2017年6月13日 ひとつながりの「妖怪」として受け止める

ティラノサウルスって、大昔はゴジラみたいな姿だった。直立二足歩行で、尻尾を引き摺って歩いていた。肌の色も、爬虫類を参考に茶色にされていた。でも、研究が進んで、今では尻尾と頭でバランスをとった前傾姿勢で、背中には羽毛が生えている。肌の色も黒っぽい色だと判明してきた。

つまり、実在の生き物(ティラノサウルスは絶滅はしているが!)でも、姿・形は時代によって変化していく。それでも、実在の生き物である以上、その姿や色には「正解」があるはずで、生きた痕跡が残るので、研究が進めば、真実に辿り着けるかもしれない。

一方の想像上の生き物の場合、彼らは人々の頭の中にしか存在していない。だから、当然、語る人によって姿・形は変わる。語り手がいなくなったら、何も残らない。従って、文献や絵画、彫刻になって残されたものから類推してやるしかない。でも、それだって、時代や社会によっていろいろと変化、あるいは変質していくので、「正解」はなくって、どれだけ研究しても、本当のところ、真実には辿り着けないかもしれない。

古代の人々が思い描いた「妖怪」と、それを受けて中世の人々が思い描いた「妖怪」と、近世の人々が思い描いた「妖怪」は、たとえ同じものであっても、全ッ然、違うかもしれない。それは現代でも同じで、ゲームや漫画、ラノベのモティーフにされて、その「妖怪」は新たに解釈される。そして、それもまた、その「妖怪」の一部になっていく。そういうのも含めて、全部、ひとつながりの「妖怪」として受け止めることが、とても大切だ、と最近のボクは思っている。

2017年6月20日 そしてなにより、歌うのが好き

Youtubeを巡っていると、たまに面白いアーティストに出逢う。発声がイイ。歌詞が熱い。そして自己紹介の歌をつくるという発想。的確に自己紹介できている。でも、これ、19歳の歌だけど、20歳になった今、どうやって歌うんだろう?

2017年6月26日 科学反応

高校1年生を相手に50分の講義を3回する。こんなことが自分の人生に起こるとは思わなかった。海外を飛び回る仕事をする、なんてことも想定していなかったわけで、何が起こるか分からないのが人生である。

ボクは基本的には降って来た仕事は断らない。何かの「縁」だと思っている。そうやって歩いていたら、こんなところまでやって来た。不思議なものである。

キャピキャピと高校生が騒いでいるのを休み時間に眺めながら、ジェネレーション・ギャップを感じる。外から招かれた講師を相手に、タメ語で話しかけてくるし、内輪の世界でゲラゲラと楽しそうにふざけて、「始めますよー」と声を掛けても、全ッ然、すんなりと授業が始まらない。それでいて、授業の最後に「今日の講義でレポート書けそう?」などと気を回してみたら「ほら! もうこんなに書けた!」などと屈託なく笑って見せてくれる。ただ講義で喋った内容を書き写しているだけなのだけれど、それで『レポート』になってしまうのだから、高校は平和である。まあ、高校1年生なんて、ちょっと前は中学生なのである。

彼らが聴いている音楽ってどんなだろう。彼らが読んでいる漫画や小説ってどんなだろう。テレビは観るのだろうか。Youtubeの方が馴染みがあるのだろうか。全ッ然、想像ができない。でも、こういう若い感性と触れ合ったら、色んなことを学べそうだな、と思う。そういう意味じゃ、学校の先生って楽しいだろうな、と思う。

でも、その一方で、ボクの対応をした先生方はみんな、視野が狭く、凝り固まっていて、ダメダメだった。ボクが社会で働いていて、その視点で高校生と触れ合うからこそ、何らかの化学反応が起こるのだろう。毎日、高校生を相手にしていると、若い感性に刺激されることは少ないのかもしれない。逆に外の世界と触れ合ったときに、先生たちも何らか、感じるところがあるのだろうし、そうであって欲しいな、と思う。そういう意味では、こういう異文化交流みたいなものは、大きな意味があるのだろう、と思うがいかがか。

2017年6月27日 ボホト・ボホト・シュクリヤ!!

ウルドゥー語の文法書を買ってみた。パキスタンに何度も行って、少しウルドゥー語を学んでみようか、と思っている次第。別にウルドゥー語をマスタしようというわけではないし、ちょっとした努力でそんなことができるとは思っていない。でも、ウルドゥー語は基本的にはアラビア文字を援用しているので、ウルドゥー語を勉強する過程で、アラビア語が「読める」ようになればラッキィ、という期待が少しある。それにヨーロッパ系の文法とはまるで異なる文法を理解するのも面白いのではないか、と感じている。加えて、たまたまゾロアスター教で用いられているアヴェスター語とウルドゥー語が近縁であるという情報も、ボクに興味を抱かせている点である。

難しいのは、文字である。アラビア文字の援用なので見慣れないし、単独字に加えて、頭字、中字、尾字で形が変わる。それを覚えて、識別するところから始めなきゃいけない。でも、文字が読めるようになれば、これはアラビア語を「読む」ときにも援用できるので、頑張り甲斐があるというものである。

まあ、ウルドゥー語を学んでも、あんまり神話・伝承の分野には活かせなそうなので、その辺は玉に瑕である。

بہت بہت شکریہ.

2017年6月30日 詩人・ツクル氏の誕生!

最近、息子が夜、なかなか寝ないので、真っ暗な寝室に連れて行く。「パパ、何も見えないよー」と言うので「パパも見えない。目を開けてても目を瞑ってても何も見えない」と返したら「パパ、目を瞑ったら夢が見えるよ」との回答。詩人かッ。

「いつもうなされているけど、毎日、怖い夢でも見ているの?」と訊いてみる。すると「怖い夢は朝、ミックスジュースにして飲むんだよ、パパ!」とのたまう。五味太郎かッ!!