2017年6月27日 ボホト・ボホト・シュクリヤ!!

ウルドゥー語の文法書を買ってみた。パキスタンに何度も行って、少しウルドゥー語を学んでみようか、と思っている次第。別にウルドゥー語をマスタしようというわけではないし、ちょっとした努力でそんなことができるとは思っていない。でも、ウルドゥー語は基本的にはアラビア文字を援用しているので、ウルドゥー語を勉強する過程で、アラビア語が「読める」ようになればラッキィ、という期待が少しある。それにヨーロッパ系の文法とはまるで異なる文法を理解するのも面白いのではないか、と感じている。加えて、たまたまゾロアスター教で用いられているアヴェスター語とウルドゥー語が近縁であるという情報も、ボクに興味を抱かせている点である。

難しいのは、文字である。アラビア文字の援用なので見慣れないし、単独字に加えて、頭字、中字、尾字で形が変わる。それを覚えて、識別するところから始めなきゃいけない。でも、文字が読めるようになれば、これはアラビア語を「読む」ときにも援用できるので、頑張り甲斐があるというものである。

まあ、ウルドゥー語を学んでも、あんまり神話・伝承の分野には活かせなそうなので、その辺は玉に瑕である。

بہت بہت شکریہ.

2017年6月26日 科学反応

高校1年生を相手に50分の講義を3回する。こんなことが自分の人生に起こるとは思わなかった。海外を飛び回る仕事をする、なんてことも想定していなかったわけで、何が起こるか分からないのが人生である。

ボクは基本的には降って来た仕事は断らない。何かの「縁」だと思っている。そうやって歩いていたら、こんなところまでやって来た。不思議なものである。

キャピキャピと高校生が騒いでいるのを休み時間に眺めながら、ジェネレーション・ギャップを感じる。外から招かれた講師を相手に、タメ語で話しかけてくるし、内輪の世界でゲラゲラと楽しそうにふざけて、「始めますよー」と声を掛けても、全ッ然、すんなりと授業が始まらない。それでいて、授業の最後に「今日の講義でレポート書けそう?」などと気を回してみたら「ほら! もうこんなに書けた!」などと屈託なく笑って見せてくれる。ただ講義で喋った内容を書き写しているだけなのだけれど、それで『レポート』になってしまうのだから、高校は平和である。まあ、高校1年生なんて、ちょっと前は中学生なのである。

彼らが聴いている音楽ってどんなだろう。彼らが読んでいる漫画や小説ってどんなだろう。テレビは観るのだろうか。Youtubeの方が馴染みがあるのだろうか。全ッ然、想像ができない。でも、こういう若い感性と触れ合ったら、色んなことを学べそうだな、と思う。そういう意味じゃ、学校の先生って楽しいだろうな、と思う。

でも、その一方で、ボクの対応をした先生方はみんな、視野が狭く、凝り固まっていて、ダメダメだった。ボクが社会で働いていて、その視点で高校生と触れ合うからこそ、何らかの化学反応が起こるのだろう。毎日、高校生を相手にしていると、若い感性に刺激されることは少ないのかもしれない。逆に外の世界と触れ合ったときに、先生たちも何らか、感じるところがあるのだろうし、そうであって欲しいな、と思う。そういう意味では、こういう異文化交流みたいなものは、大きな意味があるのだろう、と思うがいかがか。

2017年6月13日 ひとつながりの「妖怪」として受け止める

ティラノサウルスって、大昔はゴジラみたいな姿だった。直立二足歩行で、尻尾を引き摺って歩いていた。肌の色も、爬虫類を参考に茶色にされていた。でも、研究が進んで、今では尻尾と頭でバランスをとった前傾姿勢で、背中には羽毛が生えている。肌の色も黒っぽい色だと判明してきた。

つまり、実在の生き物(ティラノサウルスは絶滅はしているが!)でも、姿・形は時代によって変化していく。それでも、実在の生き物である以上、その姿や色には「正解」があるはずで、生きた痕跡が残るので、研究が進めば、真実に辿り着けるかもしれない。

一方の想像上の生き物の場合、彼らは人々の頭の中にしか存在していない。だから、当然、語る人によって姿・形は変わる。語り手がいなくなったら、何も残らない。従って、文献や絵画、彫刻になって残されたものから類推してやるしかない。でも、それだって、時代や社会によっていろいろと変化、あるいは変質していくので、「正解」はなくって、どれだけ研究しても、本当のところ、真実には辿り着けないかもしれない。

