2016年8月27日 玉石混交。

下の記事に関連して、最近、ファンタジィ事典の記事を書きながら感じていることでも書いてみよう。

ファンタジィ事典の記事も、実は匿名性という意味では同じことが言える。たとえば「○○という説がある」とか「○○と解釈されている」とか「○○と考えられている」という記述は、書き手として非常に楽チンだ。でも「説」と書く以上、その「説」を提唱している専門家がいるはずだ。「解釈」している専門家、「考え」を持っている専門家がいるはずなのである。ところが、よくよく調べていくと、その「説」を唱えている人は学者でも専門家でもない、素人の場合もある。あるいは胡散臭い専門家だったり、偏った過激な学者の場合もあって、その「説」の信憑性が疑わしいこともある。明らかに牽強付会だろう、という説だってあるわけだ。そういうのを無視して、ただただ漫然と「○○という説がある」と書くのは、実のところ、とっても楽チンなんだけど、とっても無責任だし、とても怖いことである。

失われてしまった神話というのは、かなりの部分、学説によって支えられている。掘り起こされた文字資料や絵、創作物、その他の遺物から、かなりの部分、仮説を積み上げて、解釈を加えて、再構築されている。あんなに文学作品が残されているギリシア神話ですら、想像で補完すべき部分がたくさんある。そういう意味では、書籍に「○○という説がある」と書いてあって、それを鵜呑みにするのも怖いことで、その根拠となる学説のロジックや信憑性、提唱者の立ち位置を探っていかないと、本当のところは分からないし、そもそも「本当」ってものがあるのかどうかも分からない。

どうもアステカ神話は胡散臭いな、と感じている。いろんな間違った学説や怪しい学説が入り混じっていて、市販の本も玉石混交の印象。そういう解釈も含めて楽しむのがファンタジィだ、というのも「あり」なんだけど(たとえば、シュメルの神さまが宇宙から来たというシッチン説も丸ごと取り込んで楽しんでしまうとか!!)、でも、大昔に本気でその神さまを信仰していた人々に失礼な気がして、もう少し、ちゃんと調べないと、と思ってしまうのがボクの正直な気持ちである。メソアメリカに暮らしてテスカトリポカやケツァルコアトル、ウィツィロポチトリを信じていた人々が、スペイン人が侵入して、文字を手に入れた後に、少しでも文字資料として神話を残そうとした気持ちを、大事にしたいなあ、と思う。

で、本当は、そういう一次文献に当たりたいんだけど、日本語になっているものはほとんどないのが現状だ。英語になっているものもあんまりなくって、スペイン語が一次文献になってしまうものが多そうだ。そういう状況だからこそ、胡散臭い学説がまかり通って、訂正されずに残り続けているのかもしれない。

とは言え、結局、ボクはスペイン語が出来ないので、ただただ悩ましいなあ、と愚痴るだけで、ならばどうする、というソリューションは、今のところ、持ち合わせていない。問題提起だけして、今後、考えていこうかな、という感じ。そんなことを考えている今日この頃である、という告白。