2017年2月3日 宇宙人にさらわれて

パキスタンに飛び立つ直前、空港で銀行のキャッシュカードが使えなくなった。ATMに入れても拒否。カードが吐き出される。出発前の空港で右往左往である。まあ、鞄の中にドルが多少あるからいいかと諦める。でも、日本円の万札がないと海外で心許ないボクである。

先日、ボクの財布に入っていたツクル氏(息子)のカードも使えなくなった。結局、原因不明で再発行だ。もしかしたらボクは強烈な磁気嵐にでも遭ったのかもしれない。あるいは気づかないうちに宇宙人に拉致されて、頭に変なチップでも入れられて戻されたのかな。

なるべく財布も携帯は一緒にしないように注意していたつもりなので、非常に不可解である。もしこの銀行カードの寿命が3年くらいなのだとしたら困ったものであるが、さてはて。

2017年2月3日 ダダイズム、ダダイズム!!

体調不調である。全身、筋肉痛みたいになっていてダルい。まあ、飛行機移動の疲れもあるのだろうと自己分析して、早々にベッドイン。ゲスの極み乙女。をガンガンに流しながら就寝。以下、だらだらと書くが、最近、休日課長が立ち上げたDADARAYというバンドは結局、作詞作曲が絵音なわけで、活動停止って何だろか、と思わないでもない。でも、そういう意味でダダイズムなのかもしれない(笑)。中盤のベースが格好いいなあ。本音を言えば、ボク自身は、そもそも活動停止するほどのことではなかったと認識しているので(などと書くと各方面から攻撃されそうだが)、まあ、こういう形でゆるゆる活動するのもいいのではないか、と内心では思っている。いずれにしても、発売予定だったアルバムの『シア ワセ林檎』があまりにいい楽曲なので、いずれは発売して欲しいなあ。ぶつぶつぶつ。

2017年2月5日 さよなら、キュレーションサイト!?

Googleが日本語検索におけるキュレーションメディアの駆逐に乗り出したらしい。どんなアルゴリズムなのかは分からないが、いい傾向だと思う。

本来はユーザの不満はキュレーションメディアそのものと、そういう情報発信の仕方をしている人たちに向かうべきで、決してGoogleに向かうところではないのだけれど、結果的に、Googleも対応せざるを得なくなった。検索結果に対するユーザの不満がこうやってGoogleを動かしたという意味では、画期的だと思う。

でも、ウェブサイトこうして検索サイトと情報発信者を巡るいたちごっこで、いつまでも続いていくのだろうなあ。純粋なユーザが不快に感じる「何か」を人工知能が理解して弾いてくれるのが一番いいのだけれど……。

そして切に願う。これを機に「NAVER まとめ」もいなくなれ!!

日本語検索の品質向上にむけて

2017年2月5日 これからのこと

このウェブサイトは果たして何のサイトなのか。最近、謎である。などとウェブ管理者としてはあるまじき発言(笑)。

もともとは創作サイトだったのに、途中から神話・伝承のウェブサイトになり、海外を飛び回っているうちに更新頻度が落ちていく。そして、取り留めのない雑記だけがたまに更新される。

今はこういう取り留めのない話題だったら、SNSの方が有効である。それでも、SNSに投稿しないのは、SNSはボクのリアル友人たちで繋がっていて、こちらはそうじゃない人たちが混ざっている、という違いがある。会社の人や学校の友人などは一部の人しかこのウェブサイトの存在を知らないだろう。

まあ、白状すれば、更新頻度が高い方がSEO的にはいいかな、と思って「日々の雑記」を始めた経緯があるので、非常に打算的なスタートだったと言える。今はあんまり更新頻度でウェブサイトが評価されるわけではないようなので、本来の意味を失っている。