古代の人々が思い描いた「妖怪」と、それを受けて中世の人々が思い描いた「妖怪」と、近世の人々が思い描いた「妖怪」は、たとえ同じものであっても、全ッ然、違うかもしれない。それは現代でも同じで、ゲームや漫画、ラノベのモティーフにされて、その「妖怪」は新たに解釈される。そして、それもまた、その「妖怪」の一部になっていく。そういうのも含めて、全部、ひとつながりの「妖怪」として受け止めることが、とても大切だ、と最近のボクは思っている。

2017年5月30日 ノンアル生活のすゝめ

意外に思われるかどうかは正直分からないが、ボクは積極的にアルコールを飲みたいと思わない。

たとえば、相手が5本飲めば、ボクも5本飲む。日本酒をあけたいと言えば付き合うし、ウィスキィを1本空けるぞ、と誘われればのる。対外的にはカクテルが趣味で、シェイカを持っていると公言している。

それでも、ボク自身は自分の意思でアルコールを飲まない。何せ飲んでしまったら、その後のボクは使えなくなることを、誰でもないボク自身がよく諒解している。

ボクは時間があれば文章を書きたいし、絵を描きたいし、神話・伝承にのめり込んでいたい。飲むと、それが出来なくなる。

勿論、アルコールを飲んで、常識からぶっ飛んで自由な状態で創作をするスタイルの人をボクは知っている。でも、ボクはそのやり方はできない。何だか分からないが、妙な罪悪感を覚えてしまう。それはつまり、アルコールというシークレットブーツで産み出した創作はボクのものではないという変な思い込みで、願わくは頭がクリアーなときに創作をしたいと常々思っている。

アルコールの摂取は、ボクにとって、その日は創作をしない、という決意を意味する。そんな一日は無意味だ。だからボクは飲まない。願わくは創作活動が一段落したその瞬間に誘われるのが理想だ。でも、そんな時間に誘えるのはちぃ子(妻)だけなのである。

2017年5月21日 死番虫!?

パキスタンで購入したスパイス。瓶につめてキッチンに飾っておいたら、死番虫が大量発生していてビックリした。ぎゃあ。発生していたのはクミン。コリアンダーとカイエンペッパーにも1匹いたが、大量発生はしていないのは、環境が厳しいからだろう。

幸い、瓶が封をされている状態だったので、外に出てくるようなことはなく、まるで蟻の巣観察キットみたいに、クミンの中でうじゃうじゃと動き回る死番虫を観察できる状態。

海外渡航が多く、常温に放置したまま、ほとんど使わなかったのがいけないのだろう。でも、もともと卵があったということで、衛生管理的にはいかがなものか、と思う。途上国のスパイスは信用ならない。一度、冷凍すれば、卵は死ぬらしいので、持ち帰った後、そういうやり方を徹底する必要がありそうだ。

2017年5月18日 緑鬼は角3本って本当!?

ウェブサイトで調べていたら、「赤鬼は金棒、青鬼は刺股、黄鬼は両刃のこぎり、緑鬼は薙刀、黒鬼は斧」と肌の色によって所持している武器が異なるとの説明を発見した。ボクはいろんな妖怪本を読んでいるけれど、この記述は初めて見た。どこからの引用だろうか。いろいろとインターネットで調べてみるが、みんな、文面が同じなので、きっと、誰かが書いた文章をコピペしているのだろうと思われる。インターネットに出回ると、それがさも真実のように浸透していく。そして、一次文献が不明確になる。ホント、出典はどこだろうか? 誰かご存知か? とは言え、面白いので、ボクもこれから絵を描くときには、青鬼には刺股を、緑鬼には薙刀を持たせてみようと思っている。

ちなみに、うちの息子は「赤鬼は角が1本なんだよ! 青鬼は2本なんだってさー!」などと言っている。保育園の先生が節分のときにそう教えたのだろう。いじわるなボクが「じゃ、緑鬼は?」と訊いてみたら、しばらくはうーん、と考え込んでから「3本だ!」と答える。こうやって、「真実」は形成されていくのかもしれないな、と思う。特に妖怪の場合は実態がないので、証明のしようもないので、言ったもん勝ちだ、という側面は否定できない。

2017年5月10日 古屋兎丸ってメジャーだっけ!?

