彼の作品は昔から根強いファンがいて、劇脚本化もされていたわけで、映画のメジャー度合ってすごいな、とも思う。売れているということなのだろう。

もしかしたら、音楽も漫画も同様で、価値観が多様化して、ニーズが多様化しているので、一極集中ではなく、いろんなものが売れる時代になっているのかもしれない。だからこそ、アングラ志向の音楽や漫画も表に出てきて、日の目を見ている。そういう意味では、いい時代になったなあ、と思う。

『帝一の國』は完全にギャグ漫画で、キャラクタの個性が立っていて、いい意味でも悪い意味でも同人受けしそうな感じ。どのキャラクタで組み立てても、面白いドラマが描けそうなので、その辺は兎丸さんも上手だ。そして熱血学園ものなので、大衆受けしそうだ。それでも、大真面目なギャグ漫画なので、やっぱりアングラ志向だよなあ。わっはっは。

2017年5月5日 クラシック音楽を聴きながら過ごすゴールデンウィーク

両親が二人ともチェロを弾く。趣味の楽団に入っていて、その演奏会がゴールデンウィーク真っ只中の5日にあった。練習している二人を見た3歳の息子のツクル氏が「演奏会、行きたい!」などと言うので、試しに連れて行ってみた。退屈かな、と思っていたが、目をキラキラさせて聞いている。素敵なことである。モーツァルトとメンデルスゾーンだったが、メンデルスゾーンはピチカートがあって、そういう面白さは伝わるらしく、身体を起こして聞いている。

そんなワケで、我が家に久々にクラシック音楽ライフが戻って来た。昔はボクもよく聞いていたが、ここのところ、ご無沙汰だった。最近では、著作権切れの演奏もフリーで手に入る時代だし、音楽環境はかなり変わりつつある。サン=サーンスの「死の舞踏」が聴きたいなあ、と思ったら、フリーで落ちていた。演奏はそこそこだが、でも、ボクは演奏よりもどちらかと言えば、作曲家の視点で音楽を聞くので、それはそれでよい。

ゴールデンウィークは大音量でクラシックが流れている我が家である。

2017年5月1日 なかったことにされてしまうのが嫌なので。

いるま嬢が一昨日、新譜のMVを公開していた。予定は把握していたが、うっかり失念していた。

今の時代、音楽は音だけでなく、映像もセットらしい。映像がないと、そしてYoutubeにアップロードされないと、なかったことにされてしまう。そんな風に大森靖子が言っていて、はたと、ああ、そうだなあ、と痛感した。Youtubeをきっかけに新しいアーティストを知ることも多くなったし、膨大な楽曲があるはずなのに、Youtubeを梯子して、そのアーティストの楽曲を知った気になったりすることも多い。Youtubeを介してしか触れ合わない音楽が圧倒的に多くなっている。だから「なかったことにされてしまう」というのは、決して過大な表現ではない。そういう意味じゃ、あまりガンガンと新譜を出さないいるま嬢が、こうしてMVを引っ提げてやって来るというのは、非常にいいことである。

いるま嬢の良さというよりは、ヴァイオリンとギターを全面に押し出したような楽曲で、彼らの魅力が存分に堪能できる。その一歩引いた感じも、また、面白いな、と感じる。プロデューサだなあ、彼女は。

2017年4月30日 ヴァルプルギスの夜!!

本日はボクの誕生日。ところが昨夜、妹が破水して、今日、子供が生まれるとか生まれないとか大騒ぎ。「お兄ちゃんと同じ誕生日になるかも! でも、変人になっちゃうかも!」などと言っている。そんな情報に家族も大わらわ。「あなたと同じ誕生日になるかもよ!」などと母親も笑っている。でも、ボクの誕生日の話題はたくさん出るけれど、みんな、ボクの誕生日そのものは忘れていて、ちゃんと祝われることなく終わっていくという(笑)。

そんなこんなで、妹の家に駆け付ける準備をすべく、家で待機。息子のツクル氏(3歳)がケーキを選んできたので、それで慎ましやかに祝う。彼は消防車の容器に入ったプリンだが、消防車が容器だとは思わなかったようで、スプーンでガシガシとやって、首を傾げている。かわいい。

現時点で連絡が来ないので、多分、出産は明日だろう。でも、まあ、今日はヒットラーの自殺した日だし。魔女たちが夜会を開催するヴァルプルギスの夜だし。それほど有名な人の誕生日はないし。明日でいいのではないか。強いてあげれば日本は「図書館記念日」だということくらいか。あ、図書館に行けばよかったなー。

2017年3月24日 ぼくはごみくずだからやるんですッ!