せめて誰かの役に立つ情報でも発信して、情報そのものを意味のあるものにすればいいのだよなあ、とパキスタンのホテルでこの雑記を書いている。

今、ファンタジィ事典の大幅なリニューアルを考えている。パキスタンに2か月いるので、その間にある程度の準備してしまおうと思っている。ファンタジィ事典そのものをWordPress化することと、アクセシビリティを向上させえること、それから情報掲載の形を変えることを検討中だ。まあ、それがいつ日の目を見るかは分からないのだけれど、いいタイミングなので「日々の雑記」のあり方もちゃんと検討してみようと思う。大学生の頃からの惰性で今に至っているので、少しはドラスティックな方針転換が必要だろうと思っている。ウェブサイトそのものの構成が大学生の頃のままで、現状のボクの立ち位置と大きくズレているのだ、とも感じている。さてはて。

2017年2月6日 パソコンを開いたら個人情報がどどーん!!の巻

海外に出張するときに、会社でパソコンを貸与されるわけだが、今回、パキスタンで立ち上げたら、FacebookもYahooもGoogleもAmazonも、前に使っていた先輩がログインしたままの状態だった。彼のセキュリティの低さも大問題だが、会社側もウイルスチェックをかけてデスクトップのデータを削除するだけじゃなくって、ちゃんとクッキーや履歴もリセットして欲しいなあ。

心優しいボクは何一つ触ることなく、全てログアウトしてあげたが、世の中、必ずしも性善説では成り立たない。何しろ、いまやセンテンススプリングの時代である。情報はどんどん流出していく。

ボクは基本的に誰のことも信用していないので、毎回、自分でリセットして会社に返却して、「全部、やっておきましたよ!」と事務の女性に恩を着せるようなタイプである。でも、結果的にはやっておいて正解だったわけである。

それにしても、よくよく考えると、ログイン情報を記憶するという行為は非常に危険である。Facebookは個人的な事柄に過ぎないが、Amazonはカード番号が登録されているので、勝手に買い物が出来てしまう。GoogleやYahooは、メールにログインできるので、いろいろと個人情報が流出したり、送受信したデータが流出することも考えられる。もしかしたら、いまや家に泥棒に入ったら、金目のものを探すよりも、試しにパソコンを立ち上げて操作した方が、ずぅっといろんなものが手に入る時代かもしれない。

ボクの知り合いには、iPhoneもノートパソコンもログイン設定をしていない人がたくさんいる。彼ら曰く、毎度のログインが面倒くさいらしいが、それって、とても危険である。一方のボクも、よくパソコンを立ち上げたままで外出してしまう癖がある。別に家族に見られて困るものがないというのがその理由なのだが、泥棒さんのことまで考えると、家の中のこととは言え、非常に危険かもしれない。長期間放置したら、再度、ログイン画面が出るように設定を変えた方がいいかもしれない。

2017年2月8日 Εν αρχη ην ο λογος,και ο λογος ην προς τον θεον, και θεος ην ο λογος.

会社の若手に、ボクが海外でどんなことをやっているのを伝えようと思って、善意で「日報的な何か」を作成し、社内で共有している。臨場感がとても大切だと思うので、写真とともに、極力、情報を総括しないで、その瞬間瞬間に考えたことや感じたことを記録している。だから、そのときにはそれが「正」だと思っても、次の日には違うことを「正」と思うこともある。それはそのときに得た情報、感じたことを記録しているからであって、もちろん、業務上、最終的には、公式の「正」を決める。要するに「途上の情報」も敢えて書いている。ボクが悩み、考え、苦しんでいる状況そのものを伝えたいからである。

始めてみたものの、実は結構、時間も掛かるし、うまくまとまらなくて悩むときもあって、骨が折れる。だから、何度辞めようと思ったか分からない。それでも、少しでも現場の雰囲気をみんなに伝えて、将来、海外に打って出るときの参考になれば、と思って続けている。まさにボランティア・ワークである。

自衛隊の「日報」が公表されて、「戦闘」に類することが書かれているなどと騒がれている。「日報」が公式なものなのか個人的な記録なのかは分からない。おそらく文章の雰囲気から察するに公式なものなのだろう。でも、こういう「日報」に基づいていろいろと事実の確認や責任の追及がなされると、気軽に「日報」なんて書けないなあ、と思う。極力、記録なんて残さない方がいいし、無難で実のない報告をつくった方が安全だ、ということになる。