最近、古屋兎丸の漫画が書店で平積みされている。彼はアングラ作家だと認識していたボクとしてはビックリしている。『帝一の國』が映画化されたというのは大きいが、彼の作品は昔から根強いファンがいて、劇脚本化もされていたわけで、映画のメジャー度合ってすごいな、とも思う。売れているということなのだろう。

もしかしたら、音楽も漫画も同様で、価値観が多様化して、ニーズが多様化しているので、一極集中ではなく、いろんなものが売れる時代になっているのかもしれない。だからこそ、アングラ志向の音楽や漫画も表に出てきて、日の目を見ている。そういう意味では、いい時代になったなあ、と思う。

『帝一の國』は完全にギャグ漫画で、キャラクタの個性が立っていて、いい意味でも悪い意味でも同人受けしそうな感じ。どのキャラクタで組み立てても、面白いドラマが描けそうなので、その辺は兎丸さんも上手だ。そして熱血学園ものなので、大衆受けしそうだ。それでも、大真面目なギャグ漫画なので、やっぱりアングラ志向だよなあ。わっはっは。

2017年5月5日 クラシック音楽を聴きながら過ごすゴールデンウィーク

両親が二人ともチェロを弾く。趣味の楽団に入っていて、その演奏会がゴールデンウィーク真っ只中の5日にあった。練習している二人を見た3歳の息子のツクル氏が「演奏会、行きたい!」などと言うので、試しに連れて行ってみた。退屈かな、と思っていたが、目をキラキラさせて聞いている。素敵なことである。モーツァルトとメンデルスゾーンだったが、メンデルスゾーンはピチカートがあって、そういう面白さは伝わるらしく、身体を起こして聞いている。

そんなワケで、我が家に久々にクラシック音楽ライフが戻って来た。昔はボクもよく聞いていたが、ここのところ、ご無沙汰だった。最近では、著作権切れの演奏もフリーで手に入る時代だし、音楽環境はかなり変わりつつある。サン=サーンスの「死の舞踏」が聴きたいなあ、と思ったら、フリーで落ちていた。演奏はそこそこだが、でも、ボクは演奏よりもどちらかと言えば、作曲家の視点で音楽を聞くので、それはそれでよい。

ゴールデンウィークは大音量でクラシックが流れている我が家である。

2017年5月1日 なかったことにされてしまうのが嫌なので。

いるま嬢が一昨日、新譜のMVを公開していた。予定は把握していたが、うっかり失念していた。

今の時代、音楽は音だけでなく、映像もセットらしい。映像がないと、そしてYoutubeにアップロードされないと、なかったことにされてしまう。そんな風に大森靖子が言っていて、はたと、ああ、そうだなあ、と痛感した。Youtubeをきっかけに新しいアーティストを知ることも多くなったし、膨大な楽曲があるはずなのに、Youtubeを梯子して、そのアーティストの楽曲を知った気になったりすることも多い。Youtubeを介してしか触れ合わない音楽が圧倒的に多くなっている。だから「なかったことにされてしまう」というのは、決して過大な表現ではない。そういう意味じゃ、あまりガンガンと新譜を出さないいるま嬢が、こうしてMVを引っ提げてやって来るというのは、非常にいいことである。

いるま嬢の良さというよりは、ヴァイオリンとギターを全面に押し出したような楽曲で、彼らの魅力が存分に堪能できる。その一歩引いた感じも、また、面白いな、と感じる。プロデューサだなあ、彼女は。

2017年4月30日 ヴァルプルギスの夜!!

本日はボクの誕生日。ところが昨夜、妹が破水して、今日、子供が生まれるとか生まれないとか大騒ぎ。「お兄ちゃんと同じ誕生日になるかも! でも、変人になっちゃうかも!」などと言っている。そんな情報に家族も大わらわ。「あなたと同じ誕生日になるかもよ!」などと母親も笑っている。でも、ボクの誕生日の話題はたくさん出るけれど、みんな、ボクの誕生日そのものは忘れていて、ちゃんと祝われることなく終わっていくという(笑)。

そんなこんなで、妹の家に駆け付ける準備をすべく、家で待機。息子のツクル氏(3歳)がケーキを選んできたので、それで慎ましやかに祝う。彼は消防車の容器に入ったプリンだが、消防車が容器だとは思わなかったようで、スプーンでガシガシとやって、首を傾げている。かわいい。

現時点で連絡が来ないので、多分、出産は明日だろう。でも、まあ、今日はヒットラーの自殺した日だし。魔女たちが夜会を開催するヴァルプルギスの夜だし。それほど有名な人の誕生日はないし。明日でいいのではないか。強いてあげれば日本は「図書館記念日」だということくらいか。あ、図書館に行けばよかったなー。

2017年3月24日 ぼくはごみくずだからやるんですッ!