はじめしゃちょーの謝罪動画、お通夜みたいなんだけど、あんなの見ても面白くないよなあ、と思う。だけど、その後、無邪気な動画が続いていて、とてもよいことだ、とボクは思う。ボクはYoutubeは比較的、見る方だ。でも、個人的にはそんなにはじめしゃちょーの動画が面白いとは思っていなくって、そんなに頻繁に見ることもないんだけれど、でも、見れば見たで、そのひとつひとつのクオリティは高いな、と思う。だから、是非、そのままの方向性で続けてくれればいいな、と思う。願わくは暴露して自爆した彼女の方も、引き続き、楽しく続けられればいいな、とは思うけれど、事務所的な問題もあって難しいかもしれない。まあ、彼女の動画の方はボクはまるで興味もないし、いつも見ないのでどうでもい いことだけれど。

そもそも、ボクはみずにゃんが言っているように、はじめしゃちょーの告発者を責めるなら、べっきーと絵音の告発者も責めるべし、という主張には大賛成だ。ボクはゴシップ誌が大嫌いだ。小さい頃に病院の待合室で開いて、非常にざわざわした気持ちになった。何だろうね、あの気持ち。人の秘密に触れるような、甘美で刺激的な感じで、心がざらざらする。確かに好奇心は刺激されて、満足する。でも、決して幸せな気持ちにはなれなかった。だから、本屋にある本を片っ端から手につけるボクだけれど、生まれてこの方、ゴシップ誌の類いは一度も購入したことはない。

今ってバカみたいな時代で、ゴシップ誌に書かれた内容をそのまんまテレビもネットも報道する。そうやって拡散していく。情報ソースがゴシップ誌って、何なのよ、とボクは思うし、ゴシップ誌の地位もあがったものだな、と思う。「文春砲」なんて楽しそうな言葉もボクは嫌いで、ゴシップ誌(敢えて週刊誌という言葉を避けて使用している)って、非常に露悪趣味だと思っている。そして、それを生業にしている人には申し訳ないけれど、ボクは好きにはなれない。それを楽しむ人の気持ちはよく分かる。ボクも好奇心が刺激され、本当はどうなの? と露悪趣味になる気持ちが生じないわけじゃない。誰かを引き摺り下ろそうとする気持ちも、楽しいのはよく分かる。変に正義感に駆られる気持ちも、実はよ く分かる。でも、気をつけなければいけないのは、それって、結局、いじめの根底にある感情と同じだ。

みずにゃんは自分のことを「クズ」だと自覚しているらしい。その一点において、ボクはみずにゃんを支持したい。彼は自分のアクセス稼ぎのために敢えて「クズ」をやっている。潔いな、と思う。ゴシップ誌のライタも、そういう自覚が必要だ。その上でやっているなら、それはそれで潔い生き方だ、と思う。でも、絶対に正義感だ、真実の追求だ、などと勘違いしてはいけない。

そんなことで、特にはじめしゃちょーのファンでもないし、普段、彼の動画を見ないボクなんだけれど(正直に言えば、たまに他のYoutuberさんとコラボしているときに見る程度なんだけれど)、書いてみた。そして、ゲスの極み乙女。の復活を祈っている(笑)。

2017年3月22日 ピーーーーーーーーーーーーーーーー!!

大森靖子が3rd album『kitixxxgaia』を発売した。これ、タイトル変更の要請がどこかからあったようだが、彼女は拒み、結果として表記を変えたようだ。その中の1曲目が『ドグマ・マグマ』なのだが、その中にも放送禁止用語があって、テレビで歌ったときには歌詞を変えて歌っていた。

ボクは放送禁止用語の意味が分からない。差別用語というのも、よく分からない。言葉そのものには悪意はない。使う人間の側に悪意があるだけだ。悪意ある人間が発すれば言葉は攻撃になるし、差別になる。でも、そういう意図なく使われる言葉には悪意も差別意識もない。無自覚に差別を助長する要素が言葉があるのだとしたら、正されるべきは言葉ではなくって文化の側だ。言葉は所詮、表層だ。

今でも、真っ先に言葉が槍玉にあげられるのだなあ、と思う。下品極まりない番組や偏向報道、目を覆いたくなるような性表現は横に置かれて、表層の言葉にだけ、アンテナを張って、それで安全を主張する。

ボクはこのアルバムの元のタイトルを規制することよりも、コンビニのエロ本を排除することの方が先だと思うし、それこそ女性蔑視だと思う。『ドグマ・マグマ』の歌詞を変えて歌わせるよりも先に、過激なYoutubeやニコニコ動画を規制した方が健全な社会になると思う。大事なことは、ルールとかレギュレーションではなくって、本質だ。「キ○ガイ」やF-wordはダメというルールの遵守が大切なのではなくって、社会に存在する悪意を排除することだ。そこを横において言葉だけを狩っていても誰も救われない。

って、全然、音楽の感想じゃねえや。まあ、いいか。