最近、芸能人が番組内でちょっと発言したり、twitterで呟くだけでもニュース記事でとりあげられる。素人のtwitterが大手のニュースサイトで取り上げられたりして、きっと、その瞬間、その人へのアクセスはすごいことになるだろうなあ、と想像することもある。その上、そんな瑣末なことでバッシングされたりもするのだから、恐ろしい世の中である。まさに「言葉狩り」、ここに極めり、である。

一度、発信された文章は、基本的には全て同じ土俵にあげられてしまう。でも、文脈は尊重されるべきだし、書き手の中の重い軽いも想像すべきだと思う。深く考えないで発する言葉もあるし、非公式の、非常にプライベートなコメントだってある。十把一絡げに書かれたものを「正」とされたら、怖くて情報発信できなくなる。ネットは世の中を大きく変えたけれど、窮屈で嫌な世の中になったなあ、とも思う。

2017年2月9日 英語における「1.5個のりんご」は単数か複数か!?

パキスタンで日本語の活動計画書を英語に訳している。そこではたと気づいて立ち止まる。英語では単位にも複数形の考え方が適用される。例えば、1ガロンは1 gallonだが、40ガロンは40 gallonsである。「s」がつく。それならば「小数+単位」はどうだろう。たとえば10.6ガロンは10.6 gallonなのか10.6 gallonsなのか。

ウェブサイトでいろいろと調べてみたが、どうも明確には決まっていないようだ。各所で慣例が議論されていて、そのものズバリの回答は得られなかった。「小数は複数」というのが一般的というのが概ねの回答で、でも、一方では「1以下の小数は単数で、1以上の小数は複数」説を唱える人もいて、実のところ、何だかよく分からない。ウェブサイトの巡回の結果、昔はこの「1以下の小数は単数で、1以上の小数は複数」が一般的だったらしい。最近では「1以上でも1以下でも小数は複数」という人が多いらしい。要は慣例の世界である。

仕方がないので、パキスタン人に聞いてみた。そうしたら、少なくともパキスタン人は「小数+単位」は複数形にするらしい。仮に1以下の数字(たとえば0.5ガロン)も複数形にするという(0.5 gallons)。ちなみに彼曰く、1ガロンは1 gallonだが、1.0ガロンと書かれた途端、1.0 gallonsとする人もいるらしい。すなわち1.0ガロンは0.95〜1.0499……の間なので、単数ではないということらしい。そしてパキスタンでも「1以上でも1以下でも小数は複数」を採用しているとのこと。

まずは言葉があって、文法は後付で作られる。当然、言葉が生まれたときには小数の概念なんてなかったので、既存の文法の枠にはまらない、ということいなる。でも、時代は経った。国によって違うのかもしれないが、仮に慣行として「小数+単位」は複数扱いということになっているとして、後付でもいいから、明確に文法として定めるべきであろう。何しろ、学校に通っていれば、理系じゃなくなって、どうしたって記述する必要に迫られるはずだ。学生は疑問に思うはずだ。そして先生に問うのである。「せんせー、小数に単位をつけたときって単数ですかー? それとも複数ですー?」。先生は言葉に窮するはずだ。その辺を明確にしないまま、慣行に任せているのだとすれば、英語圏の人々は懐が広いな あ。

ちなみにgoogle先生は何と答えるだろうか。google翻訳に試しに「0個のりんご」「0.5個のりんご」「1個のりんご」「1.0個のりんご」「1.5個のりんご」と順番に打ってみる。「0 apples」「0.5 apples」「1 apple」「1.0 apple」「1.5 apples」との回答。0個はどうやら複数形らしい。そして1.0個は単数形である。ただし、1.0個の場合だけ、候補が出て「1.0 apples」も選べる。すなわち、一般的には「1.0 apple」だけど「1.0 apples」もあるということだろう。これがgoogle先生の現時点の答えである。

2017年2月10日 雛飾りの左大臣は向かって「右」!?

今日は「左利きの日」なのだとか。「0210」をレフトと読むからだそうで、出たな、日本人の大好きな語呂合わせ!!