はじめしゃちょーの謝罪動画、お通夜みたいなんだけど、あんなの見ても面白くないよなあ、と思う。だけど、その後、無邪気な動画が続いていて、とてもよいことだ、とボクは思う。ボクはYoutubeは比較的、見る方だ。でも、個人的にはそんなにはじめしゃちょーの動画が面白いとは思っていなくって、そんなに頻繁に見ることもないんだけれど、でも、見れば見たで、そのひとつひとつのクオリティは高いな、と思う。だから、是非、そのままの方向性で続けてくれればいいな、と思う。願わくは暴露して自爆した彼女の方も、引き続き、楽しく続けられればいいな、とは思うけれど、事務所的な問題もあって難しいかもしれない。まあ、彼女の動画の方はボクはまるで興味もないし、いつも見ないのでどうでもい いことだけれど。

そもそも、ボクはみずにゃんが言っているように、はじめしゃちょーの告発者を責めるなら、べっきーと絵音の告発者も責めるべし、という主張には大賛成だ。ボクはゴシップ誌が大嫌いだ。小さい頃に病院の待合室で開いて、非常にざわざわした気持ちになった。何だろうね、あの気持ち。人の秘密に触れるような、甘美で刺激的な感じで、心がざらざらする。確かに好奇心は刺激されて、満足する。でも、決して幸せな気持ちにはなれなかった。だから、本屋にある本を片っ端から手につけるボクだけれど、生まれてこの方、ゴシップ誌の類いは一度も購入したことはない。

今ってバカみたいな時代で、ゴシップ誌に書かれた内容をそのまんまテレビもネットも報道する。そうやって拡散していく。情報ソースがゴシップ誌って、何なのよ、とボクは思うし、ゴシップ誌の地位もあがったものだな、と思う。「文春砲」なんて楽しそうな言葉もボクは嫌いで、ゴシップ誌(敢えて週刊誌という言葉を避けて使用している)って、非常に露悪趣味だと思っている。そして、それを生業にしている人には申し訳ないけれど、ボクは好きにはなれない。それを楽しむ人の気持ちはよく分かる。ボクも好奇心が刺激され、本当はどうなの? と露悪趣味になる気持ちが生じないわけじゃない。誰かを引き摺り下ろそうとする気持ちも、楽しいのはよく分かる。変に正義感に駆られる気持ちも、実はよ く分かる。でも、気をつけなければいけないのは、それって、結局、いじめの根底にある感情と同じだ。

みずにゃんは自分のことを「クズ」だと自覚しているらしい。その一点において、ボクはみずにゃんを支持したい。彼は自分のアクセス稼ぎのために敢えて「クズ」をやっている。潔いな、と思う。ゴシップ誌のライタも、そういう自覚が必要だ。その上でやっているなら、それはそれで潔い生き方だ、と思う。でも、絶対に正義感だ、真実の追求だ、などと勘違いしてはいけない。

そんなことで、特にはじめしゃちょーのファンでもないし、普段、彼の動画を見ないボクなんだけれど(正直に言えば、たまに他のYoutuberさんとコラボしているときに見る程度なんだけれど)、書いてみた。そして、ゲスの極み乙女。の復活を祈っている(笑)。

2017年3月22日 ピーーーーーーーーーーーーーーーー!!

大森靖子が3rd album『kitixxxgaia』を発売した。これ、タイトル変更の要請がどこかからあったようだが、彼女は拒み、結果として表記を変えたようだ。その中の1曲目が『ドグマ・マグマ』なのだが、その中にも放送禁止用語があって、テレビで歌ったときには歌詞を変えて歌っていた。

ボクは放送禁止用語の意味が分からない。差別用語というのも、よく分からない。言葉そのものには悪意はない。使う人間の側に悪意があるだけだ。悪意ある人間が発すれば言葉は攻撃になるし、差別になる。でも、そういう意図なく使われる言葉には悪意も差別意識もない。無自覚に差別を助長する要素が言葉があるのだとしたら、正されるべきは言葉ではなくって文化の側だ。言葉は所詮、表層だ。

今でも、真っ先に言葉が槍玉にあげられるのだなあ、と思う。下品極まりない番組や偏向報道、目を覆いたくなるような性表現は横に置かれて、表層の言葉にだけ、アンテナを張って、それで安全を主張する。

ボクはこのアルバムの元のタイトルを規制することよりも、コンビニのエロ本を排除することの方が先だと思うし、それこそ女性蔑視だと思う。『ドグマ・マグマ』の歌詞を変えて歌わせるよりも先に、過激なYoutubeやニコニコ動画を規制した方が健全な社会になると思う。大事なことは、ルールとかレギュレーションではなくって、本質だ。「キ○ガイ」やF-wordはダメというルールの遵守が大切なのではなくって、社会に存在する悪意を排除することだ。そこを横において言葉だけを狩っていても誰も救われない。

って、全然、音楽の感想じゃねえや。まあ、いいか。

2017年3月5日 劇場型国会を憂う。。。

最近はYoutubeに国会中継が載っている。面白いシーンだけを抜き出しているので、編集者のバイアスがかかっている場合もあるだろうから、油断は禁物である。でも、これが非常に面白いのである。そして、面白いということが、実は大問題である。

明らかに野党のレベルが下がっている。もっとちゃんと政策に対して前向きな議論をして欲しいのに、政府を攻撃することを主目的にしてしまっている。たとえば、この政策はこういう欠点があるからこう変えるべきだとか、こういう視点が抜けているから追加しろとか、もっとこういう側面をちゃんと政策に盛り込めとか、そういうのが国会の本来の場であろうと思う。

森友学園の疑惑で、8億円がどこかに消えてしまったのかもしれないが、それは国会でああだこうだ議論することではない。適正な手続きを踏んで、本来の土地の価格を再鑑定すればいい。国会の場で「国有地が価格で売買されるのはおかしいのではないか」と最初に指摘することは正しい。でも、それを延々と国会で議論するのはおかしい。後は再度、鑑定をするわけだから、その結果を待てばいいし、政治家の関与があったかどうかなんてことは、国会で議論することじゃない。司法がやればいいことだ。野党に攻撃されて、与党が防戦する。そりゃあ、面白いかもしれないけれど、それが国会の議題なのか、とボクは憤りを感じる。

昔の国会中継は面白くなかった。もっと静粛に、たんたんと進められていて、聴いていて眠くなるような感じだった。今はかなりアドリブで発言している感じ。ある種の「見世物」になっている。だから、Youtubeにアップロードされて、盛り上がるわけだけれど、でも、「見世物」として過剰に演出して、相手を攻撃することは、本来の国会の目的とは違う。ディベードで勝ったとか負けたとか、相手のイメージを貶めてやったとか、そういうことが大切なのではなくって、議論を通して、よりよい政策に深めていく、あるいは誤った政策を軌道修正する。そういうことが大切だ。野党はその辺を明らかに見誤っている。

議会は常に質問によって幕を開ける。いい質問をすることが重要だ。今はただ、与党を貶めようとする野党の党利党略が前面に押し出されている。でも、有権者はそんなにバカではない。どんどん野党の株が下がっていくだけだ。どこかで方針転換を図る必要があるだろう。

2017年2月17日 自称ネットアイドルって何!?

今日は何を書こうかな、といろいろとリストを検討していたけど、全部、ぶっ飛んでしまった。

金正男がマレーシアで殺されたが、犯人の女性がネットアイドルで、しかもイタズラビデオの撮影だと信じていたと報道されている。もう、何が何やらでビックリしている。もし報道が正しいとすれば(以下、その前提で書くが)、25歳とか28歳になって、見ず知らずの飛行機の乗客に向かってスプレーをかけちゃうあたり、もう、頭がどピンクだと思う。そのVTRの何が楽しいのかも分からないが、怖いもの知らずにもノリだけでそういう行動に走れるのは高校生か大学生までだろう。世も末だなあ、と思ってしまう。

Youtuberとか、結構、過激なことをやる人たちがいるけれど、でも、長く生き残っている人たちはそれなりに戦略的で、巧妙だと思う。若くて始めたばかりの頃には過激さが暴走している。でも、続けていくうちに、ちょうどいい按排みたいなものが掴めてくる。結局はそういう人たちが残っていく。過激であることが面白いのではない。最終的にはちゃんと見世物にしなければならない。ちゃんとその過激さを俯瞰して、視聴者が食べられるように味付けして演出してやらないとダメだ。闇雲にやっても視聴者はついてこない。今後も過激なことをやる若者たちは現れるだろうけれど、これ、肝に銘じておいた方がいい。

勝手知らない空港で、見ず知らずの乗客に対して謎のスプレーをかける。明らかに、悪ノリして自分を見失っている。その結果、途方もない代償を支払ったのなら、悲劇である。まあ、現時点では真相は分からないけどね。でも、本当だったらまるで小説のような展開だ。

2017年2月17日 バレンタイン禁止令!?