ボクは左利きである。でも、こんな日があることを知らなかった。

左利きの人は全体の10%くらいらしい。つまり、10人に1人。クラスに3人はいるくらいの割合で、言うほど少なくもない。運動部の女子マネージャーの方が圧倒的にマイノリティである。女子マネージャーは優遇されるのに、世の中では左利きは虐げられていて、右利きの人が便利なように社会や製品が出来ているのだから、10人に9人という多数決は世界に対して強い影響力を持っている。

今、ボクはパキスタンにいる。パキスタンでは左手は「不浄の手」である。これがインド文化の影響なのか、それともイスラーム文化の影響なのかはよく分からない。どちらも宗教上、左手は「不浄の手」である。

前回、10月にパキスタンに来たときにお茶菓子が出され、うっかり左手でスナックを取ったら、現地スタッフにこっぴどく叱られた。「今、お前は何故左手を使ったのか! 何故お菓子を左手で掴んだのか!」と強い口調で詰問された。無自覚でやったことなので、最初、何が彼の逆鱗に触れたのか分からなかったほどだ。次の日、車で移動中にも彼に「今日は偉い人と会う。お菓子を出されたら絶対右手で取るように!」ときつく言われた。日本に住んでいると 意識しないが、文化によってはこういうこともある。

それ以来、ボクはパキスタンにいる間は左手は封印し、右手で食事をしている。最初は慣れなかったが、今ではフォークもスプーンも上手に使えるし、ホテルでは箸で食事ができるようになった。幼少の頃、親や先生に矯正されても、がんとして聞かず、左利きを通した強情なボクが、この年で従順にも右利き矯正中である。

2017年2月11日 「他人だけ完璧主義者」が多すぎる!?

最近、自分のことは差し置いて、他人に完璧主義を求める人が増えた。

たとえば女性Youtuber。彼女たちのアカウントには「ぶすじゃん!」などとコメントする人が多い。どうやら彼らは「女性Youtuberたるもの『美人』でなければならない」という信条があるらしい。でも、美人であることは有利に働くだろうけれど、女性Youtuberの要件ではない。そして、これはかなり主観が入るが、大抵の場合、「ぶすじゃん!」とコメントされる女性Youtuberというのは、平均的な女性から比べると美人だったりする。求められる「美人」の水準が異様に高いのである。

たとえばblog。書くのが本業の人とそうでない人がいる。記者は綿密な調査・取材と裏づけに基づいて記事を書くべきだろう。でも、芸能人にとってblogやtwitterは本業ではない。もちろん、こういうSNSを書くことによって集客ができるので、SNSを更新することも彼らのお仕事だ。でも、本業ではない。これは頭の片隅に入れておくべき大前提である。最近、よく芸能人のSNSの文章を攻撃する人がいる。ちょっと間違ったことを書くと、無知蒙昧のように叩かれる。でも、彼らは文章を書くプロフェッショナルではない。法律の専門家でも学者でもない。

インターネット上は誰もが感じたことを自由に書いている。明らかに偏った思考の人や、間違ったことを書いている人も多い。プロだって、間違ったことを書いているな、と感じることがある。それなのに、芸能人は正しいことを書くように要求される。もちろん、彼らの発言は影響力がある。だから、もしも彼らが間違ったことを書いたら、それは情報としては正されるべきだろう。でも、無知蒙昧と非難されることではないし、鬼の首を取ったようにバッシングすることでもない。

そういうボクの「日々の雑記」も不勉強で書いてしまったことはたくさんある。後になって、ああ、あれは間違いだったな、と深く反省することも1年に2回くらいはあるだろう。「ファンタジィ事典」なんて、もっともっと間違っていることが多い。勉強をすればするほど、間違っていることに気づかされて、そのたびに修正する。参考にした文献の記載そのものの間違いに気づくこともあるが、文脈を読み違っていることもある。文脈を読み違えるのは、大抵、その文化の背景について不勉強なときである。歴史的・社会的な背景を学んだときに、はたと自分の間違いに気がつく。反省しきりである。

人間、完璧にはなれない。周りを見れば一目瞭然だ。それを生業にしていながら、実のところ、ほとんどの人はその分野のスペシャリストじゃない。それでもスペシャリストのふりをして働いている。ボクだってそうだ。およそ10年、現在の仕事をしているけれど、まだまだ分からないことは多い。専門家だってそんなものだ。みんな、自分の能力の範囲でできることをやっている。それが社会であって、世界である。

人間はもっとずぅっと寛容であるべきだし、自分に置き換えて考えるだけの想像力と思い遣りが必要だ。

2017年2月11日 本屋を巡るボクはさながら冒険者である!?