13日にパキスタンでバレンタイン禁止令が出された。バレンタインデーへの言及や商品の販売、公共の場でバレンタインを祝うことを禁じたようだ。元々は聖ウァレンティヌスの記念日なので、キリスト教のお祭りだ。今でこそ、形骸化して、恋人同士がお菓子を贈り合う日になっているが、もとを糺せば聖人のお祝い。偶像崇拝に当たるため、イスラームでは否定的らしい。2004年にはサウジアラビアの指導者がバレンタイン禁止のファトワー(イスラーム法学に基づく見解)を発しているため、その後、イスラーム各地で議論になっているらしい。おそらくは、今回の裁判所は、このファトワーに準じたのだろう。最近では、ポケモン禁止のファトワーが話題になったが(「進化」が反イスラーム的と解釈された) 、文化や宗教というのは奥深く、非常に難しいものである。

ちょっと脱線したが、実はボクがファイサラバードのホテルに着いたとき、ホテルのロビーに「バレンタインスペシャル」というイベントの告知がしてあって、バレンタイン好きのボクとしては、おいしいチョコレートにありつけることを大いに期待して、胸膨らませていた。ところがバレンタインデーの1週間ほど前に、突如、告知がなくなり、前触れもなく朝食会場にハート型のクッキーやチョコレートなど、普段、並ばないお菓子が並ぶようになって、正体不明の違和感を抱いていた。13日にバレンタイン禁止令が出され、ニュースで話題になるに至って、ああ、なるほど、そういうことだったのか、とようやく腑に落ちた。

ホテル側はちゃんと情報収集し、バレンタイン禁止令が出されることを事前に察知していたのだ。1週間前から早々にイベント中止を決め、すでに調達してしまったお菓子を13日までに全て放出し、14日は素知らぬ振りをしたわけである。さすがは五つ星のホテルである。でも、ボクとしてはチョコレートを満喫したかったなあ。クッソゥ!!

CNN:パキスタンでバレンタイン禁止令 「イスラムの教えに反する」

2017年2月14日 日本の神話について今頃、考えてみる。

ファンタジィ事典ではあんまり日本神話を取り扱っていない。そもそもボクにとっての神話への興味のきっかけが「ファイナルファンタジー」や「ウィザードリィ」みたいなRPGだったので、どちらか言えば、洋風の妖怪(妖怪という言葉を使っているけれど!)の方が心動かされていた。それに、所詮、日本のことだから、日本語のウェブサイトで誰かがすでに情報を提供しているだろうし、結構、資料も簡単に手に入るだろうから、いつでも着手できるだろうとかなり高を括って後回しにしていた。

でも、最近、日本の神話・伝承にも興味が出てきた。海外に行くことが多く、日常生活の中で、相対的に日本と海外を比較することが多いし、30年とちょっと生きてきて、ようやく大人になって、今更、日本に対して興味が出てきたということかもしれない。

それで「さてさて♪」とウェブサイトを巡回してみて、思いのほか、楽しいウェブサイトがないことに気づいた。資料が多いことが災いしているのかもしれないが、非常に難解で情報過多だ。それに非常に曖昧模糊としている。解説を読んで、何だか分かったような分からないような気持ちになる。

そんなわけで、ここ最近は改めて『古事記』と『日本書紀』を読んでいる。大昔にも何度か読んでいるが、今回はそれなりに本気で読んでいる。それと同時に日本史を勉強し始めた。何を隠そう、ボクは世界史派だったのだが、日本史の本を大量に買い込んで、いろいろと勉強中である。そして、現時点で、ふたつの結論に達している。

1つ目は、今こそもっと『日本書紀』をちゃんと読んだ方がいいのではないか、ということ。確かに読んでいて分かりやすいのは圧倒的に『古事記』である。面白いのも『古事記』だ。ストーリーになっている。でも、大昔は『日本書紀』が「正」だったのだ。『古事記』は抹殺されて、『日本書紀』に基づいて中世の日本神話は発展してきた。それなのに、みんな、何となく無自覚に『古事記』をベースに日本神話を語ろうとしている。断りもなく『古事記』の記述を採用して解説を試みている。安易に「高天原神話」として整理しようとしている。でも、本当にそうなのだろうか。仮に『日本書紀』を正として眺めると、『古事記』はかなり異端になってしまう。いくつかある「一書曰く」の中のひとつになって しまう。この意味をもっと真摯に考えた方がいい。そういう視点で『日本書紀』と『古事記』を眺めた方がいいのではないか。