日本にいるとき、意外とボクにとってのストレス解消は本屋さん巡りだったりする。毎日行ったって並んでいる本の顔ぶれはほとんど変わらない。それでも、何か面白い本はないか、と本棚を巡って、あんまり行かないコーナを巡って、変な本を見つけては「をを!」と喜ぶ。そういうのが楽しかったりする。だから、ボクはほぼ毎日、本屋に行っている。ちぃ子(妻)には「新しい本屋に行っても一瞬で棚を峻別して欲しい本を見つける!」という能力を驚嘆されている。

海外にいると、こういう楽しみがないのが苦しいところだ。実はミャンマーやフィリピンでは、それでも無理に本屋さんを巡ったりもした。幸いなことに、ミャンマーでは精霊信仰ナッについてまとめている英語の本を見つけて大喜びできた。でも、フィリピンでは意外と大衆的な本しか置いていなかった。フィリピンの神話や妖怪についてまとめてあるような本は見つけられなかった。英語圏の国なので、いわゆるアメリカやイギリスの大衆的な本が多かった。キリスト教圏なのでキリスト教関連の本がすごく多かった。大体、本の陳列がへたくそだ。分類されているようでいて、実にいい加減で、本当にお客さんはこの中からお目当ての本が見つけられるのか、と疑問に思った。大昔の古本屋のように平積みにな ってラックに入っているものなんか、どうしろというのだ、と思った。

ナイジェリアの本屋さんはダメだ。一応、活動していたのは首都アブジャなので、大きな本屋だったけれど、まともな本は置いていなかった。スーダンはアラビア語の国なので、まるで分からない。それでも一応、目を凝らしてみたものの、何が何やら分からない。パキスタンはセキュリティの都合で護衛なしではホテルから出られないので、今のところ、そもそもの本屋さんにも行けていない。でも、ウルドゥ語なので、きっと本もウルドゥ語なのだろう。

実は新婚旅行で行ったギリシアでは、敢えてギリシア語のギリシア神話の本を買った。ボクはギリシア語が読めるわけではない。それでも、ご当地ギリシアの地でギリシア神話の本を買うというのがおしゃれな感じがした。今でも本棚に飾られている。

そんなわけで、パキスタンの本屋さんも一度、足を踏み入れてみたいなあ。この願いは叶うだろうか。そして、ウルドゥ語の本に囲まれながら、読めもしないクセに、ちょっと溜め息をつくのである。その前に、サルワール・カミーズだ。現地の服を着て、現地人に溶け込んで、本屋に入っても注目されないように、自然に振舞える体制を構築しなければ(笑)。

2017年2月12日 パキスタンのキツネ婦人!?

パキスタンのカラチ動物園には「ムムターズ・ベーガム」というのがいる。ウルドゥ語なのかな。「ممتاز بیگم」と書く。《キツネ婦人》という意味らしい。人間の頭に、首から下はキツネという謎の獣で、しかも人語を喋る。カラチには行ったことがないので面会したことはないが、パキスタンのネタで面白いのないかなーと思っていたら見つけた。最近は便利な世の中で、Youtubeなどでも見ることができる。「婦人」と名乗りながら、実のところ、おっさんだ。

これ、毎年作成している我が家の雑誌の最後のページにネタとして載せておいたんだけど、日本語でもいいから寄越せ、とパキスタン人に言われて渡したら、気づかれてしまった(笑)。Pervaiz氏はカラチ出身のお爺さんだが、実際、この「ムムターズ・ベーガム」に会ったことがあるらしい。「これは神の被造物だ。お前は信じるか?」と問われた。「いや、信じないよー」と答えたら、「何故だ。人間の頭を持ったキツネだぞ?」としつこく訊いてくる。この「ムムターズ・ベーガム」は神の被造物みたいな触れ込みになっているのだろうか。

2017年2月13日 打首獄門同好会!?

海外にいると、ホテル暮らしは大変退屈なので、ようつべさんのお世話になることが多い。日本にいるときよりもいろんな動画を見て、そして、新しいアーティストを発見したりする。

今回、発見して大喜びしているのは「打首獄門同好会」だ。ずぅっと前からようつべさんにオススメはされていたのだけれど、スルーしていた。「マキシマム ザ ホルモン」のような本格的なロック! セックスマシンガンズのANCHANGのようなハイトーン!! そして、まるで「筋肉少女帯」みたいなおふざけ感満載。多分、ちゃんとした楽曲を作ったって、ハイ・クオリティのものが提供できるはずだ。ヴォーカルの彼はそういう楽曲をつくろうとは思わないのだろうか。これぞまさに才能の無駄遣いである。そして、このイケメン男性ヴォーカルに女子2人がついていくのだから、もう、何が何やらなのだ。でも、非常に面白い。

ようつべさんのオススメは的確である。よく分析しているなあ、ボクのことを!!

2017年2月14日 日本の神話について今頃、考えてみる。

ファンタジィ事典ではあんまり日本神話を取り扱っていない。そもそもボクにとっての神話への興味のきっかけが「ファイナルファンタジー」や「ウィザードリィ」みたいなRPGだったので、どちらか言えば、洋風の妖怪(妖怪という言葉を使っているけれど!)の方が心動かされていた。それに、所詮、日本のことだから、日本語のウェブサイトで誰かがすでに情報を提供しているだろうし、結構、資料も簡単に手に入るだろうから、いつでも着手できるだろうとかなり高を括って後回しにしていた。

でも、最近、日本の神話・伝承にも興味が出てきた。海外に行くことが多く、日常生活の中で、相対的に日本と海外を比較することが多いし、30年とちょっと生きてきて、ようやく大人になって、今更、日本に対して興味が出てきたということかもしれない。

それで「さてさて♪」とウェブサイトを巡回してみて、思いのほか、楽しいウェブサイトがないことに気づいた。資料が多いことが災いしているのかもしれないが、非常に難解で情報過多だ。それに非常に曖昧模糊としている。解説を読んで、何だか分かったような分からないような気持ちになる。

そんなわけで、ここ最近は改めて『古事記』と『日本書紀』を読んでいる。大昔にも何度か読んでいるが、今回はそれなりに本気で読んでいる。それと同時に日本史を勉強し始めた。何を隠そう、ボクは世界史派だったのだが、日本史の本を大量に買い込んで、いろいろと勉強中である。そして、現時点で、ふたつの結論に達している。

1つ目は、今こそもっと『日本書紀』をちゃんと読んだ方がいいのではないか、ということ。確かに読んでいて分かりやすいのは圧倒的に『古事記』である。面白いのも『古事記』だ。ストーリーになっている。でも、大昔は『日本書紀』が「正」だったのだ。『古事記』は抹殺されて、『日本書紀』に基づいて中世の日本神話は発展してきた。それなのに、みんな、何となく無自覚に『古事記』をベースに日本神話を語ろうとしている。断りもなく『古事記』の記述を採用して解説を試みている。安易に「高天原神話」として整理しようとしている。でも、本当にそうなのだろうか。仮に『日本書紀』を正として眺めると、『古事記』はかなり異端になってしまう。いくつかある「一書曰く」の中のひとつになって しまう。この意味をもっと真摯に考えた方がいい。そういう視点で『日本書紀』と『古事記』を眺めた方がいいのではないか。

2つ目は時間軸だ。「古代」、「中世」、「近世」の3層をちゃんと区別して神話を再構築した方がいい、ということ。「古代」というのは『古事記』や『日本書紀』が成立した時代。日本という国ができて、天皇中心の国家となった時代に、どのように神話が整理されたのか。「中世」は平安時代や鎌倉時代に日本神話が仏教と交じり合った時代だ。日本古来の神と仏教由来の思想が一緒くたになって、神話がどういう風に変質したのか。そして、最後の「近世」は江戸時代から明治。仏教を取り除いて、本来の日本の神話への回帰が検討された時代。このとき、神話はどのように再構築されたのか。多分、日本神話はこの3層がごちゃ混ぜになって今に至っている。それをちゃんと解き解してあげないといけない のだろう。

それを丁寧にやってあげられるのであれば、日本神話の世界にボクが入り込んでいく意味はある。今、そんな風に感じている。

2017年2月17日 バレンタイン禁止令!?