2つ目は時間軸だ。「古代」、「中世」、「近世」の3層をちゃんと区別して神話を再構築した方がいい、ということ。「古代」というのは『古事記』や『日本書紀』が成立した時代。日本という国ができて、天皇中心の国家となった時代に、どのように神話が整理されたのか。「中世」は平安時代や鎌倉時代に日本神話が仏教と交じり合った時代だ。日本古来の神と仏教由来の思想が一緒くたになって、神話がどういう風に変質したのか。そして、最後の「近世」は江戸時代から明治。仏教を取り除いて、本来の日本の神話への回帰が検討された時代。このとき、神話はどのように再構築されたのか。多分、日本神話はこの3層がごちゃ混ぜになって今に至っている。それをちゃんと解き解してあげないといけない のだろう。

それを丁寧にやってあげられるのであれば、日本神話の世界にボクが入り込んでいく意味はある。今、そんな風に感じている。

2017年2月13日 打首獄門同好会!?

海外にいると、ホテル暮らしは大変退屈なので、ようつべさんのお世話になることが多い。日本にいるときよりもいろんな動画を見て、そして、新しいアーティストを発見したりする。

今回、発見して大喜びしているのは「打首獄門同好会」だ。ずぅっと前からようつべさんにオススメはされていたのだけれど、スルーしていた。「マキシマム ザ ホルモン」のような本格的なロック! セックスマシンガンズのANCHANGのようなハイトーン!! そして、まるで「筋肉少女帯」みたいなおふざけ感満載。多分、ちゃんとした楽曲を作ったって、ハイ・クオリティのものが提供できるはずだ。ヴォーカルの彼はそういう楽曲をつくろうとは思わないのだろうか。これぞまさに才能の無駄遣いである。そして、このイケメン男性ヴォーカルに女子2人がついていくのだから、もう、何が何やらなのだ。でも、非常に面白い。

ようつべさんのオススメは的確である。よく分析しているなあ、ボクのことを!!

2017年2月12日 パキスタンのキツネ婦人!?

パキスタンのカラチ動物園には「ムムターズ・ベーガム」というのがいる。ウルドゥ語なのかな。「ممتاز بیگم」と書く。《キツネ婦人》という意味らしい。人間の頭に、首から下はキツネという謎の獣で、しかも人語を喋る。カラチには行ったことがないので面会したことはないが、パキスタンのネタで面白いのないかなーと思っていたら見つけた。最近は便利な世の中で、Youtubeなどでも見ることができる。「婦人」と名乗りながら、実のところ、おっさんだ。

これ、毎年作成している我が家の雑誌の最後のページにネタとして載せておいたんだけど、日本語でもいいから寄越せ、とパキスタン人に言われて渡したら、気づかれてしまった(笑)。Pervaiz氏はカラチ出身のお爺さんだが、実際、この「ムムターズ・ベーガム」に会ったことがあるらしい。「これは神の被造物だ。お前は信じるか?」と問われた。「いや、信じないよー」と答えたら、「何故だ。人間の頭を持ったキツネだぞ?」としつこく訊いてくる。この「ムムターズ・ベーガム」は神の被造物みたいな触れ込みになっているのだろうか。

2017年2月11日 本屋を巡るボクはさながら冒険者である!?

日本にいるとき、意外とボクにとってのストレス解消は本屋さん巡りだったりする。毎日行ったって並んでいる本の顔ぶれはほとんど変わらない。それでも、何か面白い本はないか、と本棚を巡って、あんまり行かないコーナを巡って、変な本を見つけては「をを!」と喜ぶ。そういうのが楽しかったりする。だから、ボクはほぼ毎日、本屋に行っている。ちぃ子(妻)には「新しい本屋に行っても一瞬で棚を峻別して欲しい本を見つける!」という能力を驚嘆されている。

海外にいると、こういう楽しみがないのが苦しいところだ。実はミャンマーやフィリピンでは、それでも無理に本屋さんを巡ったりもした。幸いなことに、ミャンマーでは精霊信仰ナッについてまとめている英語の本を見つけて大喜びできた。でも、フィリピンでは意外と大衆的な本しか置いていなかった。フィリピンの神話や妖怪についてまとめてあるような本は見つけられなかった。英語圏の国なので、いわゆるアメリカやイギリスの大衆的な本が多かった。キリスト教圏なのでキリスト教関連の本がすごく多かった。大体、本の陳列がへたくそだ。分類されているようでいて、実にいい加減で、本当にお客さんはこの中からお目当ての本が見つけられるのか、と疑問に思った。大昔の古本屋のように平積みにな ってラックに入っているものなんか、どうしろというのだ、と思った。

ナイジェリアの本屋さんはダメだ。一応、活動していたのは首都アブジャなので、大きな本屋だったけれど、まともな本は置いていなかった。スーダンはアラビア語の国なので、まるで分からない。それでも一応、目を凝らしてみたものの、何が何やら分からない。パキスタンはセキュリティの都合で護衛なしではホテルから出られないので、今のところ、そもそもの本屋さんにも行けていない。でも、ウルドゥ語なので、きっと本もウルドゥ語なのだろう。

実は新婚旅行で行ったギリシアでは、敢えてギリシア語のギリシア神話の本を買った。ボクはギリシア語が読めるわけではない。それでも、ご当地ギリシアの地でギリシア神話の本を買うというのがおしゃれな感じがした。今でも本棚に飾られている。

そんなわけで、パキスタンの本屋さんも一度、足を踏み入れてみたいなあ。この願いは叶うだろうか。そして、ウルドゥ語の本に囲まれながら、読めもしないクセに、ちょっと溜め息をつくのである。その前に、サルワール・カミーズだ。現地の服を着て、現地人に溶け込んで、本屋に入っても注目されないように、自然に振舞える体制を構築しなければ(笑)。

2017年2月11日 「他人だけ完璧主義者」が多すぎる!?

最近、自分のことは差し置いて、他人に完璧主義を求める人が増えた。

たとえば女性Youtuber。彼女たちのアカウントには「ぶすじゃん!」などとコメントする人が多い。どうやら彼らは「女性Youtuberたるもの『美人』でなければならない」という信条があるらしい。でも、美人であることは有利に働くだろうけれど、女性Youtuberの要件ではない。そして、これはかなり主観が入るが、大抵の場合、「ぶすじゃん!」とコメントされる女性Youtuberというのは、平均的な女性から比べると美人だったりする。求められる「美人」の水準が異様に高いのである。

たとえばblog。書くのが本業の人とそうでない人がいる。記者は綿密な調査・取材と裏づけに基づいて記事を書くべきだろう。でも、芸能人にとってblogやtwitterは本業ではない。もちろん、こういうSNSを書くことによって集客ができるので、SNSを更新することも彼らのお仕事だ。でも、本業ではない。これは頭の片隅に入れておくべき大前提である。最近、よく芸能人のSNSの文章を攻撃する人がいる。ちょっと間違ったことを書くと、無知蒙昧のように叩かれる。でも、彼らは文章を書くプロフェッショナルではない。法律の専門家でも学者でもない。

インターネット上は誰もが感じたことを自由に書いている。明らかに偏った思考の人や、間違ったことを書いている人も多い。プロだって、間違ったことを書いているな、と感じることがある。それなのに、芸能人は正しいことを書くように要求される。もちろん、彼らの発言は影響力がある。だから、もしも彼らが間違ったことを書いたら、それは情報としては正されるべきだろう。でも、無知蒙昧と非難されることではないし、鬼の首を取ったようにバッシングすることでもない。

そういうボクの「日々の雑記」も不勉強で書いてしまったことはたくさんある。後になって、ああ、あれは間違いだったな、と深く反省することも1年に2回くらいはあるだろう。「ファンタジィ事典」なんて、もっともっと間違っていることが多い。勉強をすればするほど、間違っていることに気づかされて、そのたびに修正する。参考にした文献の記載そのものの間違いに気づくこともあるが、文脈を読み違っていることもある。文脈を読み違えるのは、大抵、その文化の背景について不勉強なときである。歴史的・社会的な背景を学んだときに、はたと自分の間違いに気がつく。反省しきりである。

人間、完璧にはなれない。周りを見れば一目瞭然だ。それを生業にしていながら、実のところ、ほとんどの人はその分野のスペシャリストじゃない。それでもスペシャリストのふりをして働いている。ボクだってそうだ。およそ10年、現在の仕事をしているけれど、まだまだ分からないことは多い。専門家だってそんなものだ。みんな、自分の能力の範囲でできることをやっている。それが社会であって、世界である。

人間はもっとずぅっと寛容であるべきだし、自分に置き換えて考えるだけの想像力と思い遣りが必要だ。