13日にパキスタンでバレンタイン禁止令が出された。バレンタインデーへの言及や商品の販売、公共の場でバレンタインを祝うことを禁じたようだ。元々は聖ウァレンティヌスの記念日なので、キリスト教のお祭りだ。今でこそ、形骸化して、恋人同士がお菓子を贈り合う日になっているが、もとを糺せば聖人のお祝い。偶像崇拝に当たるため、イスラームでは否定的らしい。2004年にはサウジアラビアの指導者がバレンタイン禁止のファトワー(イスラーム法学に基づく見解)を発しているため、その後、イスラーム各地で議論になっているらしい。おそらくは、今回の裁判所は、このファトワーに準じたのだろう。最近では、ポケモン禁止のファトワーが話題になったが(「進化」が反イスラーム的と解釈された) 、文化や宗教というのは奥深く、非常に難しいものである。

ちょっと脱線したが、実はボクがファイサラバードのホテルに着いたとき、ホテルのロビーに「バレンタインスペシャル」というイベントの告知がしてあって、バレンタイン好きのボクとしては、おいしいチョコレートにありつけることを大いに期待して、胸膨らませていた。ところがバレンタインデーの1週間ほど前に、突如、告知がなくなり、前触れもなく朝食会場にハート型のクッキーやチョコレートなど、普段、並ばないお菓子が並ぶようになって、正体不明の違和感を抱いていた。13日にバレンタイン禁止令が出され、ニュースで話題になるに至って、ああ、なるほど、そういうことだったのか、とようやく腑に落ちた。

ホテル側はちゃんと情報収集し、バレンタイン禁止令が出されることを事前に察知していたのだ。1週間前から早々にイベント中止を決め、すでに調達してしまったお菓子を13日までに全て放出し、14日は素知らぬ振りをしたわけである。さすがは五つ星のホテルである。でも、ボクとしてはチョコレートを満喫したかったなあ。クッソゥ!!

CNN:パキスタンでバレンタイン禁止令 「イスラムの教えに反する」

2017年2月17日 自称ネットアイドルって何!?

今日は何を書こうかな、といろいろとリストを検討していたけど、全部、ぶっ飛んでしまった。

金正男がマレーシアで殺されたが、犯人の女性がネットアイドルで、しかもイタズラビデオの撮影だと信じていたと報道されている。もう、何が何やらでビックリしている。もし報道が正しいとすれば(以下、その前提で書くが)、25歳とか28歳になって、見ず知らずの飛行機の乗客に向かってスプレーをかけちゃうあたり、もう、頭がどピンクだと思う。そのVTRの何が楽しいのかも分からないが、怖いもの知らずにもノリだけでそういう行動に走れるのは高校生か大学生までだろう。世も末だなあ、と思ってしまう。

Youtuberとか、結構、過激なことをやる人たちがいるけれど、でも、長く生き残っている人たちはそれなりに戦略的で、巧妙だと思う。若くて始めたばかりの頃には過激さが暴走している。でも、続けていくうちに、ちょうどいい按排みたいなものが掴めてくる。結局はそういう人たちが残っていく。過激であることが面白いのではない。最終的にはちゃんと見世物にしなければならない。ちゃんとその過激さを俯瞰して、視聴者が食べられるように味付けして演出してやらないとダメだ。闇雲にやっても視聴者はついてこない。今後も過激なことをやる若者たちは現れるだろうけれど、これ、肝に銘じておいた方がいい。

勝手知らない空港で、見ず知らずの乗客に対して謎のスプレーをかける。明らかに、悪ノリして自分を見失っている。その結果、途方もない代償を支払ったのなら、悲劇である。まあ、現時点では真相は分からないけどね。でも、本当だったらまるで小説のような展開だ。